アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

2ー②

 かんはつ入れずにそう断言されてしまう。ハルユキは卒倒しそうになりながらも、ふるえる指先でプラグを受け取り、手探りで自分のニューロリンカーに突き刺した。

 たん、眼前に点滅する《ワイヤード・コネクション》の警告表示。それがうすれると同時に、ラウンジの光景から、目の前のクロユキヒメの姿だけが鮮やかに浮き上がった。

 かすかな笑みの浮かぶくちびるはぴくりとも動かないのに、ハルユキの脳裏になめらかな声がひびいた。

『わざわざ足労願ってすまなかったな、アリハルユキ君。思考発声はできるかな?』

 唇を動かさずリンカーのみを通して会話する技術のことだ。ハルユキはうなずき、言葉を返した。

『はい。あの……これは、一体、どういうことなんですか? 手の込んだ、その……悪戯いたずらとかなんですか?』

 怒るかと思ったが、黒雪姫は小さく首をかしげると、ふむ、とつぶやいた。

『そうだな……ある意味ではそのとおりかもしれない。なぜなら私は、これからキミのニューロリンカーに、ひとつのアプリケーションソフトを送信する。それを受け入れれば、いまのキミの現実はかんなきまでにかいされ、思いもよらぬ形に再構成されるからだ』

『……げ、現実を……破壊……?』

 ハルユキはぼうぜんり返した。

 もう、テーブルで成り行きを興味深そうに見つめる生徒会の面々も、周囲でざわめく生徒たちも、まるで視界に入らなかった。ただ黒雪姫の言葉が、何度も脳裏でリフレインした。

 しつこくをまとう上級生は、そんなハルユキの様子に再び笑みをかたちづくり、右手を持ち上げると、しなやかな白い指先でさっと何かをすべらせる仕草をした。

 ぽーん、というビープ音。

【BB2039.exe を実行しますか? YES/NO】というホロ・ダイアログ。

 見慣れたシステム表示のはずなのに、その窓はまるで独自の意志を秘めてハルユキに決断を迫っているかのように思えた。

 常識的には、よく知らない人間から直結回線経由で送り込まれた正体不明のアプリを実行するなどりよもいいところだ。今すぐケーブルを引き抜いて当然の場面だろう。しかし、ハルユキはなぜかそうできなかった。代わりに、の上で縮こまる自分の体を見下ろした。

 ──現実。僕の、リアル。

 鈍重な体。えないようぼう。繰り返されるいじめと、ネットへのとう。そして何より、その状況を変えようともしない自分。このままでいい、どうせ何も変わらないとあきらめている僕自身。

 ハルユキは視線を動かし、黒雪姫のやみいろひとみを見つめた。

 そしてコンマ五秒後、右手を持ち上げ、YESのボタンに指先を突き刺した。わずかなおどろきの色が白いかおに浮かぶのを見て、ほんの少しの満足感が胸にぽたりと落ちた。

『望む、ところです。この現実が……こわれるなら』

 そうつぶやいたのと、ほとんど同時に。

 視界いっぱいに、巨大なほのおが噴き上がった。

 思わず体をこわらせたハルユキを取り巻くように荒れ狂ったえんの流れは、やがて体の前に結集し、ひとつのタイトルロゴを作り出した。デザインセンスは決して新しいものではない。前世紀の末に流行した、ある種の対戦型ゲームを思い起こさせる荒々しさ。

 現れた文字は──《BRAIN BURST》。

 これが、ハルユキと、ハルユキの認識する現実のすべてを変革するひとつのプログラムとの出会いだった。


 インストールは三十秒近くも続いた。ニューロリンカー用アプリとしてはかなり巨大だ。

 燃え盛るタイトルロゴの下に表示されたインジケータ・バーがようやく一〇〇%に到達するのを、ハルユキは息をんで見つめた。現実を──かいすると、クロユキヒメは言ったのだ。それは具体的に何を示しているのか。

 インジケータが消え、ロゴも燃え尽きるように消滅した。オレンジ色の残り火が、小さな英語フォントで《ウェルカム・トゥ・ジ・アクセラレーテッド・ワールド》という文字を作り、これもすぐに火花となって散った。どういう意味だ──加速、世界?

 ハルユキはそのまま十秒近く呼吸を止め、何かが起こるのを待った。

 しかし、自分の体にも、周囲の光景にも、変化のきざしすら訪れる気配はなかった。相変わらず制服の下では汗がだらだらだし、周りのテーブルから浴びせられる非難の視線は増強するいっぽうだ。

 細長く息をき出しながら、ハルユキはいぶかしさとともに黒雪姫を見た。

『あの……この、《ブレイン・バースト》ってプログラムは、一体……』

 思考発声でそう尋ねたが、黒衣の上級生は微笑を消さぬまま、ハルユキの疑問とははなれたことをささやいた。

『無事にインストールできたようだな。充分な適性があることは確信していたが』

『て、適性? このプログラムのですか?』

『そうさ。《ブレイン・バースト》は、高レベルの脳神経反応速度を持つ者でなければそもそもインストールできない。例えば、バーチャルゲームで鹿げたスコアを出せるほどの、な。キミが幻の炎を見たとき、プログラムは脳の応答をチェックしていたのだ。適性が足りなければ、そもそもタイトルロゴすら見ることはかなわん。しかし……それにしても少しだけおどろかされたぞ。かつての私は、この怪しげなプログラムを受け入れるかどうか二分近く迷ったというのに。キミを説得するために考えていた台詞せりふになってしまった』

『は、はあ……すみません。でも、その、何も……起こらないみたいなんですが。常駐じゃなく選択起動型のアプリですか?』

『まあ、そうあせるな。これからキミには、少々心の準備をしてもらわねばならん。具体的な機能の説明はそのあとでもよかろう。なに、時間はたっぷりあるからな』

 ハルユキはちらりと、視界の右下はしに継続表示されている時計を眺めた。すでに昼休みは半分が過ぎ去ろうとしている。たっぷり、と言うほど時間があるとは思えない。

 周囲の、好奇とけんが入り混じったふんを痛いほど感じながら、ハルユキは身を乗り出した。体の下でがぎしっときしんだ。

 聞きなれた音だが、自分のみにくさ、こつけいさを椅子までもが笑っている気がして、ハルユキはくちびるんだ。こんな現実の自分に愛着などあろうはずもない。変われるなら、それがたとえどんな変化であろうとも受け入れる。

『……心の準備ならもうできてます。教えてください、このプログラムは……』

 そこまで言いかけた時。

 ハルユキが背を向けているラウンジの入り口から、最も聞きたくない声がひびき渡った。

「てめぇ、ブ……アリ! バックレてんじゃねえぞ!!」

 反射的にびくんと体をすくませ、ハルユキは椅子から腰を浮かせた。振り向いた先に、顔を赤くして立っているのは、昼休みは屋上から出てこないはずのアラだった。

 ハルユキが表情をきようがくから恐怖へと変化させるのと同期して、荒谷の顔も激怒から不審へと変わった。ハルユキが立ち上がったことによって、これまで巨体の陰に完全に隠れていたクロユキヒメきやしやな姿と、そのリンカーから伸びてハルユキにつながるケーブルがあらわになったのだ。

 凍りつきながらも、ハルユキは生徒会の面々を除く周囲の生徒たちの雰囲気が微妙に変化したのを敏感に察知した。同じ緑のネクタイをしている大柄な荒谷と、縦に小さく横に大きいハルユキの関係は、全員がしゆんに悟っただろう。しかし生徒たちが放ったのは、荒谷への非難ではもちろんなく、あーやっぱりね、という納得の気配だった。

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影