翌日。六月になり、俺は、いつもどおりの日々へと帰って来ていた。
妹の引きこもりが治ったわけでもなく。
俺の原稿が本になる目処が立ったわけでもない──そういう意味での『いつもどおり』ではあったけれども。
少し前の和泉正宗とは、違うところもいくつかある。
妹の正体を知り、俺の恋心が盛大に相手にバレ、エロマンガ先生と改めて一緒に仕事をする約束をし──『開かずの間』の封印を緩ませることに成功した。
そしてお隣には、売れっ子作家大先生が住んでいる。
「へーっ、ほんとにぜんぶ目の前で読まれちゃったんだ」
「ああ、おまえの言ったとおり、バレバレだった」
「でっしょ~、言ったじゃん。しっかし────そっか、そっかぁ。振られたんだ、あんた」
「……んだよ……にやにやしやがって」
「うへっへっへ、ざまぁ~♪」
くそっ! ムカつくな! こいつ!
いま、俺はクリスタルパレスの仕事場で、エルフと会話をしている。すべての事情を知っているこいつにだけは、ある程度の事情と顚末を、報告しておかねばならなかったからだ。
「俺の方は、そんな感じだけど──そっちはどうなんだ?」
「どうって?」
「いや、だから──原稿だよ。俺との勝負に使ったやつじゃなくて、アニメ化した方の。あれも、先月の末が締め切りだったはずだろう」
「ああ……あれ、ね」
エルフはアーロンチェアに深く腰掛けて、珍しくワープロソフトを起動してはいるのだが、俺が見ている限り、一文字も打ち込んだ様子がない。
ノートパソコンに映っているのは、まっさらな画面のみである。
「ふふふっ──とーぜん、一文字たりとも書いてないわ!」
「得意げに言ってんじゃねーよ! とんでもなくやべえだろそれ!」
アニメ化企画進行中の原稿が、通常の原稿よりもずっと重要で、遅延がシャレにならないなんてのは、メディアミックス未経験の俺ですら想像できる。
出版社や、アニメ製作会社から差し向けられたアサシンが、地の果てまで追っかけてくるんだとか。
「俺との勝負なんてやってる場合じゃなかったんじゃねーの? なんでアニメ化の方を先に書かなかったんだおまえは」
「エロマンガ先生を獲得する方が、アニメ化決まった原稿を進めるよりもずっと、わたしにとってプライオリティが高かったから」
だから先に書いたのよ──と、エルフは平然とそう言った。
……凄まじく面白かったもんな、アレ。どんだけ気合入れて書いたんだか。
よくもまぁ、こいつに負けを認めさせたよ、俺。
にしたって……現時点での進捗ゼロ枚ってのは……。
真の締め切りがいつなのかはしらねえけど……ほんと、大丈夫なのか?
「話を聞いてるだけで胃が痛くなってくるから、例の〝完成原稿召喚〟とやらをさっさと使えよ」
「昨日使ったばかりだから無理ね。〝完成原稿召喚〟を行使するためには、いくつかの条件を満たす必要があるの。たとえば、最低一月の魔力充塡とか……」
こっそり原稿を書く時間がないと使えないんだろ? そう言えよめんどくせえな。
「連発できたら、それこそS級スキルになってしまうわ。いずれはそこまで成長させたいところだけれど、いまのわたしには無理な相談ね」
「おい、おい、山田エルフ大先生、むちゃくちゃ余裕こいてるけど、締め切りブッチしてる現状を、いったい全体どうするつもりなわけ?」
「ふぅぅ~……やむを得ないわね。これだけは使いたくなかったのだけれど」
エルフは物憂げに息を吐き、目をつむって、おごそかにこう唱える。
「C級スキル〝大劣化版時間操作〟────世界の〝時〟をゆがめた……五月の時点でね。やれやれ……今日は五月三十二日、なんとか締め切りを乗り切ったわ」
もちろん乗り切れてないので、この数分後、エルフは修羅場に強制突入させられることになる。仕事部屋まで乗り込んできたグラサン黒服の集団に両腕を摑まれ、黒塗りの外車で連れ去られていく大先生の姿を見送った俺は、『アニメ化って怖えー』と呟くのであった。
それはあくまで数分後の話で、現時点でエルフは、まだ俺の目の前にいる。
彼女は、俺に、こう言った。
「それで? そのあとどうなったの?」
昨日のことを思い出す。
『開かずの間』で、紗霧と向かい合って話した、あのときのことを。
「なぁ、紗霧……俺にも、夢ができたぞ」
「兄さんの──夢?」
俺は大きく頷いた。
「ああ、そうだ。すっげービッグな、俺の夢」
「聞かせてくれるの?」
「もちろん」
俺は立ち上がり、口を大きく広げて笑う。夢を語るときは、笑わなくては。
「俺は、この原稿を本にする。もちろん、このままじゃあ話にならない。練り直して、企画書書いて──担当編集に認めさせて、そんなところから始めないといけない。でも、必ず本にするよ。たくさんの人たちを面白がらせて、主人公やヒロインを好きになってもらって、ばんばん人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ! どうだ? すっげーだろう?」
紗霧は、決して、部屋から外に出ようとしない。
出るのは決まって、誰もいないときだけ。
むりやりに連れ出すことはできない。引き摺り出すことはできない。
さもなくば、彼女の心は壊れてしまう。
その事実を、俺も、俺たちの保護者も、すでに思い知っている──一年前のあのときに。
親父と母さんが帰ってこなかった、そのあとに。
どうすればいいのか──ずっと、ずっと、考え続けてきた。闘い続けてきた。
「それが……兄さんの、夢?」
「違う! 違う! こんなのは前準備だ!」
俺は大げさな仕草で否定した。大ヒットアニメ化の──さらに先があるのだと。
「俺にはもっとでっかい夢がある! うちのリビングに、大きな大きな液晶テレビを買って!バカ高いスピーカーも用意して! 豪勢なケーキにローソクを立ててさ!」
俺は妹と向かい合い、顔と顔を近づけて、熱っぽく語る。
「おまえを部屋から連れだして、二人でアニメを観るんだ! 俺が原作で、おまえがイラストを描いた、俺たちのアニメだ!」
やっとわかった。
俺の夢は、これしかない。
「そうしたら──きっと、すっげー楽しいと思うんだよ! めちゃくちゃ笑えると思うんだ! アニメって、何十万人もの人が、いっぺんに泣いたり笑ったりするんだってよ! そんなスッゲーお祭りの中にいりゃあさ──そんなどえらい馬鹿騒ぎをすりゃあさあ──哀しいことなんて、ふっとんじまうかもしんねーぜ!」
俺が想像できる最大限の幸せを見せてやりたい。
俺にできる最強の楽しさで、妹を泣かせるやつらをブッ飛ばしてやりたい。
俺が、妹のアメノウズメになってやるんだ。
俺は、紗霧のことが大好きで──
俺は、こいつの、兄貴だから。
「それが、俺の夢だ。絶対に叶える、目標だ」
「げほっ、げほっ……」
いっぺんに大声を出したもんだから、咳き込んでしまった。涙も出てきた。まったく俺ってやつは、最後まで締まらねえ──。
「……そっか………今回も、なんだ」
俺の夢を聞いた紗霧は、そうぽつりと零して立ち上がった。そのまま数歩、扉の方へと歩いて行く。
……いま、紗霧のやつ……『今回も』って言ったか?
紗霧は俺に背を向け立ち止まり、さっき投げ捨てたヘッドセットを拾った。
おもむろにそれを被る。
そして──扉を開けて、部屋の外に一歩だけ出て、振り返った。
「! ……お……おまえ……」
ありえない。
こいつの『引きこもり』は、気合や根性でどうにかなるようなものじゃない。
医者もそう言っていたし、俺は身をもって体感したのだ。一年前に。
だから、それは、本当に……
夢のような光景だった。
紗霧は、ふふ、といつもとは違う、自信に満ちた笑みを浮かべる。
「あなたは昔からそうだね、和泉先生」そこで紗霧の声が、変声機を通したエロマンガ先生の声に変わった。「いつもオレに、夢をくれる」
どこかで覚えのある、懐かしい口調だった。
「いいぜ、和泉先生。やってやろうじゃん。そんなに面白そうなコト、ひとりでやらせてたまるかよ。それはあなただけの夢じゃない──オレたち二人の夢にしよう」
俺の妹ではなく、紗霧でもなく、俺の相棒──エロマンガ先生としての言葉だった。
そして『彼』は、ヘッドセットを投げ捨てて、『彼女』へと戻る。
どん、と、いつものように、足で床を鳴らして、
「………おなかすいた」
「…………はは」
笑ってしまった。
初めて知ったよ。胸がいっぱいになったとき、最初に漏れてくる感情はこれなんだなって。
「はいはい、わーったよ。ちっと待ってろ」
夢に向かって踏み出した、初めの一歩。
この日のことを、俺は、生涯忘れないだろう。