第一話 「人の痛みが分かる国」⑤
キノが聞いた。男はそれに素直に答えるように、
「それから、僕達は自分や他人の考えが分かるということの恐ろしさに、ようやく気がついた。自分の思うこと。他人の思うこと。それが全て筒抜け状態なんて、進化でもなんでもなかったんだよ。まあ、そのことに気がついたのは進化だったかもしれないけどね……。いいや、ただの進歩かな? 『他人の痛みが分かればその人に優しくできる。もっと人はお互いを尊敬し合える』なんて、とんでもない大噓だった。自分が痛くない時に、痛みが伝わってしまうなんてことは、結局損以外の何物でもないんだ。別にそれで最初の持ち主の痛みが消えるわけではないしね。……この混乱の解決方法は、たった一つだけだった。それは他人と離れること。数十メートル離れれば、遠くの音が聞こえなくなるように、思いも伝わらなくなる……」
「なるほど、そういう訳かあ」
エルメスが心底感心した様子で言った。
「そういう訳さ。つまりこの国の人間は全員、本当に本物の、想像ではないピュアな対人恐怖症になってしまったんだ。でもその後、そのおかげで機械がさらに発達して、この国ではそれでも生活できるようになってしまった。だからみんな、今でも森の中の離れた家で一人で生きているんだ。自分だけの空間で、自分だけが楽しいことをして……。この国では、もう十年近く子供が生まれていない。だからそのうちに滅びるだろうね。でもそれは僕が死んだ後だから、気にしても仕方がないけれど」
男は立ち上がると、後ろにある機械のスイッチを入れた。音楽が流れ出した。それは電子フィドルが奏でる、穏やかな曲だった。
キノはしばらく聴いて、
「すてきな曲ですね」
それを聞いた男は、ほんの少し微笑んで、
「僕はこの曲が大好きだ。十数年前にこの国で流行った曲だけどね。これを聴いて、僕はいつもとても感動してしまうけれど、そんな時思うんだ。『他の人はこの曲を聴いた時に、自分と同じように感動するのだろうか?』ってね。昔は恋人と一緒に聴いた。彼女もいい曲だって言ってくれたけれど、本当のところ、彼女はどう思っていたんだろう? そして今の君、キノさんはどう感じているんだろうね……。でも、その答えは知りたくはない」
そう言って、目を閉じた。
しばらくして曲は終わった。
「じゃあ、キノさん。パースエイダー有段者の君に言うことじゃないかもしれないけれど、道中気をつけて」
家のガレージの前で男が言った。キノは帽子をかぶりゴーグルをはめて、エルメスはエンジンをアイドリングしていた。騒々しい排気音が響いている。
「そんなことはないですよ。気をつけます」
「エルメス君も」
「ありがと」
「君達と話ができて、とても楽しかった。できれば最初の日に会いたかったけれど……、それは仕方ないね」
男はそう言って、肩をすくめて微笑んだ。
「お茶、ごちそうさまでした。おいしかったです」
キノはそう言ってエルメスに跨った。前に体重をかけて、スタンドを外した。
そして、エルメスを発進しようとしてギアを入れた。
その時、
「あ! あの! ちょっと、いいかな。もう一つだけ言いたいことがあるんだ」
男があわてて言った。キノはエルメスのエンジンを止めた。辺りはすっ、と静かになった。
男はキノとエルメスにもう一歩近づくと、一度深呼吸をして、
「あ、あのっ! もしよかったら、し、しばらくここで一緒に暮らさないかい? ここは安全だし、人に会えないことを除いたら、とっても居心地がいい。落ち着いて自分の好きなことができるよ。エルメス君も、どうかな? この町を拠点にして旅をしてもいいし。その、もし、キノさんさえよければ、僕と……」
キノはしばらく、いきなりそれだけを言い放った男をじっと見た。
そして、軽く首を振って、
「申し訳ないんですが……。ボクは旅を続けたいと思います」
キノがそう言うと、男は焦りながら、
「そ、そうか……。いやっ、その、変なこと言ってわ、わるかった。いや、あ、その……」
しどろもどろになった。彼の顔は真っ赤だった。
キノは黙ってエルメスのエンジンをかけた。
男の顔を見た。顔を上げた男と目があって、キノは微笑んだ。
それを見た男は驚いて、やがて彼も照れたように微笑んだ。
男は軽く右手を振った。
キノは微笑んだまま軽く首を傾げた。
それから前を向いて、エルメスを発進させた。
モトラドが走り去っていくのを見ながら、男は思った。
国を出てからしばらく、ぼんやりとした草原の道をキノとエルメスは走っていた。だいぶ傾いた太陽が、そろそろキノの視野に入りかけている。
「キノぉ。最後にあの人としばらく見つめ合っていたじゃん」
エルメスが突然聞いた。
「ん? ああ」
「ラブラブだったのかい?」
「はあ? なんだいそれ?」
エルメスのからかうような言い方に、キノが呆れ顔で返事をした。
「あの男の人と結婚するんじゃないかと、端で見ていてハラハラだったよ」
エルメスが今度は真剣な口調でそう言うと、キノは笑いながら。
「そんなことはないよ」
「ならいいけど」
エルメスはそう言って、しばらく黙った。
それから、こうつぶやいた。
「それにしても、キノに惚れるなんて。なんて変わったシュミのお方だ」
モトラドは草原の道を走っていく。
しばらくしてから、ふと思い出すようにキノが言った。
「あの人は最後にボクを見て、『死なないでね』って思ってくれたような気がするよ」
「ふーん。それで?」
「だから、ボクは『ありがとう』って返事をしたのさ」
キノはそう言って、くすっと笑った。
「なるほど。でもそれ、向こうにきちんと伝わったかな」
エルメスが聞くと、キノは微笑んだまま、きっぱりとこう答えた。
「さあね」



