間髪入れずにそう断言されてしまう。ハルユキは卒倒しそうになりながらも、震える指先でプラグを受け取り、手探りで自分のニューロリンカーに突き刺した。
途端、眼前に点滅する《ワイヤード・コネクション》の警告表示。それが薄れると同時に、ラウンジの光景から、目の前の黒雪姫の姿だけが鮮やかに浮き上がった。
微かな笑みの浮かぶ唇はぴくりとも動かないのに、ハルユキの脳裏に滑らかな声が響いた。
『わざわざ足労願ってすまなかったな、有田春雪君。思考発声はできるかな?』
唇を動かさずリンカーのみを通して会話する技術のことだ。ハルユキは頷き、言葉を返した。
『はい。あの……これは、一体、どういうことなんですか? 手の込んだ、その……悪戯とかなんですか?』
怒るかと思ったが、黒雪姫は小さく首をかしげると、ふむ、と呟いた。
『そうだな……ある意味ではそのとおりかもしれない。なぜなら私は、これからキミのニューロリンカーに、ひとつのアプリケーションソフトを送信する。それを受け入れれば、いまのキミの現実は完膚なきまでに破壊され、思いもよらぬ形に再構成されるからだ』
『……げ、現実を……破壊……?』
ハルユキは呆然と繰り返した。
もう、テーブルで成り行きを興味深そうに見つめる生徒会の面々も、周囲でざわめく生徒たちも、まるで視界に入らなかった。ただ黒雪姫の言葉が、何度も脳裏でリフレインした。
漆黒をまとう上級生は、そんなハルユキの様子に再び笑みをかたちづくり、右手を持ち上げると、しなやかな白い指先でさっと何かを滑らせる仕草をした。
ぽーん、というビープ音。
【BB2039.exe を実行しますか? YES/NO】というホロ・ダイアログ。
見慣れたシステム表示のはずなのに、その窓はまるで独自の意志を秘めてハルユキに決断を迫っているかのように思えた。
常識的には、よく知らない人間から直結回線経由で送り込まれた正体不明のアプリを実行するなど無思慮もいいところだ。今すぐケーブルを引き抜いて当然の場面だろう。しかし、ハルユキはなぜかそうできなかった。代わりに、椅子の上で縮こまる自分の体を見下ろした。
──現実。僕の、リアル。
鈍重な体。冴えない容貌。繰り返される苛めと、ネットへの逃避。そして何より、その状況を変えようともしない自分。このままでいい、どうせ何も変わらないと諦めている僕自身。
ハルユキは視線を動かし、黒雪姫の闇色の瞳を見つめた。
そしてコンマ五秒後、右手を持ち上げ、YESのボタンに指先を突き刺した。僅かな驚きの色が白い貌に浮かぶのを見て、ほんの少しの満足感が胸にぽたりと落ちた。
『望む、ところです。この現実が……壊れるなら』
そう呟いたのと、ほとんど同時に。
視界いっぱいに、巨大な焰が噴き上がった。
思わず体を強張らせたハルユキを取り巻くように荒れ狂った火焰の流れは、やがて体の前に結集し、ひとつのタイトルロゴを作り出した。デザインセンスは決して新しいものではない。前世紀の末に流行した、ある種の対戦型ゲームを思い起こさせる荒々しさ。
現れた文字は──《BRAIN BURST》。
これが、ハルユキと、ハルユキの認識する現実の全てを変革するひとつのプログラムとの出会いだった。
インストールは三十秒近くも続いた。ニューロリンカー用アプリとしてはかなり巨大だ。
燃え盛るタイトルロゴの下に表示されたインジケータ・バーがようやく一〇〇%に到達するのを、ハルユキは息を吞んで見つめた。現実を──破壊すると、黒雪姫は言ったのだ。それは具体的に何を示しているのか。
インジケータが消え、ロゴも燃え尽きるように消滅した。オレンジ色の残り火が、小さな英語フォントで《ウェルカム・トゥ・ジ・アクセラレーテッド・ワールド》という文字を作り、これもすぐに火花となって散った。どういう意味だ──加速、世界?
ハルユキはそのまま十秒近く呼吸を止め、何かが起こるのを待った。
しかし、自分の体にも、周囲の光景にも、変化の兆しすら訪れる気配はなかった。相変わらず制服の下では汗がだらだらだし、周りのテーブルから浴びせられる非難の視線は増強するいっぽうだ。
細長く息を吐き出しながら、ハルユキは訝しさとともに黒雪姫を見た。
『あの……この、《ブレイン・バースト》ってプログラムは、一体……』
思考発声でそう尋ねたが、黒衣の上級生は微笑を消さぬまま、ハルユキの疑問とは離れたことを囁いた。
『無事にインストールできたようだな。充分な適性があることは確信していたが』
『て、適性? このプログラムのですか?』
『そうさ。《ブレイン・バースト》は、高レベルの脳神経反応速度を持つ者でなければそもそもインストールできない。例えば、バーチャルゲームで馬鹿げたスコアを出せるほどの、な。キミが幻の炎を見たとき、プログラムは脳の応答をチェックしていたのだ。適性が足りなければ、そもそもタイトルロゴすら見ることは叶わん。しかし……それにしても少しだけ驚かされたぞ。かつての私は、この怪しげなプログラムを受け入れるかどうか二分近く迷ったというのに。キミを説得するために考えていた台詞が無駄になってしまった』
『は、はあ……すみません。でも、その、何も……起こらないみたいなんですが。常駐じゃなく選択起動型のアプリですか?』
『まあ、そう焦るな。これからキミには、少々心の準備をしてもらわねばならん。具体的な機能の説明はそのあとでもよかろう。なに、時間はたっぷりあるからな』
ハルユキはちらりと、視界の右下端に継続表示されている時計を眺めた。すでに昼休みは半分が過ぎ去ろうとしている。たっぷり、と言うほど時間があるとは思えない。
周囲の、好奇と嫌悪が入り混じった雰囲気を痛いほど感じながら、ハルユキは身を乗り出した。体の下で椅子がぎしっと軋んだ。
聞きなれた音だが、自分の醜さ、滑稽さを椅子までもが笑っている気がして、ハルユキは唇を嚙んだ。こんな現実の自分に愛着などあろうはずもない。変われるなら、それがたとえどんな変化であろうとも受け入れる。
『……心の準備ならもうできてます。教えてください、このプログラムは……』
そこまで言いかけた時。
ハルユキが背を向けているラウンジの入り口から、最も聞きたくない声が響き渡った。
「てめぇ、ブ……有田! バックレてんじゃねえぞ!!」
反射的にびくんと体を竦ませ、ハルユキは椅子から腰を浮かせた。振り向いた先に、顔を赤くして立っているのは、昼休みは屋上から出てこないはずの荒谷だった。
ハルユキが表情を驚愕から恐怖へと変化させるのと同期して、荒谷の顔も激怒から不審へと変わった。ハルユキが立ち上がったことによって、これまで巨体の陰に完全に隠れていた黒雪姫の華奢な姿と、そのリンカーから伸びてハルユキに繫がるケーブルが露わになったのだ。
凍りつきながらも、ハルユキは生徒会の面々を除く周囲の生徒たちの雰囲気が微妙に変化したのを敏感に察知した。同じ緑のネクタイをしている大柄な荒谷と、縦に小さく横に大きいハルユキの関係は、全員が瞬時に悟っただろう。しかし生徒たちが放ったのは、荒谷への非難ではもちろんなく、あーやっぱりね、という納得の気配だった。