1 外れた世界

 坂井悠二は、怪物に喰われつつあった。

 それは、日常から、わずか五分の距離。



 突然、炎が視界を満たした。

 レストランや飲み屋の立ち並ぶ繁華街、そこに流れ、悠二を混じらせていた雑踏、全てを染めていた夕日が強く揺らいだかのような……澄みつつも不思議と深い赤の、炎が。

 その最初の瞬間、悠二は、


「え」


 と、ただそれだけしか言えなかった。

 驚き戸惑う内に、ひたすら異常な光景の中に、悠二は孤立していた。

 周りを壁のように囲み、その向こうを霞ませる陽炎の歪み。

 足下に火の線で描かれる、文字とも図形ともつかない奇怪な紋章。

 歩みの途中、不自然な体勢で、瞬き一つせずピタリと静止する人々。


「…………?」


 悠二は呆然と、自分を取り巻くこれらを眺める。

 常人が取る当然の反応として、これは悪趣味な夢だと思い込もうとする、その現実逃避が、

 雑踏の真中に降ってきたものによって粉々に砕かれた。


「っな!?」


 その何かが着地する衝撃で悠二は覚め、そして見た。

 降ってきた何かが、雑踏の真中に、そびえている。

 奇妙なもの……いや、その形や、元になったものは知っているが、それがどうしてそんな風になっているのかが理解できない、そんなもの。

 一つは、マヨネーズのマスコットキャラそっくりな、三頭身の人形。

 もう一つは、有髪無髪のマネキンの首を固めた玉。

 いずれも、人の身の丈の倍はあった。


(……なんの、冗談だよ……?)


 それが悠二の率直な感想だった。もはや悪夢さえ通り越した、まったく馬鹿な眺めだった。

 しかし、それらは現に、目の前にいる。

 その怪物たち、人形が巨体を揺り動かしてはしゃぎながら、耳まで裂けるように、

 首玉がけたたましい声を幾重にも重ねて、横一線にぱっくりと、

 口を開けた。

 途端に、止まっていた人々が猛烈な勢いで燃え上がった。それは、彼らに囲まれる悠二を焼くこともなく、熱さも感じさせない、しかし異常に明るい、炎。

 この中で、悠二は麻痺するように立ち尽くしていた。

 ただ、見ている。

 こんな出来事の中で、それ以外に何ができるというのか。

 その、半ば虚ろになった瞳に、映る。

 燃える人々の炎の先端が、細い糸のようになって宙へと伸び、怪物たちの口の中に吸い込まれていくのが。

 その内にある人々は、服も焦げず肌も爛れない。しかし、怪物たちに吸われるにつれ、炎に揺らぐ姿が、だんだんと輪郭をぼやけさせ、薄れ……そして、小さくなっていく。

 燃える炎も、内にある人も。

 最初はキャンプファイヤーほどの大きさだったものが、すぐに焚き火ほどになり、さらに松明から蠟燭の灯ほどへと、小さく、小さく……。

 悠二は、その炎が吸われてゆく様を放心して見ていた。

 見る内に、まばらに点る灯の中に一人、ぽつん、と取り残されるように立っている。

 そんな彼の姿に、怪物が二つして、ようやく気付いた。

 人形が首だけをぐるりと回し、傾げた。


「ん〜? なんだい、こいつ」


 悠二は、その子供っぽい声が、自分を指していると気付くのに数秒かかった。


「……あ」


 と間抜けな声をあげる悠二を、可愛いマスコットキャラの、しかし巨大な瞳が睨んでいる。

 いつしか首玉も丸ごと向き直っていた。真中にぱっくりと開いた口から、女の声で言う。


「さあ? 御〝ともがら〟では……ないわね」

「でも、封絶の中で動いてるよ」

「〝ミステス〟……それも飛びっきりの変わり種ということかしら。久しぶりの嬉しいお土産ね。ご主人様もお喜びになられるわ」

「やったあ、僕達、お手柄だ!!」


 人形が、ズシン、と粗雑な作りの大足を一歩、踏み出した。元の形がユーモラスなだけに、巨体ではしゃぎ、耳元まで裂けた口でニタリと笑う様は、おぞ気を誘う不気味さを持っていた。


「じゃ、さっそく……」


 巨大な人形が悠二に向かって、地を揺るがし、走り寄って来る。土管ほどもある腕を、ぬうっ、と差し伸ばして。


「……あ、あ……?」


 パニックを起こして騒ぐには、目の前に迫るものはあまりに異常で、圧倒的過ぎた。悠二にできたのは、せいぜい後ずさるくらいだった。

 しかし、その一歩を下がる間さえ与えられない。

 悠二は視界を覆うような掌に、腹を乱暴につかまれた。その暴力の衝撃がスイッチとなったかのように、全身にようやく恐怖の震えが湧きあがってくる。


「……う! うわ……」


 もう、何をするにも遅すぎた。

 持ち上げられ、振り回され、そして、

 その行く先は、自分を軽く一吞みにできる……頭半分を切って開けられたような大口。

 絶叫さえ上げられない。

 目を見開いて、冷や汗をびっしりとかいて、ただこの光景に翻弄されるだけ。


「いただきま─────す!!」



 こうして、悠二は喰われる運びとなった。

 それは、日常から、わずか五分の距離。

 そして、そこから外れた長い道の、始まり。



 凄まじい重さと勢いを持った、小さな何者かが落下してくる。

 その落下の先端である爪先が、首玉の頂点に打ち込まれた。


「っぎ、ごぉ!?」


 首玉が持つ口、全身の小さなもの、真中の大きなもの、それらから一斉に、圧迫への絶叫が上がった。あまりの踏みつけの圧力に、首玉は半ば以上を砕けた路面にめりこませる。

 何者かは、着地と打撃を兼ねた一撃の力を、細くしなやかな足を曲げて溜め、さらに跳躍。

 今度の先端は、鋭く輝く、刃。

 悠二を口の中に放り込もうとした人形が、がちん、と空気だけを嚙んだ。


「っ!?」


 人形がふと見れば、目の前に、今喰おうとしていた獲物が、ぐるぐると宙を舞っている。

 自分の腕ごと。


「──っ」


 すっぱりと、肘から先を断ち切られた、自分の腕ごと。


「っうぎゃああああああああ!!」


 片腕をいつしか失っていた人形は叫び、よろめく。斬られた断面からは、血ではなく薄白い火花がバチバチと散っていた。

 その身の毛もよだつ叫びの中、悠二は地面に叩きつけられた。


「うぐ!!」


 自分をつかんでいた巨腕がクッションになったためか、さほどの衝撃はなかったが、それでも二、三メートルは落下している。悠二は息を詰まらせて、そのまま地面に突っ伏した。

 目の前で、切り落とされた巨腕が薄白い火花となって散る。

 眩暈を紛らす、その光の薄れた後に、悠二は見出す。


(……誰……?)


 自分と人形の間に屹立する、小さな、しかし力に満ちた、背中を。

 焼けた鉄のように灼熱の赤を点す長い髪が、

 マントのような黒寂びたコートが、

 着地の余韻になびき、揺れていた。

 コートの袖先から覗く可憐な指が、戦慄の美を流す、大きな刀を握っている。

 少女、らしい。

 灼熱の赤を点す、しかし柔らかな質感を持つ髪が、ゆっくりと地に引かれ、腰の下まで伸びる。その動きに取り残されるように、赤い火の粉が散った。

 悠二は、周りの状況も、置かれた立場も忘れて見入った。

 火の粉を舞い咲かせて屹立する、灼熱の髪の少女を。

 圧倒的な存在感だった。

 その向こうで、口を耳まで裂いて叫ぶ巨大な人形など、ただの背景に過ぎなかった。


「どう、アラストール?」


 不意に、背を向けたまま少女が言った。凛とした、しかしどこか幼さを残したこの声に、


「〝ともがら〟ではない。いずれも、ただの〝燐子りんね〟だ」


 と姿の見えない誰かが答えた。こちらは遠雷のように重く低い響きを持った、男の声。


「うあぁぁあぁ! よくも、よくも僕の腕ををを!!」


 その会話を遮るように、人形が鼓膜を引っかくような絶叫をあげる。残った腕を宙に振りかざし、握り拳を作った。

 少女はそれを軽く見上げると同時に右手を振って、刀の切っ先を鋭く後ろに流す。その背後の路面にへたりこんでいる悠二の、側頭部ギリギリで刀の峰が止まる。


「─っ!」


 悠二が息を詰めた、そのときには既に、少女の体は振った方向に思い切り捻られて、左手が柄の端を握っていた。刀身を右の奥から振り抜くための構え。

 人形の、頭身が低い分だけ巨大な握り拳が、少女を叩き潰さんと降ってくる。


「潰れちゃえ───!!」


 その拳の軌道が予定の半分も行かない間に、

 少女は人形の膝元に踏み込んでいた。

 もう刀は振り抜かれている。

 少女はその振り抜いた勢いのまま体を九十度回し、人形の真横へと後ろ跳びに下がる。


「!?」


 人形の拳の軌道が突然狂った。腕は出鱈目な方向に振られ、人形はその勢いでひっくり返った。自重で、顔を路面に激突させる。人形は、わけが分からない。


「ぎえっ、あ?」


 振動に揺れる、そのつぶらに描かれた巨大な眼が、とある物を見つけ、驚きに開かれる。

 地面に、自分の足が一本、膝から下だけ残って立っていた。

 少女が膝元に潜り込んだとき、神速、支えとなる足を一本、叩き斬っていたのだ。

 足が、すぐに薄白い火花となって散る。

 その火花の向こうから、少女が地に倒れた彼(?)を、傲然と見下していた。

 火の粉を撒いてなびく長い髪と同じ、灼熱の輝きを点した、二つの瞳で。


「え、え、炎髪と、灼眼……!」


 驚愕に震える声が、人形の口からもれた。自分が、最悪の部類に入る敵に喧嘩を売られたのだと、ようやく気付いたのだった。

 少女は、自分の身の丈ほどもある刀を右手だけで、その重さを感じさせることなく簡単に振りかぶる。倒れた人形に向けて歩き出す、その一歩ごとに、髪から火の粉が舞い散ってゆく。

 殺伐の美に満ちたこの光景を、悠二は身動きすることも忘れて見入る。

 その終わりは呆気ない。


「う、うああ……っ」


 何か言いかけてもがいた人形の頭部を、少女は無造作に片手斬りで両断した。



 人形が薄白い火花を弾けさせ消滅してから数秒、ようやく少女は悠二の方を見た。刀を右手に下げて、ゆっくり歩いてくる。

 まだ路面に座り込んでいた悠二は、初めて少女を観察することができた。

 今までの異常な状況と圧倒的な存在感で気付かなかったが、少女の背丈は、百四十センチ前後。自分が立てば、その胸までしかないだろう。年もせいぜい十一、二というところだった。

 ただし、その整った顔立ちには、あどけなさが微塵も感じられない。無表情だが、それは硬直の類ではなく、強い意志によって引き締められたものだと、一目でわかる。

 凛々しい、と表現できる顔を、悠二は生まれて初めて見たような気がした。つなぎのような皮の上下と黒寂びたコート、物騒極まりない抜き身の刀さえ、彼女には相応しく思える。

 そしてなにより印象的なのは、焼けた鉄のように灼熱の赤を点す、瞳と髪。

 その、幻想的と言うには、あまりに強烈過ぎる姿が、悠二の目の前にそびえる。


「……あ、その……ありがとう」


 悠二は、我ながら芸がない、と思いつつも礼を言った。実際、格好をつけても様にならない状況ではある。

 しかし少女は、その悠二の声を全く無視して、言う。


「ふ〜ん、コレ……〝ミステス〟ね?」

「……?」


 その、返答ではなさそうな言葉の意味を悠二が訊く前に、少女の胸元から、さっきも聞こえた男の声が答える。


「うむ」


 少女の胸元にはペンダントが下げられていた。

 銀の鎖を繫いだ、指先大の黒く澱んだ球。その周りを金色のリングが二つ、交叉する形でかけられている。優美な美術品のようでもあり、精巧な機械のようでもある。

 どういう仕組みなのか、男の声は、そのペンダントの中から出ているらしかった。


「封絶の中でも動けるとは、よほど特異な代物を蔵しているのだろ……」


 不意に、悠二の背後で轟音。

 少女に蹴り潰されて地面に埋まっていた首玉が、砲弾のように彼らに向けて飛んでいた。


「え」


 振り向こうとした悠二の鼻先を掠めるように、


「っ!?」


 少女の強烈な前蹴りが打ち出される。真反対からの、強烈な刺突を受けた首玉は、あらぬ方向へと弾き飛ばされた。側のレストランを砕いて、まためりこむ。

 少女は、蹴りの反動で路面に刺さった軸足を抜くと、濛々と土煙を上げるレストランに向けて歩き出す。

 動揺していた悠二は、取り残される恐怖から思わず少女のコートの裾をつかんだが、少女はすげなくそれを払った。

 その、取り残された悠二に向けて、少女の真反対から人影が飛んでくる。

 人影は、悠二の背を狙って手を伸ばす。

 少女が振り返り様、刀を一閃する。

 悠二の頭上すれすれを、横薙ぎの斬撃が通り過ぎる。

 これら、四半秒もない流れを経て、悠二が気付けば、誰かの悲鳴が上がっていた。


「っぐぎ!」


 背後で、誰かが路面に落ちた。

 振り向いた悠二の目の前に、女性のものらしい、切り落とされた腕が転がっていた。


「な、うわっ……!?」


 思わず腰を引いた悠二の前で、その腕はさっきの巨大な人形と同じように、薄白い火花となって消える。

 その火花の向こうに、切られた腕を押さえてうめく女性がうずくまっていた。滑らかで乾いた質感を持つ金髪の奥で、美しいが、妙に無機的な顔が苦痛に歪んでいる。

 少女は一歩進んで悠二の傍らに立ち、刀の切っ先を美女に突きつける。


「ふん、『逃げるにしても、せめて〝ミステス〟の中身くらいはいただく』ってわけ? こんなに簡単に釣れちゃうと、かえって拍子抜けしちゃうわ」

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