昨日までの、へらへら笑ってサボっているアホ作家の姿は、そこにはなかった。
ひとり孤独に、火事場装備で赤いティガレックスを狩っていたプロハンター様は、もういない。
かつての俺が想像したとおりの、かっこいい山田エルフ先生が、仕事をしていた。
「…………」
俺は無言で部屋を見回し……それから、棚の上を指でなぞる。
指の腹を見ると、少しばかりのホコリが付着していた。部屋の主は、これまで掃除をかかしたことのないやつだったのに。
「……これは……」
ふと漏らした呟きに、エルフが反応した。ぴくりと肩を震わせ、キーを叩く手を止める。
──その光景に、罪悪感を覚えた。
アーロンチェアのキャスターを回し、エルフは俺の方に振り返る。現実味のない美貌には、深いくまが刻まれている。
いつものロリータ服ではなく、動きやすいスウェットの上下を着ていた。
「……ああ、あんた、来てたの。そっか……今日……三十一日だっけ。……リビングで待っていて頂戴」
老婆のようにしわがれた声だった。
「邪魔しちまったか?」
「………………」
答えはなかった。彼女は俺の声が聞こえなかったように、再びノートパソコンへと向き直り、キーを叩き始めていた。
俺は無言で、足音を立てないように、仕事場から出て行った。
言われたとおり、リビングで待つ。座布団にあぐらをかいて、目をつむって思索に入る。
ピリッと張り詰めた空気が、クリスタルパレスのすべてを覆っていた。
……まさか、あいつにあんな一面があるなんて、な。
意外……じゃーねぇな。むしろああやって仕事に打ち込む姿こそが、読者──俺の思い描いていた『売れっ子作家・山田エルフ先生』のイメージだったのだから。
あの様子なら、きっと、素晴らしい原稿を仕上げてくるに違いない。
「…………ふふ」
俺にとっては都合が悪いことのはずなのに、どうしても嬉しさがこみ上げてくる。
あいつは俺の敵だけれど、俺はずっと、あの人のファンだったから。
一時間ほどしてから、エルフが扉を開けて入ってきた。
バターン!
「待たせたわね!」
白いふりふりロリータ服に、自信過剰なでかい声。
すっかりいつもの調子に戻っている。どうやって消したのか、くまさえなくなっていた。
ノートパソコンと、紙束を抱えている。
エルフは、つかつか俺のそばまでやってくると、バン! と音を立てて、紙束──原稿をローテーブルに叩き付けるように置いた。
「これが、わたしの新作小説よ!」
「…………………………………………………………」
「……なによ、和泉マサムネ。その『有り得ないモノを見た』みたいな顔は」
「いや……だってよ」
仕事に打ち込む姿を見て、やり遂げるとは思っていたが……
改めて目にしてみると信じられん。本当に完成させやがった……。
「お、おまえ……昨日……まだ一文字も書いてないって言っていたよな?」
「ええ、言ったわね。それが?」
それが……って、言っている意味、わかってんのか?
「たった……一日で……原稿を完成させた……のか?」
俺は呆然と、ローテーブルからエルフの原稿を手に取った。
ずしりと重い。きちんと、文庫本一冊分はありそうだ。原稿の一番後ろを開いてみると、フッタに『130』と数字が振ってあった。つまり文庫本換算で二百六十ページ、ということ。
「一日……約二十四時間で、二百六十ページも書いたってのか……?」
驚愕する俺に、エルフは「ふふん」と得意げに笑って見せた。
「いや、いや……ウソだろ? 一日で書ける分量って……がんばっても普通は二百ページくらいだろうが!」
「はいそこ! あんたの感覚もじゅうぶんおかしいから! ……普通は五十ページくらいじゃない?」
え? マジで? そんなもん? 一日五十ページって、俺が平日、放課後に書く枚数より少ないぞ? そんなにチョッピリずつの進行で、プロ作家ってやっていけんの? 一日百ページくらい書かないと、ボツの無間地獄にハマったときに脱出できなくねーか?
『週明け締め切りね。破ったら干す』ってプレッシャーかけられたとき、どうするんだ?
いくつかの疑問を抱いたが、いま問題にしているのはそこじゃねえよな。
「だったら余計におかしいだろう。昨日まで一文字も書いてなかったくせに……どうして今日、いきなり原稿が完成しているんだよ」
「ちっちっちっちっ」
エルフは、ムカつく仕草で指を振った。
「以前、言わなかったかしら──『あんたが負けるときに、見せてあげる』って」
「なんの話──あっ」
思い出した。
『わたしのユニークスキルも、けっこう凄いわよ。使い勝手の悪い玄人向けの能力だけれど、そのぶん決まったときの爆発力は、あんたの〝超速筆〟を凌駕するわ』
くっだらねー妄言だと、すぐに忘れてしまっていたが──
「おまっ……まさかっ……おまえ……!」
「くふふふっ──気付いたようね。ご明察よ、和泉マサムネ」
バッ! エルフは俺の手から原稿を奪い取り、高々と掲げた。
「これぞ『大小説家』たる我が〝能力〟! B級スキル〝完成原稿召喚〟────魔界から完成原稿を召喚した」
「──────」
俺は目を見開いて硬直した。
ば、バカな……ッ! そんな、恐ろしいチートスキルが存在するなんて──!
「──って驚くと思ったか! 噓八百言ってんじゃねーぞ!」
「う、ウソじゃないわよ!」
「ウソつけ! さっき超必死で書いてたろうが!」
「あ、あれはこの原稿じゃなくて! その……そ、そう! ゲームの攻略サイトを見ていただけよ! 遊び! 遊びに熱中していたの!」
完全に図星をつかれた様子で焦るエルフ。
「………………」
じぃ、と半目でエルフの目を見つめる俺。
「な、なによ……」
「ケッ、なーにがサモンダークネスだ! おまえのやり口は『え? 夏休みの宿題? えへへアタシぜんぜんやってないよぉ~♪』のハイエンドバージョンじゃねーか! プロの作家がやるなよタチ悪ィな! わかってんだぞ! いままでも、俺の見てないところで、ちょっとずつ書いてたろ!」
「書いてません~~~~~~~~~~~~~~~~~~! たったいま、魔界から召喚したんですぅ~~~~~~~~~~~!」
こいつはこんなゴミみたいなウソで、人をダマせるとでも思っているのか?
たまにいるんだ。こういう『仕事やってない自慢』するバカ作家が。
そういうのやめろよ。俺、おまえの新刊楽しみにしてるんだから。
俺が冷たい眼差しを向け続けていると、エルフは唇を尖らせた。
「ウソだと思うなら、わたしのノートパソコンを調べてみなさい。どこにもこの原稿のファイルは存在しないから」
『ふふん、どうだ』とばかりに薄い胸を張って、ノートパソコンの蓋を開け、見せてくる。
「……………………ちょ」
いま、なんてった、こいつ……? 自分のPCのハードディスクに、この原稿のファイルは存在しない。よって、自分はこの原稿を書いておらず、魔界から召喚したものである、と……。
そう言ったのか? こ、こいつ……ま、まさか……まさか……。
「消したのか!? 新作の原稿データを! こんなくだらねー小ネタをやるためだけに!?」
「はあ? なにを言っているのかしらこのおバカは……この原稿は、このわたしがスキルによって魔界から召喚したものなのだから、原稿データなんて元より存在しないのよ?」