あんたで日常を彩りたい
【第一幕】 『かくして』(11)
7
結局、悶々としながらも蓄積した疲労には勝てず、気がつけば眠りに落ちてしまっていて、目が覚めたときには朝の7時だった。登校まで時間の余裕があったので、着替えてシャワーを浴びようとしたところで同居人(暫定)の姿が目に入る。橘棗が作業デスクに顔を伏せて眠りこけていた。
「……すぅ……すぅ……」
「……橘さん? 起きてる?」
おそるおそる確認してみるも返事はない。机上にはスケッチブックの紙片が散らばり、鉛筆で器用になにかが描かれている。そこには補足のように文字が記されているのだけれど、悪筆すぎて識別することはできなかった。
「体調崩すよ?」
「……ん……んむぅ……」
やはり返事はない。ベッドへ運ぶのが最善策なのだろうけれど、ぼくの膂力で人ひとりを持ち上げるのは不可能に等しい。しかたなく、橘さんのベッドから掛け布団を剥がし、背中に被せておいた。ぼくはそのまま浴室へ向かう。
シャワーヘッドを捻って頭にお湯を浴びながら、どうしてこんな状況に……と考えた。しかし結果は出ない。こんな状況に陥る前に取れる選択肢はあったはず。皐月さんの言葉が心の奥に残り続けていた。
いつもどおりに朝支度を済ませ、学生寮を後にして登校する。座学を受ける準備を進めていると、目の前にクラスメイトが数人やってきた。なにかやらかしたのだろうか……?
「昨日、大丈夫だった?」
「大丈夫……とは?」
「なんか大慌てで学生寮と校舎をシャトルランしてたじゃん」
「花菱さんっていつも落ち着いてるし、なんか良くないことでもあったのかなって」
どうやら申請書を手に皐月さんと橘さんの間を行き来していた様子を見られていたらしい。学生寮から学舎まではほぼ一本道で、かつ各部屋の窓から校舎の様子がのぞめる構造となっているため、よほど異質に映っていたのだろう。
「あれはですね……部屋の鍵を演舞場に忘れてしまいまして……」
ありふれた言い訳だったが、どうやら納得してもらえたらしい。
「マジで? 私も時々やらかすわ〜」
「花菱さんでも不注意やらかすんだ。親近感湧いたかも~」
「ああいうの普通にできる人ってすごいよね~。私ひとり暮らしとか絶対無理だわ~。ルームメイトいないと詰み確定みたいなとこある~」
ひとまず安心である。橘棗の存在を隠す必要があるのかと問われると返答に窮するけれど、とはいえ事の経緯がややこしいので多くを語らないに越したことはない。どこからぼくの素性がバレるかわからないからだ。警戒は最大限まで高めておいたほうがいい。
やがて予鈴が響き渡る。
「ああ、そうだ。
「私らああいうの苦手だからさぁ。花菱さんいてくれて助かったよ」
「お安いご用ですよ。これからもどんどん頼っていただければ」
「ありがたや〜」
「さすがお嬢様〜」
いえいえ、と手を振りながら恐縮する……ふりをする。
あくまで、ぼくは体面上『単身で上京してきた箱入りのお嬢様』でなければならない。
『花菱風音』という偽りの
授業を終えて部屋へ戻ると、橘さんが化粧台とにらめっこしていた。
当然ながら衣服は身につけている。
ぼくはというと、いまだに戸惑いを拭い切れない。
しかし橘さんは平然と声をかけてきた。
「ボディソープ。ちょうど切れたから今夜借りると思う。カバン漁っていい?」
あっけらかんとした口調だ。あられもない姿を見られた、なんて恥じらいの意識はどこにもないんだろうな。ぼくは深呼吸して、いつもどおりのトーンで切り返す。
「シームレスにボディケア用品を共有しようとしないでくれる? 気にならないの?」
「そういうの抵抗ある人?」
「抵抗ない人の存在が信じられない」
「口をつけたもの以外なら問題なくない?」
「歪んだ尺度で常識を測ろうとするな。というか、いつもどうしてたのさ」
「置き配頼んでた」
「この寮って通販頼めるんだ……」
「正門で守衛さんが受け取ってくれて、寮の職員さんが一括で取りに行ってくれるみたい」
「思えば、寮住まいの先生もいるから当然の対応ではあるのか……」
ある程度会話を交わして、ようやく気持ちが落ち着いた。
ぐるりと室内を見回す。
この部屋にやってきて、ぼくがはじめにおこなったことはというと––––当然ながら清掃作業だった。橘さんには、まるで人間を魅了して取り込んでしまう妖怪みたいな雰囲気すら感じていたはずなのだけれど、そういった甘い気持ちや同じ空間で過ごす緊張感などは残虐に汚された居住区域の凄惨さの前では無力。『どこで寝ればいいんだ』という絶望しかなかった。
そして当然ながら、今朝きちんと整理整頓をおこなったはずなのだけれど。
「片付けても片付けてもキリがない……」