アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

2-⑥

 うまくけてくれ! と念じながら、背中から後ろのに激突する。何やらいいにおいと、柔らかな髪の感触が訪れたのもつかの間。

 ガターンと椅子が倒れる音、そして直後に、がつん!! という不吉な音がした。

 背中から床に落ちたハルユキはいつしゆん息が詰まり、空気を求めてあえぎながらも、必死に首をめぐらして、しようとつかいしたはずのクロユキヒメの様子を確認した。

 見開いた両眼がとらえたのは、頭をラウンジの採光ガラスにもたれさせ、こわれた人形のように手足を投げ出してまぶたを閉じるきやしやな姿だった。

 乱れた前髪の下、透き通るほど白い額に、つう、と一筋の血が流れた。

「あ…………あっ」

 悲鳴をみ込みながら、ハルユキは立ち上がろうとした。だが、その寸前──。

『動くな!!』

 直結されたままのリンカーを通して、黒雪姫の思考音声がハルユキの意識を打った。反射的に、あおけに倒れた格好のまま体を凍りつかせてハルユキは言葉を返した。

『で、でも……血が!!』

『心配ない、少し切っただけだ。言ったろう、最大の効果をねらうと。これでもう、アラはキミの前には現れない。二度とな』

 言われるまま、ハルユキは視線だけを左から右へと動かした。

 みぎこぶしをまっすぐ振りぬいたままの荒谷が、ぽかんとした表情でハルユキたちを見下ろしていた。その顔から、徐々に血の気が引いていき、うすくちびるが二度、三度とけいれんするようにふるえた。

 しん、とした静寂に包まれたラウンジに──。

「……きゃあああああ!!」

 周りのテーブルの女子生徒たちのすさまじい悲鳴がひびき渡った。


 荒谷と手下ABは、生徒会役員の男子によって取り押さえられる間もまるで抵抗しなかった。真っ青な顔でがくがく脚を震わせる三人を、血相変えて駆けつけてきた教師たちが引きりながら連行していき、黒雪姫もまた生徒会の女子に抱えられるようにして病院に直行した。

 ハルユキ自身は保健室で軽い手当てを受けただけだが、校医の手で消毒されパッチをられるあいだも、直結ケーブルが抜かれる直前に黒雪姫が発した言葉が、ざんきようとなって耳奥に漂っていた。

『──おっと、言い忘れた。明日登校するまで、絶対にニューロリンカーを外すな。しかし、グローバル接続は一秒たりともしてはいけない。いいか、絶対だ。約束だぞ』

 指示の真意を推測することなどまったくできなかった。保健室で午後の二時間を過ごすあいだもずっと、奇妙なかい感覚が全身を包んでいた。昨日と今日のたった二日間で自分に起きた多くの出来事を、どう整理してみ込んでいいのかわからない。

 しかし少なくとも、もうばこからくつがなくなっていたり、あるいは靴に異物が入っていたりということを心配する必要はなさそうだった。機械的にうわきをスニーカーに履き替え、校舎から出たところで、ハルユキは言われたとおりニューロリンカーをネットから切断した。

 これにどんな意味があるのだろう、と再び考えながら校門を目指して歩き出したとき。

「ハル」

 小さな声が耳に届き、ハルユキはぴたっと脚を止めた。

 周りを見回すと、夕焼けに染まった校舎の壁に影を落として立つ小さな姿に気付いた。思わず顔がこわるのを意識しながら、ハルユキは相手の名前を呼んだ。

「……チユ」

 忘れていたわけではないが、無理やり意識から追い出していた昨日の出来事が脳裏にいつしゆんで再生される。うわ、どうしよう、いやまず謝るんだそれしかない、とパニクるうちに、難しい顔をしたクラシマがざしざしと校庭の合成軟質そうみながら近づいてきた。

「あ……あの……きのうは、その」

「ハル、昼休みのこと聞いたよ」

 ハルユキのしどろもどろな言葉をばっさり切って、チユリが言った。

「え? 昼……あ、ああ」

「あいつらになぐられて、ものすごい吹っ飛んだって……それ、その? だいじよう?」

 太いまゆをぎゅっとしかめてチユリが顔を近づけたので、ハルユキは思わず左手で口元のパッチをおおった。まさか、派手に飛んだのは自分でしたことだ、とも言えない。

「う……うん、大丈夫。ちょっと切っただけだって。ほかに怪我もないし」

「……そう、良かった」

 まだやけに強張った顔に、かすかに笑みを浮かべてから、チユリはちらりと周りを見た。昼休みの一件で、ハルユキはたちまち校内の話題のタネになってしまったらしく、下校する生徒たちは皆じろじろとえんりよない視線を浴びせていく。

「じゃあ、たまにはいつしよかえろ」

 硬い声でチユリはそう言い、答えを待たずに歩きはじめた。

 たまには、って中学に入ってから一度もそんなことしてないじゃん、とハルユキは思ったが、ここでいやだと叫んで走り去ったら昨日のこうり返しだ。そう、どうあれ少なくとも昨日の一件については謝らなくてはならない。

 背丈に似合わぬ大きな歩幅ですたすた歩くチユリに小走りで追いつくと、ハルユキは微妙なきよを取って横に並んだ。そのまま校門をくぐり、乗用車のインホイールモーターの音だけが静かにひびく大通りの歩道を進む。

 いつもなら、学校を出たたん、自動的に周囲を移動する人・自転車・自動車が視界にカラーシンボルで表示されるので眼をつぶっても歩けるのだが、グローバルネット切断中の今はナビは使えない。いったい何故なぜクロユキヒメはあんな指示をしたのか、とまたも考えたそのしゆんかん、右横のチユリがまさにその名前を口に出したのでハルユキはあやうく飛び上がりかけた。

「二年の黒雪姫さんと、直結してたって、ホント?」

「えっ!? な、なん──」

 なんで知ってるのか、と言いかけて、そりゃそうだと思い直す。アラのパンチよりも、その一件のほうが、生徒たちに与えたインパクトは大きいのだろう。

「……うん、まあ……」

 うなずいたハルユキを見ようともせず、チユリは小さくくちびるを突き出すとさらに歩調を速めた。その様子が、最大級のげんを示していることを長い付き合いのハルユキはよく知っていて、なんでだともう一度思ったが、今度もまたすぐにそりゃそうだと自答した。手作りの弁当を廊下にたたき落とした鹿ものが、謝りもせずにほかの女子と妙な行為に及んでいればチユリでなくとも怒って当然だ。

「で、でも、別に変な意味じゃないって。その、ちょっとアプリをコピーしてもらっただけで」

 十月なのに、背中にいやな汗をどーっとかきながらハルユキは弁解した。しかしチユリの表情はやわらがず、やはりこれはまず何よりサンドイッチの件を謝らなければ! と決意したハルユキは、けんめいに脳内で台詞せりふを組み立てた。

「そ、それより、その……昨日の……」

 ようやくそこまで口にした時、よく通る声が前方からひびいてハルユキは続きをみ込んだ。

「おーい、ハル、チーちゃん! 偶然だな、今帰り?」

 ぴた、とチユリが脚を止め、ハルユキも顔を上げた。環状七号線にかかるエスカレーターのたもとに、にこやかな笑顔で手を上げる同年代の少年が見えた。

 制服は、うめさと中のものとは異なるブルーグレーのつめえり。右手には古式ゆかしい黒革の学生カバンをげ、肩に剣道用の竹刀しないケースを掛けている。少し長めの髪は清潔感のある真ん中分けで、その下の顔がまた、さわやかという形容がこれ以上似合うやつもいるまいというスッキリした美男子だ。

「あ……、タッくん」

 チユリが、ぱちぱちと何度かまばたきしてから、にっこり笑った。

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影