そう、全部夢だったのだ。昨日の、ローカルネットでの遭遇も含めて。
翌水曜日、いつものように憂鬱な顔で登校したハルユキは、そう思いながら教室に入った。
既視感溢れる授業に、繰り返される荒谷たちの悪戯メール。二日連続で昼飯をタカられるのは初めてだったが、指定されたのは昨日と同じ焼きそばパンとクリームメロンパンだった。どんだけ好きなんだよ、と思いながらメールを閉じたハルユキは、昼休みのチャイムとともに席を立った。
のろのろした歩調で向かったのは、しかし荒谷たちに呼び出された屋上ではなく、校舎一階、学生食堂に隣接したラウンジだった。
安物の長テーブルがぎっちりと並ぶ学食とは違い、半円形のラウンジには瀟洒な白い丸テーブルが余裕を持って配置されている。大きな採光ガラスから、秋に色づく中庭の木々を一望できる、間違いなく梅郷中学校で最も上等な空間だ。
ゆえに、一年生は使用できない不文律がある。テーブルを囲む生徒たちのリボンとネクタイは全て青(二年生)か臙脂(三年生)で、緑はまったく見えない。
上級生たちの半数はコーヒーや紅茶のカップ片手に談笑し、半数は高い背もたれつきの椅子に体を預けて目を閉じている。眠っているのではなく学内ネットに完全ダイブしているのだ。
ハルユキはまず、ラウンジの入り口の観葉植物にどうにか巨体を隠し、内部をうかがった。
居るわけはない、昨日のアレは夢だったのだから、半ば以上そう確信していた──のだが。
「…………居るじゃん……」
思わずごくりと空気を吞む。ラウンジの最奥、窓際のテーブルに、ひときわ目立つ集団があった。二年と三年が混在して六名、よくよく目を凝らすと全ての顔に見覚えがある。全員が現生徒会のメンバーだろう、男子も女子も方向性に差はあれ揃って眉目秀麗だ。
その中でも最大の存在感を放っているのが、物憂げにハードカバーの頁を捲る青リボンの女子生徒だった。腰近くまであるまっすぐな髪は、いまどき珍しいほどの漆黒。ダークグレーのプリーツスカートから覗く脚は、これも黒のストッキングに包まれている。そしてどうしたことか、ブレザーの下の開襟シャツまでが光沢のある黒だ。間違いない──梅郷中学校一の有名人、《黒雪姫》。
<画像>
ラウンジ入り口から奥のテーブルまでは、直線で二十メートルもないだろう。しかし、その距離はハルユキにはほとんど無限にも等しく感じられた。上級生のあいだを突っ切ってあそこまで行くなどという冒険は到底できそうもなかった。
回れ右をして帰ろう。そして学食の販売コーナーでパンとジュースを買い、屋上の荒谷たちに届ける。その後第二校舎のトイレにこもり、ローカルネットの一人用ゲームで空しく時間を潰す。
──くそ。畜生。行ってやる。
ハルユキは歯を食いしばると、観葉植物の陰から出て、ラウンジへと足を踏み入れた。
周囲のテーブルから集まる上級生の視線には、これは被害妄想ではなく確かな非難と不快の色が含まれていた。入学当初ならいざ知らず、二学期の半ばともなれば全ての一年生が立ち入り禁止の慣習法を知っているはずだからだ。
しかし幸い、声に出して咎めようという者はいなかった。がくがく震える両脚で懸命に重い体を運び、テーブルの間を縫って、ハルユキはほとんど息も絶えだえになりながら、ついに生徒会役員たちが占拠する最奥部へと辿り着いた。
最初に顔を上げたのは、最も手前に座る二年生だった。ふわふわした髪を揺らして首をかしげた女子生徒は、僅かな訝しさの混じる笑顔をハルユキに向け、優しい声で言った。
「あら……何か御用?」
御用です。とも言えず、ハルユキは口ごもった。
「ええと……あの……えー……」
その時には、残る役員たちの四人までが皆ハルユキを見ていた。彼らの顔に悪意はなかったが、周囲のテーブルから向けられる不快の視線はもはや耐えがたく、緊張のあまり卒倒しそうになったとき、ようやく最後の一人が本から顔を上げた。
初めて間近から肉眼で見る黒雪姫の顔は、やはり昨日見た(はずの)アバターの数倍は美しかった。切りそろえた前髪の奥、くっきりした眉の下で、虹彩までも黒く見える瞳が冴えざえとした光を放っている。アバターを黒い薔薇に喩えるなら、こちらは黒水仙か。そんなものがあるのかどうかは知らないが。
その美貌に、この見苦しい一年は何、という表情が浮かぶのをハルユキは覚悟した。
しかし心底驚いたことに、黒雪姫は色の薄い唇に見覚えのある微笑を浮かべると短く言った。
「来たな、少年」
ぱたりと音を立ててハードカバーを閉じ、棒立ちのままのハルユキに手招きしながら、視線をちらりとテーブルの役員たちに走らせる。
「用は私だ。済まない、そこ空けてもらえるかな」
後半は、隣に座る三年の男子に向けたものだった。短髪長身の上級生は、面白がるような表情を浮かべて立ち上がると、掌で椅子をハルユキに示した。
もごもごと礼を口にして、ハルユキは丸い体を限界まで縮め腰を下ろした。華奢な椅子が盛大に軋んだが、黒雪姫はまるで気にするふうもなく、ブレザーの左ポケットを探ると束ねた細長いものを取り出した。
それは一本のケーブルだった。銀の細線でシールドされたコードの両端に、小さなプラグが付いている。左手で長い髪を後ろに持ち上げ、びっくりするほど細い首に装着されたニューロリンカー(当然のようにピアノブラック塗装だった)の端子に右手でプラグの片方を挿入すると、黒雪姫は何気ない仕草でもう一方のプラグをハルユキに差し出した。
今度こそ、事の成り行きを見守っていたラウンジじゅうの生徒たちから、大きなざわめきが巻き起こった。中には、噓だろとか、いやぁーそんなーとか悲鳴じみたものまで混じっている。
度肝を抜かれたのは、ハルユキも同様だった。額にぶわっと汗が浮き上がる。
《有線直結通信》。
略して直結と呼ばれる行為を、黒雪姫はハルユキに促したのだ。ニューロリンカーは通常、無線とその場のネットワークサーバーを通してのみ相互通信を行い、そこには何重ものセキュリティが介在する。しかし、有線で直結した場合は、防壁の九割までは無力化する。ある程度のリンカースキルを持つ者なら、相手のプライベートメモリを覗き見たり、悪意あるプログラムを仕掛けることすら可能だ。
ゆえに通常、直結するのは最も信頼できる相手──家族、もしくは恋人に限られる。逆に言うと、公共の場で直結している男女は九十九%まで付き合っているということになる。ケーブルの長さがその親密度を表すという技術的根拠のない俗習まで存在するのだ。
いま黒雪姫が差し出しているXSBケーブルは約二メートルはあるが、しかしこの場合長さなど問題ではない。きらきら光る銀色の端子をまじまじと凝視しながら、ハルユキはどうにか声を絞り出し、尋ねた。
「……あ、あの、どうすれば……」
「キミの首に挿す以外に使い道はなかろう」