うまく避けてくれ! と念じながら、背中から後ろの椅子に激突する。何やらいい匂いと、柔らかな髪の感触が訪れたのもつかの間。
ガターンと椅子が倒れる音、そして直後に、がつん!! という不吉な音がした。
背中から床に落ちたハルユキは一瞬息が詰まり、空気を求めて喘ぎながらも、必死に首を廻らして、衝突を回避したはずの黒雪姫の様子を確認した。
見開いた両眼が捉えたのは、頭をラウンジの採光ガラスに凭れさせ、壊れた人形のように手足を投げ出して瞼を閉じる華奢な姿だった。
乱れた前髪の下、透き通るほど白い額に、つう、と一筋の血が流れた。
「あ…………あっ」
悲鳴を吞み込みながら、ハルユキは立ち上がろうとした。だが、その寸前──。
『動くな!!』
直結されたままのリンカーを通して、黒雪姫の思考音声がハルユキの意識を打った。反射的に、仰向けに倒れた格好のまま体を凍りつかせてハルユキは言葉を返した。
『で、でも……血が!!』
『心配ない、少し切っただけだ。言ったろう、最大の効果を狙うと。これでもう、荒谷はキミの前には現れない。二度とな』
言われるまま、ハルユキは視線だけを左から右へと動かした。
右拳をまっすぐ振りぬいたままの荒谷が、ぽかんとした表情でハルユキたちを見下ろしていた。その顔から、徐々に血の気が引いていき、薄い唇が二度、三度と痙攣するように震えた。
しん、とした静寂に包まれたラウンジに──。
「……きゃあああああ!!」
周りのテーブルの女子生徒たちの凄まじい悲鳴が響き渡った。
荒谷と手下ABは、生徒会役員の男子によって取り押さえられる間もまるで抵抗しなかった。真っ青な顔でがくがく脚を震わせる三人を、血相変えて駆けつけてきた教師たちが引き摺りながら連行していき、黒雪姫もまた生徒会の女子に抱えられるようにして病院に直行した。
ハルユキ自身は保健室で軽い手当てを受けただけだが、校医の手で消毒されパッチを貼られるあいだも、直結ケーブルが抜かれる直前に黒雪姫が発した言葉が、残響となって耳奥に漂っていた。
『──おっと、言い忘れた。明日登校するまで、絶対にニューロリンカーを外すな。しかし、グローバル接続は一秒たりともしてはいけない。いいか、絶対だ。約束だぞ』
指示の真意を推測することなどまったくできなかった。保健室で午後の二時間を過ごすあいだもずっと、奇妙な乖離感覚が全身を包んでいた。昨日と今日のたった二日間で自分に起きた多くの出来事を、どう整理して吞み込んでいいのか解らない。
しかし少なくとも、もう下駄箱から靴がなくなっていたり、あるいは靴に異物が入っていたりということを心配する必要はなさそうだった。機械的に上履きをスニーカーに履き替え、校舎から出たところで、ハルユキは言われたとおりニューロリンカーをネットから切断した。
これにどんな意味があるのだろう、と再び考えながら校門を目指して歩き出したとき。
「ハル」
小さな声が耳に届き、ハルユキはぴたっと脚を止めた。
周りを見回すと、夕焼けに染まった校舎の壁に影を落として立つ小さな姿に気付いた。思わず顔が強張るのを意識しながら、ハルユキは相手の名前を呼んだ。
「……チユ」
忘れていたわけではないが、無理やり意識から追い出していた昨日の出来事が脳裏に一瞬で再生される。うわ、どうしよう、いやまず謝るんだそれしかない、とパニクるうちに、難しい顔をした倉嶋千百合がざしざしと校庭の合成軟質舗装を踏みながら近づいてきた。
「あ……あの……きのうは、その」
「ハル、昼休みのこと聞いたよ」
ハルユキのしどろもどろな言葉をばっさり切って、チユリが言った。
「え? 昼……あ、ああ」
「あいつらに殴られて、ものすごい吹っ飛んだって……それ、その怪我? 大丈夫?」
太い眉をぎゅっとしかめてチユリが顔を近づけたので、ハルユキは思わず左手で口元のパッチを覆った。まさか、派手に飛んだのは自分でしたことだ、とも言えない。
「う……うん、大丈夫。ちょっと切っただけだって。ほかに怪我もないし」
「……そう、良かった」
まだやけに強張った顔に、かすかに笑みを浮かべてから、チユリはちらりと周りを見た。昼休みの一件で、ハルユキはたちまち校内の話題のタネになってしまったらしく、下校する生徒たちは皆じろじろと遠慮ない視線を浴びせていく。
「じゃあ、たまには一緒かえろ」
硬い声でチユリはそう言い、答えを待たずに歩きはじめた。
たまには、って中学に入ってから一度もそんなことしてないじゃん、とハルユキは思ったが、ここで嫌だと叫んで走り去ったら昨日の愚行の繰り返しだ。そう、どうあれ少なくとも昨日の一件については謝らなくてはならない。
背丈に似合わぬ大きな歩幅ですたすた歩くチユリに小走りで追いつくと、ハルユキは微妙な距離を取って横に並んだ。そのまま校門をくぐり、乗用車のインホイールモーターの音だけが静かに響く大通りの歩道を進む。
いつもなら、学校を出た途端、自動的に周囲を移動する人・自転車・自動車が視界にカラーシンボルで表示されるので眼を瞑っても歩けるのだが、グローバルネット切断中の今はナビは使えない。いったい何故黒雪姫はあんな指示をしたのか、とまたも考えたその瞬間、右横のチユリがまさにその名前を口に出したのでハルユキはあやうく飛び上がりかけた。
「二年の黒雪姫さんと、直結してたって、ホント?」
「えっ!? な、なん──」
なんで知ってるのか、と言いかけて、そりゃそうだと思い直す。荒谷のパンチよりも、その一件のほうが、生徒たちに与えたインパクトは大きいのだろう。
「……うん、まあ……」
頷いたハルユキを見ようともせず、チユリは小さく唇を突き出すとさらに歩調を速めた。その様子が、最大級の不機嫌を示していることを長い付き合いのハルユキはよく知っていて、なんでだともう一度思ったが、今度もまたすぐにそりゃそうだと自答した。手作りの弁当を廊下に叩き落とした馬鹿者が、謝りもせずに他の女子と妙な行為に及んでいればチユリでなくとも怒って当然だ。
「で、でも、別に変な意味じゃないって。その、ちょっとアプリをコピーしてもらっただけで」
十月なのに、背中に嫌な汗をどーっとかきながらハルユキは弁解した。しかしチユリの表情は和らがず、やはりこれはまず何よりサンドイッチの件を謝らなければ! と決意したハルユキは、懸命に脳内で台詞を組み立てた。
「そ、それより、その……昨日の……」
ようやくそこまで口にした時、よく通る声が前方から響いてハルユキは続きを吞み込んだ。
「おーい、ハル、チーちゃん! 偶然だな、今帰り?」
ぴた、とチユリが脚を止め、ハルユキも顔を上げた。環状七号線にかかるエスカレーターのたもとに、にこやかな笑顔で手を上げる同年代の少年が見えた。
制服は、梅郷中のものとは異なるブルーグレーの詰襟。右手には古式ゆかしい黒革の学生カバンを提げ、肩に剣道用の竹刀ケースを掛けている。少し長めの髪は清潔感のある真ん中分けで、その下の顔がまた、爽やかという形容がこれ以上似合う奴もいるまいというスッキリした美男子だ。
「あ……、タッくん」
チユリが、ぱちぱちと何度か瞬きしてから、にっこり笑った。