少女星間漂流記3

涙の星

 馬車は、銀河を駆ける。運転は、機械の御者の自動操縦に任されている。いつもはリドリーが細かく経路や運航方法を指示するのだが、今はそれがなかった。それどころではなかった。


「くそっ、間に合ってくれよ……!」


 多次元の車内には、手術室も完備されている。そこに病人を運び込み、手術を行おうとしていた。

 ストレッチャーに乗せられている病人の名はルナ。前の星で拾った暴虐の女王にして、地球での戦争で体を黒に汚染された少女だった。走るストレッチャーの傍らには心配そうな面持ちのワタリが並走していた。

 手術室に着く。ワタリはここまでしかついていけない。部屋に入るリドリーにワタリは縋るように言った。


「リドリー、頼んだよ……」


 頷いて見せたリドリーだったが、その表情は険しかったし、冷汗も流れていた。


 その間、ワタリは部屋の前に置いてあるソファーに座って待っていた。

 数時間かけて手術が終わり、部屋から憔悴した様子のリドリーが出てきた。リドリーの姿を認めて、ワタリがソファーから立ち上がる。


「どうだった……?」


 リドリーは答えずに、ソファーにどかっと座った。疲れ切っていて、声も出ないといった様子だ。いや、本当にそれだけだろうか。この憔悴ぶりは……。


「まさか……」

「いや」


 リドリーは手のひらを見せて、小さな声で否定した。


「一命は取り留めた。手術は成功だ」


 それを聞いて、ワタリはほっと胸をなでおろした。「よかった」


 だが、とリドリーは険しい顔をしたまま続ける。


「だがこれだけじゃ意味がない。黒化そのものは全然治せていないんだ。ただ、進行を遅らせただけ。時間稼ぎ、それもほんの数日……」

「そんな……」


 ワタリの顔がまた暗くなる。


「それじゃあ、ルナはこのまま死を待つだけなの?」

「そうだな」


 リドリーは肯定する。


「だが、それはあくまで現状ならと言うことだ。手は、なくもない。治す方法は、君も知っているだろう」


 それでワタリはハッとする。


「そっか! あの人なら……!」


 ワタリもかつては黒化の症状に苦しんだことがあった。その時に彼女の助けとなってくれた人がいる。

 馬車は、その人物が住む星へとすでに馬首を向けている。

 行く先は月。会うべき星人の名は、月の人といった。


 二人はこれまでに果てしない距離を旅してきた。月はほとんど二人にとってスタート地点にあるため、戻るには本来膨大な時間がかかる。けれど、二人は月への航行に関しては、それを省略できた。二人のことを気に入った月の人が、月の超科学によって馬車のエンジンに改造を施していたからである。


「いつでもまた遊びに来てちょうだい」という言葉とともに施されたその改造によって、馬車は月までであればワープすることができるのである。

 すぐに月に着いた。月の人の下へ向かう前に、ワタリとリドリーはルナの部屋に向かった。一言、声をかけておきたいと思ったからだった。ワタリが言う。


「月の人っていう星人に会ってくるから。そうしたらきっと、黒化を治せる。安心して待っててね」


 だが、その言葉を聞いてベッドで寝ていたルナが無理やりに体を起こした。


「私もついていく……」


 リドリーが諫めた。「病人は寝ていろ」


 しかし、ルナは辛そうにしながらも言った。


「私の体を治すために動いてくれているのに、私だけ寝ているわけにはいかないから……」

「そんな体でついてこられた方が足手まといだ」

「わかっているけれど……お願いよ」


 それからしばらく二人はルナの説得を試みたが、彼女があまりにも頑なだから、最後には二人が折れた。


「仕方ない」と言って、リドリーは電子車椅子を持ってきた。乗っている人間の意思を読み取って、自動で動いてくれるものだ。これならば、煩雑な操作はいらないので今のルナでも負担なく動かせる。ルナを車椅子に乗せると、三人で月面へと降り立った。

 三人は、小さなポーチのようなものを身に着けていた。使用者の周囲の大気や重力を調整してくれる装置である。これがあれば月面でも問題なく行動できる。

 鈍色の月面を進み、お目当ての人物を探す。

 すぐに見つけることができた。その人は相変わらず地球を眺めていた。赤茶けた、死の星と化した地球。リドリーらが初めてここに来た時も同じようにしていた。

 ──月の人。

 彼女は、十二単を着ているように見えた。ただ、体の周りに後光めいた柔い光を纏っている。それが、いいようもなく彼女を魔性たらしめていた。月の人の周りにはお供みたいに小さなうさぎたちがいた。そのうさぎたちは、月の人の幼体だった。

 月の人は、リドリーたちが近づいてきたことに気付かず、ただただ死の星と化した地球を見つめている。

 リドリーが声をかけようとした。「あの……」だが、同時に月の人も口を開いた。けれど、それはたまたま独り言が重なっただけにすぎなかった。


「いい加減に、私もここを去るべきかしらね」


 そう言って月の人はそれまで見つめていた地球から視線を外した。そうして偶然にリドリーたちの方を向いた。


「あら」と月の人が紅の瞳を見開く。


「地球人。それも三人」


 リドリーが応じた。


「お久しぶりです。月の人。私たちのこと、覚えていますか」

「忘れるわけないわ。あなたたちの思い出は特に美しかったもの。リドリーにワタリでしょう」


 月の人はにこやかに、ルナを見て言った。


「そちらの方はお友達? 歓迎するわ。ちょうどエネルギーを補給したいところだったのよ」


 ルナが警戒して、ワタリに尋ねる。


「ねえ、この星人は……」

「大丈夫。月の人は、地球人に友好的だから」


 ワタリの言葉に月の人は頷いた。


「そうよ。月の人はね、地球人を傷つけるようなことはしないわ。あなたたちを観察することでエネルギーを充足しているんだから」

「観察することで?」

「ええ、地球人の美しさ……愛、友情、正義……。そういったものを観測し、エネルギーに換えることで私たちは生きているからね。まあ……」


 月の人は横目に、赤茶けた地球を見る。


「その地球があのザマじゃ、もうどうしようもないけど。脱出できなかった地球人からエネルギーを得ているけれど、それも近いうち全滅するでしょう」


 それが先の独り言──「いい加減に、私もここを去るべきかしらね」──の意味だった。

 月の人はルナに向き直る。


「だから、地球人は大歓迎なの。そもそも私は、昔一度地球に行ったことがあるくらいにあなたたちのことは好きだし……。だから、是非あなたの思い出を観測させてちょうだい。美しいものがあれば、引き換えに月の涙をあげるから」


 この月の涙こそが、リドリーたちがここに来た目的だった。

 月の涙。それは月の人が美しいものを観測した時に、瞳から零す結晶だ。それには万能薬めいた効能がある。月の涙をもとに作った薬で、リドリーはワタリの黒化を治したのだった。

 月の人はルナに言う。


「見たところ、体の具合が悪いのでしょう? 私の涙があればきっと治るから。さあ、読み取らせて。もうお腹ペコペコで……」


 月の人は待ちきれないという様子だ。少女のように無邪気な表情をしている。

 だが、ルナは迷っていた。そして気弱な瞳でワタリを見た。ワタリにもルナの言わんとするところは分かった。


「私の記憶は……」


 彼女の横暴さをワタリはよく知っている。わかっていてなお、ルナに言う。


「難しくても、一か八かやるしかないよ。だってこのままじゃルナは絶対に死んじゃうんだから」


 ルナは難しい顔をしながらも、ワタリの言葉にうなずいた。


「……あなたの言う通りだわ」

「お話は終わった? そんなに身構えなくて大丈夫よ。私、歳取ってすごく涙もろくなったから。何でもないことでも泣いちゃうし……」

「だってさ、だから大丈夫だよ」とワタリがルナを勇気づける。

 ルナは頷く。リドリーも月の人をルナの方へと促した。

 月の人はルナの前までいくと、彼女に向かってかがんだ。そして額をルナのそれにくっつけた。そうやって月の人は地球人の記憶を読み取るのである。


「……?」


 ルナの記憶を読み取り始めた途端、月の人の表情が変わった。それまでの期待に満ち溢れていたものから、一転、不快そうなものへと。

 やがてうめき声をあげて、ルナから勢いよく離れた。


「げぇ───! なんなのこいつ!」


 まるで口の中に汚物を詰め込まれたかのような反応だった。月の人はワタリたちに背を向けて四つん這いになると、キラキラしたものを口からはいた。月の人の吐瀉物だった。


「うげっ! うえええ……おえええ……」


 吐いた後で、月の人は口元をぬぐいながらルナたちの方へ振り返った。ぜえぜえと息をしている。


「し……信じられない。この女の記憶には綺麗なものがひとつも存在しない!」


 月の人がルナを見る目には、怒りと憎しみがこもっている。


「この女はいつだって自分のことしか考えてない! 自分の欲望を満たすためなら周りがどんなに苦しんでもいいと思っているんだわ。こういう人間を私は嫌悪する。今すぐそいつを連れて消えて!」


 まくしたてる月の人に、ワタリが弁明する。


「で、でも……私は……あの夜に私に打ち明けてくれたのが嬉しかったし……その時はルナが綺麗に見えたんだよ」

「それはあなたが優しいだけでしょう。この恋心だって、私には醜くて仕方ないわ。あなたを手に入れるために、どれだけの人に迷惑をかけたと思っているの」

「まあ、その通りだね」と言ったのは、まさに迷惑をかけられたリドリーだった。


「そいつの記憶に美しいものがないっていうのは酷く納得できる。なら、月の人、読み取るのは私たちの記憶にしてくれないか。そこから美しいものを読み取って、月の涙に……」

「あなたたちの記憶は前に読み取っているから、もうエネルギーにならないわ」


 月の人は取り付く島もない。「さっさと立ち去ってちょうだい」

「……なんとかならないか。地球人の科学者として、戦争の被害で死ぬやつをもう見たくないんだよ」

「あんな記憶を見せられては、用意してた涙も引っ込んでしまったわ」


 月の人は腕を組み、憮然として聞いている。


「頼む、この通りだ」


 リドリーが頭を下げる。同時にワタリもそうした。その様子を車椅子に座るルナが何とも言えない顔で見つめている。


「…………」


 月の人はしばらくむっとしていたが、やがて根負けしたように言った。


「……どうしてもというなら、私に月の涙を流させる手がなくはないけど」


 リドリーたちが身を乗り出す。


「それは一体どんな」

「実力行使で私を泣かせるのよ。力でね。私、痛いの苦手だから、ちょっと痛いだけでもすぐ泣いちゃう……。泣いちゃうけど……」


 月の人の赤い目がきらめく。それは言いようもない威圧感をまとう双眸だった。


「けど、私を泣かせるのは不可能よ。私、あなたたちよりずっと強いし、そいつのために涙なんて流したくないから。攻撃してくるなら、全力で応じるわ。だから、やめておきなさい」

「やろう」と即答したのは、ワタリだった。


「こういう時のために、私がいるんだから」


 ワタリはスカートの下から、コンバットナイフを取り出した。それを月の人に向かって構える。月光を反射して、刃が鋭くきらめいた。


「こっちも加減はできないよ」

「お好きにどうぞ。どうせ……」


 月の人の周りにいたうさぎたちの毛が逆立つ。ただならぬ気配を感じて岩陰へと一目散に逃げていった。

 淡い光が月の人の体からあふれ出て、天衣のように身を包んだ。


「傷一つ、つけられやしない」


 その人知を超えた者の威容を、ワタリは感じ取った。だから、しばらくは不用意には動けなかった。

 うさぎたちが岩陰から顔をのぞかせて、事の成り行きを見守っている。

 やがてワタリが動いた。月面を抉るほどの勢いで蹴る。そしてナイフを月の人の胸へと突きだした。刃が月の人に肉薄する。月の人と刃の間にあるのは、薄ぼんやりとした光だけ。

 だが、刃はその淡い光に阻まれた。


「……!?」


 ナイフを押し込もうとする。けれど、どういうわけかワタリの怪力をもってしても全く前に進まない。力は込めれば込めるだけ霧散していくかのようだった。

 ワタリは一旦引き下がると、ナイフから機関銃に持ち替えた。スカートの下から出したそれを、月の人へ掃射する。爆音とともに無数の弾丸が月の人を襲った。一発、一発が鋼鉄を引き裂く威力を有している。だが、一発も彼女には届かなかった。

 今度は火炎放射器に持ち替える。トリガーを引くと、ノズルから業火が溢れだした。リドリー特製の、どんな星ででも使える火炎放射器だ。激しい炎が月の人を包んで焼き尽くす。しばらくすると炎が消えたが、そこにあったのはさっきと寸分変わりない月の人の姿だった。髪の毛一本燃えていない。


「くっ……」


 新たな武器を試そうとするワタリを、リドリーが諫めた。


「多分、何をしても無駄だ」


 リドリーの目は、月の人の周りの光を見つめている。


「あの光は、あらゆる物理的干渉を無効化するんだろう。アレがある限り、月の人には触れることもできない」

「じゃあ、どうすれば……」

「あの光をなんとかするしかないが……」

「光を消したりできない?」

「無理だ。彼女自身が発光している以上は……」とリドリーが歯嚙みする。


「そうね。無理よ」と月の人がからかうような調子で言う。


「どうしても私を倒したいなら、ブラックホールでも持ってくるのね」


 ブラックホールは、光すら吸い込むほどに強力な重力を有する。確かにそれがあれば、月の人の光を吸収して、ダメージを与えることができる。

 が、


「不可能でしょう? 地球人ごときの科学力でブラックホールを作り出すなんて」


 その言葉で、リドリーの目に火が灯った。


「舐めやがって……」


 それに気付いたワタリが期待して言った。


「リドリー……! リドリーならブラックホールくらい作れるよね?」


 リドリーは力強く断言した。


「できん! ブラックホールなんて作れるわけない!」

「ええ……」


 思わず肩の力が抜けそうになったワタリだが、リドリーの目に諦めの色はない。彼女は月の人を睨んだまま言った。


「待ってろよ! 今にそのお綺麗な衣を剝いで、泣かせてやるからな!」


 そんな追剝ぎみたいな捨て台詞を吐くと、リドリーは馬車の中へと入っていった。その後で馬車の中で何やらどったんばったんと大騒ぎしている音が聞こえてきた。


「……リドリーもリドリーで、戦ってくれてるんだろうな」と呟いた後、ワタリは月の人へと向き直った。


「さて、私も……」


 今度はスカートの下からフラッシュバンを取り出した。より強力な光なら、月の人の光を塗りつぶせるのではないかとワタリなりに考えてのことだった。フラッシュバンの発光に、自分の攻撃を合わせられれば、攻撃が届くかもしれない……。

 フラッシュバンを投げようとしたところで、ルナが言った。


「ねえ、どうして……」

「えっ?」

「どうして、私なんかのためにそこまでしてくれるの。彼女の言う通りよ。私は……自分のことだけが大事で……。もし私が私を見たら、絶対に嫌いになってると思う。こんな悪い奴、助ける価値なんて……」

「だったら、私も悪い人だよ」とワタリは言った。


「色んな星を渡ってきた。敵対した異星人は殺したし、助けられない地球人を見捨てた。私たちのしてきたこともルナと大差ないって、私は思う」

「そんなこと……そんなことないわ。だって……きっとあなたたちにはやむにやまれぬ理由があったのでしょう」

「それでも、結果は結果だよ」


 普段は気弱なワタリ。けれど、今の言葉には芯があって、同時にある種の冷徹さも備えていた。


「ねえ、ルナ。いい人とか悪い人とか……人ってそんな単純なくくりで分けていいものなのかな。少なくとも私たちが見てきた人には……いいも悪いもなかった。ただ、その人がその人として、懸命に生きているだけで……」


 だから、いい人とか悪い人って言い方は好きじゃないなとワタリは言った。


「私はルナを助けるよ。私が助けたいと思っているから」

「……でも、助けた後で私がまた誰かを傷つけたら」

「その時は、私が止めに行くよ」


 ワタリはルナを見て、笑って言った。


「楽勝だよ。私の方が強いから」


 自信に満ち溢れた、力強い笑みだった。

 ワタリが月の人へとフラッシュバンを振りかぶったから、ルナは顔を背けて目をつぶる。強烈な閃光が瞬いて、再び攻撃が始まった。


 一時間ほど続いただろうか。

 ワタリの周囲にはあらゆる種類の武器が散らばっている。そのどれひとつとして光の衣を突破することはできなかった。ワタリの方も手詰まりで、攻めあぐねていた。何かまだ試していない手はないかと考えていたところで、月の人があくびをしながら言った。


「もう、諦めたら? 何をしても無駄だって思い知ったでしょう」


 ワタリには反論のしようがなかった。


「……そうだね。もう武器は出し尽くした。正直、私にはもう手はない」

「だったら……」

「私には、ね」


 そこで馬車からリドリーが出てきた。


「できたぞ、ワタリ!」


 ワタリの下へ駆けてくると、一発の黒い銃弾を渡した。


「コイツで、アイツを泣かせろ」

「了解」


 リドリーは汗だくだ。よっぽど集中して、この弾を作ってくれたのだろう。

 ワタリは弾を受け取ると、転がっていた銃を拾い上げて、装塡する。

 その様子を月の人は余裕綽々の微笑みを浮かべて、眺めていた。


「まさかブラックホール入りの銃弾でも完成したのかしら」


 少し嘲りの色がある。そんなものを作り出すのは不可能だと、月の人にはわかっているのだろう。

 渡された銃弾がどんな性質のものか、ワタリはリドリーに聞いたりしなかった。無言で、ある種の機械的な動きで装塡する。

 ──リドリーのことを信用している。

 弾を込めた銃を月の人に向ける。狙いをつけるワタリに、リドリーが言った。


「外すなよ、一発きりだからな」

「誰に言ってるの」


 即答と共に、引き金が引かれた。放たれた銃弾が、月の人の胸元へと正確に直進する。

 月の人は、ちょっと呆れた顔をした。


「だから無駄だって……」


 銃弾は光の衣に触れた。あらゆる攻撃を無力化する鉄壁の守り。

 なのに、


「あら……?」


 どういうわけか、銃弾は光の衣を突き破った。そして、月の人の胸の中心へと吸い込まれていった。月の人の胸に、黒い穴が穿たれた。


「ざまぁ!」とリドリーが勝利の雄叫びを上げた。

 小さな風穴を見下ろしながら月の人は呟いた。


「一体どうやって……」

「吸収率だよ!」


 勝ち誇ったリドリーが説明する。


「宇宙船のある機器にはな、ベンタブラックをはじめとした真っ黒な素材が使われてるのさ。ただの黒じゃないぞ。光の吸収率九十九・九六五パーセント以上の黒の中の黒だ。ああ、確かに地球人にブラックホールは作れないさ。だがな、光のほぼすべてを吸収する黒は百年も前に作られてんだよ!」


 馬車の中で大暴れしていたのは、それらの黒が使われている機器を分解していたからであった。そうして作られた真黒の銃弾は、守りの光を吸収して月の人に届いたのである。

 地球人舐めるな! とリドリーは吠えた。

 その咆哮を、月の人は静かに受け止めた。


「……あなたたちは、素晴らしいわね。そうやって、二人で力を合わせて色々な障害を乗り越えてきたのでしょう。でも、やっぱり残念だわ」


 その瞬間、月の人の姿が蜃気楼のように揺らいで消えた。


「それでも私の方がずっと強いから……」


 二人の背後から声がした。

 振り向くとそこに無傷の月の人がいた。


「あなたたちが見ていたのは、月影が生み出す幻。初めからね」


 咄嗟に応じようとする二人に、月の人は告げた。


「もう終わりにしましょう」


 その瞬間、月の人の体が光を放った。さっきまでの鎧のようにまとっていた淡い光ではない。氷の剣のように冷たい光だった。月影の刃はワタリとリドリーの体をズタズタに裂いた。二人の悲鳴が響いた。

 血しぶきを上げながら、二人は地に伏した。


「降参すると言って。そうしたら傷を治してあげる」


 リドリーが声を搾り出す。


「だ、誰が……」

「私、あなたたちのことは好きだから……。報われないと分かって頑張ってるのは、見ていて辛いのよ……」


 だが、月の人の言葉はそこで途切れた。ワタリがゆっくりと立ち上がったからだ。


「……驚いた。立てない程度に痛めつけたはずだけど」


 その目算は正しい。ワタリは立っているのがやっとというありさまだった。足は震えているし、力むと全身の傷から血が滲んだ。

 けれど、彼女はまだ諦めていない。その目でしっかりと月の人を正面に見据えている。

 月の人が嘆息した。


「……わかったわ」


 月の人のまとう光が、鋭利さを帯びる。


「今度こそ立てないようにしてあげる」


 再び月の光が、ワタリを切り刻もうとした。

 その時だった。


「もうやめて!」


 叫んだのは、ルナだった。


「もういい。わかったから……」


 それで月の人の動きが止まる。彼女は冷たい目でルナを見ていた。


「それ以上、二人を傷つけないで。私のことは、もういいから」


 ワタリがルナを見ている。傷つけられた彼女に、喋るだけの余裕はない。だが、その目は、勝手に諦めるなと言っていた。

 それがわかったうえで、ルナは続けた。


「私……初めてだった。誰かが自分のためにここまでしてくれたの……。嬉しかった。こんなに嬉しいって知らなかった。最期にそれを知ることができただけで……私にはもう、十分だから」


 ルナは、二人に向けて微笑んだ。


「ありがとう、二人とも」


 それは、前の星にいた時のルナとは全く別人の微笑みだった。目を細めた拍子に、ルナの涙が零れて地面で弾けた。

 ルナは車椅子を動かし、月の人の前に向かった。そして、言った。


「私を殺して」


 月の人はやはり冷めた目で見つめている。


「私が生きている限り、二人は諦めてくれないから。私を殺して、それで終わりにして」


 月の人が目を閉じる。


「私のことが嫌いなんでしょう。なら、できるでしょう。さあ、早く」


 月の人は動かなかった。いや、それは正確ではない。

 閉じている彼女の瞼が、微かに揺れていた。何かを堪えるように。


「ああ……嫌になる」


 吐き出す声も、細く震えている。


「歳を取ると、本当に涙もろくなって……」


 閉じられた瞼。その端から、月の涙が零れて落ちた。


 しばらくの間、月にとどまった。

 手に入れた月の涙をもとにリドリーが黒化の治療薬を作った。並行して、少し分解してしまった宇宙船の修復作業も行った。そのどちらも無事に終了した。リドリーとワタリの怪我も、月の人が治してくれていた。

 完成した薬によって、ルナの黒化は治った。まだ肌に黒ずんだところは多いが、そのうちにそれも消える。車椅子から降りられる日も遠くないだろう。

 月を発てる日が近づいてきた頃、ワタリがリドリーに言った。


「ルナも一緒に連れていくってのはどうかな」


 リドリーが聞き返す。


「旅に?」

「うん」


 ワタリが少しおどおどしながら言う。


「一緒にいれば力になってくれると思うし、同じ地球人だし」


 リドリーが見透かしたように笑った。


「同じ地球人だし、ではなく、君の友人だからだろ?」


 ワタリはちょっとためらいながらも頷いた。


「……うん」

「ふむ」とリドリーは考え込んだ。


「私としてはまだ彼女を信用しきれていないところがある。助けたのも、戦ったのも、どちらかと言えば自分のプライドのためだしね」

「でも、もうあの子は……酷いことをしないと思うの。だから……」

「わかった」

「えっ」


 思いのほかあっさりと了承されて、ワタリが驚く。


「君がそこまで言うんだ。信用しようじゃないか。それに、旅をしていくうちに深まる信頼もあるだろう」


 ワタリは喜んでリドリーに抱きついた。


「ありがとう、リドリー」


 早速、ワタリはルナの部屋へ向かった。扉を開けると、車椅子に座ったルナがワタリを出迎えた。調子がよさそうだ。


「あら、ワタリ……」


 ルナはワタリに微笑みかける。そしてワタリが含み笑いをしてしまっているのに気付いた。


「どうしたの、そんなに嬉しそうにして」

「ルナ、話があるの」

「話?」

「私たちと一緒に旅をしない?」


 ワタリの誘いを受けて、ルナが目を少し見開く。


「……一緒に旅を?」

「うん。ルナがいてくれれば心強いし。リドリーの許可も取ってあるから」


 ワタリはキラキラした目で言った。


「色んな星を一緒に巡ろうよ。それでいつか、安住の星を見つけるの」


 ルナはきっと即答してくれる。「いいわよ」と言って、一緒に喜んでくれると思っていた。今回のことを通じて、自分たちは少し、繫がりのようなものができたような気がしていた。

 なのに、


「……そうね」


 ルナの返事は鈍い。


「……ルナ?」


 ルナは何かを考えているようだった。


「すごく素敵ね。巡る旅も、あなたと一緒にいられるのも……」

「そうだよね。なら決まりだね」


 ワタリはそう言いはした。けれど、なんとなくもうわかっていた。

 ルナは私たちにはついてこない。

 予感していた通りに、ルナがかぶりを振った。


「私はあなたたちと一緒には行けないわ」


 聞かずにはいられない。


「どうして……」

「うまく、言えないのだけれど……」


 ルナは言葉を探しながら続ける。


「月の人との戦いを見て……私には……まだあなたの隣にいる資格がないように思えたから」

「そんなことないよ。資格なんて必要は……」

「ダメよ」とルナはぴしゃりと言い放った。


「多分、今の私がついていったら……許してくれない」

「許してくれないって、誰が?」

「私が、私のことを」


 ルナは辛そうに目を伏せた。


「だから、ごめんなさい。嬉しいけれど、一緒には行けない」


 本当はついてきたいと思ってくれているのが、面持ちからわかった。けれど、それ以上に彼女の意思は固かった。それでワタリは説得ができないことを悟った。

 今度は穏やかな口調でルナはワタリに言った。


「だから、あなたたちは、あなたたちの旅を続けてちょうだい。私は一人で大丈夫だから」


 旅のための道具一式も前の星から持ってきているしねとルナは付け加えた。


「ルナ……」


 それでもワタリは少し迷っていたが、最後にはルナの意思を尊重することにした。


「わかった。じゃあ、ここでお別れしよう」

「ええ。……助けてくれて本当にありがとう」


 それでルナは部屋の外へ、そして馬車の外へと向かう。馬車から降りるのを、出入り口でワタリが見送った。そこにちょうどリドリーがやってきて、ワタリに声をかけた。


「ここで別れることにしたんだね」

「うん」

「なんとなく、そんな気はしてたんだ」とリドリーは言った。


「あの子は、私と同じでプライドが高そうだから」


 そう言って、リドリーは馬車の中に戻っていく。


「それじゃあ、発とうか」


 リドリーはこういう時いつもドライだ。


「うん」


 ワタリもリドリーの後を追って、馬車の中に戻る。

 最後にワタリはルナに向かって手を振った。ルナも小さく手を振って応えた。

 やがて、馬車が動き出した。月を発つ。

 馬車は月の人の超科学によって、ワープ以前にいた座標までワープして消えた。

 窓から見えていたルナは、ずっと自分たちに向かって手を振っていた。


 月に残ったルナは、いつまでも空を見上げていた。馬車が見えなくなった後も。

 真っ暗な宇宙、その先にある銀河を見つめる。

 傍らに月の人がやってきて尋ねた。小さなうさぎたちも彼女の背後に控えている。


「あなた、これからどうするつもり?」

「そうね」


 ルナは答えた。どうするかは決めていた。


「私も旅をしようと思うわ。すごく大変だと思うけれど……彼女たちに追いつきたいの」

「わざわざ追いかけるくらいなら、ついていけばよかったものを」


 そういう意味ではないのだ。これは物理的な距離の話じゃない。


「地球人って、本当、不合理」


 ルナは言い返さない。月の人の言う通りだと思ったからだ。

 月の人が言葉を続ける。それはぼやくような、そして少し悔しそうな声だった。


「私はあなたが嫌いだった。ファーストインプレッションはもう、最悪だった」

「知ってる」


 吐かれたのを思い出して、ルナは少し楽しくなった。


「……でも、いけないわね。最初に嫌いだった相手ほど、反転した時は深く好きになってしまうものなのよ」

「えっ」


 思わず素っ頓狂な声が出た。ルナは大いに驚いて、月の人を見た。


「あなたの旅に、私もついていっていいかしら。どうせこの星は出ないといけないし……あなたがどんな旅をするのか興味がわいてしまったから」

「えっ……ええっ……」


 戸惑った。そういえば誰かに好意を向けられるのは生まれて初めてだった。どうしてか顔が熱くなった。初めてのことだった。


「……わ、私なんかでよければ」


 ルナは思う。自分は多分、コミュニケーションが苦手なのだ。だから、色んな人を傷つけてしまう。色んな人を傷つけて寄せ付けなかったのだから。

 でも、一緒に旅をする仲間がいれば、そんな自分も少しずつ変えられるんじゃないかと思った。

 ルナが受け入れると、月の人は嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、決まりね。これからよろしくね、相棒」


 月の人の差し出してきた手を、ルナは握った。思えば誰かと握手をするのも、生まれて初めてだった。二人の背の高さはちょうど同じくらいだった。

 予感がした。少し不安で、でも楽しい予感。

 ──旅をしたら、こういう初めてがたくさん待っている。

 小さなうさぎたちが、二人の周りで嬉しそうに飛んだり跳ねたりしていた。


刊行シリーズ

少女星間漂流記3の書影
少女星間漂流記2の書影
少女星間漂流記の書影