第一話 「人の痛みが分かる国」③

 それからキノとエルメスは、『工場・研究所』エリアまで走って、完全自動制御の工場を見学した。懇切丁寧に説明してくれたガイドさんは、やはり機械だった。

 キノはその機械に、なぜこの国の人間を一人も見かけないのか訊ねたが、答えは返ってこなかった。

 夕方、辺りが暗くなる前に、キノとエルメスは昨晩泊まったホテルに戻ってきた。別のホテルを探してもよかったが、朝食がおいしかったとのキノの要望で、わざわざ町を横断して東ゲートまで戻ってきた。

 その間、誰一人として見かけることはなかった。


 次の日の朝、キノは朝食を、やはり食いだめした。

 エルメスの燃料を補給し、携帯食料を買い込むと、西に向けて町中を突っ切るように走り始めた。真西のゲートから出国するつもりだった。

 早朝の森の中に、エルメスのエンジン音が響きわたった。キノはあまり居住エリアで騒音をたてたくなかったが、こればかりは仕方がなかった。なるべくエンジンを回さないようにゆっくり走っていった。

 森の中になだらかな丘があって、キノはその頂上でエンジンを切った。坂道をそのまま下っていった。

 キノは家が見えるたびに、誰か見えないかとさっと覗いてみるが、誰も見えない。しばらくして坂をおりきり、すこし惰性で走って、エルメスは止まった。

 キノはエルメスのエンジンをかけようとした。その時、かちゃかちゃと人工の音が聞こえ、キノは辺りを見回した。

 道から少し離れたところに、家の庭らしく整理された草が生えている。そのそばで、一人の男がしゃがんで、小さな機械をいじっていた。

 男は機械の修理に集中して、キノにもエルメスにも気がついていなかった。エルメスがささやき声で、


「おお。こんな近くで目撃された、初めての人間」


 まるで珍獣でも発見したかのように言った。

 キノはエルメスを押しながら、こっそりと近づいた。そして、男に声をかけた。


「おはようございます」

「うわあぁ!」


 男が跳ね上がって驚いた。キノとエルメスに振り向く。三十歳ほどの、黒縁の眼鏡をかけた男だった。彼の顔には、まるで幽霊でも見たような驚愕の表情が浮かんでいた。そして言った。


「な、ななななななななななななななあ、なな……」


 男は完全に、ろれつが回っていなかった。


「大丈夫ですか? すいません驚かしてしまって」


 キノが言った。


「だだだだだ、だあだだえれだだ……。いいいいついつつついうつ……」


 男の言葉は意味をなしていなかった。エルメスが、


「キノ、言葉が違うんじゃない? 彼はこれできちんと自己紹介をしているんだ。『エレダダ・イイツイ』さんかな?」

「いや、そんなはずはないと思うけど……」

「ききき君達は……」


 男がなんとかそれだけ言うと、エルメスが、


「ありゃ? ホントだ」

「きき君達、私の思っていることが分からないのか?」


 男がキノとエルメスを指さしながら、いきなりそう叫んだ。


「はあ?」


 エルメスが正直な返事を返した。キノは首を傾げた。

 すると男は、パニック状態から急激な回復をみせた。表情がすっ、と和らいでいき、普通の顔をあっという間に通り越して、とうとう嬉しくてたまらないといった顔になった。そして確認をするように、大声で聞いた。


「君達! 僕が何を思っているのか分からないのかい?」

「分かりません。何をおっしゃっているかは分かりますが」


 キノは冷静に言った。

 それを聞いた男は、興奮しきった様子で、まるで喜びのあまり狂死しそうな勢いで、たたみかけるように言った。


「そうだろう! 僕にも君達の思いは『聞こえ』ない! ……ああ、なんてこったい! なんてこったい! 君達旅の人かい? そうだよな! そうだろうな! いいいいい、一緒にお茶でもどうだい! ひ、ひょっとしてもう出発かい? 頼むよ!」

「まだ出発は延ばせますけれど……。よろしかったら、この国ではどうして人が表に出てこないのか教えてもらえますか?」


 キノの質問に男は大きく頷きながら走り寄ってきて、大声で叫んだ。


「ああもちろんさ! 全部話してあげるよ!」



 森の中の細い道を少し行くと、男の家があった。

 キノとエルメスは、明るくて広い部屋に案内された。しゃれた造りの木のテーブルとイス。湾曲している大きな窓の向こうには、きれいに手入れをされた森の中の庭が広がっている。鮮やかな花や、ハーブらしい草がいくつも並んでいた。

 家には他に誰もいなかった。誰かがいる気配もなかった。

 キノはコートを脱いでイスに座った。エルメスはその脇に、センタースタンドで立っていた。


「はい、どうぞ」


 男がマグカップをテーブルに置いた。


「庭で取れた草で作ったお茶さ。お口に合うか分からないけれど、この国ではよく飲まれているんだ」


 キノはお茶の香りをかいだ。


「面白い香りです。なんていうお茶ですか?」

「ドクダミ茶っていう」


 それを聞いたエルメスが、思わず叫んだ。


「ドク? 毒が入っているの? キノ、飲んじゃだめだよ」


 キノはエルメスのような無礼な言い方はしなかったが、すぐに飲むことはしなかった。キノはマグカップをのぞき込んで、それから男に確認するように聞いた。


「毒、のお茶なんですか? 初めての人が飲んでも大丈夫ですか?」


 すると男はくすくすと笑いながら、


「君達は本当に旅人だなあ。あ、ごめんよ笑って。からかっているわけじゃないんだ。ドクダミっていうのは、毒のあるって意味じゃない。毒を矯める、止めるって意味だよ。……ははは、そうだよなあ、普通毒ナントカ茶なんて初めて聞いたら変なふうに思うよな。それに……、なんとい……て……」


 最後は言葉になっていなかった。話しながら彼の表情は笑い顔から、またしても普通の顔を飛び越え泣き顔へと変化して、そしてとうとう声を出しながら泣き出してしまった。

 キノとエルメスは一体何が起こったのか分からず、しばらく泣く男を見ていた。

 彼はぼろぼろ涙を落としながら、時たま鼻をすすりながら、ゆっくりと喋り出した。


「他の人と……、こうやって会話を交わすのは……、何年ぶりになるだろう……。十年かな、いやもっとかもしれない……」


 しばらくして、キノが言った。


「お話、お願いできますか?」


 男は眼鏡を外して涙を拭いた。鼻をかんだ。そして何度も頷きながら、


「ああいいとも、もちろんだ。今から説明するよ。なぜこの国の人間がお互いに顔を合わせないのか」


 男は最後の涙を拭いた。そして眼鏡をかけて、キノの顔を見た。ゆっくりと息を吐いて、そして話し始めた。

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