アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

2-⑤

「はは、心配するな。もちろん、加速状態を任意に停止することは可能だよ」

「あ、ああ……そうですか。それなら、現実に戻ってからこのパンチをけることも……」

容易たやすいな。ふふ、それが《加速》の最もわかり易い使い方だ。生身では不可能な反射速度で状況を見極め、じゆくりよしてから、加速を解除して悠々と対処できる」

 言うとおり、これまで散々殴られた際には避けることはおろか、恐怖のあまり見ることすらできなかった荒谷のパンチの軌道とそのねらいが、《加速》中の今なら手にとるようにわかる。

 加速を解除すると同時に、左にほんの十五センチほど動けばいいはずだ。ごくりとつばを飲みながらもそう頭に刻み込み、ハルユキは解除のためのコマンドを尋ねようと黒雪姫を見た。

 しかし、黒衣のれいじんは、ハルユキよりも先に軽い口調でとんでもないことを言った。

「だが、避けるな。ここはあえてぶっとばされようじゃないか、ハルユキ君」

「ぶ…………」

 ブタ鼻をしばしわななかせてから、ハルユキは叫んだ。

「い、いやですよ! 痛いじゃないですか」

「どっちがだ」

「え……? ど、どっちって……」

「痛いのは、体なのか心なのかといている」

 黒雪姫のアバターから、微笑が消えた。ハルユキの答えを待たず、黒いハイヒールがかつっと前にみ出された。

 ハルユキのブタボディよりも、五十センチ近く高いそうしんかがめ、黒雪姫はごく至近距離から目をのぞき込んできた。ハルユキは息をんで棒立ちになった。

「キミが、この荒谷という生徒に殴られるのは初めてではあるまい」

「は……はい」

 イジメの件は絶対知られたくないと思っていたのに、なぜかハルユキはうなずいていた。

「なのに、この生徒がこれまで処分されなかったのには、二つの理由があるはずだ。一つはもちろん、キミが泣き寝入りしてきたこと。そしてもう一つは、アラが暴力やきようかつの現場を、巧妙にソーシャルカメラの視界から外していたこと」

 確かに、ハルユキが直接的なイジメ行為を受けたのは、常に屋上の排気施設の陰や校舎裏といった生徒の近寄らぬ場所だった。しかしあれは、人の目をけていたのではなく、カメラを避けていたということか。

 クロユキヒメは難しい表情になり、すっと体を伸ばした。

「……残念ながら、当校の二年や三年にも、こいつと同種の生徒が少ないながらも存在する。彼らにもそれなりのネットワークがあり、ソーシャルカメラ視界警告アプリなどという違法なものも流通しているようだ。連中は、カメラの視界内では決して尻尾しつぽを出さない……新入りのこいつも、それは厳しく命じられているはずだ」

 氷のような視線で、青く染まる荒谷の顔をいちべつした黒雪姫は、すごみのある静かな声で続けた。

「だが、しよせんはまだ子供だ。先ほどの私の挑発で我を忘れ、こんなカメラが山ほどある場所で暴力行為に出た。いいか、これはキミにとってチャンスなのだ、ハルユキ君。このパンチをかいするのは容易だが、そうすれば荒谷は我にかえり、この場から消えてしまうだろう。こいつに受けるべき罰を受けさせる機会は、再び限りなく遠ざかる」

 ──そして、荒谷は改めてハルユキを痛めつけるはずだ。その報復が、これまでの遊び半分のものではなくなるであろうことは、たやすく想像できた。ぶるり、と背中をふるわせながら、ハルユキは現実の自分と、その顔に近づきつつある荒谷のこぶしを見た。

 骨ばったその右手は岩のようにごつごつととがり、なぐられれば泣くほど痛い。この半年で、いやというほど味わった痛みだ。しかし──。

 本当に血を流していたのは肉体ではなく心だ。ずたずたに引きちぎられたプライドのほうだ。

「……あの」

 ハルユキは躊躇ためらいながら、黒雪姫に問いかけた。

「《ブレイン・バースト》を上手うまく使えば、ケンカでこいつに勝てますか」

 一切の表情を消したぼうが、まっすぐにハルユキをぎようした。

「──勝てるだろうよ。キミはもう、非加速者たちをはるか超える力を持つ《バーストリンカー》だ。一発も殴られることなく、好き放題たたきのめせるさ、キミがそう望むなら」

 望むとも。望まないわけがあるか。

 荒谷の空手技をれいに避けまくり、人相をブタよりみにくく変えてやる。鼻をつぶし、前歯を全部叩き折り、して泣きわめくその頭からまんの金髪を一本残らず引き抜いてやる。

 ぎり、と奥歯を食いしばり、大きく息をいて、ハルユキは震える声で黒雪姫に告げた。

「……いえ、やめときます。大人しく殴られますよ……せっかくのチャンスですから」

「…………ふ」

 クロユキヒメは、どこか満足そうに笑うと、ゆっくりとうなずいた。

「賢明な選択だ。ま、どうせなら被害を最小に、効果を最大にしようじゃないか。《加速》が切れたら、自分から右後方に思い切り跳ぶのだ。顔を右に回してこぶしを受け流すのを忘れるな」

「は……はあ」

 ハルユキは、現実の自分のすぐ後ろに移動すると、アラのパンチの軌道を確認した。確かに、顔の向きを変えながら跳べば、いかな空手技といえど威力の大半は殺せそうだ。

 頷いてから視線を動かし、跳ぶ先の状況も確かめる。左にはテーブルがあるが、右後ろには大きくスペースが空き、中庭を望む大窓まで障害物はない。たった一人の人間を除いては。

「あ、いや……だめですよ。ここからそっちに跳んだら、先輩の体にしようとつしちゃいます」

 立ち上がっているハルユキと、に座るリアル黒雪姫とのきよはたった一メートルだ。ハルユキの巨体にかれたら、きやしやな体がどうなってしまうか知れたものではない。

 しかし、黒ドレスのアバターは軽く肩をすくめただけだった。

「かまわん、そのほうが効果的だろう。心配するな、ちゃんとけるからはしないよ」

「……は、はい……」

 確かに、事前にわかっていればそれも可能かもしれない。やむなく頷く。

「そろそろ本格的に時間がないぞ。さ、早く現実の自分に重なれ」

 ぽん、と背中を押され、ハルユキは一歩前に出ると、青い自分にブタのアバターを重ね合わせた。背後では黒雪姫も椅子に座ったようで、声の位置が低くなった。

「よし、それでは加速解除のコマンドを教える。上手うまくやれよ──《バースト・アウト》!」


 バースト・アウト!


 ハルユキは一杯に息を吸い、思い切り叫んだ。

 きぃぃぃん、というジェット機のような音が、遠くから近づいてきて周囲の静寂を破る。青い世界が、徐々に本来の色を取り戻していく。

 視界の左側で、停止していた荒谷の拳が少しずつ動き出す。カタツムリのようにのろのろした動きから、じわじわと増速し、ハルユキのほおに迫る。

 ハルユキは、言われたとおり両脚で右後ろ方向へと飛ぼうとしながら、けんめいに首を右に回した。ぐうううっと接近してきたパンチが、に触れ、わずかにめり込み──。

 そして、世界が戻った。

 わっ、と周囲のそうおんが押し寄せてくる中、ハルユキは左頰をがつぶよんと拳がえぐるのを感じた。頰の内側に歯が食い込み、くちびるが引きれる感覚。多少は血が出そうだが、しかしこれまで何度も食らった空手パンチに比べれば確かに半分くらいの痛みだ。

 だが、同時にハルユキの巨体は映画のように派手に宙に飛んでいた。

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影