少女星間漂流記
本の星
本がたくさんあった。
そこは無数の図書館から成る星だ。他に施設はほとんどないから住むには不向きだろう。
その星にある無数の図書館のうち、ひときわ古い館に二人はやってきた。
「じゃあ、私、読みたい論文があるから」
図書館に入るとリドリーはどこかへ行ってしまった。
「夕方には読み終えるからさ~」
一人残されたワタリは周囲を見回した。あたりにはものすごく背の高い本棚が林立していて、ワタリは押しつぶされそうな威圧感を覚えた。
「はぁ……やることないな」
ワタリは手持ち無沙汰になった。
彼女は本が嫌いだ。娯楽小説すら楽しめない。小説は文字ばっかりで読むのが大変に感じるのだ。読み始めてもあと何ページで終わるかばかりを気にしてしまう。
「っていうか……今どき紙の本って……」
この図書館には、どうしてか紙の本がたくさん集められていた。
今どきは本なんて電子で読むのが当たり前なのに、何故この星は古いメディアに固執するのか。リドリーもどうしてか紙の本が好きだ。だから、この星に来たがっていた。
「全部電子にしちゃえば便利なのにね」とワタリはぼやいた。
ぼやいて、辺りを眺める。それくらいしかやることがない。
館内にはそこそこ人がいた。
みんな、集中して本を読んでいる。みんな、本が大好きって感じだ。
この図書館の館長と思しきおじいさんもいて、日向ぼっこをしながら古書のページを繰っていた。館長であることを示す胸のバッジが陽射しにきらめいていた。
それをぼーっと見ていると、おじいさんがワタリの視線に気付いた。おじいさんはワタリに言った。
「お嬢さん、本がお嫌いなようだね」
ワタリはしどろもどろになりながら答えた。
「べっ……別にそんなことは……」
「ほっほっほっ、そう言う割には目が死んでおるよ」
ワタリの目は完全に本に興味がない者のそれだった。
おじいさんは柔らかな声で続ける。
「安心なさい。ここはお嬢さんみたいな本嫌いな人のための場所じゃ」
「本嫌いのための……? こんなに本がたくさんあるのに……」
意味がわからない。拷問施設ということだろうか。
「羨ましいのう」と言いながら、おじいさんは読書に戻っていった。
ワタリは図書館に一人きりになった。ページを繰る音だけが聞こえてくる。
(場違いだなぁ、私)
居心地が悪い。こんなところで夕方までどうやって時間を潰せばいいんだろう。
と、その時だった。
ワタリは一人の少女が自分を見つめていることに気付いた。
八歳くらいだろうか。小柄な女の子だった。目が隠れそうなほどに長い髪が特徴的だった。
少女の大きな目がワタリを見つめている。あたりにたくさんある本には目もくれずワタリだけを……。
それでワタリは理解した。
(ああ、あの子も退屈しているんだな)
きっと本好きな親にでも連れてこられたのだろう。けど、難しい本など読めるはずがないから退屈しているのだ。ワタリにはその辛さがよく分かったし、なんとかしてあげたいと思った。
ワタリは少女へ近づいて、周囲の人の迷惑にならない声量で囁いた。
「ねえ、お姉さんと遊ぼうか」
ワタリは人見知りだ。けど、子供だけは別だった。故郷の島で、子供たちの面倒をたくさん見ていたからかもしれない。
それに自分の暇をつぶしたいという下心もちょっとあった。
少女はワタリを見上げて、囁くような声で言った。
「読んでほしい本があるの」
「うん。いいよ。読んであげるね」
少女はワタリの手を握ると、ささやかな力で引っ張っていった。
別の階へと向かった。
さっきまで二人がいたのは論文や哲学書などのコーナーだったが、今いるのは子供向けのコーナーだ。
児童文学に、易しい文章で書かれた小説。あとは絵本などもあった。
少女は絵本の棚にワタリを連れてくると、そのうちの一冊を手に取った。
「これ、読んでほしいの」
「わかった。これだね」
二人は絵本を手に、席へ向かった。図書館は原則としてお喋り禁止だが、このエリアでは声を出すことが許されている。親が子供に本を読むケースなどを想定されているからだ。
隣り合って少女と座った。その瞬間、少しの違和感を抱いた。
少女を見て思う。
(この子、八歳くらいに見えるけど……絵本の読み聞かせが必要なのかな)
八歳なら、自分で絵本くらい読めるはずなのだが……。
見かけよりも実際は幼いとか? いや、逆に学習状況に問題があるのかもしれない。文字の読み書きを教わらずに育ってきたのかも。
少女はワタリを見上げている。「早く読んで」とでも言いたげだ。
「それじゃ、読み始めるね」
ワタリは絵本を開いて、朗読を始めた。
絵本の中身は、なんのことはない。
象の親子がいた。二匹は事故で離れ離れになってしまった。子象は親を探して歩き回る。
だが、一向に親は見つからない。いよいよ諦めてしまいそうになったその時、子象の前に親象が現れる。親子は再会して大団円というよくある話。
それだけなのに。
「う……うえぇ……おうっ……」
ワタリは泣いていた。涙があふれてしまって止まらなかった。
(どうして……こんなの……よくあるお話でしょ? なのに、どうしてこんなに泣けちゃうの……?)
その文章が、フォントが、絵が、紙の手触りが、何もかもが絶妙な塩梅でワタリを刺激していた。
まるでこの本は、自分に読まれるために生まれたのではないか、そう思ってしまうほどに。
隣の少女が微笑んで、ワタリを見ている。
「ごめ……ごめんね……。よん……読んであげないと……ひぐっ……いけなかったのに……ごめ……」
ワタリの朗読は失敗だった。途中から涙ぐんでしまって、朗読どころではなくなったのだ。
絵本を閉じ、しばらく目を閉じる。心を落ち着かせようとする。感動した心は鎮まるまでしばしの時間を要した。
泣きじゃくるワタリを少女はニヤニヤしながら見つめている。
三十分くらい経っただろうか。
「お待たせ。もう大丈夫。ねえ、お詫びにもう一冊、読ませてくれないかな。お姉ちゃん、今度はちゃんと読んでみせるからね」
少女は悪戯っぽい笑顔で頷くと、林立する本棚の間に消えていく。
すぐに戻ってきて、また新たな絵本をワタリに手渡した。
今度はライオンの兄弟の話だった。
「よぉし、今度はお姉ちゃん、格好いいところ見せちゃうからね」
だが十五分後。
「おおぅ……うっ……ううぅ……なんでぇ……」
またしてもワタリは号泣していた。
「わ……私は悪くないもん……。この絵本が悪いんだよ。絵本なのに……こんなに心揺さぶるから……」
隣の少女は頬杖をつき、満足そうにワタリを見つめている。
「もう一度……! もう一度だけお姉ちゃんにチャンスをちょうだい。今度こそちゃんと読んであげるから……」
少女は頷いて、また絵本を取りに行った。その後ろ姿は楽しそうだった。
そこからは繰り返しだった。
不思議なことに、少女が持ってくる絵本のことごとくをワタリはまともに読むことができなかった。ある本には泣き、ある本には笑い、ある本にはしみじみし、とても読み聞かせなんてできなかった。
少女の持ってくる本は、ワタリの精神を、心を揺さぶる。的確に、そして絶妙に。中には今この瞬間の精神状態でなければ刺さらないような内容の本まであった。
また少女が本を持ってきたが、もう何冊目かわからない。
「もう一回だけ、もう一回だけ頑張らせて?」
「おい、ワタリ」
少女にお願いしていると、後ろからリドリーが声をかけてきた。
「そろそろいいかい。図書館を出たいんだが」
気付けば窓の外の日は沈んでいた。
「待って、リドリー。あと一冊だけ。一冊はまともに読み聞かせできないと、この子に申し訳が立たないの」
「この子?」
リドリーが怪訝そうな顔をする。
「この子って、どの子?」
「この子だよ」
ワタリはリドリーを見つめながら、自分の隣を指す。
「髪の長い女の子だよ」
「……君の隣には、誰もいないよ」
ワタリは失笑した。
「そんなわけ……」
ちらと隣を見る。そして目を剥いた。
「え……うそ……」
隣の席には誰もいない。
ワタリは立ち上がり、周囲を見渡した。だが見つからない。
本棚の間も探した。けれど、どこにもいなかった。
「そんな……ついさっきまで女の子が……」
「ワタリ、実は私はもう一時間以上前にお目当ての論文は読み終えていてね。この一時間、ずっと君のことを見ていたわけだが……」
「なら、私の隣に女の子がいたのを見たでしょう?」
「いや、ワタリはずっと一人だった。一人で絵本を読んで、泣いたり笑ったりして、そして別の絵本を取りに行っていた。その繰り返しだったよ。あまりに絵本に夢中になっていたから邪魔できなかった」
「あ……ありえない……」
じゃあ、なんだ。
さっきの女の子は、幽霊とでも言うのか。
戸惑うワタリに声をかける者があった。
「お嬢さん、出会ったようですな」
話しかけてきたのは、おじいさんだ。館長のおじいさん。
「出会ったって……何にですか?」
「本の精霊に、ですよ」
館長は遠い目をした。
「懐かしい。あの子のおかげで、今の私があるのです」
本の精霊との思い出は、館長にとって楽しいものらしい。
「ひねくれ者の精霊でしてね、本嫌いな人が好きなのです。本嫌いを見つけると、その人が絶対に気に入る本を読ませて、からかうのですよ。私も幼い時にあの子と出会いました。それで、私の世界は広がったのです。ああ、世界にはこんなに面白い本があるのかと」
それはついさっきワタリが思っていたことと同じだった。
ワタリは本が嫌いだった。字を読むのが苦手なのだ。だから、読書という言葉を聞くだけでげっそりした。
でもあの絵本は違った。朗読して気付いた。ああ、そうなのか。本っていろんな本があるんだなと。絵本なんて子供だましと思っていて、本として扱ってすらいなかったけれど……読んでみたらこんなに面白い。立派な本だ。ああいう本ならたくさん読みたいと思う。
ワタリはしみじみと呟く。
「不思議な話……。こんな風に本を好きになることがあるんですね……」
「ええ、昔はそう珍しいことじゃありませんでした。紙の本が主流だったから、精霊と人の距離が近かったのですよ。彼らとの交わりが、知の世界を広げてくれました。けれど……今はどうだか。電子の本が主流ですから、さすがの精霊も手出しができないでしょう」
館長の言葉にワタリはハッとした。何故ここにこんなにも紙の本があるのか。
「この星が旧世代の記録媒体を扱っているのは、精霊のためなのです。全ての本が電子に変わったら、本の精霊は消えてしまう気がしていてね。精霊に恩を感じている人々が、彼女の居場所を守るために本を集めているのがこの星なのです。だから、今日……まだ彼女がここにいるのがわかって本当に良かった」
おじいさんは遠くて、優しい目をしていた。
それを見て、ワタリはなんとなく思った。
(もしかしたら、おじいさんの初恋は精霊だったのかもしれない)
根拠なんてない。あんまりに優しい目をしていたからそう思っただけ。
おじいさんは優しい目のまま、ワタリが手にしている象の絵本を見て、言った。
「どうぞ、お持ちください。精霊もそれを望んでおりましょう」
ワタリは本を胸の前で抱きしめて言った。
「……大事にします」
ワタリは絵本を抱え、リドリーと一緒に図書館を出た。
「ねえ、リドリー」
「うん?」
「リドリーはたくさん本を持ってるよね」
「まあね」
「私でも読める本、あるかな」
「珍しいな、ワタリが。本に興味あるんだ?」
「うん。少しだけね」
「貸すのは構わないが……紙の本を貸すのでかまわないか? 折角読むなら紙の本で読んでほしいんだ」
「うん、紙がいいと思ってたところ」
「じゃあ、見繕っておく」
それまでは貰った絵本を読んでいようとワタリは思った。
絵本を開く。その時、精霊の声が蘇った。
――読んでほしい本があるの。
「ああ、そういうことだったんだ」
やっとその言葉の意味が分かった。
あれは読み聞かせてしてほしい本があるという意味じゃない。
――あなたに読んでほしい本があるの。
きっとそういう意味だった。
ワタリは精霊との出会いに、そして自分たちを繋いでくれた本に感謝した。