アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―
2-⑤
「はは、心配するな。もちろん、加速状態を任意に停止することは可能だよ」
「あ、ああ……そうですか。それなら、現実に戻ってからこのパンチを
「
言うとおり、これまで散々殴られた際には避けることはおろか、恐怖のあまり見ることすらできなかった荒谷のパンチの軌道とその
加速を解除すると同時に、左にほんの十五センチほど動けばいいはずだ。ごくりと
しかし、黒衣の
「だが、避けるな。ここはあえてぶっとばされようじゃないか、ハルユキ君」
「ぶ…………」
ブタ鼻をしばしわななかせてから、ハルユキは叫んだ。
「い、
「どっちがだ」
「え……? ど、どっちって……」
「痛いのは、体なのか心なのかと
黒雪姫のアバターから、微笑が消えた。ハルユキの答えを待たず、黒いハイヒールがかつっと前に
ハルユキのブタボディよりも、五十センチ近く高い
「キミが、この荒谷という生徒に殴られるのは初めてではあるまい」
「は……はい」
イジメの件は絶対知られたくないと思っていたのに、なぜかハルユキは
「なのに、この生徒がこれまで処分されなかったのには、二つの理由があるはずだ。一つはもちろん、キミが泣き寝入りしてきたこと。そしてもう一つは、
確かに、ハルユキが直接的なイジメ行為を受けたのは、常に屋上の排気施設の陰や校舎裏といった生徒の近寄らぬ場所だった。しかしあれは、人の目を
「……残念ながら、当校の二年や三年にも、こいつと同種の生徒が少ないながらも存在する。彼らにもそれなりのネットワークがあり、ソーシャルカメラ視界警告アプリなどという違法なものも流通しているようだ。連中は、カメラの視界内では決して
氷のような視線で、青く染まる荒谷の顔を
「だが、
──そして、荒谷は改めてハルユキを痛めつけるはずだ。その報復が、これまでの遊び半分のものではなくなるであろうことは、たやすく想像できた。ぶるり、と背中を
骨ばったその右手は岩のようにごつごつと
本当に血を流していたのは肉体ではなく心だ。ずたずたに引きちぎられたプライドのほうだ。
「……あの」
ハルユキは
「《ブレイン・バースト》を
一切の表情を消した
「──勝てるだろうよ。キミはもう、非加速者たちを
望むとも。望まないわけがあるか。
荒谷の空手技を
ぎり、と奥歯を食いしばり、大きく息を
「……いえ、やめときます。大人しく殴られますよ……せっかくのチャンスですから」
「…………ふ」
「賢明な選択だ。ま、どうせなら被害を最小に、効果を最大にしようじゃないか。《加速》が切れたら、自分から右後方に思い切り跳ぶのだ。顔を右に回して
「は……はあ」
ハルユキは、現実の自分のすぐ後ろに移動すると、
頷いてから視線を動かし、跳ぶ先の状況も確かめる。左にはテーブルがあるが、右後ろには大きくスペースが空き、中庭を望む大窓まで障害物はない。たった一人の人間を除いては。
「あ、いや……だめですよ。ここからそっちに跳んだら、先輩の体に
立ち上がっているハルユキと、
しかし、黒ドレスのアバターは軽く肩をすくめただけだった。
「かまわん、そのほうが効果的だろう。心配するな、ちゃんと
「……は、はい……」
確かに、事前に
「そろそろ本格的に時間がないぞ。さ、早く現実の自分に重なれ」
ぽん、と背中を押され、ハルユキは一歩前に出ると、青い自分にブタのアバターを重ね合わせた。背後では黒雪姫も椅子に座ったようで、声の位置が低くなった。
「よし、それでは加速解除のコマンドを教える。
バースト・アウト!
ハルユキは一杯に息を吸い、思い切り叫んだ。
きぃぃぃん、というジェット機のような音が、遠くから近づいてきて周囲の静寂を破る。青い世界が、徐々に本来の色を取り戻していく。
視界の左側で、停止していた荒谷の拳が少しずつ動き出す。カタツムリのようにのろのろした動きから、じわじわと増速し、ハルユキの
ハルユキは、言われたとおり両脚で右後ろ方向へと飛ぼうとしながら、
そして、世界が戻った。
わっ、と周囲の
だが、同時にハルユキの巨体は映画のように派手に宙に飛んでいた。