アクセル・ワールド1 ―黒雪姫の帰還―

2-⑦

 さっきまであんなに不機嫌だったくせに。と思ってから、この短い時間で三度目の『そりゃそうだ』を、ハルユキは内心でつぶやいた。──ムカつくサンドイッチ落とし男と歩いているときに、偶然彼氏に会えたんだから。

 ハルユキとチユリのおさなじみであるマユズミタクは、竹刀ケースを揺らして小走りに近づいてくると、ハルユキに明朗快活な笑顔を向けた。

「おっす、ハル! 久しぶり」

「ッス、タク。久しぶり……だっけ?」

 自分より十センチ高いところにあるタクムの顔を見上げながら、ハルユキは言った。

「そうだよ、リアルじゃもう二週間会ってないぞ。お前、マンションの行事出てこないから」

「出るかよ、運動会なんて」

 顔をしかめてそう言い返すと、タクムは相変わらずだなあと笑う。

 三人は、きたこうえんに建つ複合高層マンションで同じ年に生まれた。しかし、それだけの理由では、ハルユキにないすべてを持っているこの少年とはとても仲良くはなれなかったろう。

 皮肉にも、タクムはあまりにも勉強ができすぎて新宿区にある小中高一貫の名門校に入ったため、逆にハルユキは彼と屈託なく付き合えるようになった。タクムに、地元の公立小学校でたちまちイジメの標的となった自分のみじめな姿を見られずに済んだからだ。

 同じ小学校に進んだチユリには、イジメの件は絶対にタクムには言うなと口止め(あるいはこんがん)した。もし知れば、タクムはハルユキを救おうと、わる連中を呼び出して竹刀しないでしばき倒すくらいのことはしただろう。

 しかしそれでイジメがなくなっても、やはりハルユキはもうタクムとは友達でいられなくなる気がしたのだ。

「そう言えば……」

 三人並んで歩きながら、ハルユキは自分から口を開いた。学校ではほとんどしないことだ。

「こないだの都大会の動画、ネットで見たぞ。すげーなタク、一年でもう優勝かよ」

「まぐれ、どまぐれだよ」

 頭をかきながら、タクムはくすぐったそうに笑う。

「苦手なやつが準決勝で消えてくれたからさ。それに、チーちゃんも応援にきてくれたしね」

「えーっ、あ、あたし!?」

 タクムの向こう側で、チユリが目を丸くして叫んだ。

「あたしなんて、別にそんな、すみっこで見てただけだし……」

「ははは、何言ってるんだよ。ぶっとばせー、とかすごい声出してたじゃないか」

 愉快そうにタクムが笑い声を上げる。

「その上、負けたらお弁当あげないなんて言うしさ。あれ、本気の目だったよねチーちゃん」

「あーもう、聞こえない! きこえなーい」

 両耳をふさいで歩調を速めるチユリを見ながら、ハルユキは右ひじでタクムの体をつついた。

「なーんだよ、あの決勝戦の気合入りっぷりはそういう訳だったのかよ」

「いや、まあね、ははは」

 タクムといつしよに笑いながら──。

 やっぱり、これでよかったんだ、とハルユキは思った。

 二年前の選択は間違っていなかった。今こうして、昔と変わらず三人で話せているんだから。この関係はこわしたくない。

 その時、はんげきするような軽い調子で、タクムが言った。

「ハルだってきのう、チーちゃん手作りのお弁当食べたんだろ?」

「えっ、いや、その、あれはその」

 突然こわったチユリの背中を見て、ハルユキは軽く恐慌した。しまったまだ謝ってなかった、どうする今謝るべきか、それとも帰ってからメールで──。

 いや、待て。

 なんでタクムが知っているんだ。

 ハルユキの脚がもつれ、転びそうになるのを「おっと」とタクムが支えた。しかしそれを意識することもできず、脳内では熱気を帯びた思考だけが駆け巡った。

 あのサンドイッチは、ハルユキがアラたちに昼食代を巻き上げられていることを知ってチユリが作ってきたものだ。決して料理は得意でないはずなのになぜ、と思ったのだが、まさかタクムのアドバイスだったのだろうか。

 とすれば、つまりチユリはタクムに相談したのだ。ハルユキがイジメにあっていることを。そうでなければ、今の台詞せりふが出てくるはずがない。

 かあっ、と頭のなかが白熱し、ハルユキは無意識のうちにみぎひじつかむタクムの手を振り払っていた。

「お、おい、ハル──?」

 いぶかしげにタクムが言ったが、その顔を見上げることがハルユキにはできなかった。視線を彷徨さまよわせると、凍りついたような表情のチユリと目が合った。くちびるが動き、何かを言いかけたようだったが、それより早くハルユキは叫んでいた。

「あっ……悪ぃ、ちょっと見たい番組あったんだ! 先に帰るよ、タク、またな!」

 そのまま走り出す。脚がやけにからまり何度も転びそうになったが、ハルユキはけんめいに駆けた。

 二人はまた相談するだろうか。どうすればハルユキを救ってあげられるかと。

 その会話の内容を想像するだけで、内臓がねじ切れそうな感覚におそわれる。せっかく奇跡的な出来事でアラが消えたというのに、もうとっくにタクムに知られていたとは、皮肉にしても出来すぎだ。

 自宅マンションのエントランスを通過し、エレベータに飛び込むまで、ハルユキは一度も脚を止めることなく走りつづけた。


 その夜、ハルユキが見た夢は、間違いなくおくにある限り最悪と言うべきものだった。

 小学校のころわる連中や、荒谷と手下AB、それに名も知らぬアウトローな学生たちが、入れ替わり立ち替わり現れてはハルユキを痛めつけた。

 少しはなれたところから、チユリとタクムが手をつないで眺めていた。全身の痛みより、二人の顔に浮かぶあわれみの表情のほうがハルユキには耐えがたかった。

 夢が進行するにつれ、見物人は増えていった。二人のとなりに母親が現れ、ずいぶん昔に家を出ていった父親も登場し、マンションの住民たちやクラスメートまでも、ぐるりと人垣をつくって地にうハルユキを見下ろした。

 もう、彼らの顔にあるのは憐れみではなくちようしようだった。みにくみじめなハルユキを、無数の人間たちが指をさしてあざ笑った。

 いやだ。もうここは嫌だ。

 そう思って、はるか暗い空を見上げると、そこに何者かの影があった。夜より黒いつばさを広げ、軽やかにしようする一羽の鳥。

 僕もそこに行きたい。もっと高く。遠く。

 飛びたい。

 彼方かなたまで。

『──それが、君の望みか?』

刊行シリーズ

アクセル・ワールド27 -第四の加速-の書影
アクセル・ワールド26 -裂天の征服者-の書影
アクセル・ワールド25 ‐終焉の巨神‐の書影
アクセル・ワールド24 ‐青華の剣仙‐の書影
アクセル・ワールド23 ‐黒雪姫の告白‐の書影
アクセル・ワールド22 ‐絶焔の太陽神‐の書影
アクセル・ワールド21 ‐雪の妖精‐の書影
アクセル・ワールド20 ‐白と黒の相剋‐の書影
アクセル・ワールド19 ‐暗黒星雲の引力‐の書影
アクセル・ワールド18 ‐黒の双剣士‐の書影
アクセル・ワールド17 ‐星の揺りかご‐の書影
アクセル・ワールド16 ‐白雪姫の微睡‐の書影
アクセル・ワールド15 ‐終わりと始まり‐の書影
アクセル・ワールド14 ‐激光の大天使‐の書影
アクセル・ワールド13 ‐水際の号火‐の書影
アクセル・ワールド12 ‐赤の紋章‐の書影
アクセル・ワールド11 ‐超硬の狼‐の書影
アクセル・ワールド10 ‐Elements‐の書影
アクセル・ワールド9 ‐七千年の祈り‐の書影
アクセル・ワールド8 ‐運命の連星‐の書影
アクセル・ワールド7 ‐災禍の鎧‐の書影
アクセル・ワールド6 ‐浄火の神子‐の書影
アクセル・ワールド5 ‐星影の浮き橋‐の書影
アクセル・ワールド4 ‐蒼空への飛翔‐の書影
アクセル・ワールド3 ‐夕闇の略奪者‐の書影
アクセル・ワールド2 ‐紅の暴風姫‐の書影
アクセル・ワールド1 ‐黒雪姫の帰還‐の書影