* 1章 二〇三×年十月二日 栃木県・桧山サーキット * 《1-6》

 目の奥で蛇が這いずり回っているようだった。

 頭が重い。視界が安定しない。額を押えようとするも、手はぴくりとも動かなかった。口を震わせて懸命に酸素を取りこむ。一回、二回、三回。ようやく人心地がついてくる。

 まぶしい。

 誰かがのぞきこんできている。逆光で顔や服装はよく分からない。だがシルエットを見るに、だぼっとしたガウンのようなものを着ているようだ。

 僕は……寝ているのか? なんで? 道端で倒れたのか? それで誰かに介抱されているとか――


「〈復元〉措置、完了。バイタルに問題ありません。メンタルバックアップも復帰済み」


 女性の声にまばたきする。だがその意味を咀嚼するより早く、ガウンの人影が掌をかざしてきた。


「こちらの声が聞こえますか? 手の動きは見えますか」


 は……い。

 答えかけた瞬間、焼けつくような喉の痛みに襲われた。発作的に咳きこんで介抱される。人影が「喋りづらければ、手で合図いただいても」と続けてきた。


「だい……だいじょうぶ……です」


 視力が徐々に回復してくる。人影の正体は手術着姿の男性医師だった。他にも二人、助手らしき人物がいる。周囲の壁はクリーム色で、窓の類いはない。そして自分が寝かされているのは、棺桶と産業ミシンを合わせたような見た目の機材だった。


(3D……バイオプリンター?)


 え? えええ?

 激しい混乱に見舞われながら、それでも頭は回転する。情景と知識が結合して、ありうるべき説明を導く。


「ひょ、ひょっとして、僕は死んだんですか?」


 男性医師が助手と顔を見合わせる。それから硬い 面持ちを向けてきた。


「はい。ここは信濃町の指定救命施設です。あなたは今バイオプリンターによってバックアップから〈復元〉されました」

「な、なんで、どうして」

「説明の前に、まずこちらの確認を行わせてください。お名前と生年月日をうかがえますか?」


 マニュアル通りの確認手順。もどかしく思いつつも、医者として所定の手順を省けないことも分かる。逸る 気持ちを抑えて答えた。


「……園晴壱。生年月日は二〇一×年六月十四日」

「結構です。では最後に覚えている時間と場所を教えてください」

「火曜日……十月二日の……時間は十九時頃だったと思います。宇都宮駅前のシェアオフィスを出て……」


 出て。

 そこから先が思い出せない。周囲に危険なものなどなかったはずなのに、車道からも離れていたのに、突然の事故にあったように記憶が断ち切られている。

 医師達はまた顔を見合わせた。意味ありげに視線を交わして、うかがってくる。


「十月二日十九時、本当ですか? それ以降の記憶はない?」

「ないです」

「まったくですか。断片的にでも覚えていることはありませんか?」

「ありません」


 答えながら不安になる。僕らが〈復元〉措置をする時もここまで執拗に念押ししない。眉をひそめていると、医師はカレンダーを映した。


「園さん。今日は十月五日の金曜日、時間は午前十時です。あなたの死亡時期はまだ調査中ですが、十月三日から四日の間だと思われます。死因は転落死」

「は?」

「落ちたところが人気のない場所で、発見が遅れたんです。宇都宮駅から車で十分ほどの電波塔らしいんですが、記憶にないですか?」


 ない。

 どころか電波塔の存在自体を知らない。

 なぜそんなところに行ったのか? そして落ちたのか? せめて飲み屋の記憶でもあれば、酔っ払った挙げ句の事故とも思えるが、現状だと皆目見当もつかなかった。

 何か事件に巻きこまれたのか? 駅前で暴漢に襲われて、件の場所から突き落とされたとか。だが医者は、逃げ道を塞ぐように続けた。


「ああ、安心してほしいのですが、本件、事件性はないようです。電波塔の監視カメラにあなたの姿が映っていまして、一人で上った挙げ句に、ふらふらして足を踏み外したようです。周囲が暗いので、そうと気にして画像を見ないと分からないようでしたが」

「はぁ」

「ただ、やはり記憶の整合性がこうも取れないケースは希でして、念のためにうかがわせてもらいました。今後、警察の聴取もあると思いますが、今の話で、我々も対応しますので」

「……」

「他に、何か身体や気分の異常はありませんか?」


 今、抱えている混乱は異常のうちに入らないのか。詰りたくなったが、医師からは面倒ごとを避けたい気配がありありと感じ取れた。

 現実問題、心身の不調は感じられない。警察も絡み『事件性なし』の結論が出たのなら、残る問題は記憶の欠落だけだ。そしてバイオプリンターのオペレータにすぎない医師に、バックアップデータの不整合を解決する術はない。そんなことはフィールドサポートのプロである僕が一番よく分かっている。

 渋々「大丈夫です」とうなずく。医師はほっとしたように息をついた。


「結構です。では、これからお知らせする診察室に行ってください。所持品の返却とカウンセラーの対応がありますので」


 空中に案内図と矢印が浮かび上がる。それで仕事はすんだとばかりに医師達は沈黙した。仕方なく頭を下げて、バイオプリンターから下りる。


「ありがとうございました」

「はい。はい、お大事に」


 矢印に示されるまま処置室を出た。

 窓辺の廊下は明るい陽光に満ちている。外の景色は、夜の宇都宮なら絶対にありえない、高層ビル群を望むものだ。一定間隔で配されたARディスプレイに、都内の大手医療法人のロゴが映っている。病院名も確かに信濃町にあるものだ。

 呼び出した時計は十月五日の十時五分を示していた。やはり――あの夜から三日たっている。狐に化かされたみたいだ。理性では『記憶の欠落』という単語を受け止めていても、感情がついてこない。どこかでまだシェアオフィスを出た時の気分を引きずっている。異動がかない、意気揚々と夜の町に繰り出した時の。


(そうだ、会社)


 どうなっているんだろう。

 配属翌日に無断欠勤したのだ。普通なら大騒ぎだろう。警察が事故の連絡を入れたかもしれないが、それも失踪後しばらくたってからの話だ。無理をきいてくれた社長の顔を潰したのでは、そう思うと気が気ではない。早く連絡しなければ、少なくとも人事に安否報告くらいせねば。やきもきしているうちに、矢印が回転した。

 矢尻が右手の部屋を示している。ルームプレートの文字は〝診察室4〟、どうやらここが目的地らしい。

 ノックする。

 ……。

 返事はない。ノブを回すと鍵はかかっていなかった。中は――無人だ。テーブルの上に見慣れた服やハンカチ、鞄が載っている。

 ここでカウンセラーを待てということか。時間がかかるなら会社に連絡したいが、どのくらい余裕があるかも分からない。

 仕方なくテーブルに近寄る。卓上の私物を確認、洗えるものは綺麗にしてあったが、鞄には汚れや凹みが残っていた。


(これって、落ちた時の痕だよな)


 しかめっ面になる。死体がどんな状況だったかは分からない。が、無傷ということはありえまい。血や体液がついているのではと思うと、手に取るのはためらわれた。

 だが今の格好は検査着に毛の生えたようなものだ。いつまでもこのままではいられない。

 細かい染みや破れからは目を逸らし、私服を取り上げる。

 ズボンを穿き 、ベルトを締めて、怖々袖に手を通しているとノックの音が響いた。慌てて「はい」と居住まいを正す。


「はい、どうぞ」


 ガンと無造作に扉が開けられた。

 立っていたのは――若い女だった。カラスの濡れ羽色をした長い黒髪、パンツスーツに包まれた長身。高いヒールをはいているせいで、長い足がより長く見える。

 目元は涼しく優しげだ。だがシニカルな笑みが全てを裏切っている。なんというか、獲物を前にした蛇のような顔。慇懃無礼な借金取りを思わせる面持ち。


「園晴壱さん?」


 女性はにこやかに問いかけてきた。

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セピア×セパレート 復活停止の書影