僕を振った教え子が、1週間ごとにデレてくるラブコメ 1

8月・1 中学時代の苦い思い出 ①

『未知の可能性をその手につかめ! 絶対合格の一番合格ゼミナール』

 ――というキャッチコピーとともに、ガッツポーズをする男女の高校生が写ったポスターの下で、セーラー服の少女が絶望の表情を浮かべていた。

 その異質さに気づいて、僕は講義室に向かっていた足を止めた。

 ここは学習塾の三階にある、白い壁に囲まれた小さなロビー。

 授業直前の時間で、生徒たちが講義室に向かって足早に歩いている。彼らの流れに取り残されたように、少女は壁に背をもたせかけ、半開きの鞄を抱えながら、うつむいている。

 きれいな子だ、と思った。

 清楚で整った顔立ちの、凜とした美しさ。優しく可愛らしい、ゆるやかなほっぺの丸み。そんな魅力は、口元を覆う白いマスクでも隠しきれていない。

 柔らかそうな髪が肩より少し長く伸びて、空調の風に揺れている。

 誰だろう?

 ここは高校受験コースのフロアだから、彼女も僕と同じく中学生だ。

 けれど夏休み前から塾に通えるようになったばかり。まだなじみのない生徒も多く、彼女もその一人だろう。

 少なくとも、同じ講義室で授業を受けた記憶はない。ということは僕より下の学年だ。着ている制服も別の学校のもの。名前すらわからない。

 何をしているのだろう?

 みんな講義室に入ってしまい、周囲には誰もいなくなった。

 それでも彼女はただ一人、立ち尽くしている。

 いや、見ている場合じゃない。僕も早く講義室に向かわないと。コンビニで筆記具を買っていて、遅くなってしまったんだ。

 足早に通り過ぎようとした瞬間、彼女がここにいる理由を直感した。

 僕は向きを変えて彼女の前に歩み寄ると、鞄からノートを一冊、差し出した。

「これ、よかったら使ってよ」

「…………?」

 彼女は顔を上げて、僕をまっすぐに見返す。

 大きな黒い瞳は天球儀のようで、見つめられただけで吸い込まれそうだ。

「ノート、忘れたんじゃない? これ、僕が自習用に使っているノートだから、代わりに使ってくれていいよ」

「あの……」

 と、彼女は声を出した。柔らかで心地いい、優しい声だ。

「わたしがノートを忘れたこと、どうして知ってるんですか?」

「推測だけどね。筆記具を忘れたのなら誰かに借りればいい。参考書なら隣の人に見せてもらえる。けど、ノートではそんなことできない」

 彼女が抱えている開きっぱなしの鞄の中に、参考書を乱雑にかき回した跡が見える。

「ノートを忘れたことに気づいて、あわてて探したんじゃないかな」

 図星というように、彼女は恥ずかしそうにうつむいて、キュッと鞄を抱きしめた。

「それともう一つ。さっき隣のコンビニに寄ったらノートが売り切れていた。――遠くの店まで買いに行ったら授業に遅刻する。かといって、ノート無しで授業に出たら不真面目な態度だと思われる。どうしたらいいのかわからず、ここで立ち尽くしていたんだ」

 こくん、と彼女は小さくうなずく。

「だから僕のノートを使ってよ。授業後にノートを取った部分だけ切り離して、返してくれればいいから」

「あ……ありがとうございます」

 突然のことに戸惑いつつも、ホッと安堵したような声が漏れる。

「あとでお返ししますので、お名前を――」

 彼女が言いかけたとき、スピーカーから授業開始のチャイムが鳴り響いた。

「早く行かないと怒られるよ!」

 あわてて講義室に向かって歩き出すと、彼女も早足でついてきた。僕は中学三年生の講義室に入り、彼女は二年生の講義室へと向かった。

 部屋に入るときに振り向くと、彼女はちょこんと頭を下げてほほ笑んだ。

 可愛いまなざしに、一瞬のうちに見とれそうになる。殺風景な塾の中で見る笑顔が、雪景色に差し込む日差しに感じられた。

「ほら若葉野わかばの! 若葉野瑛登えいと! 遅刻だぞ!」

 講師の声に現実へ引き戻され、たちまち僕の頭は勉強のことでいっぱいになった。


「もしもし。もしもーし。聞こえてますか?」

 耳元を吹き抜けるそよ風のような声に、僕はノートの数式から意識を引き戻された。

「そろそろ帰らないと、自習室が閉まりますよ」

 隣に立っていたのは、彼女だ。授業前にノートを貸した少女。

 夜の室内で、白いセーラー服が照明を照り返している。

 僕たちがいるのは、塾のビル内にある自習室。授業の前後に、自由に席を使って勉強できる部屋だ。みんな帰ったのか、室内には他に誰も残っていない。

 壁の時計を見ると、午後九時を過ぎている。

「もうこんな時間なんだ。気づかせてくれてありがとう。君も、今まで勉強?」

「勉強というか……待っていたんです。はい、これ」

 彼女は一冊のノートを僕の前に差し出した。

「ノートを貸してもらって、助かりました。今日の授業は結構重要なところで、あのままノートが無かったら、どうなっていたか……」

「それならよかった。もしかして、ノートを返すために待っていたの?」

「あまりにも熱心に勉強していたから、じゃまするのも悪いかなって」

「遠慮せず声をかけてくれて、よかったのに」

「一応、声はかけたんですよ……」

 どうやら僕は、勉強に没頭していて気づかなかったらしい。

「ごめん。集中するとまわりが見えなくなるの、悪い癖なんだ」

「謝らなくていいですよ。ここは塾なんですから、勉強するのは当たり前です。それに時間ができたから、これを文具店まで買いに行けましたし。今日のお礼です」

 彼女はもう一冊のノートを差し出した。買ったばかりの新品のノートだ。

「わざわざお礼だなんて、どうして?」

「わたしがノートを取ったページを切り取らせてもらったでしょう? そのぶん、新しいノートでお返ししたいんです」

「使ったのは数ページだけだよね? ノートを一冊もらったんじゃ釣り合わないよ」

「それじゃ、一つお願いをしてもいいですか?」

「いいけど、どんな?」

「ノートの取り方をアドバイスしてほしいんです!」

「取り方? どうして、また」

「実は……悪いとは思ったのですけど、お借りしたノートの中を見ちゃったんです。昼間、わたしがノートを忘れたこと、言い当てたでしょう? あんな推測ができる人って、どんなふうに勉強してるのかなと思って……」

 彼女はイタズラでもしたみたいな顔で、肩を縮こまらせた。

「そうしたら、まるでおもちゃ箱みたいにいろいろな内容が書いてあって、最初は雑なノートだと感じたんです。でもよく見ると、学習の流れがしっかりと記されていて、感心してしまって……。こんなノートの取り方があるのかと、驚きました」

「それは自習用に使ってるノートだね。ノートの取り方は状況によって変えていて、他にも授業用とか、予習用、復習用のノートもあるんだ」

「そんなふうに工夫するのですね……。ずっとオンライン授業で、塾に出て来られなかったから、なかなか勉強の方法を相談できなかったんです」

「ノートの取り方くらいなら教えてあげるよ」

「本当ですか!? おじゃまはしませんから、今度の講義のあとにでも、少しの時間だけアドバイスをいただければ嬉しいです!」

「僕を待ってたのって、本当はそれを頼みたかったんじゃないの?」

「こんなこと頼んでいいのか迷ってて。でも、思いきって頼んでよかった!」

 彼女は姿勢を正し、僕に向き直る。

「わたし、芽吹めぶきひなたといいます! 市立第二中の二年生です! よろしくお願いします!」

「僕は若葉野瑛登。こちらこそよろしく」

 自習室が閉まる時間になったので、僕たちは部屋を出てエレベーターで一階まで下りた。

 塾舎の外に出ると、ムッとした熱気が体中を包み込む。夏休みも終わりごろの季節だけど、気温はまだ高い。目の前では夜の道路を自動車が行き交っている。

「今日はありがとうございました。わたしは帰り道がこっちなので、ここで失礼します」

「そうだ、芽吹さん。一つ言い忘れてたんだけど――」

「なんでしょうか?」

「僕が今日、ノートを忘れたことを言い当てたよね。それには理由――というか、タネがあるんだよ」

「確かに、今でも不思議な気分ですけど」

「実は僕もちょっと前に、授業の直前でノートを忘れたことに気づいて、途方にくれたことがあってさ。それで今日の芽吹さんの姿を見て、もしやと気づいたんだ」

 芽吹さんはあっけにとられた顔で僕を見つめ、それから笑い出した。

「ふふふっ。若葉野さんも同じような失敗をするんですね。なんか、親近感がわきました」

「僕、そんなに堅苦しい性格じゃないと思うから。気楽に接してほしいな」

「そうですね。でも勉強のアドバイスをしていただくのですから、礼儀正しくしないと。――次回から、ぜひわたしにご指導ください、先生」

 最後の『先生』という言葉が僕の胸をとらえた。

 たぶん彼女は、気楽な冗談のつもりで言ったのだろう。

 けれど一学年下とはいえ近い年齢の、これほど美しく可愛い女の子から、そんなふうに呼ばれるなんて――甘ったるくて、くすぐったくて、とても嬉しい感じがする。

「う、うん。遠慮しないで、なんでも聞いていいからね」

 芽吹さんはもう一度笑顔で一礼すると、反対方向を向いて帰り道を歩いていく。

 セーラー服の襟が、妖精の羽のように軽やかに舞っている。

 角を曲がって建物の陰に見えなくなるまで、僕は彼女の後ろ姿を見つめた。

『先生』と呼ぶ彼女の声が、いつまでも心地よく頭の中に響き続けていた。

 それが、一年前の夏の日の出来事。

 忘れもしない、僕と芽吹ひなたが出会った日のことだ。

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