野崎まど劇場(笑)

作品 No.07 全年齢向官能小説 人妻悦料理 ~媚猫弄り地獄~


 高井は、落ち着かぬ気分で家の中を眺めた。

 ダイニングは一目見て分かるほどに隅々まで掃除が行き届いている。物も綺麗に整理されていて、単なる団地の一室が、まるで広告に載っているモデルルームのようであった。人が暮らしているはずなのに生活臭さのようなものが全く無く、その地に足のつかぬような空間が無意識に高井の気持ちをそわそわとさせた。しかし彼が落ち着かない原因は、もっと他にあった。

 カチャカチャ、と調理道具の擦れる音が聞こえる。

 顔を向けるとキッチンに立つ由佳子の後ろ姿が見えた。

 黒木由佳子。

 家人の居ない留守宅で、人妻と二人きりという状況に、高井は膝の上の手に汗を滲ませていた。


  

 黒木浩と高井は友人同士であった。

 浩は高井と同年で、彼は他の友人達からも一目置かれるような、いわゆるキレ者の男だった。

 頭が良く社交的な浩は、大人しく地味な高井とは正反対だったが、その真逆の性状が嚙み合ったのか、二人の友人関係は良好だった。自信家の浩は自らの能力の高さに任せて様々なことに勢いのまま手を伸ばし、高井はそれを一歩引いたところでよく見極めて彼を押したり止めたりする役割を担った。二人は良いコンビで、お互いを一番の友人としていた。

 けれど高井としては、そんな役割分担に一方で満足しつつも、やはり心のどこかで、浩には勝てないというコンプレックスを抱いていた。

 たとえば浩は女性の扱いも上手かった。彼は初対面の相手でも屈託のない笑顔と冗談ですぐに仲良くなり、気さくにメールアドレスなどを交換してしまう。そんな浩の熟達した女扱いの巧妙さは、女性とあまり付き合ったことのない高井にはとても真似できないもので、そこは心底羨ましかった。

 ある時、そんな羨望を冗談めかして本人に漏らすと、浩は、

「女は別に嫌いじゃないが、でもあいつら、面倒くさいじゃないか。俺はお前と遊んでいる方が楽しいよ」

 などと答えた。そんながっつきのない振る舞いも高井の目には格好良く映る。

「それに、由佳子の方が美人だしな」

 そう言って浩は冗談ぽく笑った。

 それは本人からしてみれば、身内誉めをネタにしたジョークだったのだろう。けれど前から由佳子を美人だと思っていた高井にとっては別に冗談にはならなかった。そして同時に、浩が「由佳子」と呼び捨てにしたことが、身内だから当たり前なのだと理屈でわかっていても、一抹の羨ましさを感じずにはいられないのだった。

 黒木由佳子は、美しい女である。

 彼女はまだあどけなさも抜けきらぬうちに身を固めてしまったので、今年で結婚九年目だというのにまだ二十九歳という若さであった。結婚当初こそは学生のような顔立ちだったが、今はセミロングの黒髪が良く似合う美貌の人妻に成長した。背は並ほどだが、その豊満なプロポーションは服の上からでも判るほど素晴らしかった。

 それも当然で、由佳子は学生の頃にモデルの仕事をしていたのである。入籍を機に綺麗に辞めて家庭に入ってしまったが、熟れた身体の線は今でも十二分に維持されていて、同じ団地の奥様連中などとはまさしくレベルが違った。

 実を言うと高井自身は、彼女にモデルの前歴があることなど知らなかった。その上さっぱり女慣れしていないこともあって、顔や身体の良し悪しなどを判断できるような目が育っておらず、由佳子の肉体をまじまじと観察するような肝も持ちあわせていなかった。しかしそれでも、由佳子が団地の中で最も若く美しいことくらいは流石にわかって、綺麗な奥さんだなと、ずっと思っていた。

 浩が時々、「きのう由佳子と風呂に入って」などと、さらりと言うことがあった。その度に高井は由佳子の痴態を反射的に想像しそうになり、しかし結局想像すらも及ばずに、何も思い浮かべられぬまま気恥ずかしくなって顔を赤らめるだけなのであった。


  

 その日、高井は浩と外で会い、その流れで浩の家まで遊びに行った。

 出迎えた由佳子は、薄手のブラウスに長いスカート姿の清楚な装いであった。元モデルという性状からなのか家の中でも綺麗な格好をしている。けれどその中に、ほんの僅かに感じられるシャツの緩みなどもまた彼女の魅力を引き立てている。

「うわ、いけね」

 家に上がってすぐに浩が言った。由佳子がどうしたの、と聞き返すと、

「店に忘れ物をしてきた。やばいなあ。取りに行ってくるよ」

「何を忘れたの?」

「Switch」

 浩は慌ててさっきまで二人で遊んでいた駄菓子屋に戻って行った。駄菓子屋の店先でポケモンをしたので、浩は本体をそこに忘れてきてしまったのであった。

 こうして家に、由佳子と高井が二人きりで残されてしまった。

「あの子ったらしょうがないわねぇ、高井君を残して」

 言って由佳子はエプロンを手に取る。

「ちょうどおやつを作るところだったの。先に作って二人で食べちゃおうか」

 ホットケーキだよ、と由佳子は言う。高井はうん、と首を縦に振った。そうしてこの状況がある。

 キッチンではエプロン姿の由佳子が鼻歌交じりにホットケーキを焼いている。時折彼女がこちらを向くと、たわわな胸元が軽く揺れた。ブラウスを盛り上げる胸、長いスカートの裾から僅かに覗く細い足首、そのどれもが男を狂わせる魅力に溢れていたが、二年生の高井にはあまり感ぜられなかった。

 次第に、かすかな甘さを秘めた、乳臭いような匂いが漂ってきた。その蠱惑的な香りが高井の頭をにわかに蕩けさせる。これが……ホットケーキ……。高井はいやらしく鼻を動かし、犬のように匂いを嗅いだ。その時、

「あっ」

 由佳子の上ずった声が響いた。驚いた高井が目を向けると、

「生地がたれちゃったの、ごめんなさい」

 由佳子は手元を狂わせて、とろとろした液体をキッチンにこぼしていた。彼女は羞恥と狼狽の混じったような表情で、垂れた生地を指ですくい、花びらのような舌で舐めとる。その無意識の仕草に魅力を感ずるには、二年生の高井の精神はあまりにも未熟であった。

 そうしているうちに二枚のホットケーキができあがり高井の前に差し出される。

 ムラもなく見事に焼き上げられた茶色の丸。ベーキングパウダーが作り出した絶妙な膨らみ。みずみずしく張った生地は、とても二十九歳の人妻が焼き上げたものとは思えない。

「はい、これ使って」

 そう言って由佳子は喫茶店で見るようなガラス製のポットを差し出した。それはホットケーキにかけるメイプルシロップの容器、蜜壺であった。

 蜜壺……。

「旅行先で買ってきたの。いいでしょう」

 由佳子は自分のお気に入りの蜜壺を誇らしげに見せた。高井は蜜壺を触るのが初めてであった。彼は蜜壺のシロップをかけようとしたが、しかし蜜壺の開け方がわからずに戸惑う。由佳子は若い高井を慈しむように笑い、手を取って、蜜壺の使い方を教えた。蜜壺から溢れた黄金の液体がやわらかな膨らみに染みこんでいく。

「あ、テレビでもつけようか」

 由佳子がリモコンでテレビをつける。映ったのは登山隊のドキュメンタリー番組だ。エベレストを行く登山隊は、大きな谷に阻まれて立ち往生していた。

「凄いクレバス」

 クレバス……。

 高井はクレバスという言葉を知らなかったので、クレバスってなんですかと尋ねた。由佳子はクレバスを説明しようとしたが、言葉で上手くクレバスを説明できないようで、最後はクレバスを指さして、こういうのよ、と答えた。雪に濡れた、滑りの良さそうなクレバスであった。クレバスの横には茂みがあった。わざわざピックアップして伝えるほどのものでもないただの茂みであった。高井はうさぎとかいるかなと考えながらその茂みをじっと見つめた。茂み……。

「さ。冷めないうちに食べて」

 由佳子に促され、高井はホットケーキのことを思い出してフォークを手に取る。

 だがそこで、「にゃあ」と声がした。部屋に入ってきたのは浩の家の飼い猫のアンだった。アンは高井の足に擦り寄ってホットケーキの分け前をねだった。

「高井君、あげないでね。猫に甘いのは駄目だから」

「うん」

「こら、アン。向こう行ってなさ……」

 そこで突然言葉が切れ、由佳子の豊満な身体がびくりと震えた。彼女の美貌に明らかな狼狽が浮かぶ。

「い、いやッ……」

 高井は何事かと彼女の視線を追う。するとその先に、黒光りする昆虫の姿があった。

「ゴ……」

「いやッ! 高井君! 言わないでぇ!」

 由佳子が甲高い声を上げる。彼女は怯えた表情で、名前も聞きたくないようなモノから視線を逸らせずにいた。

「お願い、出ていって……それ以上近づいたら、主人を呼びますよ……」

 由佳子は動転して昆虫を説得していた。だいいち由佳子の主人は仕事に行っている。いくら助けを求めようとも夫は現れない。この場に居るのは由佳子と高井、虫、猫の四人だけ……。

 それを思い出した瞬間、由佳子はハッと息を吞んだ。たじろいだ目が猫を見遣ると、アンは丸い目で黒い昆虫をじっと見つめている。

「駄目よ、そんなこと、いけないわ」

 アンは姿勢を低くし尻を振り始める。

「やめてッ、何をするのッ!」

 由佳子の声には泣くような感じが混じっていた。息遣いが荒くなり、肩が小刻みに震えている。だが猫も小刻みに震えている。

「駄目……絶対に駄目よっ、アンッ!」

 由佳子の苦悩の叫びが響く。

 しかし時すでに遅く、アンは矢のように飛びかかっていた。

「アンッ! アンッ! アアッ─!」

 彼女の懇願も虚しく、アンは虫を爪で弾き、弄ぶ。

「やめてっ、アンッ、だめッ、いやあぁぁ!」

 そしてアンはとうとう昆虫を咥えこんだ。

「やあぁぁ……」

 由佳子は喘ぎながら失神し、その場に崩れ落ちた。高井が慌てて駆け寄った時、テーブルにぶつかってしまい蜜壺が倒れた。由佳子の蜜壺は口を開けて、卓上にだらしなく蜜を溢れさせていた……。


 それから程なく浩の家は遠方に引っ越していった。その日の騒ぎを隣近所に聞かれていてちょっともう住んでいられなくなったからだった。

 高井は浩と別れ別れになりポケモン仲間を失った。彼はSwitchを撫でながら、対戦相手を失った寂しさに指を疼かせるのであった……。

刊行シリーズ

独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)の書影
独創短編シリーズ 野崎まど劇場の書影