第一話 「人の痛みが分かる国」①
─I See You.─
緑の海の中に、茶色の線が延びていた。
それは土を簡単に固めただけの道で、西へ向かってまっすぐ走っていた。辺り一面には膝ほどの高さの草が、風の通り抜けるさまを示すように、緩やかに波打っていた。近くにも遠くにも、木は一本も見えない。
道の真ん中を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。後部にあるキャリアには、薄汚れた鞄がくくりつけられている。
モトラドはエンジン音を響かせながら、かなりのスピードで走っているが、たまに左右にぐらつく。そのたびに運転手はあわててハンドルを切り、体を傾け、進路の修正をした。
運転手の体軀は細い。黒いジャケットを着て、腰を太いベルトで締めていた。ベルトにはポーチがいくつかついて、後ろにはハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルスターをつけている。その中には自動作動式パースエイダーが一丁、グリップを上にして入っていた。
右腿にはもう一丁、リヴォルバータイプのハンド・パースエイダーがホルスターに収まっている。抜け落ちないように、ハンマーがホルスターから短く伸びた紐を嚙んでいた。
帽子は飛行帽のような、前だけに鍔がついたもので、防寒用に耳を覆うたれがついていた。たれはゴーグルのバンドで押さえつけられ、あまりが風でバタバタと暴れている。代わりに帽子本体が風圧ですっ飛んでいくのを防いでいた。
ゴーグルの下の表情は若い。目の大きな、整った精悍な顔つきだが、今はどことなく疲れた顔をしていた。
モトラドが運転手に言った。
「まったくもって、キノが何を考えているのか分からないよ。食べる物があるんだから、食べればいいのに」
キノと呼ばれた運転手はこう言い返した。
「せっかく町が見えるのに、携帯食料なんて食べられないよ」
彼らの進む道の先には、町の外壁がぼんやり見えていた。
「それに保存食は最後に食べるための物だ」
その瞬間、前輪が路面のでこぼこにはじかれてバランスを崩しかけ、再びモトラドがぐらついた。キノがあわてて直す。
「うわあ!」
「ごめん、エルメス」
キノはさすがに少し速度を落とした。エルメスと呼ばれたモトラドがぼやく。
「まったく。それにあの国に食べ物があるとはかぎらないよ。人間が一人もいなかったら、どうするつもり?」
「そうだな、その時は……」
「その時は?」
「その時さ」
外壁の前までたどり着いて、キノはエルメスを停止させた。高い城壁の前には堀があり、跳ね上げ式の橋があった。
キノはその橋の手前にある小さな建物に目をつけ、エルメスからおりようとした。途端にエルメスがぐらついて、キノは自分がサイドスタンドを出していないことに気がついた。エルメスを支えようとして力が入らず、そのまま左側に倒れた。
「ああ、なんてこったい! キノともあろうお方が立ちゴケをするとは。はい、さっさと起こす起こす!」
横になったエルメスが心底呆れた様子で言う。キノはエルメスをすぐに起こそうとしたが、その動きが途中で止まってしまった。
「ちょいと?」
エルメスが聞く。キノは蚊の鳴くような声で答えた。
「お腹がすいて、力が入らない……」
「だから昼に食べればよかったのに……。いいかいキノ、何度も言うけれどモトラドの運転はスポーツなんだ。自転車ほどではないにしろ、ただ走っているだけでかなりのエネルギーを消耗する。やがて自分でも分からないうちに力が入らなくなって、さらに頭も回らなくなる。そうなると、普段はできるとっさの対応ができなくなるんだよ。その結果簡単なミスが事故につながり……。ちょっと? キノ、聞いてる?」
その建物の中には誰もいなかった。
代わりに大きな自動販売機のような機械が置いてあった。それはキノが入ると同時に作動し、いくつかの簡単な質問をして、あっという間に入国の許可を出した。橋がおりてきた。
「ずいぶんと早かったね」
戻ってきたキノに、サイドスタンドで立っているエルメスが聞いた。
「変だな」
キノはエルメスに跨ると、エンジンをかけた。
「何がさ?」
「あの中に人間が一人もいなかった。機械だけ」
キノはエルメスを発進させ、橋を渡っていく。
「町に入っても、誰も見かけなかったりして」
エルメスがおどけた調子で言った。
そしてそのとおりになった。
「食べた?」
「食べた」
キノは満足そうに答えながら、建物の前に止めたエルメスに戻ってきた。
「誰か、いた?」
「誰も」
キノは短くそう言って、エルメスに跨った。そして辺りを見回した。
太い舗装道路が一本あり、その両脇に平屋の建物がいくつも建っていた。今キノが出てきた建物には『レストラン』と看板が出ていた。
通りには広い歩道もあり、街灯と街路樹が規則的に並んでいた。少し先に十字路があって、信号機もある。道はまっすぐ進んでいる。その先は、森だ。緑しか見えない。
後ろには先ほどくぐってきた城壁が見えて、その左右の先はぼやけて見えなかった。ここから見るだけでも、この町は大変に広く、そしてひたすら真っ平らだということが分かる。
「誰もいないで料理が出てきたの?」
「ああ。全て機械がやってくれた。おいしかった」
「変な町」
それより少し前、キノとエルメスが町に入ると、そこには誰一人いなかった。町は立派で、通りもよく整備されている。しかし人間の姿がどこにも見えない。
すると一台の車が走ってきて、キノとエルメスの前で止まった。ドアが開いて、その中から誰も出てこなかった。代わりにまた機械が出てきて、入国歓迎の挨拶をひとしきり述べた後、町の地図を差し出してきた。キノが受け取ると、ドアを閉めながら車は去っていった。
キノはとりあえず、何か食堂がないか探した。やがて近くにレストランを見つけ、一人で入っていったがやはり誰もいなかった。しかし店内は広く、きれいに掃除されていた。
キノを出迎えたのは車椅子にコンピューターを載せて腕をつけたような機械で、そいつが注文を取った。キノはスパゲッティによく似た食べ物と、何の肉か分からないステーキと、見たこともない色のフルーツを頼んだ。しばらくするとやはり機械によって料理が運ばれて、キノはそれを食べた。機械にお金を払った。
猛烈に安かった。
そして、機械に見送られて店を出た。
キノは近くにあった案内板で、エルメスの燃料を補給できるところを探し、走ってそこまで行った。相変わらず誰も見かけない。途中で走っている車を見つけて追いついてみたら、無人の清掃車だった。誰もいない燃料ステーションで、キノはエルメスに燃料を入れた。ただ同然の値段だった。
今度はホテルを探す。そして行ってみると、そこには誰もいなかった。
豪奢なホテルは外も中もきれいに掃除され、ホールの大理石は輝いていた。フロントには機械が鎮座し、全ての仕事をテキパキとこなしていく。値段はやはり、安かった。
キノはエルメスを押しながら部屋に入った。今までキノが見たことがない、とてつもなく豪華な部屋だった。キノは案内役の機械に、本当にこの部屋でいいのか、ランクを間違えていないのか、ボクは王様ではないけどそのことを知っているのか、後で大金を請求されても絶対に払えないが了承してくれるのか、何度も何度も確認した。
「びんぼーしょー」
エルメスがぼそっと言った。