そして彼女は、古城が第四真祖であることを知る、数少ない人間の一人でもある。世界最強の吸血鬼などという非常識な体質になった古城が、一般人と同じように学校に通えているのも、那月が裏から手を回してくれたおかげなのだ。
だから古城は、どうしても那月には頭が上がらない。そのせいで、しばしば彼女の個人的な稼業の手伝いをさせられたりもするのだが、そういう運命なのだと諦めるしかなかった。
「ああ、そういえば、ちょっと訊きたいことがあったんですけど」
古城は、ふと思い出して顔を上げた。那月が鬱陶しげな目つきで古城を見返す。
「なんだ」
「獅子王機関……って知ってます?」
古城の問いかけに那月は沈黙し、露骨に不機嫌な表情を浮かべて立ち上がった。
「どうしておまえが、その名前を知っている?」
「いや、知ってるというか、ちょっと小耳に挟んだだけなんだけど」
「ほう。そうか、それは詳しく事情を聞かせてもらいたいものだな。挟んだのは、この耳か?」
そう言って那月は、古城の耳を容赦なく引っ張った。痛て痛て、と古城は悲鳴を上げ、
「……もしかして、なにか怒ってます?」
「嫌な名前を聞いて、少々むかついているだけだ。連中は私らの商売敵だからな」
荒々しく息を吐き、那月は古城を解放した。古城は伸びきった耳たぶを押さえながら、
「商売敵って……国家攻魔官の?」
「ついでに言うと連中はおまえの天敵だ」
那月が、古城を見下ろして冷ややかに警告する。
「たとえ真祖が相手でも、やつらは本気で殺しに来るぞ。連中はそのために造られたんだからな。獅子王機関の関係者には、せいぜい近づかないようにするんだな」
「……造られた?」
古城が怪訝顔で訊き返す。が、那月は、喋りすぎた、というふうに舌打ちして、それ以上、なにも言おうとはしなかった。
結局、獅子王機関には近づくな、というのが那月の答えらしい。
「あ、そうだ。那月ちゃん。中等部の職員室って、今日は開いてますかね?」
教室から出て行こうとする那月を呼び止めて、古城が再び質問する。那月は怪訝そうに眉を寄せ、
「中等部におまえがなんの用だ、暁?」
「ああ、いや。妹んとこの担任の笹崎先生にちょっと頼みたいことがあって」
「岬に?」
那月が嫌そうに顔をしかめる。そういえば彼女は、中等部の教師である笹崎岬と同じ大学の出身で、なぜか二人は恐ろしく仲が悪いらしい。案の定、那月は露骨に刺々しい表情になって、
「中等部のやつらのことなど私が知るか。自分で行って確かめろ」
「……そうします」
古城は素直に那月の言葉に従うことにした。ここで下手にこの話題を引きずるのはまずい、と本能的に判断する。
しかしその程度のことで、へそを曲げた那月の機嫌が回復するはずもなく、
「それからな、古城」
「はい?」
那月が黒レースの扇子を一閃した。どんな術を使ったのか、その瞬間、普通の人間なら頭蓋骨が陥没するくらいの衝撃が古城の額を襲った。古城はそのまま仰向けに転倒する。
「なんであいつが笹崎先生で私が那月ちゃん呼ばわりなんだ!? 私をちゃん付けで呼ぶな!」
スカートをふわりと翻すと、那月は乱暴にそう言い残して立ち去っていく。
「くそ……体罰反対……だぜ」
天井を見上げたまま額を押さえ、古城は弱々しく呟いた。
6
彩海学園は、中高一貫教育の共学校だ。生徒数は合計で千二百人弱といったところ。都市の性質上、若い世代の人口が多い絃神市では、ありふれた規模の学校だといえる。
しかし慢性的な土地不足は、しょせん人工物である絃神島の宿命で、学園の敷地も、広々としているとは言いがたい。体育館やプール、学食などの多くの施設は中等部と高等部の共用で、そのため高等部の敷地内で中等部の生徒の姿を見かける機会も意外に多い。
一方、高等部の生徒が、中等部を訪れることは稀だった。その必要がないからだ。
おかげで古城はどことなく懐かしいような、居心地悪いような気分を味わいながら、久々に訪れた中等部の職員室にぼんやりと立っている。
古城の手の中に握られているのは、昨日ショッピングモールで拾った白い財布だった。
姫柊雪菜の落とし物だ。
凪沙に聞いた話が本当なら、あの槍使いの少女は、彩海学園の中等部に転入してくることになっているらしい。財布に入っていた学生証も、凪沙の証言を裏付けている。
となれば、これは警察に届けるよりも、担任教師の手から姫柊雪菜に返してもらうのが手っ取り早い。そう思って、わざわざ中等部までやってきたのだが、
「済まんな、暁。今日は笹崎先生は来てないそうだ」
顔見知りの老教師にそう言われて、古城の計画はいきなり頓挫する。
「あ、そっすか……」
「なにか届け物か? こちらで預かっておこうか?」
「ええ、まあ……そうなんですけど、今日のところは出直します。ちょっと面倒な代物なんで」
古城は老教師に礼を言って、職員室を後にした。夏休み終了まであと二日、ということで、笹崎岬も残り少ない休暇を満喫中らしい。
面倒なことになった、と古城は思う。
できることなら、この財布はさっさと持ち主に突き返してしまいたかったのだ。でなければ、あの短気な中学生にあらぬ誤解を受けて、いきなり槍で突き殺されることにもなりかねない。獅子王機関には近づくな、という那月の言葉も気にかかる。しかし現金が入った財布の返却を担任でもない教師に任せるのは、さすがに無責任な気がして頼む気になれなかった。
渡り廊下の柱にもたれて、古城はぼんやりと校庭を眺める。
真夏の昼間ということもあって、部活中の生徒の姿は多くない。それでもグラウンドには、ちらほらと自主練習中の運動部員たちの姿があった。
校舎の影の中ではチアリーダーたちがダンスの練習中。テニスコートでは部員同士の練習試合が行われているらしい。ひらひらと揺れる女子部員たちのスコートを見ていると、ついつい昨日の姫柊雪菜のことを思い出してしまう。
魔族の男たちをものともせずに叩き伏せた異様なまでの戦闘力と、吸血鬼の眷獣を一瞬で消滅させた銀の槍。そしてスカートを押さえて顔を真っ赤にしていた姿と、パステルカラーのパンツ。なにしろ衝撃的な光景だったので、忘れようと思っても、そうそう忘れられるものではなかった。得体の知れない部分もあるが、実際、綺麗な子ではあったのだ。
それに脚も綺麗だったし──と何気なく考えて、古城は小さく舌打ちする。
軽い目眩に襲われると同時に、激しい喉の渇きを覚えたのだ。非常によくない徴候だった。
「せめて連絡先がわかるものでも入ってればな……」
思考を切り替えるために慌てて校庭から目を逸らし、古城は拾った財布を開いてみる。高級品というわけでもなさそうだが、丁寧に扱われているのがわかる綺麗な財布だった。
かすかにいい匂いがする。
財布本体はありふれた布製の既製品で、つまりこの匂いは、持ち主の残り香なのだろう。香水のような強い匂いではなく、柔らかく心地いい香りだった。まあ要するに、女の子の匂い、ということなのだろうが──
無意識にそんなことを思った瞬間、今度こそ、古城の全身を異様な渇きが襲ってきた。
「う……」
まずい、と古城は自分の口元を覆った。
青ざめた顔でその場に膝を突き、小さく肩を震わせる。よりによってこんなときに、と唇を歪める。その唇の隙間から、鋭く尖った犬歯がのぞいた。
傍目には、古城が吐き気をこらえているように見えただろう。
だが、古城はべつに体調を崩したわけではない。古城を苦しめているのは、単なる生理現象。ただし吸血鬼に特有の忌まわしく厄介な症状だった。吸血衝動、だ。
──やばいやばいやばいやばい……!