俺がいつもの待ち合わせ場所に着くと、眼鏡の幼馴染みは、いつものようにすでに先に着いて待っていてくれた。そしてやはりいつものように、鞄をスカートの前で、ぱたぱた振りながら、にこやかに俺を呼ぶ。
「きょうちゃん、おはようっ」
「おう、おはよう、麻奈実」
ごくごくありふれた、どこにでもある朝の一幕。
あー、安らぐ。やっぱ俺の日常は、こうでなくっちゃいけねーよ。
俺の名前は、高坂京介。近所の高校に通う十七歳。
自分でいうのもなんだが、ごく平凡な男子高校生である。
地味で普通な幼馴染みと、今朝も、のんびりまったり学校に行く。
どうだい、ちょっと羨ましいだろう? 普通っていうのは、周りと足並み揃えて、地に足つけて生きるってことで。無難ってのは、危険が少ないってことだ。
凡庸万歳。ビバ、普通の人生だ。
でもまあ、非凡で危険な生き方も、あれはあれでいいもんだよな。
と──最近はそんなふうにも思えるようになってきた。
楽しくて、賑やかで、ときに痛々しくて恥ずかしい。
我が道つらぬく、地に足つけない、空を飛ぶような生き方。
俺はそいつを、この身をもって体験したってわけ。
「きょ、きょうちゃん。どうしたのーっ、その顔」
「ん? ああ、これか」
そんなに驚かれるほど地味なツラをしてるのかと思ったわ。ま、それは否定しねえけど、麻奈実が言ったのは、俺の顔面にでかでかと張られた湿布薬のことだろう。
「まあ、なんだ。……色々あってな」
まったくなあ。ほんっと色々あったもんだ……。俺の人生の中でも、ここしばらくの出来事は、特別濃厚で──たぶん一生忘れられない。
クソ生意気で、俺のことをゴミみてーに嫌っている妹。秘密の趣味と、人生相談。
俺はあいつと、ここしばらくで何十年分もの会話をかわした。いままで知ろうともしなかったあいつのことを、ほんのちょっぴりくれーは、分かった気がする。
だけどな。それで俺たちの冷めた関係が変わったかというと、そんなわけもない。
相変わらず俺は、妹のことが大キレーだし、どうでもいいと思ってるし。
あいつはあいつでいままでどおり、今朝も俺を、路傍の石ころみたいに無視してくれたぜ。
ま、世の中そんなもんよ。そうそう変わりゃしねえって。
ふん、おかしいと思うかい? あんだけイベントこなして、あんだけ尽力してやったんだから。妹の好感度は、その分ぐーんと上がってなきゃあワリに合わねーだろうって?
冗談じゃねーよ! 気味悪い想像させんなや! 第一ゲームじゃねえんだからさ、人生ってのは基本ワリに合わねーもんだと思うよ? 特になぜか俺の人生はな!
おおっと、興奮して話が逸れたな。戻そう戻そう。えーとな。確かに昨日、俺は、妹を助けてやったさ。親父を説得して、あいつの趣味を認めさせてやった。
だけどそんなのはさ。別に、感謝されたくてやったわけじゃねーのよ。見返りを求めてやったわけじゃあない。どっかの誰かの台詞じゃねーけどさあ。
俺は、俺のやりたいようにやっただけなんだ。自分勝手に、お節介を焼いただけ。
だからその結果、得られる対価ってのは、自分の中にある。誰かにもらうもんじゃあない。
「そっか……。色々あったんだぁ……」
「おうよ。色々あったのさ」
もらうもんじゃあねえんだけど。
「お疲れさま、きょうちゃん。……頑張ったねぇ」
事情を全然知らない幼馴染みの、そんなゆるーいねぎらいだけで。
「まーな」
俺は、十分に報われた。
その日の放課後。学校から帰宅すると、いつぞやと同じように、妹がリビングで電話をしているところだった。
「ただいま」
一応の礼儀として挨拶してみるが、返事がないどころか、こっちをチラリとも見やしない。
セーラー服姿の桐乃は、ソファに深く腰掛け、超短いスカートで足を組み、携帯に向かって何やら楽しそうにけらけら笑いを振りまいている。
その笑顔はなるほどかわいかったが、それが俺に向けられることは今後もないだろう。
とか思っていたら、
「はああっ!? ちゃんと観たのアンタ!? DVD版の方だよ!? じゃあどうしてそういう結論になるワケ!? 信じらんないっ、これだから邪気眼女の感性はさあ──! ……も、いい。……アンタいい加減、厨二病卒業した方がいいよ。じゃあね」
どんな会話だよ……。
電話を切るや、乱暴に携帯を放り投げた桐乃に、俺はかなり引いてしまった。
ま、こいつはこいつで、以前とは、少し変わったのかもしれねーな。
俺なしでも上手くやってんじゃん……なぁ?
なにはともあれ、これで桐乃の悩みは解決だ。
だから今度こそ、ガラでもねえ人生相談……俺の役目はおしまいだ。
俺は心の中で独りごち、ぱかんと冷蔵庫を開けた。パックの麦茶を取り出し、グラスに注いで一気にあおる。
ふぅ……万感の想いで息を吐く。
安心感と、満足感と、ほんの少しの寂しさが脳裏を過ぎる。
俺は肩をすくめて、その場を後にしようとしたのだが。
「ねぇ」
「……あん?」
ドアノブに手を掛けたところで呼び止められ、俺は振り向いた。
すると妹は、いつものすげない口調で、とんでもねえことを口走った。
「人生相談、まだあるから」
……………………マジで?
あまりの絶望に、俺は、じわ……と、目に涙を滲ませた。
ドアノブを握り締めたまま、固まる。
「それと──一応、えと……」
そんな俺に、桐乃は、口ごもりながら目を合わせる。
たった一言。照れくさそうに微笑んで、
「ありがとね、兄貴」
はっきりと、そう言った。
それから、ふいっとそっぽを向いてしまう。
心なしか、頰が赤かったかもしれない。
「…………………………」
俺は、大口開けて、目ぇ見開いて、啞然とするしかなかったね。
だってよ。幾らなんでも、ありえねぇだろうが……。
自分の目と耳を盛大に疑いながら、俺はこう想ったのさ。
俺の妹が、こんなに可愛いわけがない──ってな。