第一話 「人の痛みが分かる国」②
キノは、意味なく広いバスルームでシャワーを浴びて、下着と肌着を替えた。自分で服を洗おうとして、ホテルに洗濯サービスがあることに気がつき、頼んでみた。やはり機械が取りに来て、明日の朝にはできあがると言って去っていった。
キノとエルメスは、もらった地図を絨毯の上に最大に広げて見た。
今いるホテルは、入ってきた町の入り口からすぐ近くの、『東ゲート・ショッピング街』と書かれたエリアにある。円形の町は広く、先ほどキノ達が走ったのはほんの端っこだけにすぎなかった。
町の中央部には『中枢・政治エリア』と書かれた円形のエリアがあり、薄い赤で塗られていた。南にはかなり大きな湖が水色で書いてあった。他には茶色に塗られた、『工場・研究所』エリアが町の北のはずれにあった。
そして、それら以外は全て、薄緑色で塗られた『居住エリア』だった。それは町の面積の半分以上になる。
「人が住んでるんじゃん」
「これだけの機械を作って、それらが全てきちんと作動しているんだ。それは誰かがいるだろう。少なくとも、この前みたいに後一人しか残っていない、ってことはないね」
「じゃあ、どうして誰も見かけないと思う?」
「そうだな、考えられる原因は……、たとえば宗教的な何かで外出できないとか、休日とか、昼寝の時間とか。あるいは、この辺には住んでないだけかもしれない」
「すると……、居住エリア?」
「たぶん」
「よし! 行ってみよう! キノ」
エルメスが興奮して大声を上げたが、キノは首を横に振りながら、
「いいや、もう今日はだめだ。今から行ったら日が沈むまでに戻ってこれないよ。町中とはいえ、夜は走りたくない。それに」
「それに?」
「眠い。ボクは寝る」
「はあ? いつもならまだ起きてる時間だよ」
エルメスがそう言った時には、キノはホルスターからパースエイダーを抜いて、それとジャケットを手に持ち、ふらふらとベッドに向かっていた。
「確かにそうなんだけれど……。ボクはね、エルメス、きれいなベッドがあると無性に横になりたくなるんだ。同時に眠くなる……」
それだけ言うとキノは、ジャケットを広いベッドの縁に掛け、パースエイダーを枕の下に敷いた。そしてばふっとふかふかの布団に倒れ込んで、しあわせー、と小さな声で言ったかと思うと、すぐに寝てしまった。
「びんぼーしょー」
エルメスがぼそっと言った。
翌朝、キノは夜明けと同時に起きた。
部屋の荷物受けに、昨日頼んだ洗濯物が入っていた。全て新品同様になっていた。
キノは二丁のハンド・パースエイダーの整備を始めた。
後ろ腰につける自動式の一丁、キノはこれを『森の人』と呼ぶ。二二LR弾を使う、細いシルエットのパースエイダーだ。弾丸の破壊力は少ないが、長いバレルに適度の重さがあり、命中精度がいい。
キノは『森の人』の弾倉から弾丸を出して、別の弾倉に詰め直して装塡した。
もう一丁の腿に吊っているパースエイダー、通称『カノン』は、単手動作式のリヴォルバーだ。単手動作式とは、一発撃つごとにハンマーを手で上げる必要のあるシステムのことで、引き金を引くだけで撃てるのはダブルアクションと呼ばれる。
『カノン』は、薬莢を使わない。火薬と弾丸が直接シリンダーに詰まっている。したがって再装塡するためには、いちいち火薬と弾丸と雷管を手で詰める必要がある。雷管は小さな火薬入りのキャップのことで、シリンダーのおしりにつけて、ハンマーがこれを叩いて火薬に引火させる。
キノは『カノン』のシリンダーを空の物と交換して、何度も抜き撃ちの練習をした。
その後シャワーを浴びた。
ロビー近くのレストランに行くと、キノ一人のためだけに、バッフェスタイルの食事がテーブルにずらりと用意されていた。
機械がフライパンを用意して、どんなオムレツでも作りますよ、と言った。
キノはとりあえず、食事代が宿泊料に入っているか、しっかりと確認した。
それから一日分食いだめをするように食べると、部屋に戻ってきた。満腹のあまりしばらく休んだ。
そして太陽もだいぶ上がった頃、キノはエルメスを叩いて起こした。荷物を全てエルメスに積み込み、一応ホテルをチェックアウトした。そして地図を見ながら、『居住エリア』へ向かった。
『居住エリア』は、ほとんど森だった。太い木々が茂り、小川がいくつも流れている。鳥の鳴き声が響き、適度にしめった空気はさわやかだった。
舗装されていない細い道を、キノとエルメスは走った。
そして、ところどころに家はあった。全て様式が同じ、平屋の広い家で、まるで森の中に隠されるように建っていた。隣家までの距離は相当離れていた。
キノとエルメスはしばらく、誰かと会えるかと森の中の道を走った。そして、誰にも会えなかった。
キノは家が見える位置でエルメスを止めてみた。廃屋には必ず何かうすら寒い雰囲気があるが、ここにはそれがなかった。他の国で見かけるのと同じように、人の住んでいる暖かみが感じられる家だった。
しばらく見ていたが、人の姿は見えなかった。あまりその場にいても失礼なので、キノはエルメスを発進させた。
そして、結局誰一人の姿を見かけることもなく、町の中心、『中枢・政治エリア』に出てしまった。
森はビルになり、道は舗装されて広くなる。そして、相変わらず誰も見えなかった。動いている車を追いかけてみると、またしても無人清掃車だった。
キノとエルメスは、高いビルの一つに入った。エレベーターで最上階まで上がると、全周見渡せる展望室があった。
キノとエルメスは、きれいに掃除された、そして誰もいない展望室から町を眺めた。遠くに城壁が薄く見えて、地図のとおりに緑が広がっていた。
隣のビルの中にも、人間の姿はない。いろいろな形状の機械がせっせと掃除をしているだけだった。
キノは狙撃用のスコープを荷物から取り出した。倍率を変えながら、森の中の家を覗き見していった。
「ホントはあまり感心できないけどね」
エルメスがつぶやいた。
しばらくして、
「見つけたよ。人だ」
キノがスコープから目を離さずに言った。
「ホント? ほんとに?」
エルメスが大声を出した。
「ああ、家の前に一人。普通の男の人だ。何か運動をしている。……離れた別の家にも一人。中年の女性だ。庭で……、何をしてるんだろう……。あ、家に入っちゃった。別の家には、電気がついてる部屋もある」
キノはそこで覗きを止めて、スコープを荷物に戻した。
「言ったとおりだろ。人はいるんだ」
「うん。さっきもそんな雰囲気あったしね。それにしても、なんで一人も見かけないんだろうね?」
エルメスの質問に、キノは展望室のベンチに座りながら、
「それが分からない。初めはボク達旅人が珍しいか、怖いのかと思った。でも」
「でも?」
「それなら仲のいい住人同士で会って、楽しく過ごしたっていいだろ。この国には、彼ら同士で会っている形跡もまったくない。出かけてる人もいない。まるで全員が家に閉じこもってるみたいだ」
キノは、もう一度窓の外を見た。清潔でよく整った町並み。自然あふれる森の中の居住エリア。町としての機能は、今まで見てきた中では一番優れていた。
「なんでだろう?」
キノがつぶやいた。



