* 1章 二〇三×年十月二日 栃木県・桧山サーキット * 《1-4》
十七時半。
午後のレースの終わりとともに夜の静寂が広がり、サーキットは闇に沈みつつある。
青紫色の地平を背に、影絵と化した鳥達が飛んでいた。肌寒い風がうなじをなでる。アスファルトの熱が徐々に失せて、靴底を冷やしていった。
あらかじめ手配していたチャーター便に機材を押しこみ、僕らは駐車場ゲートを出た。有名ワークスのトランスポーターが残っているが、記念撮影をするメンバーもいない。皆、口数は少ない。無事に作業を終えたとはいえ、明日も仕事だ。誰もが一刻も早く帰りたい様子だった。
「お疲れさん。このあとどうする? 軽く飯でも行くか?」
赤江の誘いに首を振ってみせる。
「やめとくよ。どうせ酒が入るだろう。今日はまだやることがあるし」
「仕事か?」
「週報と工数入力、あとドキュメントレビューが七本」
「OK、またの機会にしよう」
肩を叩いて去っていく。何人かついていくのは、多分奢る約束でもしたのだろう。業務外にご苦労なことだ。
視線を戻すと、一瞬、小柄な女性と目が合った。布崎幾だ。僕と同じく帰るつもりなのか。無視するわけにもいかず、手を上げる。と、全力で目を逸らされた。そのまま明後日の方向に歩いていく。どっと疲労に見舞われた。
重い足取りで、シャトルバスの停留所に赴いた。宙に浮かんだ『発車まであと二分』の文字を横目に、バスに乗りこむ。
最後尾の座席を確保して、ギズモのコンソールを開く。最寄り駅である宇都宮まで約三十分、メールチェックと週報作成くらいできるだろう。到着したら食事をすませて、家までの電車で残りをこなせば効率的だ。
メーラー起動、新着確認、優先順位に基づいてタグづけ、本文表示。
黙々とメッセージを処理していると、今更ながら『何をやっているんだろう』と思えてくる。やりとりの大半は事務的なものだ。社内の業務フローを分かっていれば、ほぼ機械的に処理できる。独創性も自由度の欠片もない。
いっそ自動化してプログラムにやらせればとも思うが、ギズモのセキュリティがそれを許さない。要所要所をシステム化しても、どこかで人の手が必要になってしまう。
今日の〈復元〉トラブルにしたって、もう少し強いシステム権限があれば、早めに異常と分かったはずだ。ソースコードレベルでデバッグできないから、できあいの管理ツールに頼ることになる。不十分な情報で試行錯誤する羽目になる。エンジニアとして、もどかしいことこの上なかった。
もちろん、人体と直結するシステムに、最高のセキュリティが必要なのは理解できる。外部への仕様開示制限も、クラッカー対策として納得できるものだった。
ただ、社内に対しても秘密主義が貫かれているのは正直、予想外だった。
ギズモの開発と運用・保守部門は厳密に分けられて、相互の情報流通は最低限に抑えられている。そして開発部門への配属は、針の穴を通すくらいの狭き門となっていた。何せ開発部門がどこにあるのか、誰が所属しているのかさえ非公開なのだ。他部門の人間はイントラのナレッジベースから、彼らの仕事内容を推し量るしかない。
ネットでは、ギズモOSのクラックを意味する
(なんのためにオーパスで働き続けているのか)
セピアの顔が浮かぶ。
自信に満ちた微笑。未来を見据えるまっすぐな瞳。聞く者の心を震わせる強い語り口。
あんな風になりたいと思った。触れた者に感動をもたらすプロダクトを作りたかった。バッズの市場が縮み出したあとも、ならばギズモで同じことをすればいいと思っていた。だが、度重なる異動希望にもかかわらず、未だに 周辺サポートから離れられない。サポートが開発より格下と言う気はないが、望んでいた仕事と違うのは否めなかった。
もしこのままの日々が続くとしたら、希望した業務につけないとしたら。
ぞくりとする。
目の前が暗くなり、酸素が薄くなった気がした。
冗談じゃない、この年でもう夢破れて余生に入るだなんて。
首を振る。暗澹たる未来絵図を吐き出すように深呼吸する。
(軌道修正するなら……早いほうがいいか)
実のところ、転職エージェントへの登録だけならかなり前にすませている。主に情報収集のためだが、いくつかオファーも受け取っていた。
サブデスクトップにメールボックスをオープン、サブジェクトを斜め読みする。
業界二番手・三番手の開発職、周辺機器のR&D、クラウド基盤の維持・管理。変わり種としては、バッズの修理事業者によるフランチャイズの起業支援なんてものも。
(……どれも、軌道修正というより軌道離脱って感じだよな)
口元を歪める。
オーパスで目指した夢の代わりにはならない。静止衛星の役目が低軌道衛星に務まらないのと同じだ。方角が似通っているだけで、目的地はまったくの別物。
だが、それでも今の状態を続けることと比べれば――
まとまらない考えを弄んでいると、不意に音声チャットの呼び出しがかかった。
見覚えのない発信者だ。所属を調べている余裕はない。通話ボタンをタップする。
『業務時間外に失礼します。人事部配属担当です。今、よろしいですか?』
流れてきた女性の声に呆然とする。反応が遅れたせいか『もしもし?』と聞き直された。慌てて「はい」と返事する。
「はい、すみません。大丈夫です」
『申請された異動希望について、一度話し合いの場を持ちたく、このあと三十分ほど時間をいただけますか?』
「このあとですか?」
『申し訳ありません。関係者の予定調整が厳しく』
関係者って誰だ。
まさか開発部門のマネージャーが出てくるわけでもあるまいに。大方、人事部長あたりに『いい加減、しつこい』と怒られるのだろう。げんなりするが、断っても明日以降に再調整されるだけだ。辞める踏ん切りがついていない以上、余計な波風を立てたくない。
「はい、構いません」
『ありがとうございます。では、十八時半から打合せを入れます。セキュリティレベルは4、物理的対策下でのアクセスをお願いします』
「え?」
時計を見る。時刻は十八時二十分。開始まであと十分しかない。そして〝物理的対策下〟とは施錠された部屋で、他の人間をシャットアウトしろということだ。シャトルバス内ではもちろんかなえようがない。
「ちょっと待って――」と言った時にはもう、回線は切れている。だめ押しのようにミーティングの参加コードが送られてきた。
「くそっ」
バスの到着時間を確認、駅まで残り五分。停留所周辺にシェアオフィスは? 占有ブースの使える場所は? 会社と契約のあるところを必死にピックアップして予約する。停留所からの最短経路を検索して……よし。
バスが停まるなり、夜の町に駆け降りる。無慈悲に刻まれる残り時間を見ないようにして、シェアオフィスへの道を急いでいった。
目的地はコンビニの居抜きと思しき、ガラス張りの建物だった。予約コードのイメージを受付に投げつけて、ブースに入る。施錠してミーティングの参加コードをタップ。
PM18:30。
ギリギリ間に合った。
額の汗をぬぐって、呼吸を整える。
一体どこのお大尽の呼び出しだ。これで本当に人事部長しか出てこなかったら、それこそ辞表を出すぞ。不満と不安を胸に、居住まいを正した時だった。
回線が繋がった。
執務机のイメージの向こうに、馬木社長が投影される。
……。
は?