野崎まど劇場(笑)

作品 No.05 MERVEILLEUX MARIAGE DU SOMMELIER


「逃げずに来たのね」

 折り目正しいユニフォームに身を包んだ女性が言った。白いシャツと黒いベストのコントラストに、首元の蝶ネクタイが彼女の凛とした空気を引き立てる。

 鋭い切れ長の瞳が、正面に立つ男を見据える。

「この日を待っていた」

 彼女と同じくベストに蝶ネクタイ姿の男は答えた。腰から長いエプロンを下げた二人の男女は、テーブルの上に並ぶ無数のワインを挟んで対峙した。

 ソムリエール・霧咲晶。

 ソムリエ・市村琢朗。

 日本を代表する二人のソムリエは、ワイン越しに不敵な笑みを交わしあった。

「最高のソムリエなんていう称号に何の興味もないけれど……貴方との決着だけはきちんとつけておかないとね」

「この日本で僕と互角に渡り合えるソムリエールは君だけだ。だけれど、峰の頂に二人は立てない」

「決めましょう。どちらが上なのかを、今日ここで」

「方法はもちろん……」

「ええ」

 霧咲の瞳が見開く。

「ソムリエしりとりで」

 ソムリエしりとり。

 熟達のソムリエが、用意した無数のワインの中から一本を選び出す。そのままテイスティングを行い、ワインの本質をソムリエの表現力を駆使して描き出していく。そうして現出したイメージの最後の文字を取り、相手のソムリエはその文字で始まるイメージを持つ一本を再び選ぶ。ワインに対する深い知識、的確な表現力、そして高遠なイメージを必要とする、まさにソムリエの全てを試すにふさわしい競技法である。

「僕から行かせてもらおう」

 市村は立ち並ぶワインの中から一本を取り、開栓した。

 宝石のように輝く液体がグラスに注がれ、奥深い熟成香が広がっていく。

 市村はグラスを光にかざし、そして香りを楽しむ。

「芳醇な香りだ……力強く凝縮された土の言葉達が、私を遠い地へと導いていく……ここは……海辺の町……エネルギーに溢れた光、潮の香りを運ぶ風、生きとし生けるものの歌が響き渡る夏の空、そこに燦然と輝く世界の中心のオーラ……シャトー・リュミエラ・ザラス81年。このワインはまさに……【太陽】」

 霧咲も同じワインをテイスティングする。

「見事な表現よ……異論はないわ。このワインは間違いなく【太陽】のワイン」

「君の番だ」

「ふふ……私はこれを」

 霧咲は迷わず一本を選び出した。

 グラスに注がれたワインから、上等な酸の下地に裏打ちされた、どこまでも純粋な香りが立ち上る。

「ああ、見えるわ……新しい天地へと踏み出す期待と不安……だけれどそこには清らかな勇気がある……隣に寄り添う人への深い信頼の心が、美しい絹のように彼女を包んで未来へと送り出す……ヴァン・ド・ブロイロード92年。このワインはそう……花嫁を包む【ウェディングドレス】」

「なるほどな……まるで私にも結婚式の風景が見えるようだ……流石だよ、君は」

「ありがとう。さぁ、続けましょう。この素晴らしい時間を」

「ふふ、そうだな。ドレス……す……」

 市村は一本を選び出した。

 注いだ瞬間、夢のように甘いフレーバーが香り立つ。

「おお……何という心躍る甘さ……舌の上を流れるビロードの感触はまさに上質なクリームだ……こちらからは香ばしいシナモンが、あちらからは煌めくアラザンが、カラフルな味わいのハーモニーが女性たちのハートを鷲摑みにする……ヴァニラ・サン・シャンパーニュ89年。このワインはまさに【スイーツ】……!」

「スイーツ……」霧咲もテイスティングする。「えぇと……スイーツのどれかしら」

「どれというと」

「マカロンとかタルトとか色々あるでしょう」

「何を言っているんだ。そういう矮小な味のワインじゃないだろうこれは。よく味わいたまえ。スイーツだよスイーツ。全体」

「なんだか漠然とした味のワインだわ……」

「文句を言っていないで次は君の番だ。ツ」

「ツ……つ……つ、ね……」

 霧咲は迷いながらも一本を摑み取る。

 グラスに注がれた美しい液体は、これまでにない〝和〟の香りを広げた。

「ああ、素晴らしいわ……長い年月を経たワインだけが到達できる極み……育まれたワインが百年近い歳月を経て心を宿したかのような……これは何……てぬぐい? いいえ傘……草履……百鬼夜行の跋扈する様がありありと目に浮かぶ……シャトー・カマクラ18年。このワインは【九十九神】!」

「君のワインの方が漠然とした味の気がするが……」

「どこがよ。ちゃんと味わいなさい。今にも舌の上に木魚の味が踊るようでしょう。おえ」

「大丈夫か」

「大丈夫よ! さぁ次! み!」

「み……? みなんてあったかな……」

 市村は熟考の末に一本を抜き出す。

 芳醇な葡萄の香りが二人の間を横切る。

「そう……ワインはいつも僕達に無限のイメージを与えてくれる……熟成された葡萄のテイストの奥に隠された世界……この色合は……黄色……オレンジ色? ああ、爽やかな酸の香り! 味! 葡萄からこんな味わいが生まれるなんて! オルン・ド・ボーヌ02年! この味はまさに【みかんジュース】!」

「葡萄の味だけど」

「君には想像力がないのか」

「いや流石にこんだけ葡萄しか入ってないのにみかんと言い張るのは無理があるでしょ」

「木魚ができてみかんができないわけがないだろう」

「おえ」

「大丈夫か」

「同情は無用よ! 次は何! ス? 貴方一回みかんて言おうとして無理矢理みかんジュースに変更したでしょう!」

「(口笛)」

「苛つくわ! す、す、す!? す!」

 霧咲はわりと自棄気味に一本を選び出した。

「さぁ味わいなさい……これが滋賀の芳醇な土から生まれた極上のテロワール……そしてワインを昇華する美しい水……貴方にも見えるでしょう? 水辺の生き物たちの楽園が……ナマズ……ホンモロコ……ブルーギル……私達を魅了して止まない日本一の湖の風景……シャトー・疎水06年! このワインこそまさに【諏訪湖】!」

「滋賀は琵琶湖だ」

「諏訪湖!」

「どう見ても琵琶湖のワインだし……ラベルに琵琶湖って書いてあるし……」

「いいえ私にははっきりと見えているのよ! 諏訪湖のほとりで武将たちが武田信玄の遺体を投げ込むイメージがね! うおえ」

「少し休んだ方が」

「その間にじっくり考えようったってそうはいかないわ! はいあと十秒で選んで下さーい! じゃないと負けでーす!」

「汚いよ! 昔から本当に汚いなあ君は!」

 市村は大慌てで一本を摑む。

「ちくしょうこれか! ああもう……飲めばいいんだろう……この濃厚な緑の香り……熱帯の気候が僕の肌を焼く……ああ……来た……来たぞ……ゆっくりと……だが着実に……獲物を狙う目が僕に近づいてくる……逃げろ! ああ! 早い! 足が早い! それにでかいよ! トカゲでけぇ! 助け、助けてぇ! ギリダサミ・ピノ・ノワール01年!! 助けっ!!【コモドドラゴン】!!」

「あっ! 『ん』だ!」

「【コモドオオトカゲ】!!」

「貴方は昔から本当に汚いわよね!!」

「はあっ……はあっ……死ぬかと思った」

「もう終わりにすればよかったのに……」

「君が終わりにしたまえ」

「絶対にいやよ」

「そうだな。さぁ君の番だ」

「ええ私の……げ? げ!?」

「そろそろ決着だな」

「げとかそんな…………ねぇ。一つ提案があるんだけど」

「なんだい」

「ここからは二人とも相手のワインを一緒に飲まないといけないことにしましょう」

「君コモドオオトカゲ飲まなかったよね」

「ここからここから」

「本当に君は酷いな……いいだろう、それで決着と行こう。あまり長くは体が持たない」

「私が選ぶワインはこれよ……。飲む前に教えておくわ。シャトー・ダウンヒラー45年。そのテイストは……【下剤】よ」

「君は本当に最低なワインを知っているな……」

「これで決着にしましょう……げのワインは二本あるけれど、もう一本はこれより酷いから……」

「何?」

「【原油】」

「それは流石に…………いや待ってくれ。そっちだ。【原油】で行こう」

「正気!?」

「至って正気さ。大丈夫、舐めるだけなら命までは取られないだろう」

「それでもまだお腹を下した方がましじゃあ……」

「頼む」

 市村の真剣な眼差しが霧咲を見つめる。

「……わかったわ」

 霧咲は原油のワインを二つのグラスに注いだ。

「乾杯」

「乾杯」

「ぅおぇ」

「えうぇ うう うえぇぇん」

 霧咲は泣いた。なぜこんなことをしなければならないのだろうと思った。だが二人は耐えた。耐えてしまった。

「終わらなかったじゃないの……どうするのよ……次は貴方の番……」

「僕のワインはもう決まっている」

 市村は手元にあった一本を取り上げると、それを一脚のグラスに注いで霧咲に差し出す。

「このワインは君が飲んでくれ」

「なんで私だけ! いや! 絶対にいやよ!! 死ぬ!!」

「死なないよ。これは美味しいワインだから」

「えー……?」

 霧咲は半信半疑で香りを味わう。確かに普通だった。飲めそうだ。彼女は恐る恐るグラスを傾けた。

「ああ……ワインだわ……普通のワイン……ワイン超美味しい……。でもこの煌めきは何……眩い光だわ……プラチナみたいな上品な光沢に包まれた、美しいカットの極上の宝石……そう、これはまさにダイヤモンドよ…………これ……【指輪】?」

 霧咲は目を開いてボトルを見た。

 ボトルの底に、煌めく本物の宝石が沈んでいた。

「受け取ってくれるかい」

 霧咲の瞳から一筋の涙が零れる。

 そして彼女は【私からもよろしくお願いします】のワインを探し始めた。


  

 ただ一本だけ残されていた『わ』のワインを前にして霧咲は悩んだ。女の幸せか、ソムリエの幸せか。しかし彼女はどこまでも一人のソムリエールであった。

【猥褻な目で見ないで下さい】のワインが市村の心を無慈悲に手折った。

 ソムリエの頂に立った霧咲晶30歳は、涙の味のワインを片手に、結婚マリアージュ結婚マリアージュと呟き続けたという。

刊行シリーズ

独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)の書影
独創短編シリーズ 野崎まど劇場の書影