野崎まど劇場(笑)
作品 No.04 深窓の大令嬢
「Oh my Girl!!」
良家の人間だけが身に着けることを許された格調高いドレス。
肩越しにこぼれた気品ある微笑み。
彼女こそ本当の、深窓の令嬢であった。
「My Girl……」
神奈川県横須賀市。
ここに、日本で最も進んだ上流階級の研究を行なっているJAUSTEC(独立行政法人上流階級研究開発機構)の本部がある。
私はJAUSTECの研究施設を訪れ、オーストラリア人の深窓研究者デンハード・ホリィバーン博士の話を伺った。
ホリィバーン博士はスチロールのクーラーボックスから、手袋をした手で慎重にそれを取り出した。彼が見せてくれたのは作りの高級さが端々に滲む美しいティーセットであった。私はその様式に見覚えがあった。
「マイセンのティーセット、ですか?」
「そうです。ですが、ただのティーセットではありません」
博士はその白磁のカップを一つ取り私に差し伸べた。同じく手袋をして受け取る。私は驚愕した。その小さなカップは、見た目から想像されるより遙かに重い。博士が磁石をカップの側面に近付けると、吸い寄せられてカチリと貼り付いた。なんと磁性を帯びている。
「硫化鉄でできています」
私はもう一度驚く。この丁寧な絵付けが施された磁器にしか見えないカップが、鉄、それも硫化鉄で出来ているという。
「深窓には熱水を噴出する領域があります。このティーセットは熱水噴出孔周辺の硫化物を利用して作られているのです」
私はカップ以外のティーポットやシュガーボックスを検分させてもらった。その鮮やかな絵柄と洗練されたシェイプが深窓で作られたとは、にわかには信じられなかった。
「他にもこのようなものが?」
「ええ。これまでの調査で多数のサンプルが見つかっています。チェスセット、オペラグラス、ドレス……どれも大変価値のある希少な品です。しかし次の調査では、私たちはそれらを超える成果を期待しています」
「超える成果……」
「このカップでお茶を楽しんだ存在に、出会えるかもしれません」
博士は美しい鉄のカップを見つめて、目を輝かせた。
「深窓の令嬢ですよ」
巨大なクレーンに吊り下げられた全長五メートルほどの機械が、邸宅の玄関にゆっくりと降ろされた。
深窓用無人探査機『しんそう』がモーターの唸りを響かせる。『しんそう』はその名が示す通り、豪邸の地下五〇〇階から先に広がる深窓の調査を目的として作られた。堅牢な外殻は屋敷深部の過酷な環境を耐え抜く。四本の歩脚とそれを補佐する無限軌道は豪邸の段差の高い階段を安全に昇降することを可能にする。
極太のケーブルは『しんそう』と地上スタッフを繫ぐ命綱だ。ホリィバーン博士を筆頭とする研究チームは地上の司令車から無人機を操縦し、カメラで送られてくる映像を分析しながら可能な限りの研究材料を採取する。
暗い司令車の中で、大きなモニターだけが室内を照らす。操縦士である重田正巳運航長がスイッチを切り替えると、大型モニターに『しんそう』のカメラ映像が映し出された。映像の中に二本の採取用アームが現れる。重田操縦士は自分の手の感触を確かめるようにマニピュレーターをテストした。
「前回はケーブルの不具合で地下五二〇階までしか降りられませんでした」ホリィバーン博士が言う。「今回は『しんそう』の限界深度まで降ります」
『しんそう』の限界。それは地下二四〇〇階、地上から七〇〇〇メートルの深さに存在する、本当の深窓である。
潜行を始めてから二時間が経過した。
モニター上では『しんそう』のライトが屋敷の薄暗い廊下を照らしている。無人機が前に進む度に、床に敷かれた真紅の絨毯が道のように伸びていく。
「空気が流れてますね」
重田操縦士が計器を見ながら呟いた。きっとエアコンだろう、とホリィバーン博士が答える。深窓には屋敷の上階とは温度や流れの異なる〝深窓気流〟と呼ばれる空気の流れがあるという。深窓のエアコンはメーカーが違うのだと博士は分析する。
廊下を真っ直ぐに進んでいくと、モニターの遠方に小さな明かりが見えた。
重田操縦士が明かりに向けて舵を切る。近寄ってみると、それは台の上に据えられたアンティークの電気スタンドであった。
「初めて見るタイプだな」博士がモニターを凝視する。
「採取しますか」
「可能なら取ってほしい」
指示を受けて重田操縦士がマニピュレーターを操作する。二本のアームが自在に動き、電気スタンドのコンセントに手をかける。
その時突然画面が大きく揺れた。
「What's up!?」
「何かぶつかった!」
重田操縦士は慌ててレバーを細かく動かしバランスを取った。機体が徐々に安定してモニターの揺れが収まっていく。
静まった画面の中に、ヴィクトリア朝の黒いジャケットを羽織った老人が悠然と歩いてきた。
執事だ。
「執事……かなりの高齢だな。しかしこの深度で確認されるのは初めてだ……」
博士は驚きの声をあげる。モニターに現れた執事は『しんそう』におもむろに近寄ると、手を伸ばして機体を触り始めた。カメラのレンズに執事の探るような手が大写しになる。
「執事は目が退化しているのです」ホリィバーン博士が解説する。「深窓は光の届かない暗黒の世界です。深窓の住人は僅かな光を捉えるために目を発達させるか、もしくは他の感覚器を発達させて目が退化するかのどちらかです。この執事は後者ですね。老眼鏡をかけたタイプならまた違うんでしょうが」
執事はそれから二分ほど無人機を調べていた。だが危険は無いと判断したのか、執事は何事もなかったかのように再び歩き出して、廊下の闇に消えた。
『しんそう』は廊下を曲がって階段に出た。四本の歩脚を巧みに動かして豪奢な階段を降りていく。下の階に辿り着いたところでピー、という電子音が何かを知らせた。地下五二〇階を超えたのだ。ここから先は人類未踏の領域となる。
十四時二分。
『しんそう』は地下二三五〇階に到達した。
闇の中に延々と続く廊下を、ライトの僅かな光だけが頼りなげに照らしている。一〇〇〇階を過ぎた辺りから生物の気配はほとんど無い。発光器から淡い光を放つ深窓性のメイドと時折すれ違うだけだった。
限界に近い深度まで来て、ホリィバーン博士は合図を出した。重田操縦士がスイッチを押すと『しんそう』のモーターが動き出す。前方下部に取り付けられたストレージボックスが自動的に開くと、中から椅子に縛り付けられた一人の青年がせり出してきた。
秘密兵器です、と博士は言った。
「深窓の令嬢は深い屋敷の底で大事に育てられたため、世間を一切知らないと考えられます。ですから令嬢は外の世界への憧れが非常に強いはずなのです。中でも恋愛、異性に関して、並々ならぬ関心を持っているはずです」
椅子に縛り付けられていたのは今年一八になるという青年だった。素行は良く、勉強も運動も人並み以上にでき、何より爽やかで格好が良い。この好青年を囮にして令嬢を誘き出そうという博士の作戦であった。
「ここから二四〇〇階までの令嬢生息予想域が勝負です。この間に、必ず令嬢が居るはずです。ですがあまり長くは滞在できません。『しんそう』の耐深窓殻には限界がありますし、何よりここは私有地ですから」
一四時五分。研究チームは最後の作戦を開始した。
一四時一二分。地下二三六〇階。『しんそう』はこれまでよりもゆっくりと前進する。令嬢の気配は無い。
一四時二三分。地下二三七二階。眠らせていた青年が目を覚ます。状況に取り乱したのか少し暴れたが、猿轡と縄できちんと固定されていたため大きな問題は起きなかった。調査は続行される。
一四時三一分。地下二三八〇階。メイドが通過する。
一四時四五分。地下二三九〇階。
一四時五〇分。地下二三九五階。
「Please……」
博士の痛切な願いが静まり返る操縦室に広がっていく。
一四時五七分。
地下二四〇〇階。
令嬢は、現れない。
「……All over」
限界深度を知らせる電子音が操縦室に響いた。それは作戦の終了を告げる音でもあった。ホリィバーン博士は迷わず帰投を指示した。『しんそう』は向きを変え、辿ってきた道を戻っていく。
二三七〇階まで戻った時、固定されている青年がまた椅子を揺らした。
「文句でも言っているのかな。説明が不十分だったか」博士はため息を吐いた。「安心したまえ。もう帰投だよ。教えてやろう」
博士は笑いながら外部マイクのスイッチを入れた。
瞬間。
モニターが暗転した。
「どうした? シゲタ?」
「わかりません、突然……」
ガンッ! という大きな音がスピーカーから響く。
「なんだ!? 何の音だ!? ライトを点けろ!」
「点いてます、点いてるはずなんですが、カメラ自体が何かに覆われてるのか……」
「カメラを振るんだシゲタ! 首を回せ!!」
博士の指示が飛び、重田操縦士が力いっぱいレバーを入れた。モーター音と共にカメラが回る。するとレンズを覆っていた何かがずれて、ライトの光がそれを照らし出す。
カメラを覆っていたのは、白いフリルのパニエ!
「Oh my Girl!!」博士が叫ぶ。「内側だ! スカートの内側だ! カメラが、いいや『しんそう』全体が巨大な令嬢のスカートに包まれているんだ!! こんなサイズのものが存在するなんて!! It's amazing!! 深窓の超巨大令嬢だ!!」
集音マイクが大きな音を拾う。ガンッ! という何かを蹴るような衝撃音。んー! んー! という声は青年のものだろうか。
「どうなっているシゲタ!」
「わかりません! フリルに遮られて!」
「とりあえず椅子のアームを引くんだ! 一旦ストレージにっ!」
しかし博士の指示は実行されなかった。カメラの前に広がっていたフリルのパニエが美しくはためき、次の瞬間、力いっぱい引っ張ったテーブルクロスのように一気に画面から消えた。
開けた画面に映し出されたのは無残に引き千切られたアームだった。先端に固定されていた椅子が青年ごと無くなっている。
だが『しんそう』のカメラは、真っ暗な廊下の遥か先に。
美しいドレスの裾を翻して去っていく深窓の令嬢の姿を確かに捉えていた。
廊下の闇に溶けかけた彼女は、一瞬だけこちらを振り返って。
物凄いスピードで闇の奥へと消えた。
「My Girl……」
我々はしばらくの間、物言わぬ闇を呆然と見つめていた。
地下二四〇〇階の闇の中に、確かに深窓の令嬢は存在した。
だが深窓はあまりにも広く、そして深い。
我々はまだ、彼女の住む世界の入口に立ったに過ぎないのだ。