少女星間漂流記3
真の星
目覚めた。
私、ワタリは真っ白な部屋にいた。硬いベッドの上に寝かされていた。
起き上がって、周囲を見回した。
狭い部屋。無機質な部屋。
ここはどこだ。
「リドリー?」
近くにリドリーはいない。
私は頭を押さえた。なんだここは。どうしてこんなところにいる。眠る前のことを思い出そうとする。
昨日は……どこぞの星を脱して、馬車に戻って……銀河を航行しながら眠ったはず。
けれど、自分がいるのはどう見ても馬車の中ではなかった。見知らぬところ。白い壁紙に白い床に白い天井。窓はある。小さな……。けれど、その先に見えるのは外の風景ではない。別の部屋。執務室のような場所だ。尤も部屋には誰もいなかったが。
ここにある調度品は便器とベッドだけ。
扉には鍵がついていたが……少し扉が開いているから用をなしていなかった。
……何があったか、判然としないなりに考えてみる。
おそらくは……拉致をされたのではないかと思う。どこかの宇宙人から攻撃を受けて、別の宇宙船にでも運び込まれたのかもしれない。だとしたらリドリーのことが心配だ。
扉を押して、部屋の外に出た。
外に出てすぐに気付いた。自分がいるのは宇宙船ではないこと。廊下に窓があって、そこから外の景色が見えたのだ。広がっているのは見慣れた銀河の闇ではなく、どこかの星の風景だった。
夕暮れの街並み。目に染みる朱色の陽射し。背の高いビルがいくつか立っているのと、ほんの少しの自然が見える。驚くべきはそれらが間違いなく地球の建築様式だったことだ。
「…………」
しばし茫然として、窓の外を見つめていた。そこは滅ぶ前の地球にしか見えない。だって、太陽があるではないか。太陽に似た恒星ではなく、まごうことなき太陽が。この目に染みる朱色を地球人が見間違えるはずがない。でも、そんなはずは……。だって地球はとっくに……。ありえないとわかっている。なのに、何度も目を擦ってみても、やはり……。
もしかすると、自分たちは辿り着いたのか?
安住の星、第二の地球に。
私が寝ている間に辿り着いていて……。いや、考えにくい。そんな星についたらまずリドリーが私を起こすだろう。ついに着いたぞと……。
そう、とにかくリドリーだ。助けるにしても、事情を聴き出すにしても彼女に会わなくては……。
何故だろう。
リドリーに会えば、全てが解決する気がしていた。予感。
窓辺を離れて、歩き出そうとした時、
「渡利さん?」
声をかけられた。振り向く。
知った顔がそこにいた。
「ルナ……」
どういうわけか、ルナもこの星にいた。ただ服装がいつもと少し違っていた。彼女は華美なドレスワンピースを好んで着ていたはずだが、今は簡素なスクラブに身を包んでいた。それに顔つきが記憶の中より大人っぽい。
でも、知り合いに会えて少しばかり安心できた。
「ルナ、どうしてここに? 確か月に残ったはずでしょ?」
「月に……?」
ルナはちょっと眉間に皺を寄せ、考えてから言った。
「ああ、そうね。そうだったわね」
言いながらルナは私の下にやってくるとその手を摑んだ。強い力だった。
「どうやって部屋から出てきたの?」と聞いてきた。
「えっ、どうやってって……」
「白い部屋にいたでしょう?」
「あ、うん。部屋の扉が少し開いてて……」
「なんてこと!」とルナは信じられないという様子で言った。
「あってはならないミスだわ。新人の子にはよく言っておかないと。それに……きっと監視もおろそかにしてたのね」
「監視?」
「白い部屋の隣に執務室みたいなのがあったでしょう? そこにあなたを見張っている人はいた?」
「ううん、誰も……」
「大問題だわ。これは……」とあきれた様子で言いながら、ルナは私の手を摑んで歩き出そうとした。
「とにかく、戻りましょう」
「も、戻りましょうって?」
「部屋によ。あなたはここにいちゃいけない」
ルナは強く私の腕を引っ張った。行く先は白い部屋のようだったから、踏ん張って抵抗した。
「や、やめて!」
戻るわけにはいかない。リドリーを捜さなければいけないのだ。
けれど、ルナは冷酷な声で言い放つ。
「抵抗しないで。仲間を呼ばないといけなくなるわよ? あなただって痛い目には遭いたくないでしょう?」
その言葉で確信する。
ルナは、敵だ。
多分、自分をさらった宇宙人の味方なのだろう。だから、私を白い部屋に閉じ込めて監視していたのだ。悲しい。あの星で、自分たちはわかり合えたと思っていたのに。
「やめて、ルナ。私たち仲間でしょう」
「ええ、私はあなたの仲間よ。だからあなたを部屋に戻すの」
「どうしてそんなことを……」
「そんなことって?」
「私を閉じ込めるようなことを……」
「どうせあなたには説明してもわからないでしょう」
ルナは冷たく言い放ち、また私の腕を引っ張った。痛い。
されるがままになってはいけない。また閉じ込められてしまう。
「放して! 私はリドリーを助けなきゃいけないんだから!」
思い切り腕をねじった。突然に抵抗したことで不意を突けたのか私の腕はルナの手をすり抜けた。
「あっ」
ルナは驚いたようだが、すぐにまた襲い掛かってきた。私は手のひらを突きだして、ルナの胸を押す。それで彼女は尻餅をついた。その隙に逃げた。
とにかくリドリーを捜し出さなければ。
めったやたらに廊下を走る。右側には窓、左側には無数の部屋がある。すべての部屋にのぞき窓がついていた。中が垣間見える。
どの部屋にも地球人が閉じ込められていた。みな、どこか虚ろだったり、中には発狂している者もいて、尋常ではない。壁に頭を打ち付ける者、窓ガラスをひっかく者、奇声を上げる者、鳥のように手を羽ばたかせて部屋をかけている者、自分の糞便を壁に擦り付ける者……。
かわいそうに。宇宙人に閉じ込められて、おかしくなった者たちだろう。リドリーと合流できたら必ず助けると決意した。
走り回っているうちに、大きな扉に行き当たった。木製で両開きのそれを押し開ける。
開いた先にあったのは、図書室のような場所だった。
テーブルがあって、そこには数人の地球人が本を読んでいた。自分と同じく囚われの人たちだろう。ワタリはその人たちに呼びかけた。
「みんな逃げて! もうすぐここにルナが来るわ! 彼女に捕まる前に!」
けれど、呼びかけられた地球人たちはきょとんとしている。私の言っていることの意味がよくわかっていないようだった。
「もたもたしないで! 急いで!」
けれど、地球人たちは戸惑うばかりで動かない。
「とにかく立って!」
やきもきした私は、座っていた男性の一人の腕を摑んで、立ち上がらせようとした。私の力なら男性一人くらいは片手で持ち上げられる。なのに、どういうわけかその男性はびくともしなかった。
「やめろよ!」と男性は私を振りはらった。改造人間である私をはるかにしのぐすさまじい力だった。きっと彼も改造人間なのだろうと思った。
「頭おかしいんじゃないか」と吐き捨てて、男性は立ち上がった。
彼は胡散臭いものを見るような目で私を見つめながら、逃げるように部屋の外に向かったのだった。……まあ、とにかく逃げてくれたならそれでいい。
続けて他の人たちにも再び呼びかける。
「みんなも! 逃げて早く!」
それで他の人たちもそそくさと去っていった。けれど、やはり声に応じたという風ではない。みんな、さっきの男性と同じ目で私を見ていた。避けるように部屋を去る。
部屋に誰もいなくなった。みんなきちんと逃げてくれるといいのだが……。
さて、リドリーの捜索に戻ろう。そう思って部屋を改めて見渡した。それで部屋にはいくつかの絵画が飾られていることに気付いた。そのうちの一枚がワタリの関心をいやおうなしに引きつけた。それは酷く見覚えのある絵だった。
本に囲まれた幼い少女の絵。この少女をワタリはよく知っていた。
近づいて、よく見る。額縁の下に、絵のタイトルを印字したネームプレートが下げられていた。
──Esprit du livre
フランス語だ。日本語訳も付記されている。
『本の精霊』とあった。
書かれている少女は、ワタリの友達である本の精霊に他ならなかった。
「どうして……本の精霊の絵がここに……?」
啞然として見つめていたその時だった。図書室の扉が開けられて、数人の地球人が入ってきた。全員がスクラブを着ていて、中にはさすまたを手にしている者もいる。先頭にいるのはルナだった。彼女は私に向かって叫んだ。
「いたわ! 確保!」
ルナと一緒にやってきた地球人たちが、テーブルの隙間を縫うようにしてやってくる。きっとみんなここの星人の息がかかっているのだろう。
やむを得ない。
手荒なことはしたくないが、ここで捕まるわけにはいかないのだ。
私は黒いワンピースの下から、武器を取りだすことにした。四次元ワンピースの中には、リドリーが開発した強力兵器が無数に収納されている。その中から機関銃を取り出そうとして……。
「あれ?」
できなかった。
スカートの中に、武器は何もなかった。ありもしないものを取り出そうとして、長いスカートが翻っただけに終わった。
当惑しているその隙を突かれた。男性たちがワタリを床に押し倒した。跳ねのけようとするが、どうにもならない。みんな改造人間──それも自分よりずっと強い──のようだった。何人もの男性に押さえつけらえて、もはや体を芋虫みたいに捩ることしかできなかった。
「は、放して! ルナ、助けて!」
「落ち着いて、渡利さん」
「リドリーを助けないといけないの。わかるでしょう!?」
「わかった。わかったから」
押さえつけられているワタリの前にルナがしゃがむ。そして宥めるような柔らかい声で言った。
「リドリー先生に会わせてあげるから。今は大人しくして、ね?」
ルナの胸元には『月森』という鈍色のネームプレートが光っていた。
力で敵わないことは明白だった。だから私は無抵抗で、例の白い部屋に連れていかれるしかなかった。男性たちは乱暴に、私を部屋に押し込んだ。
一応脱出できないか考えてみるが、とても無理だった。今度は扉がちゃんと施錠されていたし、隣の執務室にいる地球人たちが窓越しに私を監視していた。ルナがリドリーと引き合わせてくれるのを大人しく待つしかなかった。
二時間くらい待って、やっとその時が来た。
部屋の扉が開けられる。入ってきたのは三人の地球人。真ん中にいるのはリドリーで、左右に男性の地球人が護衛のように控えていた。
リドリーは白衣に身を包んでいた。ルナ同様に記憶の中よりも大人びている。三十代くらいに見えるが、間違いなくリドリーだった。その証拠に、彼女は部屋に入ってくるなりこう言った。
「やあやあ、待たせて悪かったね。我が相棒」
「リドリー!」
思わずリドリーに抱き着いた。護衛の男性たちが引きはがそうとしたが、リドリーがそれを制した。私はリドリーの体をペタペタと触る。
「大丈夫? この星の人に何かされてない?」
「ああ、大丈夫だとも。この星の人たちはみな友好的だからな」
それを聞いて安心した。ひとまずリドリーの身に危険が及んでいることはなさそうだった。
「リドリー、聞きたいことがたくさんあるの。まず……」
「まあ、待ちたまえ。いつものを君に渡しておこう」
言いながら、リドリーは小物入れを取り出した。そのふたを開けると、中から手のひらサイズの玩具が出てきた。
酷く不吉なものだった。
馬車の玩具である……。
「ほ〜ら、私たちの宇宙船だよ〜」
言いながらリドリーはワタリの手の上に馬車の玩具を置いた。
「……リドリー?」
つい怪訝な表情でリドリーを見てしまう。
「うん? どうした? いつもはそれを持つとすごく喜ぶじゃないか」
「……何言ってるの。こんな玩具渡されて、喜ぶわけないじゃない。子供じゃないんだから」
ワタリの言葉に、リドリーは目を零さんばかりに見開いた。
「お、玩具……? 玩具と言ったのかい?」
「そうだよ? 玩具でなかったら……模型?」
「わ、わかるのか!」
リドリーの声は震えている。
「わかるのか!? それが玩具だと!」
リドリーは何か、感動しているようだった。
「すごいじゃないか! そうか、ついに……」
「リドリー? さっきから何を言って……」
リドリーは口元に手を当てて思案しながら、何かぶつぶつと言っている。「そうか。そうか。そういうことなら……他の物がどう見えているかも確かめねば……」
言い終えて、またワタリに向き合う。
「なあ、君。さっき外に出ただろう? 他の部屋を見たかい? そこには何がいた?」
「他の部屋……」
思い出す。
「……閉じ込められた地球人たちが苦しんでいるのが見えたよ」
「それは奇声を上げたり?」
「うん。あとは奇行をしてたり」
「そうか、そうかそうか!」
どんどんとテンションが上がっていくリドリー。私はそれに困惑し、ただただ置いていかれる。
「もう宇宙人に見えなかったんだな!」
その一言は、何か、どうしようもなく嫌な響きを有していた。
「よし、今の君ならちゃんと話ができるはずだ」
「ちゃんと……話……?」
「渡利」
リドリーは真剣みを帯びた声で、ワタリに言った。
「真実を聞く覚悟はあるかい?」
「し、真実……? 真実って何?」
リドリーは私の言葉など聞いていなかった。
「いや、君が拒否しようと……もはや拒むことはできない。君は妄想の世界から戻ってきてしまった。もうこの現実に立ち向かうしかないんだ」
私は手のひらをリドリーに向けて、制するように言った。
「やめて。聞きたくない」
「あれはもう、七年も前のことだ。まだ高校生だった君は……帰り道に悪い男たちに攫われてしまったんだ。君は一か月ほど、その男たちに監禁された。そして、本当にひどい目に遭わされたんだ」
リドリーはぼそっと付け加えた。「それはもう、君の世界が終わってしまうほどのことを」
「君は警察に救出されたが……心に深い傷を負ってしまっていた。そのせいで現実を見ることができなくなってしまったんだ。君は様々な妄想の世界を考えて、そこに逃げ込んだ。それだけが傷ついた君の心を癒す、唯一の手段だったからだ」
「リドリー、やめて」
「ここ数年は、宇宙を漂流する妄想だった。私は君の相棒に選ばれた。二人で色んな星を巡ったね。でも、その星は別の患者の部屋だったんだ。新しい患者と触れ合うたびに、君は星の物語を作った」
「違う! 違う違う違う!」
ワタリは両耳をふさいで、ぶんぶんと頭を振った。
「私以外には図書室もお気に入りだったね。本の精霊の絵を見つめて、何度も話しかけて……」
「やめてって言ってるでしょ!」
ワタリが叫ぶと、部屋は静まり返った。
「……どうしてそんなこと言うの」
ワタリの目からは大粒の涙が零れていた。
「妄想なんかじゃないよ。一緒に旅したんだよ。色んな星があって、辛いこともあったけど、いつか必ず安住の星に辿り着くって……。私たち、約束した。なのに、どうしてこんなに酷いことを言うの」
仮に全て妄想だったとしても。
私はそれでいい。あの優しい妄想の世界にいたいのだ。
私は俯いて、リドリーを見ないようにした。
「……ワタリ」
リドリーは私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「………何年も君を見てきた。君の境遇に心から同情したし、なんとしても治してあげたかった。私にできることはすべて行った。それでも君の心の病が快癒の兆しを見せたことは一度もなかったんだ。でも、ついに、ついにそれがほの見えた」
リドリーは私の手を握った。
「残念ながら……私は君の相棒じゃない。一緒に宇宙を旅してはいない。けれど、君のことを好きな気持ちは本当だ。現実に向き合うのは、辛いだろう。けれど、約束する。私も一緒に立ち向かう。君を一人で戦わせたりしない。だから……」
握る手に、力がこもる。
「顔を上げてくれないか。立ち向かってはくれないか。銀河を抜け出して、一緒に暮らそう。この地球で……」
すぐには返事ができなかった。私はずっと俯いていた。何分も、何十分も、もしかしたら何時間もそうしていたかもしれない。けれど、リドリーは辛抱強く私の傍にいてくれた。
すごく長い時間をおいて、私は掠れた声で言った。
「……ここが、地球なんだね」
「……ああ」
「銀河を旅してたっていうのは、妄想なんだね」
「……ああ」
「全部、全部。私の頭の中の出来事だったんだね」
「……ああ」
でも、とリドリーはつけ加えた。
「……やっとたどり着いたんだよ、安住の星に」
私は、即答できない。
「すぐには……受け入れられないよ」
「わかってる。いくらでも付き合う」
「……ねえ、リドリー」
「うん?」
「明日もまた、会えるかな?」
「君が望むなら、会いに来るよ」
「じゃあ、会いにきて。その時には、心の整理をつけておくから」
私はまだ顔を上げることはできなかった。けれど、頭上でリドリーが喜ぶ気配は感じられた。
「ああ……! ああ!」
「ありがとう、リドリー。じゃあ、今日はもう寝たい」
「わかった。眠って頭をすっきりさせるといい」
リドリーは立ち上がって、控えていた男性──看護師──たちと一緒に部屋の外に向かった。
「明日の朝一で会いに来るよ」
それで部屋の扉が閉められた。
私はベッドに横になる。そうして、砕かれた心の整理を始めた。私の頭の中には、バラバラになった妄想のピースが散っていた。
翌日。
出勤してきたリドリーは、渡利の部屋に行く前にナース室へ向かった。本当は渡利のいる隔離室に直行するつもりだったが、その前に心を決めておきたかった。
ナース室には、月森瑠奈だけがいた。彼女はまだ二十代半ばだが、その辣腕ぶりから実質的にここの師長を務めている。渡利との付き合いもリドリーほどではないが、深い。
テーブルに着くと、リドリーは白衣のポケットに手を突っ込む。自販機で買ったブラックコーヒーが入っていた。それを取り出すと、プルタブを上げて、一気に飲み干す。コーヒー、特にブラックは好きではないが、カフェインの力を借りてでもしっかり思考できる状態にしておきたかった。
月森が話しかけてきた。
「本当に大丈夫でしょうか」
「何がだい」
「もちろん、渡利さんのことです。いきなり彼女に現実を突きつけて……。いえ、先生の治療方針に口出ししたいわけじゃないのですが……。私も彼女を長年見てきていますから。ほら、決して心が強いわけではないでしょう? もっとゆっくりと教えてもよかったんじゃないかと……」
「君の言う通りだ」
リドリーは飲み切った缶をテーブルの上に置いた。カンという音が静かなナース室に響く。
「確かにカルテ上、彼女の心は強くない。昨日の私の行いは荒療治だったよ」
「なら、何故?」
「何故だろうな」とリドリーは笑った。
「……ずっと彼女の妄想を聞かされていただろう? そうするとね、不思議なことにね、そんな気がしてくるんだよ」
「そんな気って?」
「本当に、彼女と星間を漂流してた気がね。私が覚えてないだけで、本当に相棒だったんじゃないかとさえ思うこともある。そしてもし彼女が私の相棒なら……私は信じたいと思うんだ。この程度の苦難は乗り越えられると。それが私の知る……たくさんの星を渡ってきたワタリという少女だ」
リドリーはゴミ箱に向かって、缶を投げた。それは緩い放物線を描いて、綺麗に箱に収まった。小さくガッツポーズをして、リドリーは立ち上がった。
「では、行ってくる」
月森は何も言わなかった。けれど目礼はして、リドリーを見送った。
白い隔離室の扉の前に立つ。リドリーは深呼吸をした。まだ、緊張している。けれど、それを気取られないようにしなくては。私は彼女の主治医なのだから。
扉をノックする。「入るよ」
返事はない。扉を開けた。
ベッドの上に渡利は座っていた。彼女はリドリーを見つけると、微笑みかけた。
「ああ、リドリー。来たんだ」
「朝一で来ると言っただろう」
「そうだったね」
「それで、どうだい。調子は」
「どうだろう。……正直何とも言えないかな」
「まだ、向き合う覚悟はできてないか」
リドリーの言葉に渡利は目を伏せた。
「……正直言って、怖いよ。私にとっては知らない世界も同然だし。うまくやっていけるか、自信ない」
やはり性急だったか。そう思ってリドリーは歯嚙みしそうになった。
だが、渡利が続けた。
「でも、向き合ってみようと思う。リドリー、言ってくれたよね。自分が一緒だって。リドリーが一緒なら、どうにかなると思うんだ。一人じゃないなら……」
渡利は困り笑いを浮かべて、リドリーに言った。
「私が困ったら、助けてくれる?」
リドリーの目の端から、水のしずくが伝った。
「ああ、ああ……! もちろんだとも。絶対に助けになる。約束する」
「それを聞いて安心したよ」
リドリーは思った。今日までの七年は、決して無駄ではなかった。ついにこの傷ついた少女──もはや少女と呼べる年齢ではなくなっていたが──が救われるときが来たのだ。医師をしていて、こんなに嬉しいことはなかった。
「やはり君は……私の相棒だ。すごく強い心の持ち主だ」
「それは褒めすぎだよ」と渡利は照れ笑いした。
これからも大変なことは続くだろう。けれど、そう悲惨なことにはならないはずだ。彼女はもう自分の現実に立ち向かう決意をしたのだから。今日まで辛いことがたくさんあった分、きっとこれからは楽しいことがたくさん待っているはずだ。
そう確信しているリドリーに、ワタリは言った。
「じゃあ、さっそく朝練始めよっか」
その不吉な言葉にリドリーは全身が総毛立つような思いがした。
「……なんだって?」
「何って? 朝練だよ。私、楽器なんて扱ったことないから人一倍頑張らなきゃ」
頭の中が真っ白になるリドリーに気付かず、ワタリは続ける。
「楽しみだなぁ。目指すは紅白だね。一緒に頑張ろうね、軽音楽部!」
啞然。
たまらずリドリーは天井を仰ぎ見て、うめき声を漏らした。
「……ああぁ」
新たな妄想を解くには、いったいどれだけの年月が必要なのだろうか。
銀河を航行する馬車の中、ワタリの部屋でリドリーは原稿を持って震えていた。
傍らにいるワタリが、期待するようなまなざしでリドリーを見ている。
「どうかな、どうかな」
リドリーは震える声で言った。
「わかった……。もうわかったから……」
「わかったって何が?」
「君が小説の腕を上げたのは、よくわかったから! 前に『読めるゴミ』とか言ったのは謝るから!」
ワタリが気恥ずかしそうに頰をひっかいた。
「えへへ、自信作なんだ。楽しんでもらえてよかった……」
「楽しめない! 怖すぎるだろ!」
「ええっ……。リドリーってそういうお話が好きでしょ」
「好きだけど……自分たちの旅がバッドエンドになってほしいとは思わない! 次はもっとハッピーなものを読ませてくれ!」
少女たちの星間漂流は、今日も平和に続いている。