最悪な気分で午後の授業とホームルームを聞き流し、ハルユキは逃げるように教室を飛び出した。
二つ隣のチユリの教室、あるいは校門、あるいは帰り道のどこかで彼女を待って謝るべきだという声を意識の埒外に押しやり、もう一つの隠れ場所である図書室へと駆け込む。
本来、図書室などという空間はとうにその役目を終えている。しかし、大人の中には学校そのものと同じようにペーパーメディアの本も子供の教育に必要だと考える連中がいて、資源と空間の無駄としか思えない真新しい背表紙が書架に並べられているのだ。
もっとも、そのおかげで学校内に貴重なパーソナルスペースが確保できるのだから文句は言えない。カムフラージュにハードカバーを二、三冊抱えて壁際の閲覧ブースに閉じこもったハルユキは、狭い椅子に体を押し込むと、リンカーが認識できるぎりぎりの音量で完全ダイブを命じた。
授業が終わってから数分しか経っていないだけあって、学内ネットは閑散としていた。いまのうちにいつもの場所に引きこもるべく、高速で草地を横切り樹の幹を登る。
バーチャル・スカッシュコーナーも当然無人だった。本当は、こんな単純な球当てではなく、血みどろの戦争もので胸のもやもやを一時でもふっ飛ばしたいところだが、グローバルネットには接続できずゲームアプリの起動も制限されている学校内では止むを得ない。
空腹はもう限界を超えていたが、それでもすぐに帰宅する気にはならなかった。帰り道でチユリに遭遇したら、どんな顔で何を言えばいいのかまったく判らない。いや、謝ればいいのだが、自分の口を意思に従わせられる自信がそもそもない。
──あのときも、そうだったな。
昔、同じようにチユリを泣かせてしまったときのことを思い出しそうになり、ハルユキはきつく目をつぶった。そのまま操作パネルに右手をかざし、ログインする。
手探りでラケットを摑み、体の向きを変え、コートに正対した。
目を開け、落下してくるボールに、あらゆる鬱屈を叩きつけようとして──。
ハルユキは、全身を凍りつかせた。
コートの中央に表示されている原色の立体フォントが、記憶と異なる数字を表示させていた。
「レベル……166!?」
ハルユキがつい数時間前に更新したレベルを、10以上も上回っている。
一体何故、スコアは生徒IDごとに管理されているはず、と一瞬思ってから、すぐに悟った。あのとき、チユリのげんこつによってハルユキは強制ログアウトさせられたため、ゲームがそのまま保持されたのだ。だから、誰かがその続きでプレイを再開し、スコアを塗り替えることは可能だ。しかし。
自分以外の誰がこんなとんでもない点を!?
ハルユキの、崩壊寸前のプライドをどうにか維持させているもの、それは完全ダイブ環境下でのVRゲーム・テクニックだ。勿論、頭の良さが勝敗を左右するクイズやボードゲームは除かれるが、反射速度がものを言うガンシューティングやアクション、レースゲームなら、この学校で自分に勝てる奴はいないという自負がハルユキにはあった。
それをひけらかしたことはない。自分が目立ってもろくなことがないのは、小学校の頃から厭と言うほど学習している。あえて確認するまでもないとこれまでは思っていたのだが──この、スカッシュゲームの恐るべき得点は……。
その時。
背後で、声がした。チユリではない。女性だが、もっと低く、絹のように滑らかな響き。
「あの馬鹿げたスコアを出したのはキミか」
おそるおそる振り向いたハルユキの目の前に立っていたのは。
闇に銀をちりばめたドレス。杖、あるいは剣のように床に突かれた傘。純白の肌と漆黒の瞳──《黒雪姫》。
アバターでありながらデジタル臭さのかけらもない、一種凄絶な美貌を僅かに傾け、学校一の有名人は音もなく前に進み出た。
全身でそこにだけ色彩のある紅い唇にかすかな微笑を浮かべ、黒雪姫は続けて言った。
「もっと先へ……《加速》したくはないか、少年」
その気があるなら、明日の昼休みにラウンジに来い。
たったそれだけを言い残して、黒雪姫はあっけなくログアウトした。
アバターがハルユキの視界に存在した時間は十秒に満たなかったろう。ローカルネットサーバーのバグか、いっそ幻覚を見たのだとすら思える、余りにもあり得なさ過ぎる出来事だったが、しかし、コート上に浮かび続ける恐るべきスコアはたしかな現実だった。
もう、ハイスコア更新に挑戦する気すら起こらず、ダイブを終了したハルユキはそのまま図書室の閲覧ブースでぼんやりと座り続けた。耳の奥では、三つの台詞だけが無限に連続再生されていた。黒雪姫の口調は女子中学生としては異質だったが、あの圧倒的存在感とミックスされると違和感は皆無で、むしろ男子だけでなく女子生徒にも絶大な人気がある理由の一端なのだろうと思えた。
やがてふわふわした足取りで学校を出て、家路をたどる間も、体はほとんど自動操縦のありさまだった。ニューロリンカーが視聴覚モードで表示する交通予測ナビがなければ、二、三度車に轢かれていたかもしれない。
高円寺の高層マンションにある無人の自宅に帰り着くと、ハルユキはまっさきに冷凍ピザを温め、炭酸飲料と一緒に平らげた。両親はずいぶん昔に離婚し、今は母親と一緒に暮らしているが、毎夜零時を回らないと帰ってこないので登校間際に昼食代をもらう一瞬しか顔を合わせない。
すきっ腹をジャンクフードで満たし、自分の部屋に引っ込む。いつもならまずグローバルネットの巡回コースをチェックして、その後ヨーロッパあたりの戦場を数時間駆け回り、余力で宿題を片付けてから寝るのだが、今日に限っては何をする気も湧いてこない。
余りにも色々なことがあり過ぎたせいか、脳が腫れているかのように重く、ハルユキは着替えてニューロリンカーを外すなりどすんとベッドに倒れこんだ。
眠りは、しかし、とても安らかとは言いがたいものだった。荒谷たちの嘲笑、チユリの涙、そして黒雪姫の謎めいた言葉が繰り返し夢に現れ、ハルユキを翻弄した。
もっと先へ──《加速》したくはないか。
夢のなかで、黒雪姫はアバターではなく現実の副生徒会長の姿だった。全校集会の壇上で超然とした無表情を保つ彼女しか見たことはないはずなのに、なぜか夢ではどこか誘うような小悪魔的な微笑をその唇に浮かべ、ハルユキの耳に囁くのだった。こっちへ来い、と。