やめろ──今はやめてくれ。
ハルユキは懸命にそう念じた。黒雪姫に、自分がイジメられているのだなどという事を知られるのは絶対に厭だった。用事が終わったら、すぐにパンを買って屋上に行くからおとなしく待っていてくれ、そう伝えるつもりで、ハルユキは荒谷に向けて強張った笑みを浮かべた。
それを見た荒谷の顔が、一層の憤激に赤黒く染まった。ブタぁ、と唇が無音で動くのを、ハルユキはぞっとしながら見た。学校一の有名人と直結した状態でハルユキが浮かべた笑みの意味を、奴は完璧に誤解したのだ。
吊り上げた目をぎらぎらと光らせ、荒谷は無言で学食とラウンジを隔てる生け垣を潜った。かかとを潰した上履きをぺたぺた鳴らしながら、一直線に近づいてくる。その背後に手下AとBも、こちらはやや緊張した顔で続く。
もう駄目だ、と思いながらハルユキは一歩あとずさった。
荒谷は、同じ十三歳とは思えぬ長身に、空手をやっているとかでがっちりした筋肉をまとっている。その上から丈の短いブレザーと、逆にやけに長い薄紫のシャツを身につけ、ズボンもぞろりと太い。白っぽい金に染めた髪は剣山のように逆立ち、ごく細い眉と両耳のピアスに彩られたツリ目は剣吞の一言だ。
梅郷中学校は私立の進学校だが、少子化極まるこの時代、入学試験を設けている中学はほとんどない。ゆえに荒谷のような武闘派が、『楽にシメよう』と思って入ってくることもある。
そんな手合いに、入学初日にあっさりシメられたハルユキは、すぐ目の前に立ち止まり伸し掛からんばかりに見下ろしてくる荒谷を縮み上がりながら見つめた。
「ナメてんじゃねーぞ」
捻じ曲げられた唇から発せられた台詞に、ハルユキが、卑屈な謝罪を口にしようとした寸前。
背後から、黒雪姫の、涼しげな肉声が抑揚ゆたかに響いた。
「キミはたしか、アラヤ君だったな」
それを聞いた荒谷が、一瞬の驚き顔を経て、媚びるような笑みを浮かべた。こんな奴でも、《あの黒雪姫》に名前を覚えられていたというのは嬉しいらしい。
しかし、続いた言葉は、荒谷だけでなくハルユキをも愕然とさせるものだった。
「有田君に話は聞いているよ。間違って動物園からこの中学に送られてきたんじゃないか、とな」
荒谷のアゴががくんと落ち、それがわなわなと震えるのを、ハルユキは呆然と見つめた。
「な……な……なん……」
荒谷が口走るのとまったく同じことを、ハルユキも叫びたかった。
な──何言ってるんだアンタ!
しかしその思考を音声にするひまもなく、荒谷が凄まじい怒号を放った。
「ンだとテメェコラァ殺っぞブタァァァァ!!」
びくーん、と縮み上がったハルユキの眼前で、荒谷が右拳を固め、高く振りかぶった。
そして同時に──脳内で、鋭い声がハルユキに命じた。
『今だ、叫べ! 《バースト・リンク》!!』
その短いコマンドを、ハルユキは、自分が実音声で喚いたのかそれとも思考音声で念じたのか判らなかった。しかし、自分の体の隅々にまで、声が震動となって染み渡るのをはっきりと感じた。
バースト・リンク!!
バシイイイイッ!! という衝撃音が、世界を揺るがした。
あらゆる色彩が一瞬で消滅し、透きとおるブルーのみが広がった。周りのラウンジも、成り行きを凝視する生徒たちも、そして目の前の荒谷までもが、モノトーンの青に染まった。
そして、全てが、静止した。
一秒後に自分を殴り飛ばすはずの荒谷の拳が、数十センチ先に凍り付いているのをハルユキは啞然と見つめた。
「う……うわっ!!」
思わず叫び、一歩飛びすさる。
そのアクションの結果、ハルユキはさらに信じがたいものを見た。
自分の背中だ。荒谷と同じように青一色に変じた自分の、丸っこい背中が、滑稽に縮み上がった姿勢のまま不自然に停止している。まるで肉体から魂だけが離脱してしまったかのようだ。
なら、今の自分はどうなっているんだ!? と驚愕しつつ見下ろすと、そこにあったのは見慣れたピンクブタだった。間違いなく、ローカルネットでハルユキが使用しているアバターだ。
もう何がなにやら訳が判らず、ハルユキはふらふらと振り向いた。
眼にしたのは、これまた奇怪な光景だった。
ラウンジの椅子には、ぴたりと膝を揃え背筋を伸ばした黒雪姫が優雅に座っている。しかしその体も、首から伸びるケーブルも、全て水晶のような透過度のある青に染まっている。
そして隣に、黒のドレスに畳んだ日傘、揚羽蝶の翅をまとったアバターが謎めいた笑みを浮かべて立っていた。
「な……何なんですかこれ!?」
ハルユキは堪らず喚きたてた。
「完全ダイブ!? それとも……幽体離脱ですか!?」
「ふふ、そのどちらでもないよ」
愉快そうな口調で、黒雪姫のアバターが告げた。
「我々は今《ブレイン・バースト》プログラムの機能下にある。《加速》しているのだ」
「か……かそく……?」
「そう。周囲が静止したように見えるが実は違う。我々の意識が超高速で動いているんだよ」
黒雪姫は、ドレスの裾を縁取る銀の珠をきらめかせながら数歩移動し、青く凍る現実のハルユキと荒谷の傍らで止まった。傘の先で、右ストレートパンチの軌道上にある荒谷の拳を指す。
「この拳も、視認はできないがいまもごくごくゆっくりと移動している……時計の短針のようにな。このままずっと待っていれば、やがてこの八十センチほどを通過し、こっちにいるキミの頰にじわじわメリ込むのが見られるだろう」
「じょ、冗談じゃないですよ。いやそうじゃなくて……ちょ、ちょっと待ってください」
ハルユキは、ブタの両手で頭を抱え、必死に情報を整理した。
「え、ええとですね……じゃあ、別に僕や先輩の魂が自分の体から抜け出てしまったってわけじゃあないんですね? あくまで思考は本来のアタマの中で行われてるってことですか?」
「吞み込みが早いな。その通りだ」
「でも、そんなの変じゃないですか! 思考と感覚が加速しただけだっていうなら、こんな……幽体離脱みたいに移動したり、自分の背中を見たり、そもそも先輩と会話だってできるわけないですよ!」
「うむ、もっともな疑問だ、ハルユキ君」
教師のように頷くと、黒雪姫は縦にロールした黒髪を揺らしてテーブルの横まで移動した。
「我々が今視ているこの青い世界はリアルタイムの現実だが、しかし眼球で光学的に視認しているのではない。ちょっとこのテーブルの裏側を見てみたまえ」
「は、はぁ……」
ハルユキは現実よりもさらに小さなブタボディを屈めて、青いテーブルの下を覗いた。
「あ、あれっ」
妙だ。テーブルは木製で、表面には縦に細い板目が走っている。しかし裏面は、まるでプラスチックのようにのっぺりと一切のテクスチャがないのだ。
「なんだこれ……まるで、ポリゴン……?」
顔を上げたハルユキに、黒雪姫は軽く頷きかけた。
「その通りだ。この青い世界は、ラウンジに複数存在するソーシャルカメラが捉えた画像から再構成された3D映像を、ニューロリンカー経由で脳が視ているものだよ。カメラの死角になっている部分は推測補完されている。だから、そこの女子のスカートを覗こうとしても無駄だ」