野崎まど劇場(笑)

作品 No.22 クウ!


「どうしよう……」

 クラブの名前がずらっと並んだ紙を眺めて、私は溜息を吐いた。

 入る先を決めかねたまま二週間も経っている。入部届けにはまだ「木村橙子きむらとうこ」という地味な名前しか書けてない。

 でもクラブに入るのがイヤかというと、そういうわけじゃなくて。

 むしろ自分から入りたいと思ったからこそ、こうして紙をもらってきているんだけど……。

「橙子!」

「ひゃあ!」

 ビックリして椅子からお尻が浮いた。振り返ると風羽ふうちゃんが笑っていた。

「驚かさないでよ風羽ちゃ~ん……」

「今座ったままで「ぴょん!」って跳ねてたよ橙子!」

「もー!」

 怒る私をスルーして、風羽ちゃんはサッと入部届を奪う。

「なに? まだ決めてなかったの?」

「あ……うん……。早く決めなきゃなんだけど……」

「別に期限があるわけじゃないけどさ。でもクラブ入りたいって言い出したの橙子じゃない。どっか行きたいところがあったんじゃないの?」

「う~ん~……」

 肯定にも否定にもならない曖昧な返事をしてしまう。けど風羽ちゃんは私の返事なんかどうでもいいとばかりに、鞄から取り出した青いユニフォームを振って見せた。

「やることないなら一緒にコレやろうよ」

「え? ち、チア部……?」

「そうそう。楽しいよ?」

「ム、ムリだよぅ……だって私運動全然できないし、ましてやチアリーディングなんて……」

「覚えればいいんだって。初心者も結構いるからダイジョブダイジョブ。橙子は軽いからトップが良いんじゃない? 一番上は派手で目立つよ! やろやろ! チアって書いちゃっていいよね!」

「だ、ダメぇ!」

 慌てて入部届をひったくる。

「もうちょっと考えるから……っ!」

 私は鞄を抱きかかえてその場から逃げ出した。



 夕陽が差し込む廊下を俯いて歩く。

 特別やりたいことがあるわけじゃない。ただ漠然と、何かを始めてみたかった。今までやってないことを何か……。

 変わりたかったんだと思う。

 私は容姿も並で、勉強も並で、これといった趣味も特技もない、つまり何の取り柄もない人間だった。だから今までずっと地味に生きてきたし、これからもずっと地味に過ぎていくんだと。

 そう思ったら、あんまりにもやるせなくなって。気づけば私はクラブの入部届をもらってきていた。

 部活動を始めたら何かが変わるかもしれない。地味な私の人生が華々しく煌めいたりするかもしれない。そんな夢を見ながらクラブを選んでいたけれど。

 結局私は「クラブを決める」なんていう最初の一歩すらまともに踏み出せないでいる。友達が一人も居ないコミュニティに飛び込む勇気はなく。かといって風羽ちゃんの居るチア部に誘われても、ミニスカートで人前で踊るなんて恥ずかし過ぎて絶対無理で……。

 華々しく変わりたいって思ってるのに。

 華々しいクラブからは逃げ出してる。

「こんなだから地味なままなんだ……」

 私は九十度に俯いて廊下を見つめながら歩いた。リノリウムの床の上を地味な靴が歩いていく。

 その陰鬱な視界の隅に、文字が流れた。

 顔を上げる。教室の壁に横長の紙が貼ってある。その紙いっぱいに漢字がびっしりと、でも整然と並んでいた。

 綺麗な字だった。

 お経みたいな文字の列はどう読んでいいのかさっぱりわからないし、もちろん意味も全然わからなかったのだけど。

 私はなぜかその文字達を。

 とても美しいと思った。

 ハッとして顔を向けると、教室の入口の所に彼女が立っていた。

 背中に竹でも通したように凛とした佇まいの彼女は、気品漂う清い目で、私に問いかけた。

「写経に興味があるの?」

 これが私と。

 写経部のあかねちゃんの出会いだった。



「一応持ってきたけど……」

 机の上に懐かしい習字道具を並べる。普段使うことは皆無なので家の隅で埃をかぶっていた。

「でもこれでいいのかなぁ……昔買った入門用のだから、筆とかも安物だと思うし……」

「字が書ければなんでもいいのよ」

 茜ちゃんはざっくばらんに言った。

「なんなら筆ペンでもいいわ」

「え? それでいいの?」私は面食らってしまう。「写経ってきちんとした道具をちゃんと準備しないといけないのかなって……」

「文字を書くことでお経に想いを馳せるのが目的だから道具は自由なのよ。鉛筆でもシャーペンでも、マジックだって構わないわ」

 へぇーと感心する。イメージばかり先行して折り目正しくやらなければならないものだと思い込んでたけれど、想像より大分自由な感じみたい。

 紙はこれね、と言って茜ちゃんは半紙と書かれた段ボール箱をドカっと置いた。同じ箱の中からむき出しの硯と墨滴と、くしゃくしゃになった習字の下敷きが出てくる。

 写経に対する思い込みと同じく、どうやら茜ちゃんにも勝手なイメージを抱いていたみたい……。清楚で凛々しい女性という印象は、硯に墨滴をブシャーと注ぐ姿を前に霧散した。茜ちゃんは飛び散りまくった墨を汚いエプロンの裾でぬぐった。

「じゃあ始めましょうか、橙子さん」

 茜ちゃんが机の上に本を広げる。印刷の文字がずらりと並ぶページに『般若心経はんにゃしんぎょう』のタイトルが付いている。

「これが写経でもっともポピュラーなお経、般若心経」

「名前は知ってる。内容は全然わからないけど……」

「大したことは書いてないわ」

 茜ちゃんは超有名なお経をばっさり評する。

大般若経だいはんにゃきょうという六○○巻三○○万文字の経典があるのだけど。それを二七六文字に要約したものがこの般若心経なの」

「なにそれすごい」

 というか要約できるものなんだろうか……。

「できるわよ。般若心経自体の要約もあるし」

「そっちは何文字なの?」

「一文字」

「極端過ぎないかな……」

「短いに越したことはないでしょう。みんな忙しいんだから」

 茜ちゃんは教本の一箇所を指差した。そこには朧げに見覚えのある文章があった。

 色即是空しきそくぜくう 空即是色くうそくぜしき

「あらゆる存在《色》は、実体を持たず移ろいゆく《空》である。この世はすべて実体無き《空》。仏教の本質、般若心経の思想はこの一文字で表されるの」

「空……」

「書いてみたら」

 そう言って茜ちゃんが私の筆を差し出す。その毛羽立った細筆を受け取って、墨をつけ、私は半紙の上に小さく「空」と書いた。自分でも遠慮し過ぎだと思うくらい紙の隅っこに書いた字は、プルプル震えていてなんとも情けなかった。でも茜ちゃんはその字を見て「そういうことよ」と言ってくれた。

 私は茜ちゃんに筆を渡してみた。

 彼女が何の準備もなく、衒いもなく、サインでもするみたいにさらりと書いた「空」は。

 とても清廉で、どこまでも凛々しかった。



「うう~……」

 へろへろの一八〇字目を書きながら私は呻いた。もう五回目なのに未だ上達の気配がない。

 般若心経の写経は想像以上に大変だった。一回二七六文字を書き写すのに、初心者の私では二時間近くかかってしまう。一文字一文字妙に気張って書いてしまう性格も相まって、写経が終わる頃にはいつもヘトヘトになっていた。

「雑にササッと書けば?」

 茜ちゃんは酷いことを言った。写経の精神に全く合致していない気がする。彼女は自分の写経を見せてくれた。五分で書いたという。

「雑すぎて読めないよ茜ちゃん……」

「何言ってるの。般若心経なんだからどの文字が何かは最初から決まってるでしょう。どんなに崩しても読めるはずよ」

「それはそうだけど……ええと一文字目だからこれがで、二文字目が、三文字目ははん……」

「違うわ。それは三、四、五文字目を融合したオリジナルの漢字よ」

「読めないよ!」

 よく見たらそもそも一〇〇文字くらいしかない。写経の精神てなんだったろうか。

「小腹が減ったわ」

 脈絡なく言って、茜ちゃんは筆を洗い始めてしまった。もう今日は終わりみたいだ。気ままに移ろいゆく様だけは、般若心経の精神を体現してるのかもしれないなぁと思った。

 帰りに茜ちゃんが近所の和菓子屋『寅松とらまつ』を教えてくれた。店先の縁台に腰掛けて、二人でおまんじゅうを頰張った。茜ちゃんお勧めの酒まんじゅうはとても美味しかった。



「今日はエクセル写経にしましょう」

「何言ってるの茜ちゃん」

「口答えしない」

 茜ちゃんは自分のノートパソコンで表を作るソフトを開いた。ついでに備品のパソコンを勝手に開いて私に渡す。

「このセルの中に般若心経を一文字ずつ打ち込んでいくのよ」

「これはもうさすがに写経とは言えないんじゃ……」

「お経に想いを馳せることが大事だって言ったでしょ。キーを打つ時に考えるんだから一緒よ」

「そう言われればそうかもしれないけど……」

 まだ納得いかない私をスルーして彼女はカタカタと打ち始めてしまう。焦って自分も打ち始めたけれど、パソコンがそこまで得意でない私は両手の人差し指でゆっくりとしかキーが打てない。結局最初の一文字を書き込むのに筆の五倍はかかった。確かにお経について考える時間はこっちの方が長いのかもと思った。

 三文字目を打っている時に、茜ちゃんが「できた」と呟く。

「早すぎるよぉ~……」

「気にしないで。人それぞれのペースでやればいいのよ」

 そう言うと茜ちゃんは一仕事終えたような顔でゲームをやり始めた。私は〝訶〟の字が変換に出なくてしばらく苦しんだ。


「で……できた……」

 三時間の格闘の末、ついに私はエクセルに般若心経を全て打ち込んだ。

 出来上がった表を眺める。二七六文字が二七六個の箱にずらりと並ぶ姿は壮観だ。苦労した分、筆書きよりもさらに大きな達成感がある気がした。やった……私……やったんだ。

「できたよ茜ちゃん!」

「どれどれ」

 彼女が私のパソコンの画面を覗き込む。その時無造作に置いた手が誤ってキーに触れた。「あ」と彼女が漏らした時にはもう遅く、私の打ち込んだ般若心経はあいうえお順に並び替えられていた。

「ああーっ!!」

「ごめん」

「これ、もど、戻すのは」

「なんか変なマクロに触ったみたい。アンドゥも消えたわね。ごめん」

「ごめんじゃないよぉ!!」

 大慌てで表を確認する。摩訶まか般若波羅蜜多はらみただったはずの最初の八文字が阿以依依意意意意あいいいいいいいになってしまった。ひどい。

「でもほら、見て橙子さん。ソートしたお陰で心経の中に〝呪〟という字が六回も出てくることがわかったわ」

 あいうえお順の〝の〟の所には呪呪呪呪呪呪と表示されている。まるで今の私の心を表しているようだ。

「無は二一回ですって」

「茜ちゃんのバカァ!」

 私は憤り、そのまま茜ちゃんのパソコンに駆け寄った。マウスを動かしてカーソルをエクセルの×印に合わせる。一瞬強烈な罪悪感に襲われたけど、悪いのは茜ちゃんだと自分を鼓舞し、私は彼女のエクセルを保存もせずに閉じた! 私は復讐の鬼になった!

「ほら閉じちゃったよ茜ちゃん! どう! これで私の気持ちが解った!」

「ごめん、それウェブ般若心経のコピペ」

 私は鞄で茜ちゃんをボスボス叩いた。茜ちゃんは「色即是空色即是空」と仏教的な言い訳を繰り返していた。



「大会?」

 夕暮れの寅松の前で私は聞き返す。お詫びの印として奢ってもらった酒まんじゅうが美味しい。

「写経に大会があるの? 戦うの?」

「別に戦いやしないわ。漫画じゃあるまいし」

「まぁそうだよね……」

「写経大会はお寺なんかでやってる催しよ。参加者が集まって、広い部屋で一緒に写経するの。あとは読経したり」

「へぇー。楽しそう」

「日本最大の大会は成田山のやつかしらね。弘法大師こうぼうだいし御誕生記念成田山写経大会」

「なんかすごそうだね」

「二五〇人で一斉に書くのよ」

「ひえぇ~……」

 いつも二人で書いている私にはにわかに想像できない数字だ。成田山には初詣に行ったことがあるけれど、そんな凄い大会をこっそり開いているなんて全く知らなかった。写経をやっている人の晴れ舞台ということなのかな……。

「それがちょうど来月なんだけど。出ない?」

「え?」私はキョトンとして聞き返した。「で、出るって、茜ちゃんが?」

「橙子さんも一緒に」

「ええーっ!! む、無理だよ大会なんて! 私なんて始めたばっかりだし! 絶対予選で落とされちゃうよ!」

「だから戦わないって言ってるでしょ。五〇〇〇円払えば誰でも参加できるわ。先着順」

「で、でも……」

 たとえ先着順でも私みたいな初心者が出るのはおこがましい気がしてならない。それは茜ちゃんくらい上手ならば絶対出るべきだと思うけど……私のヘロヘロの字じゃ……。

「橙子さん」

 不安な顔を上げると、茜ちゃんが微笑んでいた。

「楽しいわよ」

「…………本当に?」

「ええ。精進料理も出るし。雅楽とかもやるし」

 言われて、私は想像した。

 お寺に二五〇人が集まって、一緒に写経をして、ご飯を食べて、音楽を聞く。その盛大で素敵なイベントに胸が高鳴る。

 けどなにより。

 茜ちゃんと一緒にそれができたら、すごく楽しいだろうなと、そう思った。

「私…………出てみようかな……」

 茜ちゃんはにこりと微笑んで、申し込んでおくから五千円と言った。お金を渡したらその場で五個入り酒まんじゅうを買っていたので少し不安になったけど。

 私は鞄の中を覗いて、お気に入りの猫のシールの付いた自分の筆を見つめる。

 私が、写経の大会に出るんだ。



 廊下を歩きながら指で空中に文字を書く。

 写経のイメージトレーニングだった。こんなことですぐ上達するとも思わないけど、大会まで一ヶ月しかないと思うと勝手に手が動いてしまう。

「あ、橙子ー」

 呼ばれて振り返ると、風羽ちゃんが駆け寄ってきた。チアの練習に行くところらしいので一緒に歩く。なんだかちょっと久しぶりだった。

「チア大変そうだね」

「ほんと大変なのよー。大会までに形にしなきゃなんないから夜の九時まで練習してんの。今の面子だと班のフォーメーションがイマイチしっくりこなくてさぁ。やっぱ橙子が入ってトップやってよ。考えてくれた?」

 はたと気付く。そういえば写経部に入ったことをまだ風羽ちゃんに話してなかったんだ。

 あのね、と話し始めようとした時に、ちょうどのタイミングで特別教室に差し掛かった。壁には茜ちゃんの綺麗な写経が飾られている。風羽ちゃんもそれに気づいた。

「私ね、今その」

「なにこれお経?」

 風羽ちゃんの言葉に息が詰まる。

「あー、こういう部があったねそういや。なんだっけ、お経を書き写すんだっけ?」

「え、うん」

「これって何が楽しいんだろうねー。ものっすごい地味だしさあ」

 私の心臓が不穏な音を立てていた。

 ……あれ…………?

 そういえば私は、地味な自分が嫌で……華々しく変わりたいってずっと思ってて……。

 なのになんで写経なんて。

 こんな……地味なこと……。

「あたし絶対無理。好きでやってる人の気がしれないわ。あれ? 橙子今何か言った?」

「あ……や……」

 その時、教室の戸が開いて、茜ちゃんが出てきた。

 私に気付く。

「あら橙子さ……」

「風羽ちゃん! 行こっ!」

 私は風羽ちゃんの手を強く引いた。

「ちょ、橙子! なによ!」

 無理矢理引っ張ってその場を立ち去る。廊下を曲がるまで振り返らなかった。振り返れなかった。茜ちゃんの顔を見ることができなかった。

 私はその日。

 写経部から逃げ出した。



 ほどなく私はチア部に入部した。

 風羽ちゃんに助けられながら何とか練習についていった。同じミニチームの水雪みゆきちゃんと芹香せりかちゃんとも友達になって、大体いつも四人で行動するようになった。二人ともとても優しくて、運動音痴の私が覚えられるまで丁寧に教えてくれたけれど。そもそも本質的に運動が好きじゃない私には、チアの練習は苦痛だった。

 でも、その友達グループから弾かれると想像する方がよっぽど苦痛で、私はチアを楽しむ自分を必死に演じた。

 茜ちゃんには会っていない。

 あれ以来、特別教室に近付くのすら憚られた。茜ちゃんに会ったらと思うと怖くて近付けなかった。合わせる顔がなかった。

 私は彼女を裏切った。

 だからもう、こうして一生逃げ続けるしかないんだ。

 私は茜ちゃんに、とても酷いことをしたんだから。



「スタバ行こスタバ!」

 新しい服を買えた風羽ちゃんがご機嫌で言う。

 土曜日。昼までの練習を終えて、私達は街に出ていた。

 可愛い洋服屋を何店も回ってからチェーンのカフェに入ってやっと一休みする。私はクランベリークリームラテを頼んだ。ふわふわのクリームにベリーをのせたラテは、飾り付けたクリスマスツリーみたいにキラキラしていた。

「橙子もフォーメーションがだいぶ様になってきたよねぇ」

「ううん、私なんてまだ全然だから……。早く風羽ちゃん達と揃えられるようにしないと」

「頑張るのはいいけど、無理して骨とか折らないでよ!」

 水雪ちゃん達と一緒に笑い合う。運動は嫌でも、こうして友達と遊ぶのは楽しい。こんなカフェだって私一人じゃ怖くて入れないから。風羽ちゃん達がいなかったら、可愛いラテを飲むことすらできない。

「そういえば風羽」水雪ちゃんが聞く。「もう大会の紙出した?」

 その単語に、私はビクンと反応してしまった。

 心の中で狼狽しながらカフェラテを口にしてごまかす。今日だけはその言葉を耳に入れたくなかった。カレンダーも意識的に見ないようにしていたのに。

 だって、今日は。

「ごめんまだ出してないー」

「なにやってんの。提出締め切り来週だよ?」

「あたしこういうの苦手でさあ……」風羽ちゃんは鞄から渋々と申し込み用紙を出した。「橙子代わりにやってー。ワッフル奢るからー」

「うん、いいよ」

 申し込み用紙を受け取る。人数や参加部門を記載して出すだけの簡単な書類だったのでその場で書き込んだ。

「代表は風羽ちゃんの名前でいいの?」

「うんうん。ありがと橙子」

「もう。これくらい自分でやりなよ」

「いいのいいの。こういうのは橙子に頼むのが一番よ」

「なんで?」

「だってほら」

 風羽ちゃんは書類を指さした。

「橙子、字が凄く綺麗じゃん」

 私は。

 自分の書いた字を見た。

「字が綺麗だとカッコイイよねー。あたしほんと字汚いからさぁ…………橙子?」

 ぽたぽたと書類が濡れた。

 自分の目から、涙がボロボロとこぼれていた。

「ど、どうしたの橙子!」

「うん、そうだよね……そうだよね……」

「え、な、何が?」

「そうなの、私もそう思うの……」

 私はグシャグシャの顔で言った。

「綺麗な字はかっこいいのっ……!」

 私は。

 今さら、やっと思い出した。

 夕暮れの廊下で初めて見た写経。

 さらりと書いた〝空〟の一文字。

 それを書く茜ちゃんは、決して地味なんかじゃなく。

 誰よりもかっこよくて、綺麗だと思ったんだ。

「行かなきゃ」

 時計を見る。絶望的な時間を知って、それでも諦められず立ち上がる。

「行くってどこに……」

「みんなごめん!!」

 叫んで私は、おしゃれなカフェから走り出た。



 電車を降りた時にはもう日が沈んでいた。お店の閉まった参道を息を切らせて走り抜ける。

 成田山新勝寺の門をくぐる。石の階段を駆け上がって、走りづらい砂利道を越えて、やっと本堂の前までたどり着いた。暗くなった境内に人気はない。御守受場も閉まっている。

 そのそばの休憩用のベンチに、彼女はいた。

「茜ちゃん!」

 私は叫んで走り寄る。茜ちゃんはこちらに気づいて立ち上がった。私は息を弾ませながら彼女の前に立ち、持ってきた大きな箱を差し出す。

「こっ、これ……!」

 茜ちゃんは何も言わずにそれを受け取った。中身はもう判っているようだった。だって私達の間ではそう決まっている。

 お詫びの印はいつだって、寅松の酒まんじゅう。

「茜……ちゃん……」

 私は、彼女を見つめた。

「橙子さん」

 彼女は。

「三十個入とは張り込んだじゃない」

 そう言って微笑んだ。

 私は泣きながら抱きつく。

「ごめんね!! ごめんね茜ちゃん!! 私ひどいことした! 私ッ…!」

「いいのよ。怒ってないわ」

 彼女は私の頭をなでて言う。

「何かが生じも滅びもしない。増えることも減ることもないわ。心もまた実体なきもの。色即是空。空即是色」

 茜ちゃんはこんな時にも仏の教えを説いた。でもその言葉は私の心にスッと入りこんで、小さな苦しみから私を救ってくれた。

 それから境内の灯りの下で、二人だけの写経大会をした。

 茜ちゃんの書いた〝空〟は。

 やっぱりとても綺麗だった。



 それから僅かの間に訃報が続いた。

 私が出られなかったチアの大会では、参加者から多くの犠牲が出てしまった。いくら元気と言っても八十を超える老体にチアリーディングは厳しかったようで、風羽ちゃん他数名が残念な結果となった。ご家族は大往生ですと言っていたけれど、やっぱり少し寂しい。

 またその影響で『老人福祉センター 趣味のクラブ』の多くの部活動が休止となった。チア部・ヒップホップダンス部、メタル部などの身体に悪そうな団体はほとんど消滅して、結局残ったのは俳句部、絵手紙部、そして写経部の三つだけだった。

 先日、茜ちゃんが他界した。九二歳。自宅で眠るように逝かれたそうだ。この間動画サイトで茜ちゃんが生前にアップした実況写経動画を見つけた。大人気になっていた。彼女らしいなと思う。

 そして私は、一人だけになった部で、彼女から習った写経を毎日楽しんでいる。

 友達はみんないなくなってしまったけれど、悲しむことはないし、辛いこともない。だって私は茜ちゃんに教わったから。

 この世は空。

 色即是空

 空即是色

刊行シリーズ

独創短編シリーズ2 野崎まど劇場(笑)の書影
独創短編シリーズ 野崎まど劇場の書影