あんたで日常を彩りたい

【第一幕】 『かくして』(12)

 ぼくはただ、頭を抱えるしかない。

 ふと化粧台に目を移すと、ちょうど橘さんがメイクを終えたところだった。


「うーん最強。やっぱスプリングアレグロのファンデしか勝たんな〜」


 よくわからない言葉遣いで自画自賛しつつ席を立った彼女に、ぼくは疑問を投げかける。


「前から疑問に思っていたんだけれど、どうして部屋から出ないのに気合いの入ったメイクをするの? お風呂に入ったあと、毎日お化粧してるよね」

「なんで? 部屋から出ないから部屋のなかでメイクするしかないじゃん」

「そういうことじゃなくて……いや、そういうことなのかな……?」


 もはやなにが常識なのかわからなくなってきた。


「それに、あたしがメイクする理由は他人に見せるためじゃないし」

「へ?」


 この回答は意外だった。他人に性別を知られないために気を遣っているぼくにとって、想像し得ない言葉だったからだ。二の句が継げないぼくに向けて、橘さんはさらに続ける。


「人間の顔に絵を描けるなんて面白いじゃん。気分転換にちょうどいいんだよね」

「……それじゃあ、お風呂に入るのとか、無駄に思えたりしないの? たしかに身体を清潔に保つのは大事なことだから無駄なわけはないけれど」

「シャワー浴びるのは身体を綺麗にするためじゃないよ。アイデアをリセットするため。頭がぞわぞわーってしたまま落ち着けるわけないじゃん」


 なんだか衝撃的なことを言われた気がするんだけれど、いったんスルーしておこう。


「『ぞわぞわ』の感覚がわからないな……」

「もうお風呂の話はよくない?」

「勝手に終わらせないで。いや、終わっていいのかな……」


 こちらの指摘など意にも介さず、彼女は先を続ける。


「ぞわぞわーっていうのは、なんかこう、いろんなことが頭の中に湧いたり、出て行ったり、そういうのが気になったりして、手がおぼつかなくなって、あれ、いまなにやってたっけ? って我に返る瞬間とかあるじゃん。シャワー浴びるとああいうのが落ち着くんだよね」

「後半なに言ってるかまったくわからなかった」

「絵にも描けそうにないなぁ」


 ……どういう思考回路なんだろう? 返答に困ったので整理してみる。

 要するに、作業の息抜きとしてシャワーを浴びていて、そこにぼくが鉢合わせしたらしい。

 橘さんはぐぐっと背を反らせて伸びをしながら、こう口にした。


「夜通し仕事してたから寝るわ。納期も近いし」

「…………納期?」


 おうむ返しになってしまう。ぼくの声が届くやいなや、彼女は立て続けに語り出す。


「イラストの納期。MVに使うスチル。あたしがこないだ描いてた油絵とは違って、ビビッドめなやつなんだけど、3パターンくらい欲しいって言われてる。ただ、どんな楽曲かも共有されてなくて、全体的な制作イメージがぼんやりしているからクライアントの要望に沿った ものになってるかはわかんない。何回か取引してる相手だし、報酬額もそれなりに大きいから」

「えむぶい? すちる?」


 結局、それ以上の深い説明が返ってくることはなかった。橘さんはぼくの声をよそに立ち上がって、キャンバスを放り出してスタスタと移動した。どうやらシャワールームを覗きこんでいるらしい。どういう行動規範だ? 本能のままに動いているのか?

 肩をぐるぐる回しながらベッドへ向かう橘さん。

 ふと、気になったことを尋ねてみた。


「ねえ。ぼくが初めてこの部屋に来たとき、あんなに取り乱していたのに……どうして湯上がりの身体を見られて平然としていたの?」


 すると彼女はきょとんとして、こちらに向き直る。


「なんで?」

「聞いてるのはこっちだよ」

「どこを疑問に思ったのか気になって」


 話が噛み合わない。これじゃ伝わらないのか。ではどういう言い回しなら良いんだろう……額を押さえたとき、橘さんは「ああ、なるほど」と納得したような声を放った。


「簡単な話だよ。夜風はもうこっち側の人間だから」


 こっち側、がなにを指し示しているのかはわからなかったけれど、


「だからあたしのことは橘さんじゃなくなつめって呼んでくれていいし、変に気を遣わなくても仕事の詳細は教えるし、飲んでる薬の種類とか効能とかも共有するし、全裸を見られたところでどうとも思わない。気になったら聞いてくれればいいし、夜風に聞かれたら答えたくない質問には答える。まあ、答えたくない質問なんて無いからなんでも教えるんだけど」


 立板に水のごとく投げかけられた言葉の意図を紐解くに、どうやらぼくは彼女に必要以上の遠慮や気遣いをしなくてもいい存在らしい……ということが、なんとなくわかった。


 ほんとうに、なんとなく――。

 学生寮でルームメイトと共同生活を送る。そのなかの些細なこういうやりとりこそが、彼女の言う『やってみたい高校生活』なのかもしれない。


 はたと気づいた。

 なにかに固執して、それを叶えるために妙な手段を取るところ。

 他人からは理解されないながらも、自身の思考では理論が完成しているところ。



 彼女のことが気になるのは……どこか、ぼくの双子の姉に似ているからだ、と。

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あんたで日常を彩りたい2の書影
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