あんたで日常を彩りたい

序幕(1)

 ぐっと力を込めて重たい屋上の鉄扉を開放すると、湿った強風がぼくを襲った。伸ばした髪が蜘蛛の巣みたいに顔にまとわりつき、身につけたスカートがうごめくようにはためく。たまらず目をすがめる。ふたたび開いた視界のなかに、探していた人物の姿を認めた。


「はじめまして。たちばななつめさん––––」


 声をかけようと近づいて、目の前の光景に圧倒された。思わず口をつぐむ。

 赤く染まる夕日に照らされたその場に、大きなキャンバスとともに佇むその人物。

 どこか生気を感じさせない、雪女じみた白い肌。髪は鴉の濡れ羽のように黒く、隙間から青い毛束が覗いている。ちらりと見える耳には絶壁の岩場のようにピアスが4つ並んでおり、紅色の陽光を受けてきらきらと存在感を示していた。

 この学校の特性上、奇抜な格好の生徒はたくさんいるが、目の前の人物に見覚えはない。

 。その事実こそが、なによりも雄弁に彼女の特異性を示している。

 けれど、その容姿よりも目を惹いたのは、彼女がキャンバスに向き合う姿そのもの。こちらの様子など歯牙にも掛けず、一心不乱に絵の具をぶつけている。

 過ごしてきた単調な人生のなかに、このような姿の人間は存在しなかった。執念に突き動かされているような、衝動に身を任せているような……それでいてどこか楽しげで、しかしなぜか寂しそうにも見えて。どうにも形容しがたい魅力が詰まっている。

 棒立ちのまま、絵画を描く彼女を見ていたいとすら思った。まだ言葉すら交わしていないのに。しかし当初の目的を思い返して、ぼくはふたたび口を開く。


「あの……同じクラスの花菱はなびし風音かのんです。このたびはお話があって参りました」


 問いに反応した影が、ゆっくりとこちらを振り向く。

 手には絵筆とパレットを握り、前のめりの姿勢のまま、からくりのようにこちらへ向き直る。まるで白磁の人形のような肌が目に入る。この場においてはじめて露わになった彼女の目元には白と赤を基調としたアイシャドウが引かれていて、より一層造りもののような造形に仕上がっている。そして、そのちいさな唇が「え」と母音をかたち作った。

 しかし、返ってきた言葉はというと。


「ねえ。庭園の噴水なんだけど、ぶっちゃけ邪魔だと思わない?」


 およそぼくの理解の範疇を超越していた。

 ここは学生寮の屋上だ。格子状の手すりから少し身を乗り出せば、敷地内に広がる庭園の様子を観察できる。彼女が口にした『庭園の噴水』も、もちろん景色のなかに存在する。

 ただし、邪魔かどうかと聞かれても、適切な回答はわからなかった。


「……えっ、と?」


 特に関心がないので、なんとも言えない。

 作業のズレた返答に、思わず間抜けな声をあげてしまう。

 しかし目の前にいる女生徒––––おそらく、ぼくが探していた人物である橘棗さんは、ぼくの反応など露知らず、つらつらと言葉を続けていく。


「そもそも学生寮にバカでかい庭園があるのも意味不明。誰が使うのコレ。花粉とか虫とか気にならないのかな。いや、気にならないから使ってるのかな。ってことは女の子が虫を見て悲鳴あげるのって異性に対するアピールってことになるのかな。ねぇ、どう思う?」


 どう思う? と尋ねられたような気がするんだけれど気のせいだろうか。だと思いたい。

 おもむろに視線を逸らすと、彼女が手をつけていたキャンバスが目に入る。

 そこには確かに『庭園の噴水』を含む屋上からの展望風景が描かれていたのだけれど……しかし、背景は緑色に塗り固められており、対照的に芝生は紫色で彩られ、その先に見える校舎は橙色で染め上げられている。それらのオブジェクトがまるで魚眼レンズのように中央へと引き寄せられたかのごとく、ぐにゃりと折れ曲がって歪に配置されていた。

 見たままを絵画におこしているわけではないらしい、という情報とともに、この絵の独特なタッチ、どこかで見たような……? というわずかな疑問が脳内に浮かぶ。

 しかし、ここで本来の目的を思い出し、ぼくは再確認のフローを挟んだ。


「橘さん……ですよね?」


 すると、彼女はキャンバスの前に座ったまま再度口を開く。


「そうだよ。あたしは橘棗。そういう共通理解があるものだと考えていたんだけど、もしかして思い違いだった? さっきの質問は単なる声掛けじゃなくて純粋な疑問だった?」


 この問答で察する。

 聞いていた以上にヤバい人だ。見た目から受ける華美な印象とは正反対のズレを感じる。

 あまりにも迂遠な問いかけに、ぼくは距離感をはかりながら言葉を続ける。


「正確には、あなたが橘さんだという確信はすでにあって、念のため確認を取らせていただいた次第なのですけれど……」

「状況が把握できない。確信?」

「あなたの姿が記憶にないからです。わたくしは全校生徒の顔と名前を憶えていますから」


 話を誇張したわけではない。

ぼくはこの朱門塚女学院に通うすべての生徒の名前と容姿を把握している。そして、目の前の彼女を見たことがなかった。正確には、名前を知っているものの見た目を知らない。ゆえに消去法で彼女が目的の人物であると理解した。

 ところが、またもやズレた回答が戻ってくる。


「女子高生が好きなの?」

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