アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

2-④

 ソーシャルカメラというのは、正式名称ソーシャル・セキュリティ・サーベイランス・カメラというもので、治安維持を目的に日本国内にびっしり設置してある、政府の映像監視もうのことだ。たとえ私立の中学といえどもカメラ設置を拒むことはできず、そのデータは国家レベルの厳重な防壁に守られ、一般民がのぞき見することは絶対に不可能──と言われているのだが。

 そんな理屈を思い浮かべながらも、ハルユキは反射的にテーブルの下に伸びる生徒会役員の女子の脚を追い、その優美なラインがスカートの縁で消滅しているのを確かめてしまった。

 慌てて立ち上がったハルユキを、黒雪姫はじろりといちべつした。

「私の脚は見るなよ。カメラの視界に入ってるからな」

「み……見ませんよ」

 苦労して視線を固定しながら、ハルユキは首を振った。

「ま、まあ、今見てるものの理屈はなんとなくわかりました。ここはリアルタイムの現実を3D映像化した世界で……僕らはアバターを代行体として、周りを見たり直結回線経由でしやべったりしてるってことですね?」

「そうだ。今は便宜的に君の学内ローカルネット用アバターが流用されているが」

「できるなら、ほかのがいいですけど」

 つぶやき、ハルユキは大きく息をいた。ブタの頭を振って思考を整理し、もう一度黒雪姫のアバターを見る。

「でも……これでやっと半分ですよね。知りたいのはここからです。……《加速》って一体何なんです? こんな時間停止みたいな機能がニューロリンカーにあるなんて、聞いたことないですよ!」

「当然だ、ニューロリンカーに秘められた加速機能を引き出せるのは、《ブレイン・バースト》というプログラムを持っている者だけだ」

 クロユキヒメつぶやくように言い、左手を上げると、凍結する現実のハルユキの首に巻きつくXLサイズのニューロリンカーをそっとつついた。

「ハルユキ君、キミはニューロリンカーの作動原理を知っているか?」

 細い指が《自分》の首に触れるのを見て、わけもなくドキッとしながらもハルユキはうなずいた。

「は、はい……とおりいっぺんの知識だけですけど。脳細胞と量子レベルで無線接続して、映像や音や感触を送り込んだり、逆に現実の五感をキャンセルする……」

「そうだ。つまり二〇二〇年代のヘッドギア型VR機器、あるいは三〇年代のインプラント型とは原理が根本的に異なる。量子接続は、生理学的メカニズムではないのだ。ゆえに、脳細胞に負荷をかけることなく、とんでもないムチャができる……ことに気付いた者が居た」

「ムチャ……とは?」

 ハルユキの疑問に、黒雪姫はやや見当はずれとも思える問いを返した。

「キミは二〇年ごろのPCに触れたことがあるかな?」

「え、ええ、一応。自宅にもあります」

「ならば、PCの基準動作周波数を何と呼んでいたか知っているだろう」

「ベースクロック……ですか」

 黒雪姫は満足そうに頷いた。

「そう……マザーボード上の振動子が時計のように刻む信号を、設定倍率にしたがって増幅オーバークロツクしCPUを駆動していた。そしてまた人間の脳、我々の意識も同じ仕組みで動いているのだ」

「え……!?」

 ハルユキは目を丸くし、大きなブタ鼻からぶふーっと息をいた。

「ま、まさか。僕らのどこに振動子があるっていうんです」

「ここだ」

 黒雪姫は即答し、現実の青いハルユキに正面から抱きつくと、いたずらっぽい上目遣いになりながら左手で背中の中心をつついた。

「な……、な、何するんですか」

「今、キミのクロックが少し上がったぞ。もう分かったろう……心臓だ! 心臓は、ただ血液を送り出すだけのポンプではない。その鼓動によって、思考の駆動速度を決定する基準クロック発生装置なのだ」

 息をみ、ハルユキはブタボディの胸を押さえた。クロユキヒメはまるでからかうように、尚も心臓のあたりに触れながら続けた。

「たとえ体が静止していようと、状況次第では心臓の鼓動はいくらでも速くなる……レーシングドライバーのようにな。何故なぜか。それは、思考を──状況認識力、そして判断力を《加速》する必要があるからだ。あるいは、互いに触れ合う恋人たちのように。一分一秒を、より濃密に体験するために《加速》する」

 黒雪姫は、現実のハルユキの胸にあてた指先を、ゆっくり上に動かし首で止めた。

「心臓が一度どくんと脈打つと、発生した量子パルス信号は中枢神経をさかのぼり、脳を、つまり思考を駆動する。ならば──その信号を首のニューロリンカーで乗っ取り、増幅オーバークロツクしてやればどうなると思う」

 ぞくっ、と背筋にせんりつがはしるのを、ハルユキは感じた。

「思考が……加速する?」

「そう、ニューロリンカーならそれができる。肉体や脳細胞に一切のあくえいきようを与えることなく、な。いまこのしゆんかん、我々のニューロリンカーは、心臓がたった一度の鼓動で発振したクロックを増幅し、無線量子信号に乗せて脳に送り込んでいるのだ。そのレートは、実に一千倍に達する!」

「いっせん……ば……い」

 告げられた言葉をぼうぜんり返すことしか、もうハルユキにはできなかった。しかけた意識に、黒雪姫のよどみない声がいっそうのしようげきを与えた。

「思考を一千倍に加速する。それはつまり、現実の一秒を、一千秒……割り算をすれば十六分四十秒として体感するということだ」

 F1レーサーどころの話ではない。もはやテクノロジーというよりも、《時間停止のじゆつ》に等しい。

 しかし、そのきようてきな現象がはたして具体的に何を可能にするのか、についてハルユキが思い巡らす前に、黒雪姫が何かに気付いたように「おっと」とつぶやいた。

「……?」

「いや、すまん。説明に夢中になって、少し時間を使いすぎてしまったな。すっかり忘れていたが、現実のキミは今まさにぶっとばされつつあるんだった」

「げっ……」

 ハルユキは慌てて足を動かし、青く凍る自分の向こう側へと回り込んだ。

 確かに、会話に費やした約五分(またはコンマ三秒ほど)のあいだに、アラのパンチはずいぶんと移動していた。リアルハルユキの丸いほっぺたまでは、もう五十センチ弱しかない。

 荒谷の顔は、これがてんじように隠されたソーシャルカメラの映像から生成されたものだとは信じられない再現性で、凶暴なこうふんもあらわにくちびるゆがめている。

 一体何が楽しいんだ。──いや、そりゃ楽しいだろうな。こぶしの向かう先に、うつろな表情でまんぜんと立つ僕は、まさにザコキャラと呼ぶにふさわしい。

 いんうつな思考を脳裏にぎらせながら、ハルユキはクロユキヒメに向き直った。

「……あの、この《加速》って、いつまで続くんですか?」

「理論上は無限だ。だが、《ブレイン・バースト》プログラム上の制限によって、キミが加速していられるのは最大で体感三十分、現実においては一・八秒だ」

 涼しげに返された黒雪姫の言葉に、ハルユキはピンクブタのくりくりした眼をき出した。このまま現実の自分が二秒近くも凍りついていたら、アラのパンチは確実に残るきよを移動し、鼻筋にじわじわとめり込み──。

「……な、なぐられちゃうじゃないですか!」

 コマ送りでぶっ飛ぶ自分の姿を想像し、ハルユキは叫んだ。が、黒雪姫は軽く笑い、説明を付け加えた。

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影