唐突な凪沙の質問に、古城はわけがわからず訊き返す。
転校前の転校生に、いったいなにができるというのか。しかし凪沙はどこか不機嫌そうな、真面目な表情で兄を見返し、
「だって訊かれたんだよ、その子に。あたしが自己紹介したら、お兄さんがいるかって。どんな人かって」
「……なんで?」
「あたしのほうが訊きたいよ。てっきり古城君と前にどこかで会ったことがあるんだと思ってたんだけど」
「いや、年下の知り合いはいないと思うが……」
古城は腕を組んで考えこんだ。漠然となにか嫌な予感がする。
「で、おまえはなんて答えたんだ?」
「いちおうちゃんと説明しておいたけど、あることないこと」
「なにぃ?」
「うそうそ、本当のことしか話してないよ。この島に来る前に住んでた街のこととか、学校の成績とか、好きな食べ物とか、好きなグラビアアイドルとか、あとは矢瀬っちとか浅葱ちゃんのこととか、あとは中等部のときの大失恋の話もしたかなあ……」
淀みなく答える凪沙を睨んで、古城は苛々と奥歯を鳴らす。
「おまえな……なんで初対面の相手に、そういうことをペラペラと話すわけ?」
「いや、だって可愛い子だったし?」
凪沙は悪びれない口調で言った。予想された答えではあった。ただでさえいつも誰かと喋りたくてうずうずしている凪沙に、秘密を守らせるのは至難の業なのだ。そのくせ本当に言いたいことは、決して言葉にしようとしない難儀な性格でもあるのだが。
「女の子が古城君に興味を持つ機会なんて、滅多にないからさ、少しでもお役に立てばと思ったんだよね」
「うそつけ……単におまえが話したかっただけだろ」
古城は投げやりな態度で息を吐いた。寝不足で働きが鈍っていた頭の片隅に、そのときふと不吉な考えが浮かんでくる。間違っても知り合いと呼べるような関係ではないが、約一名だけ心当たりがある。古城のことを調べようとしていた可能性のある中学生に。
「ちょっと待て。その転校生はなんて名前だ?」
「うん、なんか変わった名字だったよ。えっと……そう、王女様みたいなヒラヒラした感じの」
「ヒラヒラ? もしかして姫柊のことか?」
ますます膨れ上がる不吉な予感に、古城が苦々しく訊き返す。凪沙が表情を明るくして、
「あ、そうそれ! 姫柊雪菜ちゃん」
「……あいつが凪沙のクラスの転校生……だと!?」
「そうだよ。やっぱり古城君の知り合いだったの? ねえねえ、どこで知り合ったの? 凪沙にもちゃんと説明してよ、ねえ。古城君ってば!」
凪沙がなにかを叫び続けていたが、古城は聞いていなかった。
古城が考えていたのは、彼をさんざん尾けまわした挙げ句に、吸血鬼の眷獣を一撃で消滅させた、あの槍使いの少女のことだけだ。
その彼女が、古城の妹と同じクラスに転入してきたのだという。いったいどうして? なんのために? 苦悩する古城の全身を、嫌な汗が噴き出して濡らす。
いつの間にか眠気は完全に消えていた。
5
南宮那月は、彩海学園の英語教師だった。
年齢は自称二十六歳だが、実際はそれよりもかなり若く見える。美人というよりも美少女、あるいは幼女という言葉が似合うほどだ。
顔の輪郭も体つきもとにかく小柄で、まるで人形のようでもある。
その一方、どこかの華族の血を引いているとかで、妙な威厳とカリスマ性があったりもする。そのせいか教師としては有能で、生徒からの評判も悪くなかった。
ひとつの問題を除いては、だが。
「あのー……暑くないんすか、那月ちゃん?」
うだるような猛暑の中で、だらしなく制服を着崩した古城が訊く。追試会場の教室にいる生徒は古城一人。もちろんエアコンなどという人道的な発明品を使わせてもらえるわけもない。
真昼の太陽光線が降り注ぎ、窓から絶え間なく熱風が吹きこむ地獄のような環境で、古城は年下にしか見えない担任教師監督の下、『後期原始人の神話の型の研究』なる怪しい英文を翻訳させられている。もはやこうなると追試というより、懲罰や拷問という呼び名のほうが相応しい。
「教師をちゃん付けで呼ぶなと言ってるだろう」
教壇の中央。どこからか勝手に運んできたビロード張りの豪華な椅子にもたれ、淹れたての熱い紅茶を飲みながら、那月が気取った声で答えてくる。
彼女が着ているのはレースアップした黒のワンピース。襟元や袖口からはフリルがのぞいて、腰回りは編み上げのコルセットで飾り立てている。ゴスロリと呼ぶには少々上品だが、見た目の暑苦しさでは大差ない。しかし那月は、黒レースの扇子で優雅に自分を煽ぎながら、
「この程度の暑さなど、夏の有明に比べれば、どうということはない」
「いや……見てるこっちのほうが暑いんですけどね」
よくわからんなあ、と古城は頰杖をつく。
これがカリスマ教師、南宮那月の唯一最大の欠点だった。彼女のファッションセンスには、時と場所をわきまえるという要素が決定的に欠落しているのだ。この熱帯の人工島において、那月の暑苦しいドレスはそれだけで視覚への暴力である。似合ってないわけではないのだが。
「それでいったいなにを飲んでるんですか、自分だけ」
「うむ。セイロンのキャンディ茶葉をベースに、ハーブで軽くフレーバーをつけてみた。適量のブランデーが紅茶の味わいを引き立てているな」
「補習を受けてる生徒の前でアルコールの匂いを振りまくのもどうかと思うんですが……俺はもう帰ってもいいですかね?」
「酒でも飲まなきゃ夏休みに試験監督なんかやってられるか。採点するから少し待て」
洋酒の匂いを漂わせながら、那月は、古城がどうにか書き終えた追試の解答用紙をつまみ上げた。馬鹿馬鹿しいくらい採点が速い。間違った箇所に赤ペンででかいバツ印をいくつか書き、
「ふん。まあ、いいだろう。残りの試験勉強も済ませておけよ」
「へーい」
気の抜けた声でそう言うと、古城は机の上の荷物を片づけ始めた。那月はティーカップを傾けながら、それを黙って眺めていたが、
「そうだ、暁。昨日、アイランド・ウエストのショッピングモールで、眷獣をぶっ放したバカな吸血鬼がいたらしい。おまえ、なにか知らないか?」
「え?」
担任教師の唐突な質問に、古城は思わず動きを止めた。
西地区のショッピングモール。眷獣。吸血鬼。心当たりがありすぎた。しかし、そのことを那月に話すわけにはいかなかった。なにしろ昨日の騒ぎには、姫柊雪菜が絡んでいる。
もしも彼女が、事件の参考人として事情聴取を受けたりしたら、古城としても困るのだ。なぜなら第四真祖などという吸血鬼は、この絃神市には、存在しないことになっているからだ。つまり古城は未登録魔族なのである。特区警備隊あたりに正体をバラされたら、非常に面倒なことになる。
古城は、錆びついた歯車のようなぎこちない動きで首を振った。那月は、ふん、と息を吐き、
「そうか。ならいい。私はてっきり、おまえの正体を知って尾け回していた攻魔師が、そこらの野良吸血鬼と遭遇して揉めたんじゃないかと心配していたんだ」
まるで見て来たような口振りでそんなことを言う。あまりにも正確な那月の推理に、古城は引き攣った笑みを浮かべ、
「は、ははっ……まさかそんな……」
「そうだな。まあいい。なにか気づいたことがあったら、私に知らせろ」
そう言って那月は、意外にあっさりと引き下がった。古城が安堵の息を吐く。偉そうな口調のせいでわかりづらいが、古城を心配していたという彼女の言葉はたぶん噓ではないのだろう。
英語教師、南宮那月のもうひとつの肩書きは攻魔師だ。
魔族特区内の教育機関には、生徒保護のため、一定の割合で国家攻魔官の資格を持つ職員を配置することが条例で義務づけられており、那月もその一人なのだった。しかも彼女は、実戦経験者。特区警備隊の指導教官も兼任している、現役のプロ攻魔師である。