あんたで日常を彩りたい
序幕(2)
「どうしてそうなるんですか」
彼女の言葉はいなしながら、ぼくは持参したファイルを取り出しつつ続ける。
「単刀直入にお伝えしますが――橘さん、このままだと留年しますよ」
「そんなわけなくない? 学校に行ってないだけじゃん」
思いのほか橘さんは動じていなかった。
「学園長からは『成果物さえ提出すれば登校しなくても良い』って言質とってるし」
「橘さんが特待生だとは伺っております。今回、登校の有無は関係ありません」
特別な人間が集まる学園において、さらに特別な待遇を受けている生徒。それが目の前でキャンバスに絵の具を塗りつける女生徒である。事実として、彼女は入学以降、一度も教室に姿を見せていない。それでも伝えなければならないことがある。
「学園祭の出展物についての申請書。橘さん、まだ未提出ですよね」
「なにそれ? 初耳なんだけど」
「ですから、学園長のおっしゃるところの『提出すべき成果物』とは、つまり『学園祭での展示物』というわけです」
「は?」
ポカンと口を開けて固まる橘さん。
「この学校––––
そこまで口にすると、突然、橘さんの相貌に動揺の色が浮かぶ。
「は? え? どっ、どっ、どっ、あっ、どっ」
「その申請は今日までとなっております」
「どっ、どっ、どういうこと? あたし成績つけてもらえないってこと?」
さらに狼狽をみせる。放つ言葉は輪郭を成しておらず、ただ衝動が音を纏って漏れ出たようなブレスだった。精巧に造られた美貌に濃厚な焦燥の色が浮かぶ。
彼女を落ち着かせようと、ぼくは白紙の書類––––本来ならば教室で本人が受け取るはずだったA4用紙を手持ちの鞄から取り出す。お互いの表情がはっきりと見える位置に立つと、彼女の面立ちがより鮮明になった。
思わず目を逸らしてしまう。理由は単純。自分よりも造形の整った人間に出会ったことが無かったからだ。ぼくはあさっての方角を向いたまま、キャンバスの側に佇む彼女に近づき、A4用紙を差し出す。
「……これ、申請用紙です。記載していただければ、その足で私が担任に届けますので」
「わ……わかった」
そう言って、橘さんは明らかに慌てながらも受け取る仕草を見せたのだが、
「あ」
腕に装着していたパレットが外れて、あろうことかこちらに飛んでくる。
ぺたり、と間抜けな音。色鮮やかな塗料がぼくの衣服と肌を染めていく。
数秒ほど沈黙が場を支配したところで、膠着状態を打破したのは橘さんだった。
脇に置いてあった布巾を引っ掴んで、ぼくの服に擦り付けてくる。
「あの、橘さんっ!」
「乾く前に拭き取らないと。ごめんね」
「いえ、そうではなく! これだと逆に汚れが広がってしまいます!」
彼女の対応は、たしかに理に適っていた。
ただ一点、使用したのが絵筆を拭う濡れ布巾だったことを除けば。
「あっ」
橘さんはハッとして、しだいに困惑をあらわにする。
「あの、えと……どうしよう……あたし……」
混乱と狼狽が手に取るようにわかった。
どうしたものかと考えつつ、ぼくはため息混じりに告げる。
「お気になさらず」
だからというわけではないけれど、淡々とぼくは答えた。さきほどから平常心を無くしているだろう彼女を、これ以上動揺させたくなかったからだ。
橘さんはきょとんとした様子でこちらに視線を向ける。
「……怒らないの?」
「怒りませんよ、怒るタイミングを逃しましたので」
「あたしのこと、鬱陶しいとか思わない?」
「思いませんよ。まだあなたのことを深く知らないので」
「……なにそれ。そんなことある? それじゃ、まるで」
彼女がはじめて相好を崩す。
「あんた、あたしの救世主みたいじゃん」
「……どういう意味ですか?」
「あたしが高校生をするためのチュートリアルキャラみたいってこと」
「本当になに言ってるんですか!?」
これが、迂遠で、面倒で、天然で、シニカルで、不登校な天才少女––––橘棗との邂逅。
ぼくはただ、与えられた理不尽な運命に抗うべく、平穏な学生生活を送りたいと願っていただけなのに、この出会いがすべてをぶち壊してしまった。
どうしてこのような事態になったのか。
ぼくは記憶を手繰り寄せながら思考を巡らせる。