僕を振った教え子が、1週間ごとにデレてくるラブコメ 1
8月・3 初めての家庭訪問 ③
僕は少し緊張しながら、これから通う仕事場――
広さは八畳ほどあるだろうか。一軒家だけあって、僕の部屋よりも一回り大きい。
建物の角部屋で、奥と横にある二つの窓から明るい外光が差し込んでいる。
しっかり掃除されているらしく、カーペット敷きの床にはゴミ一つ落ちていない。
棚には雑貨類の他に、可愛い動物のぬいぐるみが何体か置かれている。
本棚には参考書や教科書が並び、小説のハードカバーや、料理や手芸に関する実用本、そして有名な少女漫画のタイトルなども見える。
窓側の壁にベッドが設置され、夏物のブランケットが丁寧に折りたたまれていた。
その手前に小さなクローゼットが一つ。女の子の衣類を入れるには足りなそうだけど、季節外の服は別室に置いているのかもしれない。
日当たりのいい場所に勉強机があり、いくつもの文具や何冊ものノートが並んでいた。
「あまり部屋を見られると恥ずかしいです。これでも必死で掃除したんですよ」
「ここまで整理整頓されていたら立派だよ。僕も見習わないとな」
部屋の中央に座卓が置かれ、両側に一つずつクッションが配置されていた。
「授業はあそこでいいでしょうか? 勉強机で見てもらうと、先生が立ちっぱなしになってしまいますし」
「そうだね。座りながら向かい合ったほうが、授業がしやすいと思う」
家族との面接はもう済んでいるから、今日は帰っていいのだけど……次のバスまで時間がある。今外に出たら、炎天下で待たなければならない。
「今のうちに芽吹さんの成績を確認させてもらっていいかな」
芽吹さんは勉強机に立てかけられていたファイルと、何冊かのノートを持ってきた。
二人で座卓に向かい合って座り、まずはファイルを確認させてもらう。
ファイルには、一学期の中間試験と期末試験の答案が挟まれている。
内容を見ていくうち、僕は小さくうなってしまった。
「うーん……」
「やっぱり悪くなってますよね。成績……」
「悪いとまでは言えないかな。ほとんどの教科で六〇点以上をキープしているからね。だけど芽吹さん、二年生の後半は七〇点台を確実に取っていたし、九〇点を超えることもあったから、それと比べると結構落ちてるかな」
「二年生のときは先生が勉強を見てくれてたからですよ! それが無くなってから、成績が落ちてしまったんです」
けれど二年生のときに好成績を収めていたなら、三年生の勉強にもついていけるはず。理由も無しに、こんなに短期間で落ちるとは考えにくい。
続いてノートを見せてもらった。
彼女は一年前のアドバイスを忘れず、しっかり学習している。サボっている様子は見られないし、勉強の進め方にも問題はなさそうだ。
ただ一つ、気になる点があった。
ノートに書かれている文字が、僕が知っている彼女の文字よりもずいぶん弱々しく見える。
まるで、自信が持てないまま書きつづっているように。
芽吹さんが金銭的な理由で塾を辞め、僕に家庭教師を頼んだ理由。
急落している彼女の成績と、弱々しいノートの文字。
そして先ほどの母親の態度……。
「芽吹さん、進路のことでお母さんと意見が対立してるよね?」
彼女はうつむいて、こくりとうなずいた。
「お母さん、自分が決めた学校に進ませようとしてるんです。わたしの志望校を伝えて何度も話し合ったんですが、聞いてくれなくて……。どうしても自分の志望校に進みたいのなら、一切協力しないと言われました。わたしは、そんなことで諦めたくなかったから、協力なんてなくても自力で合格してみせるって、言い返しちゃって」
「お父さんは何か言ってない?」
「仕事が忙しくて、わたしの教育方針はお母さんに一任してるんです」
「じゃあ、芽吹さんに味方してくれる人がいない……」
「家庭教師代も、わたしがお小遣いで払うことにしたんです。今までの貯金も足せば、なんとか足りるはずですから」
「えっ!?」
さすがに驚いた。僕の家庭教師代が安いといっても、中学生の芽吹さんにはかなりの負担になるはず。
彼女の成績が急落した理由は、進路をめぐっての対立に悩み、勉強に集中できないせいだ。
いくら毎日何時間も勉強したところで、集中できなければ効果が落ちてしまう。
そして集中するには、安心して勉強できる環境が必要だ。
「……わかったよ、芽吹さん。心配しなくていい。これからは僕がしっかりと指導する」
「先生の指導があれば、わたし、絶対に合格できると思うんです!」
「それと、授業料は不要だ。塾を通さず、個別に契約すれば無料で教えられる。お金なんかもらわなくても、芽吹さんの合格の支えになりたい」
「なんの対価もなく家庭教師を頼むわけにはいきません! お母さんにも説明できませんよ」
言われて少し考え直した。
確かに塾の家庭教師センターを通じて契約したほうが、家族からも信頼を得やすい。運営からのカリキュラムや教材のサポートは、新米家庭教師の僕には大いに役立つ。
ただそれだと、システム上、どうしても一定以上の契約料が必要になる。
「授業料は設定できる最小限にしよう。それでも負担はかけてしまうけど、対価もないのに毎週部屋に来るなんて、お母さんに怪しまれそうだしね。それに少しでもお金を受け取ったほうが、僕も責任感が出るかもしれない」
「そうですよ!
プロフェッショナルな家庭教師……。そう言われ、一気に決意がわき上がった。
「僕はプロフェッショナルの家庭教師になるよ。日本一……いや、世界一の家庭教師だ!」
「世界一ですか!?」
「嘘じゃない。大勢の生徒を相手にした指導なら、そりゃベテランの講師にかなわないさ。でも僕は芽吹さんの勉強を見てきた。芽吹さんの学習傾向は少なからず把握している。芽吹さんの専門の家庭教師なら、誰にも負けない自信がある!」
「わたし専門の家庭教師……。それって……ものすごく贅沢なことですよね……」
「これ以上ない贅沢だ。芽吹さんが僕を家庭教師に選んでくれたこと、絶対に後悔させない。これからは何も悩まず、安心して勉強に集中していいんだ」
僕を見つめる芽吹さんの大きな瞳に、キラキラと室内の光が反射している。夜空に輝く星々のように、銀河のように、暗闇の中に希望の光が見えていた。
「わたし、なんだか急に勉強したくなってきました! あ、あの、先生、今から勉強を見てもらってもいいですか? 夏休みの課題で自信のないところがあって。すぐに教科書を持ってきますか……らっ!?」
立ち上がった瞬間、芽吹さんの足下がふらついた。
前のめりに倒れ込み、彼女はとっさにテーブルに両手をついて体を支える。
すぐ目の前に、芽吹さんの顔があった。
見開いた彼女の瞳の天球儀に、僕の顔が写り込んでいる。
「あ……足が、しびれ……ちゃって…………」
口を開くたび、芽吹さんの温かな吐息が風となって僕の顔をかすめた。
「べ、勉強の続きは、正式に契約できてからにしよう。課題のわからないところは、スマホに撮って送ってくれれば見てあげるから」
「そ、そうですね……」
芽吹さんが体勢を立て直すと、やっと彼女の顔が離れた。
あれ以上至近距離で見つめられたら、理性が吹き飛んでしまいかねない。
プロフェッショナルになると決意した以上、芽吹さんと二人きりで過ごすことにも慣れないといけなさそうだ。
バスの時間も近づいていたので、今日はこれで芽吹さんの家を退出することになった。
玄関を出て、門のところまで彼女は見送りに来てくれた。
「来週までに契約書類を準備します。書類を塾に提出すれば、正式に契約ですよね」
「二学期には間に合いそうだ。家庭教師を始めるにはちょうどいいタイミングだね」
「書類がそろったら、一緒に提出に行きましょう」
最後に軽く別れの挨拶をして、僕は帰路を歩き出した。
曲がり角のところで振り返ると、芽吹さんはまだ見送ってくれていた。軽く手を振ると、彼女も振り返してくれる。
僕は、再びこの家を訪れる。
芽吹ひなたの家庭教師として、彼女を志望校への合格に導くために。