アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

2-③

 やめろ──今はやめてくれ。

 ハルユキはけんめいにそう念じた。黒雪姫に、自分がイジメられているのだなどという事を知られるのは絶対にいやだった。用事が終わったら、すぐにパンを買って屋上に行くからおとなしく待っていてくれ、そう伝えるつもりで、ハルユキは荒谷に向けてこわった笑みを浮かべた。

 それを見た荒谷の顔が、一層の憤激に赤黒く染まった。ブタぁ、と唇が無音で動くのを、ハルユキはぞっとしながら見た。学校一の有名人と直結した状態でハルユキが浮かべた笑みの意味を、やつかんぺきに誤解したのだ。

 り上げた目をぎらぎらと光らせ、荒谷は無言で学食とラウンジをへだてる生け垣をくぐった。かかとをつぶしたうわきをぺたぺた鳴らしながら、一直線に近づいてくる。その背後に手下AとBも、こちらはややきんちようした顔で続く。

 もうだ、と思いながらハルユキは一歩あとずさった。

 アラは、同じ十三歳とは思えぬ長身に、空手をやっているとかでがっちりした筋肉をまとっている。その上から丈の短いブレザーと、逆にやけに長いうすむらさきのシャツを身につけ、ズボンもぞろりと太い。白っぽい金に染めた髪はけんざんのように逆立ち、ごく細いまゆと両耳のピアスにいろどられたツリ目はけんのんの一言だ。

 うめさと中学校は私立の進学校だが、少子化極まるこの時代、入学試験を設けている中学はほとんどない。ゆえに荒谷のようなとうが、『楽にシメよう』と思って入ってくることもある。

 そんな手合いに、入学初日にあっさりシメられたハルユキは、すぐ目の前に立ち止まりし掛からんばかりに見下ろしてくる荒谷を縮み上がりながら見つめた。

「ナメてんじゃねーぞ」

 じ曲げられたくちびるから発せられた台詞せりふに、ハルユキが、くつな謝罪を口にしようとした寸前。

 背後から、クロユキヒメの、涼しげな肉声が抑揚ゆたかにひびいた。

「キミはたしか、アラヤ君だったな」

 それを聞いた荒谷が、いつしゆんおどろき顔を経て、びるような笑みを浮かべた。こんなやつでも、《あの黒雪姫》に名前を覚えられていたというのはうれしいらしい。

 しかし、続いた言葉は、荒谷だけでなくハルユキをもがくぜんとさせるものだった。

アリ君に話は聞いているよ。間違って動物園からこの中学に送られてきたんじゃないか、とな」

 荒谷のアゴががくんと落ち、それがわなわなとふるえるのを、ハルユキはぼうぜんと見つめた。

「な……な……なん……」

 荒谷が口走るのとまったく同じことを、ハルユキも叫びたかった。

 な──何言ってるんだアンタ!

 しかしその思考を音声にするひまもなく、荒谷がすさまじい怒号を放った。

「ンだとテメェコラァ殺っぞブタァァァァ!!」

 びくーん、と縮み上がったハルユキの眼前で、荒谷がみぎこぶしを固め、高く振りかぶった。

 そして同時に──脳内で、鋭い声がハルユキに命じた。

『今だ、叫べ! 《バースト・リンク》!!』

 その短いコマンドを、ハルユキは、自分が実音声でわめいたのかそれとも思考音声で念じたのかわからなかった。しかし、自分の体の隅々にまで、声がしんどうとなってみ渡るのをはっきりと感じた。


 バースト・リンク!!


 バシイイイイッ!! というしようげきおんが、世界を揺るがした。

 あらゆる色彩が一瞬で消滅し、透きとおるブルーのみが広がった。周りのラウンジも、成り行きをぎようする生徒たちも、そして目の前のアラまでもが、モノトーンの青に染まった。

 そして、すべてが、静止した。

 一秒後に自分をなぐり飛ばすはずの荒谷のこぶしが、数十センチ先に凍り付いているのをハルユキはぜんと見つめた。

「う……うわっ!!」

 思わず叫び、一歩飛びすさる。

 そのアクションの結果、ハルユキはさらに信じがたいものを見た。

 自分の背中だ。荒谷と同じように青一色に変じた自分の、丸っこい背中が、こつけいに縮み上がった姿勢のまま不自然に停止している。まるで肉体からたましいだけがだつしてしまったかのようだ。

 なら、今の自分はどうなっているんだ!? ときようがくしつつ見下ろすと、そこにあったのは見慣れたピンクブタだった。間違いなく、ローカルネットでハルユキが使用しているアバターだ。

 もう何がなにやら訳がわからず、ハルユキはふらふらと振り向いた。

 眼にしたのは、これまた奇怪な光景だった。

 ラウンジのには、ぴたりとひざそろえ背筋を伸ばしたクロユキヒメが優雅に座っている。しかしその体も、首から伸びるケーブルも、全て水晶のような透過度のある青に染まっている。

 そしてとなりに、黒のドレスにたたんだ日傘、あげちようはねをまとったアバターがなぞめいた笑みを浮かべて立っていた。

「な……何なんですかこれ!?」

 ハルユキはたまらずわめきたてた。

完全フルダイブ!? それとも……ゆうたいだつですか!?」

「ふふ、そのどちらでもないよ」

 愉快そうな口調で、黒雪姫のアバターが告げた。

「我々は今《ブレイン・バースト》プログラムの機能下にある。《加速》しているのだ」

「か……かそく……?」

「そう。周囲が静止したように見えるが実は違う。我々の意識が超高速で動いているんだよ」

 黒雪姫は、ドレスのすそを縁取る銀のたまをきらめかせながら数歩移動し、青く凍る現実のハルユキと荒谷のかたわらで止まった。傘の先で、右ストレートパンチの軌道上にある荒谷の拳を指す。

「この拳も、視認はできないがいまもごくごくゆっくりと移動している……時計の短針のようにな。このままずっと待っていれば、やがてこの八十センチほどを通過し、こっちにいるキミのほおにじわじわメリ込むのが見られるだろう」

「じょ、冗談じゃないですよ。いやそうじゃなくて……ちょ、ちょっと待ってください」

 ハルユキは、ブタの両手で頭を抱え、必死に情報を整理した。

「え、ええとですね……じゃあ、別に僕や先輩の魂が自分の体から抜け出てしまったってわけじゃあないんですね? あくまで思考は本来のアタマの中で行われてるってことですか?」

み込みが早いな。その通りだ」

「でも、そんなの変じゃないですか! 思考と感覚が加速しただけだっていうなら、こんな……ゆうたいだつみたいに移動したり、自分の背中を見たり、そもそも先輩と会話だってできるわけないですよ!」

「うむ、もっともな疑問だ、ハルユキ君」

 教師のようにうなずくと、クロユキヒメは縦にロールした黒髪を揺らしてテーブルの横まで移動した。

「我々が今ているこの青い世界はリアルタイムの現実だが、しかし眼球で光学的に視認しているのではない。ちょっとこのテーブルの裏側を見てみたまえ」

「は、はぁ……」

 ハルユキは現実よりもさらに小さなブタボディをかがめて、青いテーブルの下をのぞいた。

「あ、あれっ」

 妙だ。テーブルは木製で、表面には縦に細い板目が走っている。しかし裏面は、まるでプラスチックのようにのっぺりと一切のテクスチャがないのだ。

「なんだこれ……まるで、ポリゴン……?」

 顔を上げたハルユキに、黒雪姫は軽く頷きかけた。

「その通りだ。この青い世界は、ラウンジに複数存在するソーシャルカメラがとらえた画像から再構成された3D映像を、ニューロリンカー経由で脳が視ているものだよ。カメラの死角になっている部分は推測補完されている。だから、そこの女子のスカートを覗こうとしてもだ」

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影