* 1章 二〇三×年十月二日 栃木県・桧山サーキット * 《1-5》
「あー、繋がってるかな? 最近、無線の具合が悪くて……もしもし?」
「つ、繋がっています」
気弱げな眼差しと幸薄そうな顔は間違いない、昼のニュースで見たものだ。
馬木はほっとしたように眉尻を下げた。
「よかった。その……悪いね、業後にいきなり。ここしか時間が取れなかったので」
「いえ……」
まだ何がどうなっているか分からない。混乱を見て取ったのか、馬木は目を伏せた。
「人事からね、エスカレーションを受けたんだ。前途有望だが無茶な異動希望を出している若手がいる。放置すると辞めかねない。なんとか慰留してもらえないかと」
「社長が? 僕を慰留するんですか?」
「まぁ……他に適任もいないようなので」
なんてことだ。万窓口にもほどがある。ミスター貧乏くじ、二つ名の意味するところを、まだまだ把握し切れていなかった。
「園晴壱君、二十四歳、入社二年目。フィールドサポート部門に所属……か」
パーソナルデータの画面を展開して、読み上げられる。小さな目がわずかに見開かれた。
「優秀みたいだね。今日のロードレース案件でも、急なトラブルを解決したとレポートが上がってきている」
「勘で試したものが、たまたまうまく当たっただけです」
「いや、当たりをつけられるのは重要だよ。よいエンジニアの資質は、そういう勘所をどれだけ知っているかだからね。知識量だけなら、ネットの百科事典にかなう人間はいない……と、これは昔、同僚のエンジニアに言われた話の受け売りなんだけど」
「……」
「で、転部希望はギズモの開発部門と」
弱ったような顔を見て、わずかに残っていた期待が萎む。案の定、続く社長の問いかけは重々しかった。
「なぜ開発なのかな」
「ギズモの中身に触れたいからです。で、もっと便利に、もっと使いやすくしていきたい。技術者としては当然の希望じゃないですか」
「普通のソフトウェア開発なら、その希望は分かる。だけどギズモは普通のソフトウェアじゃない。究極まで安全性をつきつめて、もうこれ以上、問題はないと分かったからリリースされたんだ。つまり現時点でほぼ開発は止まっている。君みたいな若い人間が行っても未来はないよ」
「その方針は変わらないんですか? つまり、ギズモを生身の身体以上にするというプランは」
「ない。ないよ。ただでさえ、生命倫理や人口動態の問題に触れがちなんだ。今の機能から一歩踏み出しただけで、総攻撃を食らうのは目に見えている」
「……」
「誤解を恐れずに言うならば、ギズモは今の時点で完成形なんだ。これ以上の開発は、社会が求めていない」
どんと鉛のような絶望が胃に落ちる。肩の力が抜ける。
「完成形」
漏れ出した声はかすれていた。
「セピアなら……絶対そんな言葉を使わなかったと思います」
「なんだって?」
「荒島セピアですよ。彼女の言った台詞を覚えてませんか? 『進化を止めたその時、システムは死ぬ』って、『私は私の生きている限り、バッズの改良を止めるつもりはない』って」
「待った。待った、園君。君は一体――」
馬木の動きが止まる。ややあって驚きの表情が浮かんだ。「まさか」と呻き声が上がる。
「いや、だが年齢的にはつじつまがあうか。十二年前、バッズのカンファレンスに乱入してきた子供……ひょっとして、あれは君か?」
「はい」
「なんてことだ」
喘ぎ声とともに椅子にもたれかかる。馬木は天を仰ぐと、肺の中の空気を吐き出した。
「いやはや、予想外の展開だ。つまり君はあの時の私のうろたえっぷりを見ていたわけだ。天才達に振り回されて、なすすべもなかった様子を」
「それは……まぁ」
曖昧に濁したが、馬木は空気を抜かれたように萎れた。
「あぁ、今思い出しても胃が痛くなる。所原さんは鷹揚なだけで我関せずだし、一畑さんはまったく連絡がつかないし、立久恵さんは肝心なところで梯子を外すし、セピアはご存じの通り、一切コントロールがきかない。あのイベントが開けたのだって奇跡に近かったんだ。なのに始まったら始まったで、君みたいなイレギュラーが入りこんでくる。本当に毎日、悩みが尽きなくて、誰かの後始末ばかりで、気の休まる暇もなくて」
「……」
だけど、と言葉を切られた。馬木は遠い目になった。
「だけど楽しかった。皆、熱意にあふれて、野放図で、怖い物知らずで」
まじまじと見つめるが、馬木は郷愁に満ちた顔を崩さなかった。「そうかぁ、あの時の子供が」とつぶやく。
「なんだっけか。確か、君がセピアに食ってかかったんだよな。何かのモジュールが意味不明だって」
「必要性が分からないと言ったんです。ソースコードを追ったけれど、あってもなくても影響なさそうで」
「そうそう。で、実はセピア達の悪戯で作ったモジュールで、事情を知った参加者が皆、呆然という」
馬木はひとしきり笑ったあとに、視線を落として、うかがってきた。
「セピアはあのあと連絡をしてきたのかい? プライベートで会いに行くのが報酬、とか言っていたけど」
「いえ――」
だったら、どんなによかっただろう。彼女と一瞬でも直接言葉を交わせていたら。
「何もありませんでした。オーパスに入れば会えるかもと思いましたが、それもなくて。僕にとっては、あのカンファレンスがセピアと話せた最後の機会です」
「そうか」
馬木は瞑目した。疲れたような吐息が漏れる。
「皆、いなくなってしまった。会社は大きくなったが、私の知っている人達はどんどん抜けていった。イノベーションのない企業に居場所はないとね。今では連絡先さえ分からない」
「……」
「君はどうだろう。もし今回の異動希望が通らなかったら、辞めるんだろうか」
「え、あぁ」
意外な流れになったせいで、即答できなかった。だが、誤魔化したところで結論は変わらない。今の状況を長く続けられる自信もなかった。
視線を逸らす 。
「多分……そうなるだろうと思います」
社長は「そうか」と肩を落とした。長い白髪交じりの眉毛がしなだれる。
「分かった。異動を許可しよう」
……。
「え?」
「言葉通りだよ。君の所属は今日付でギズモシステム開発部となる。のちほど辞令と守秘義務契約書を送るからサインしてくれ。ただ、さっきも言ったように開発部の業務は縮小傾向だ。異動してから話が違うと怒らないでくれよ」
中空に『ミーティング終了一分前』の文字が浮かぶ。カウントダウンに気を取られつつ、僕は混乱を露わにした。
「い、いいんですか? その……こんなあっさり、決めてしまって」
「私のところに話が来た時点で、誰も決められないということだからね。問題ないだろう。あちこちから文句は出るだろうが、クレーム処理は慣れている。それに、何よりも」
浮かんだ微笑はどこか気恥ずかしげだった。
「これ以上、昔なじみを失いたくないんでね」
カウントダウンが終わる。接続が切れる。静寂に満たされたブースの中で、僕は崩れるように椅子にもたれかかった。
何が起きたのか分からなかった。ここ数十分の展開に、頭がついていかない。べたに頬をつねってみると普通に痛かった。
「マジか」
異動許可、配属先はギズモシステム開発部。
社長の言葉ははっきりと耳に残っている。幻聴や勘違いではありえない。
それでもまだ半信半疑でいると、着信音が響いた。辞令と守秘義務契約のメッセージが届いている。求められるままに電子署名、返信するとワークフローのステータスが『承認済』に変わる。
異動完了。
(う……ぁああ)
歓喜の震えが込み上げてくる。踊り出しそうになるのを必死にこらえて、拳を握りしめた。
やった、やった。
諦めずに希望を出し続けた甲斐があった。昔の話まで持ち出し、社長に食い下がった甲斐があった。社長の人のよさを揶揄する者もいるが、とんでもない話だ。『ミスター貧乏くじ』なんて二度と呼ぶまい。『聖リンジ・マキ』として聖人の列に加えたいくらいだ。
今後、異動の経緯が社内に広まれば、横紙破りと非難されるかもしれない。半人前の若造がごね得も甚だしい、とか。知ったことか。ギズモのソースコードを見られる、改修に関われる。それに比べたら多少のごたごたなどそよ風のようなものだ。
もう一度、拳を握りしめて深呼吸する。打合せに入る前の憂鬱は霧散していた。意識は晴れ渡り、山頂で眺める夜空のようになっている。
酒が飲みたい。
押し殺されていた生理的欲求が主張を始めていた。腹が減った。喉が渇いた。冷えたビールを飲みたい。仕事? そのあとやればいいだろう。何、一日や二日の徹夜、今のテンションなら十分に耐えられる。
一瞬、赤江に連絡しようかとも思ったが、同席する班員にしたり顔を見せるのもためらわれた。皆、今日の仕事で疲弊している。労いの場に場違いなテンションを持ちこむのも問題だろう。まぁいい。まずは一人で祝杯を挙げる か。
業務用のアプリを全部落として、社内との回線も切断する。
ARメニューからチェックアウトして退室。
ガラス壁越しに見える夜闇は随分濃くなっていた。地方都市の夜は早い。急がないと、入れる店がなくなってしまうかもしれない。
バッズを着用。近隣で高評価の店を探させながら、僕は軽やかな足取りでシェアオフィスを出た。
駅前のロータリーの照明が祝福するように照らしてくる。横断歩道の信号音がファンファーレのように響いてきた。
おお、おお、
そして――僕は意識を失った。