「和泉先生……あの人に勝つなんて、ほんとうにすごい」
「お、おう」
ドキドキした。他の誰に褒められるより、嬉しかった。
「悪かったな。ほんとは、おまえに読んでもらって……決めてもらうつもりだったのに」
紗霧は、目をつむって、ゆっくりと首を横に振った。
「必要、ない」
紗霧は、すっとタブレットに描かれたイラストを指さす。
それは、なによりも強い証明だった。
「最初から、そのつもり」
彼女はそこで、右手を差し出してきた。
雰囲気がガラリと変わり、まるで大人びた男性のような口調で──
「──これからもよろしく、和泉先生」
「こちらこそ、よろしくな──エロマンガ先生」
その手を握り返して言ってやると、エロマンガ先生は、女の子みたいに赤くなる。
「そ、そんな名前の人はしらないっ」
久しぶりに聞いたそのフレーズで、ちょっと笑ってしまった。
──めでたしめでたし。
と──そう言って締めくくりたいところだが、この話には続きがある。
そりゃ、そうだよな……。俺がこの部屋にやってきた『本題』は……エロマンガ先生と仲直りをすること、じゃあなかったんだから。
「紗霧……はら、減ってるだろ?」
「……へってるかも」
紗霧がお腹を押さえると、くぅ、と可愛い音が鳴った。
「………………」
紗霧は無言で赤面する。俺は気付かなかったふりをして、立ち上がった。
「待ってな。すぐ、なにか作ってくるよ」
「だめ」
もちろん紗霧も『本題』のことを忘れちゃいなかった。俺のそでをつかんで言った。
「まだ……話の……途中。今度は……和泉先生の番」
紗霧は俺に向かって、掌を差し出した。
「それ、読ませて」
「えっ?」
「新作小説──読ませて」
「あ、ああ! そ、そそそ、そう──だな!」
「? なにを焦っているの?」
「いや、焦ってないよ? ぜんぜんちっとも焦ってないよ?」
「? よくわからないけど……早くちょうだい」
「わ、わかった」
ごくん、と、生唾を飲み込んで──改めて、決死の覚悟を決める。
俺は神器を奉じる仕草で、紗霧に、原稿を差し出した。
エルフに『妹へのラブレター』と評された、俺の小説を。
「じゃあ……読んでくれ」
「? ?? ……へんなの」
もちろん、そうとは知らない紗霧は、原稿をあっさりと受け取り──ごくごく自然にページをめくった。
「いまから、読む」
「お、おう……な、なぁ……紗霧……それ、読んでもらっているうちに、メシ、作ってきてもいいか?」
俺のこの発言は、もちろん、お腹をすかした妹への思いやりからだけ、出たものではない。
返事を待たずに立ち上がった俺のそでを、再び紗霧が摑んで止める。
「だめ。ここにいて」
「な、なんで?」
「兄さんから、すごく逃げたそうな感じがする」
するどいね、おまえ。
「それに、私のイラストは、私の前で見せてあげたのに……ずるい」
「……わーったよ」
ここにいりゃ、いいんだろ! いいぜ、逃げも隠れもしねえ! 当たって砕けろだ!
そうして俺は、目の前で、好きな女の子に、三百ページもある超熱烈なラブレターを読まれるという、恐るべきシチュエーションに立ち向かうことになったのである。
どんな試練だよ、これ! 『銀狼』の主人公だって、こんな窮地には立たされなかったぞ!
「……………………」
俺は、額に脂汗をかきながら、正座で事態を見守った。
原稿に目を落とし、一ページ目を読みはじめた紗霧は……ぴく、と、片眉を撥ねさせる。
げっ! そこは! 一ページ目──つまり、主人公が初めてヒロインと出会い、一目惚れをするシーンだ。……直接そうとは書いていないし……そもそも紗霧とはかなり設定を変えているし……。俺は、エルフに言われるまでバレやしねえと思っていたのだが──。
バレ……ちゃった?
「……………………」
ぱらり。紗霧は、それ以上表情を変えることなくページをめくる。
バレなかったの? バレなかったのか? よし……バレなかったな。そうだよな?
一ページ目から、すでにこんな有様である。
はたして俺の心臓が、三百ページまで持つのかどうか。
「…………………………………………」
ぱらり……ぱらり……ぱらり……ぱらり……。
パジャマ姿の妹が、体育座りで、俺の原稿を読んでいる。
静かな時間が、長く続く。紗霧は赤面したりといった、わかりやすい反応こそしなかったが、時折原稿から顔を上げて、ちら、ちら、と、俺を見るということがあった。
そのたびに俺の心臓は、ビッグバンを起こしそうになる。
ばっくんばっくん、ドラムみたいにビートを刻む。
ちょっと想像してみて欲しい。
好きな人に、ラブレターを直接手渡して──その場で読んでもらうという青春の一幕を。
心を込めて書いたのは、便せん数枚のラブレターだ。思い人が読み終わるのを待っている間……数分間が数時間にも感じられ……死刑判決を待つ囚人のような気分になるはずだ。地獄と天国の狭間で、生きた心地がしないはずだ。そうだろう?
だが、な。……聞いてくれよ。俺が手渡したラブレターは、なんと三百ページもありやがるのだ。相手が読み終わるまで、下手したら二時間近くかかるのだ。
死ぬ! マジで、死んじゃう!
便せん数枚で数時間にも思えるのに……この地獄の拷問は、いったいいつまで続くんだよ!
いっそ殺してくれ!
そんな気分だった。泣きたいくらいだったよ。
もしかしたら、紗霧に、俺の好きな人がバレないかも……という希望があるのがまた……辛い。そんなふうに──いっぱいいっぱいだったものだから、気付けなかった。
「…………………………………………」
いつの間にか、紗霧が……かぁぁ~~~~~~~~~~~~っ、と、耳先まで真っ赤になっている。元々肌が白いから、肌の赤みがすごく目立つ。手も、足も、顔も、全身が恥じらいに染まっていた。
気付かれた、と、思った。
「………………ぅ…………」
原稿を持つ紗霧の手はかちこちで、瞳は〝輪廻眼〟みたいにぐるぐるしている。
息は荒く、不規則で、まるで風邪で発熱しているみたいだ。
「……………………ぅぁ……」
それを至近距離で目撃した俺も、紗霧と似たような状況に陥った。
……終わった。こりゃ……完っ……全に……バレたわ。
紗霧が俺のことをどう思っているのかはわからないが、もしも『逆の立場』だったなら──
『……兄さん……好き』
俺は間違いなくショック死するだろう。
曖昧な体感時間で一分……二分……三分ほどがすぎても、紗霧は固まったまま、ページをめくれずにいる。俺は、勇気を振り絞って、妹に話しかける。
「さ、紗霧?」
「は、はいっ!」
敏感すぎるリアクションが返ってきた。マイクなしで、紗霧がこんなに大きな声を出したのは、初めてかもしれない。
俺は迷った末、きわめて無難な聞き方をした。
「……ど、どうだった?」
「え、ええとっ」
あせあせ、と、原稿を持ったまま紗霧は焦る。
「す、すっごく! 面白いと思う!」
「ほ、ほんとか?」
俺が聞いたのは、そっちじゃなかったのだが──そう言ってもらえて、もちろん嬉しい。
むちゃくちゃ嬉しくて、テンション上がる。
自分のかわいい子供を、褒められたのと同じだから。
「うん。まだ、ぜんぶ読んでないけど──私は、好き」
「そっか……なら、よかった」
「ただ……」
紗霧はぼそっと呟いた。
「ただ?」
「このまま本にするのは……ダメ。他の人にはぜったい読ませられない……恥ずかしい」
ぱっ、と真っ赤な顔を原稿で隠し、再び読み始める。
「…………………………」
たしかに、このままじゃ本にはできないな。読者にはバレなくても、俺たちが恥ずかしい。
それに──
たったひとりの人に読んでもらうために書いたこの物語は、目的を果たして、もう終わってしまっている。続きを書くことは、できない。シリーズ化するためには、書き直さなくては。
穏やかな時間が、続いていた。紗霧は原稿を読み、俺は妹が読み終わるのを待っていた。
紗霧の読む速度は、かなりゆっくりだったけれど、もう焦りはなくなっていた。
そして、やがて……
俺の書いた原稿を最終ページまで読み終えた紗霧は、
「兄さん」
愛をささやくように、こう言った。
「私、好きな人がいるの」
「──────」
俺は、目を見開いて硬直した。引き絞られるような、胸の痛みとともに。
「……そ……っか」
うん……そうだよな。紗霧にだって、引きこもっていたって──好きな人くらい、いるよな。
なにせ、こいつの世界は……すっげー広いんだから。
いまのは『俺の告白』に対する、紗霧の返事だ。
あなたの思いには応えられない。
そう、受け取った。
これでいい、って、そう思った。
これでいいのだ。
だって俺たちは、兄妹なんだから。
俺は、こいつの家族になると、決めたんだから。
「わかった」