第一章 戦死者ゼロの戦場
その戦場に、死者はいない。
『──それでは、本日の戦況をお知らせします』
『第一七戦区に侵入した帝国軍無人機、〈レギオン〉機甲部隊は、我がサンマグノリア共和国の誇る
サンマグノリア共和国第一区、共和国首都リベルテ・エト・エガリテのメインストリートは、九年にも渡る戦時下とは思えぬ平和さで美しさだ。
彫刻に飾られた白亜のファサードが壮麗な、石造りの
市庁舎の青屋根で誇らしく翻るのは革命の聖女マグノリアの肖像旗と共和国国旗の五色旗で、それは自由と平等、博愛と正義と高潔を表す。綿密な都市計画に基づいて広々とまっすぐな、精緻な石畳のメインストリート。
月の銀色の瞳を輝かせた幼い男の子が、両親と手を繫いで楽しげな高い笑い声で行き過ぎる。
おめかしして、お出かけだろうか。微笑ましく親子連れの背を見送ったレーナは、白銀色の双眸から微笑を消すとホロスクリーンの街頭テレビに目を戻した。
紺青の詰襟の共和国軍女性士官軍服。十六歳の少女らしい白雪の美貌は
『有能なる
雪白の髪と目をした
楽観的というより非現実的な戦況報道は開戦直後から繰り返されたいつものことで、多くの市民はそれを疑うこともない。開戦からわずか半月で国土の半分以上を放棄するまでに押し込まれた戦線を、九年経った今でも共和国は押し返せていないというのに。
それに。
一見一幅の絵画のような、春の光の大通りを振り返った。
女性キャスター。カフェの学生や恋人たち。通りを行きかう沢山の人々。すれ違った親子連れや、もちろんレーナ自身さえ。
世界初の近代民主制国家であるサンマグノリア共和国は、その喧伝として他国からの移民を奨励し、積極的に受け入れてきた。共和国は古くから
けれど今、その首都のメインストリートを行き交う誰にも、それどころか首都全体、八五ある共和国行政区のどこにも、銀髪銀瞳の
そう。今、戦場には公式に人間と扱われる兵士も、戦死者と数えられる死者もいない。
けれど。
「……誰も死んでいないわけじゃないのに」
王政時代の宮廷であるブランネージュ宮殿の一角、絢爛華麗な後期王政様式の国軍本部がレーナの行き先で、この宮殿か、行政区全体を囲む大要塞壁群〈グラン・ミュール〉が、共和国軍人全員の配属先だ。
グラン・ミュールの外、要塞群から更に百キロ以上も離れた前線に配属される軍人はいない。前線で戦うのは
すれ違った士官達の、露骨な酒臭さに眉を顰めた──また、司令室の大スクリーンでスポーツ観戦でもしていたのだろう。つい咎める目を向けて、見下ろす嗤笑の目にぶつかる。
「諸君、お人形好きのお姫様が睨んでるぜ」
「おー、こわ。……お部屋に籠って大事な
思わず振り返った。
「貴方たち──」
「おはよ、レーナ」
横から声をかけられて、振り返ると同期のアネットだ。
研究部所属の技術大尉で、中等学校以来の付き合いで、飛び級を重ねた今は互いにたった一人の同い年の友人の。
「……おはよう、アネット。いつもは寝坊なのに、ずいぶん早いのね」
「帰るとこよ。昨日徹夜で。……さっきのバカ連中と一緒にしないでよ、あたしは仕事。この天才、アンリエッタ・ペンローズ技術大尉にしか解けない難問が持ち上がってね」
ふわあぁとアネットは猫のように欠伸をする。ショートカットにした白銀種の白銀の髪、同じ色で吊り気味の大きな双眸。
挨拶の間に遠ざかった酒臭い一団を一瞥して、アネットは肩をすくめた。馬鹿の躾け直しなんか時間の無駄。そう雄弁に語る白銀の瞳に、止めてくれたと察してレーナは顔を赤らめる。
「ああそれと、あんたの情報端末、
「いけない。……ごめんね。ありがとう、アネット」
「いーえ。でも、あんまり
む、と振り返りかけて、結局一つ頭を振ってレーナは自分に割り当てられた管制室に向かう。
管制室は無機質なコンソールで半ば埋まるような小さな部屋で、薄暗くひやりと冷たい。待機状態のホログラムのメインスクリーンの淡い光にぼんやりと照らされる、銀色の床と壁。
アームチェアにきちんと足を揃えて掛け、華奢なチョーカー状の銀環──レイドデバイスを長い銀髪をかきあげて首に嵌めて、レーナは凜と視線を上げる。
戦線は遠く、グラン・ミュールの遥か外に固定された今、このちっぽけな部屋が共和国八五区内に残された、唯一の戦場だ。
「認証開始。ヴラディレーナ・ミリーゼ少佐。東部方面軍第九戦区、第三防衛戦隊指揮管制官」
声紋と網膜パターンの認証を経て、管制システムがスタート。
ホログラムのスクリーンが次々に浮かび上がり、遥か前線に設置された各種観測機器の膨大なデータを表示、メインスクリーンがデジタルマップと彼我の機動兵器を示す輝点を映し出す。
「
レイドデバイスのうなじ部分に嵌めこまれた青い結晶体が、じん、とわずかに熱を帯びる。物理的な熱ではない。
励起した擬似神経結晶が情報演算を開始。構築した仮想神経を通じて、脳の特定部位──人類が次の進化のために取り置いた、あるいは進化の過程の遥かな太古に忘れ去った、
レーナ個人の顕在意識と潜在意識の、その更に奥。本来意識的にはアクセスできない、人間全てが共有する『人類種族の潜在意識』──集合無意識に『道』が通る。その『道』は集合無意識の海を経由し、第三戦隊隊長機、パーソナルネーム〈プレアデス〉のプロセッサーの意識に接続。
〈プレアデス〉の知覚とレーナのそれが、共有される。
「同調完了。──ハンドラー・ワンよりプレアデス。今日もよろしくお願いしますね」
穏やかに呼びかける。ややあって、一つ二つ年上と思われる青年の『声』が返った。
『プレアデスよりハンドラー・ワン。同調良好』
どこか皮肉な響きを帯びた『声』だ。管制室にはレーナ一人しかいないから、ここにいる別の誰かの声ではない。
声。
戦時急造の兵器である〈ジャガーノート〉に、音声会話機能などない。感情や意識と呼べるような高度な思考能力もない。
人間という種の集合無意識を経由した、
敵機甲兵器群に対して設営された防衛線の、対人地雷原。
『人間もどきのエイティシックスに毎度のご丁寧なご挨拶、ご苦労なことですね、
エイティシックス。
それは〈レギオン〉に席巻された大陸で、
共和国市民として生まれながらその共和国によって人間以下の劣等生物と定められた、グラン・ミュールの外の強制収容所と最前線で生きる
†
九年前、共和暦三五八年。星暦二一三九年。
共和国の東の隣国にして大陸北部の大国ギアーデ帝国は、周辺諸国全てに宣戦を布告。世界初となる完全
軍事大国ギアーデの圧倒的武力の前に、共和国正規軍はわずか半月で壊滅。
残存兵力をかき集めた軍人達が絶望的な遅滞戦術で時間を稼ぐ間に、共和国政府は二つの決断を下す。
一つは八五行政区内への、全共和国市民の避難。
もう一つが、大統領令第六六〇九号。戦時特別治安維持法。
共和国内に居住する
無論、共和国の誇る憲法にも五色旗の精神にも明確に反する法だ。また帝国出身者でも
反対する
何より、
正当化する優生思想が瞬く間に流布した。近代民主主義という先進的で人道的な、最高の政体を世界で初めて樹立した
かくて全ての
共和国の全技術を結集してなお、共和国製
けれど劣等たる帝国に造り得た
エイティシックスは人間ではないのだから、奴らを乗せればそれは有人機ではなく無人機だ。
人的損害を完全に零にする先進的かつ人道的な兵器として、市民の絶賛とともに投入された。
エイティシックスの操縦士を
共和暦三六七年。
戦死者のいない激戦場で、戦死者にカウントされない
†
〈レギオン〉の赤のブリップが東──彼らの支配域の方向へと撤退していくのを確認して、レーナは少し緊張を緩める。
一方第三戦隊の損耗数は七機で、苦いものが胸中にこみ上げる。七機の〈ジャガーノート〉全てが、その中のプロセッサーごと爆散した。生存者はいなかった。
〈ジャガーノート〉──インテリ気取りの開発者が、古い神話から取った異邦の神の異名。
救済を求めて集う数多の人々を、その
「……ハンドラー・ワンよりプレアデス。敵部隊の撤退を確認しました」
一つ息をついて、〈プレアデス〉のプロセッサーに──自分と家族の市民権復活を見返りに五年の従軍に応じたエイティシックスの操縦士に、
聴覚を同調して互いの声や聞いた音を伝え合う
理論上、五感のどれでも同調できるが、基本的には聴覚が利用され、それは視覚では情報量が膨大過ぎて使用者への負荷が大きいためだ。その点、聴覚なら最小限の情報量で状況が把握できる。体感的には無線や電話と大差ない分、混乱も少ない。
ただ、それだけではないのだろうとレーナは思う。
視覚を同調しなければ、見なくてすむ。眼前に迫りくる敵の威容を。すぐ隣の仲間が機体ごと吹き飛ばされる無惨を。引き裂かれた自分の体から零れる、自らの血と内腑の色を。
「警戒任務は第四戦隊に引き継ぎます。第三戦隊は帰投してください」
『プレアデス了解。……今日も遠眼鏡で豚の監視ご苦労様です、ハンドラー・ワン』
皮肉な響きは終始消えないプレアデスの応答に、目を伏せた。
嫌われるのは自分が
「お疲れ様です、プレアデス。隊の皆も、亡くなった七人も。……本当に、残念です」
『……』
沈黙の向こうに、ぴり、と刃のような冷ややかさが混じった。
『……いつもいつもお優しいお言葉ありがとうございます、ハンドラー・ワン』
それはどこか冷たい嫌悪か侮蔑のようで、迫害者には向けて当然の怒りや憎悪ともまた異なるその冷淡に、レーナは戸惑う。
†
翌朝のニュースは、またしても敵の損害多数、共和国の損害軽微、人的被害ゼロ、共和国の人道的かつ先進的な云々で敵軍の打倒は近いことでしょう、で、実は同じ放送の録画なんじゃないかと時々疑ってしまう。国営放送の、剣と砕けた足枷のロゴ。支配の打倒と抑圧の打破を意味する、革命の聖女マグノリアの
『……なお、二年後の終戦に向け、政府は軍事予算の漸次縮小を決定しました。その先駆けとして、南部戦線第一八戦区を廃止、配備部隊の解散を──』
南部一八戦区は失陥したらしい、とレーナは小さくため息をついた。
取り繕っていい内容ではない。それに国土の一部を失っていながら、奪還もしないどころか軍備縮小とは。
接収したエイティシックスの資産はとうに使い切り、膨大な軍事予算が福祉や公共事業のそれを圧迫する中、軍備縮小を求める市民の声を政府は無視できないのだろうけれど。
向かいに座る時代がかったドレス姿の母親が、完璧に紅を引いた唇で柔らかに言う。
「……どうしたの、レーナ。難しい顔をしていないでお食べなさいな」
食堂のテーブルには朝食が並んで、そのほとんどが生産プラント製の合成培養品だ。
半分以下に減った国土に、エイティシックスを除いてなお総人口の八割に上る人数を押し込んで、更にその全員を養うだけの農地を作る余剰は八五区のどこにもない。諸外国は〈レギオン〉の軍勢と
唯一紅茶に添えたコンポートだけが庭の木苺を使った本物だが、こんなものさえ庭どころか植木鉢一つの余裕もない今の共和国の平均的な住宅事情からすれば、とんでもない貴重品だ。
母親が微笑む。
「レーナ。そろそろ軍などやめて、相応しい家柄のご子息と結婚なさい」
レーナは内心ため息をついた。ニュースの戦況報道は毎日同じで、母親のこれも毎日だ。
家柄。格式。身分。血統。優良な血。
かつてミリーゼ家が貴族だった頃に建てられたこの瀟洒で贅沢な邸宅にはよく似合う、けれど一歩外に出れば時代遅れの、裾を引きずる絹のドレス。
幸福な時代のまま時の止まったような。
小さな狭い甘い夢に閉じこもって、外の世界など見ていないような。
「〈レギオン〉やエイティシックスの相手など、本来なら栄えあるミリーゼ家の令嬢がすることではありません。亡くなったお父様は確かに、軍人であらせられたけれど。今はもう、戦争などという時代ではないのですよ」
時代でないも何も、今はまさに〈レギオン〉との戦争の真っ最中なのだが。戦場は遥か遠く、前線に行く者も帰って来る者もいなくなり、市民にとってこの戦争は、映画の中の出来事のような、現実味も当事者意識も薄いものとなって久しい。
「祖国を守るのは共和国市民の義務であり誇りです、お母様。それから、エイティシックスではありません。彼らもわたし達と同じ、れっきとした共和国市民です」
母親は品の良い細面の鼻面に思い切り皺を寄せる。
「汚らしい色つきの、何が共和国市民ですか。まったく、餌がなければ働かないのが家畜とはいえ、政府もあんなけだものどもに再び共和国の地を踏むのを許すなんて」
従軍したエイティシックスとその家族には、共和国の市民権が再交付される。過激な差別主義者さえのさばる八五区の中、彼らの身の安全のためその居所は一切非公開だが、開戦からもう九年。かつての自宅に戻り、暮らしている者は決して少なくないはずだ。
それは彼らの文字通りの献身に対し与えられて然るべき当然の報酬であるのだが、生憎と奉仕を受ける側はそうは思わないという典型例が目の前で嘆かわしげに首を振っている。
「ああ穢らわしい穢らわしい。あんな人間もどきどもがつい十年前までリベルテ・エト・エガリテを我が物顔で跋扈していたなんて、そして再び舞い戻ってこようとしているなんて、ああ。共和国の自由と平等が、一体どれだけ穢されていることかしら」
「……自由と平等を穢しているのは、お母様の今のお言葉だと思いますけれど」
「どういうこと?」
きょとんとなる母親に、今度こそレーナはため息をついた。
わからないのだ。本当に。
母に限ったことではない。今でも共和国市民は自国の共和制を、五色旗の象徴する自由と平等、博愛と正義と高潔の精神を誇っている。かつての王政や独裁制の国家の所業を歴史に学んではその圧政を憎み、搾取に憤り、差別を蔑んで、
けれど、同じことを今まさに共和国が行っているのだと、彼らは理解できない。指摘すれば憐れみの目さえ向けて問い返してくる。
君は人間と豚の区別もつかないのかね、と。
レーナは仄かな桜色に染まる唇を嚙む。
言葉は、便利だ。
容易く本質を塗り潰してしまえる。名札一つ張り替えただけで、人間を豚に変えてしまえる。
母親は困ったように眉を寄せて、やがて何かに思い至った様子でああ、と笑った。
「お父様はあんな家畜どもにも慈悲深い方だったから、同じように扱ってやろうというのね」
「……いえ、それは」
エイティシックスの強制収容に強く反対し、最後までその撤廃を求め続けた父のことは、確かに深く尊敬している。けれど、同じように振舞いたいというのは少し違う。
今でも覚えている。
焰に浮かび上がる、四つ足の蜘蛛のシルエット。
装甲に描かれた首のない骸骨の騎士の紋章。
助け出してくれた手。生まれながらに身にまとう、鮮やかな真紅と漆黒。
おれ達は。この国で生まれてこの国で育った、共和国市民だから。
追想を母親の無遠慮な声が破る。
「でもね、レーナ。家畜には家畜なりの扱いをするべきなの。野蛮で愚鈍なエイティシックスに、人間の理想や高尚さを理解させるなんてできないわ。檻に入れて、私達が管理してやるのが正しいの」
レーナは無言で朝食を食べきって、ナプキンで口を拭いて席を立った。
「行ってまいります、お母様」
「担当部隊の変更……ですか?」
鈍い金と臙脂の縞の壁紙が重厚な師団長のオフィス。アンティークのデスクについた師団長のカールシュタール准将から告げられた辞令に、レーナは白銀色の双眸を瞬かせた。
部隊の再編に伴うハンドラー変更は、実のところよくある話だ。激戦の続く前線では損害はしばしば部隊を維持できない域に達し、ほとんど日常的に部隊の統合や再編、廃止と新設が行われている。レーナは経験したことはないしするつもりもないが、担当する部隊の全滅さえ、よくある話だ。
それほど、〈レギオン〉は強い。
軍事大国であり技術大国であったギアーデ帝国の獰猛さと技術力を惜しみなくつぎ込んで開発されたそれらは破格の兵装と驚異的な運動性能、同時代の産物とはとても信じられぬ高度な自律判断能力を有し、また真実無人機であるが故に疲れず、厭わず、恐れない。壊しても壊しても、これも完全自動制御の生産・修復工場が〈レギオン〉支配域の奥深くに点在するらしく、黒雲の湧くように新たな大軍が攻め寄せてくる。
市民の認識とは裏腹に性能において劣る〈ジャガーノート〉では、とてもではないが損害軽微などありえない。実際には出撃の度に大量の損害を出して、その都度同じ数を補充して戦線を維持しているだけだ。
けれど、今レーナが担当している隊にそこまでの損害は出ていない。
カールシュタールは傷跡の残る頰を緩める。穏やかな威厳を滲ませる顎鬚。長身に広い肩。
「君の担当する部隊が再編・統合されるというのではないよ。実は、ある部隊のハンドラーが退役することになってね。急遽別の隊のハンドラーから代わりの者を選出した、というわけだ」
「重要拠点の防衛部隊なのですか?」
後任決定まで待機させておくことができない部隊、ということは。
「ああ。東部戦線第一戦区第一防衛戦隊、通称スピアヘッド戦隊。東部方面軍全体から
レーナはいよいよ怪訝にその可憐な眉を寄せる。
第一戦区は重要も重要、〈レギオン〉の侵攻が最も激しい最重要の防衛拠点だ。そして第一戦隊はその戦区における作戦行動を一手に引き受ける主要部隊。夜間警戒任務と支援任務、第一戦隊が出動できない場合の代行出撃を担当する第二から第四戦隊とは課せられた責務の重さが全く異なる。
「新米少佐のわたしなどに、務められる大任とは思えませんが……」
カールシュタールは苦笑する。
「九一期生最年少にして最初に少佐昇進を果たした才媛がそれを言うのかね? 謙遜も過ぎるといらぬ反感を買うぞ、レーナ」
「すみません、ジェローム小父様」
レーナ、とファーストネームで呼んだカールシュタールに、レーナも部下としてではなく頭を下げた。カールシュタールは亡くなったレーナの父の親友で、共に九年前に壊滅した共和国正規軍のごくわずかな生き残りだ。小さい頃は家に来た彼に遊んでもらったこともあるし、父の死後も葬儀の手配から今に至るまで、何くれとなく世話を焼いてくれている。
「実を言うと、……成り手がいないのだよ、スピアヘッド戦隊のハンドラーの」
「精鋭部隊、なのでしょう? その指揮を任されるは共和国軍人として、またとない名誉なのではありませんか?」
ハンドラーとて真面目に職務を果たす者ばかりではなく、管制室でテレビを見たりビデオゲームをしたり、そもそも管制室にいなかったり、酷い者では指示も情報も与えずプロセッサー達が死んでいく様を刺激的な映画のように楽しんだり、自隊の全滅までの日数を同僚と競ったりしている者もいるのは知っているが。というか真面目に指揮など執っている方が少数派という有様なのだが、それはそれとして。
「うむ、部隊についてはまあそうなのだがね……」
カールシュタールはしばし、言い淀んだ。
「……スピアヘッド戦隊隊長機、パーソナルネーム〈アンダーテイカー〉には、ちょっとしたいわくがあってね」
「それを知るハンドラーからは〝死神〟と呼ばれて恐れられているのだが、……担当するハンドラーを、壊してしまうのだそうだ」
「え?」
思わずレーナは聞き返してしまった。逆ならともかく。
プロセッサーが、ハンドラーを壊す?
どうやって?
「怪談の類ではないのですか?」
「勤務中に部下を呼びつけて与太話をするほど暇ではないよ。……事実として、アンダーテイカーの所属部隊のハンドラーには担当部隊変更や退役の申請をする者が異常に多い。最初の出撃の直後に部隊変更を申請した者もいるし、因果関係は不明だが退役後自殺した者までいる」
「……自殺、ですか?」
「信じがたい話だがね。……『死霊の声』とやらに、退役してなお付きまとわれたのだそうだ」
「……」
それはやはり、まるきり怪談の類に聞こえるのだけれど。
沈黙するレーナを何と思ったか、カールシュタールは気遣わしげに首を傾げる。
「君も嫌ならそう言って構わんよ、レーナ。今の部隊に残りたければそれでいいし、スピアヘッド戦隊は先刻も言ったが古参兵の集まりだ。話を聞く分では出撃時に同調するのがいけないらしいから、最低限の監視だけ行って、指揮は現場に任せても何の問題も……」
きっとレーナは唇を引き結ぶ。
「やります。スピアヘッド戦隊の管理も、指揮管制も、全霊を以て」
祖国を守るは共和国市民の義務であり誇り。その最先鋒の部隊を任されるならこれ以上のことはないし、投げ出すなんてもっての外だ。
カールシュタールは目を細める。まったく。本当に、この子は。
「最低限、でいいのだよ。必要以上のことはしなくていいんだ。……指揮下のプロセッサー達と交流など持とうとするのも、もう控えなさい」
「部下について知るのは、指揮官の務めです。拒まれない限り交流を持つのは当然のことです」
「まったく……」
柔らかな苦笑で嘆息した。デスクの引き出しから書類束を取り出して、おどけた様子でひらひらと振る。
「お小言ついでにもう一つ言うがね。いい加減、報告書に戦死者数を記載するのはやめたまえ。公的に前線に人間はいないことになっている以上、存在しない項目を記載した書類など受理できないし、……こんな抗議をしても、気にする者はもういないのだよ」
「だからと言って。黙認はできません。……そもそも
〈レギオン〉という強大な軍事力を以て瞬く間に大陸を席巻したギアーデ帝国は、しかし、どうやら四年ほど前に滅んでしまったらしいのだ。
『敵国の系譜』であることを建前としたエイティシックスの強制収容は、だから、その敵国が無くなった以上続ける根拠も正当性ももう存在しない。
それなのに、一度手にした差別という娯楽を市民達は手放そうとしない。踏みつけている間は己の優越を錯覚できて、虐げている間は自らを勝者と思いこめる。帝国とその兵器に閉じ込められ続けている現状と敗北感を打破するのではなく欺瞞するための、その手軽な快楽を。
「誤ちを黙認するのは、それに加担することです。こんなことは本来、赦されることでは……」
「レーナ」
穏やかに呼ばれてレーナは口を噤む。
「君は少し、理想を求めすぎる。他人にも、自分にも。理想というのはね、手が届かないほど高いから理想というのだよ」
「……ですが」
カールシュタールの白銀の双眸が懐かしくそしてほろ苦く緩む。
「君は本当にヴァーツラフに似たな。……では、ヴラディレーナ・ミリーゼ少佐を、本日付で第一戦区第一防衛戦隊付
「ありがとうございます」
「……で、受けちゃったの? レーナってばどんだけ物好きなのよ」
さて、担当部隊が変更になるということはそれに伴って色々なものが変更になるということで、
検査用の不織布のガウンを丁寧にハンガーにかけ、ブラウスのボタンを留めて、レーナは検査室とは強化
王政時代は離宮であった研究棟は、外観は瀟洒な中期王政様式だが内部は少々趣味走った未来的な作りで、金属と
「だって、どうせ作り話でしょう、アネット。仕事をしない口実の」
両のストッキングを
「自殺した奴がいるってとこはほんと」
「死霊がどうとかは暇なおっさんの与太だと思うけど。散弾銃で自分の頭吹っ飛ばしたって」
スカートを着け、上着を羽織り、襟元を留めて振り返る。身をかがめた時に肩から滑り落ちた銀髪を片手で背に払った。
「……本当に?」
「
「どうだったの?」
アネットは飄然と肩をすくめた。
「さあ」
「さあ、って……」
「本人死んでんだから詳細なんか調査しようがないわよ。レイドデバイスには異常なし、それで終了。どうしてもってんなら、〈アンダーテイカー〉だっけ? そのプロセッサー連れてきてって言ったんだけど、輸送部のバカどもが『当フライトには豚の席はありませんー』って」
憤然と腕を組んで背もたれに凭れて鼻から息を吐く。折角ボーイッシュな美人なのに、そういう態度をしょっちゅう取るものだからあんまり女性らしくない。
「連れてきさえすれば頭でも何でもバラして調べてやったのに。まったく」
露悪的に過ぎる言い草に、レーナは眉を寄せた。もちろん本気でないのは分かっているが、流石に聞き苦しい。
「……その、プロセッサーの方の話は、」
「あたしじゃなくて憲兵部の奴が、ね。報告書はもらったけど、本当に形式程度よ。心当たりはありませんとか言われておしまい。ほんとはどうだかわかりゃしないけど」
言って、アネットは皮肉気に口の端を吊り上げた。
「ハンドラーが死んだって伝えたら、たった一言、そうですか、って。だからどうしたって口振りだったって。ま、エイティシックスだもん。仮にも上官が死んだっていうのに、その程度なのよね」
「……」
沈黙するレーナに、ふと、アネットは笑みを消した。
「……ねえ。レーナもやっぱり、研究部に来なよ」
「?」
きょとんと瞬いたレーナに、猫のように吊った双眸が向く。思いの外に真摯な、白銀の瞳。
「今の軍なんて、完璧ただの失業対策じゃない。研究部はまだしも、他の部署なんて仕事にあぶれた高番号区のバカばっかりで」
共和国の現行政区は第一区を中央に、中心つき四角数の形で付番される。番号が高くなるごとに居住環境と治安、教育水準は悪くなり、失業率も高い。
「二年後に〈レギオン〉がいなくなって、その後どうすんのよ。平時に『元軍人』の肩書きなんて、潰し利かないよ」
レーナは微苦笑する。
〈レギオン〉は全機が二年後に停止する。
鹵獲した何機もの〈レギオン〉を調査して判明した事実だ。彼らの中枢処理系には変更不可の寿命が設定されていて、バージョンごとに五万時間、およそ六年弱。万一の暴走時の保険だったのだろう。
帝国が四年前に滅びたと推定される以上、二年後には全〈レギオン〉は中枢処理系が崩壊して稼働を停止する。実際前線で観測される〈レギオン〉の数は、ここ数年減り続けている。最後の
「ありがとう。でも、今は戦時だもの」
「だからって別に、あんたがやらなくたっていいじゃない」
アネットも譲らない。入力を終えたホロスクリーンを手を振って消して、身を乗り出す。
どこか忌々しげに吐き捨てた。
「真偽はどうでも、そういうまともじゃないプロセッサーが相手よ。何があるかわかったもんじゃないわよ。……
レーナはちょっと、目を瞠った。
「……
口が滑ったらしい。アネットはしまったという顔をして、声を潜めて続けた。
「だって、レーナ。この国よ? 表向きはそうでも、そんなのとりあえずの、ってだけで」
優良種を自称する共和国は、自国の技術にいかなる瑕疵も許さない。実際にはあっても、認めない。
「実際はそういう、超能力? がある人達を観察して、脳のこの部分が活性化すると
片手でレイドデバイスをつついた。青い結晶体と、華奢な銀の本体。結晶体には今は情報端末から伸びるコードが幾本も接続されて、内部の情報を書き換えている。
「その元々の『能力者』が親兄弟間で同調できたから、ハンドラー側とプロセッサー側のデバイス両方に二親等相当の擬似遺伝子情報組み込んでるってだけで。何でそれで同調対象になるのかは、よくわからないのよ」
「でも……元はお父様の研究なのでしょう?」
「共同研究だもん。基礎理論っていうか仮説は全部研究相手の構築で、父さんは環境の準備と、募集した被験者で現象再現するのが担当だったから」
「なら、研究相手の方に確認すれば」
アネットはその時、ひどく冷えた目をした。
「無理。……エイティシックスだったから」
人間ではないエイティシックスは名前が記録されず、ただ収容時に割り振られた番号でのみ管理される。どの強制収容所に隔離されたのかも、今となってはもう知る術はない。
「今のレイドデバイスは安全装置があるからそんなことは起きないけど、例えば視覚を複数対象と同調したら脳が過負荷で焼き切れちゃうし、同調率最大で長時間同調してると自我崩壊しちゃう。活性しすぎても『帰って』これなくなるし……知ってるでしょ、父さんの事故は」
「……」
アネットの父親であるヨーゼフ・フォン・ペンローズ博士は、
レイドデバイスの神経活性率が、誤って理論上の最大値に設定されていたのだという。集合無意識の更に下の『何処か』、人類を『個』とした場合の『全体』──世界そのものの集合無意識にまで、潜ってしまったのではないかとも。
「長期使用でどういう影響が出るかもわからないんだから。……エイティシックスはすぐ死ぬから別にいいけど、あんたは何かあったら、困るでしょ」
む、とレーナは反射的に顔をしかめた。アネットは純粋に、心配してくれているだけとわかっているけれど。
「それは、でも、……卑怯なことだわ」
果たしてアネットは聞き飽きたと言いたげにぞんざいに片手を振った。
「はいはい。あんたもほんと、物好きよね」
一瞬気まずい沈黙が
かき消すように、不意にアネットはにやりと笑った。
「物好きついでに、レーナ。シフォンケーキ食べてかない? 新作。卵本物」
「えっ」
途端にぴょこんと見えない猫耳を立てたレーナに、アネットは笑いを嚙み殺した顔になった。
レーナだって女の子だ。甘いものには無条件で心惹かれるし、大量の卵白を使用するシフォンケーキは、養鶏場を作る余裕もろくに無い今の共和国では大変な贅沢品だ。やはりかつての貴族階級で、大邸宅の広い庭で鶏を飼えるペンローズ家のご令嬢だからできる趣味である。
ただし。
「ええと……それは入っていないチーズの味がするとか、黒い煙を吐きそうとか、見た目がその……カエルに似てるとか……そういうことはないわよね……?」
ちなみに以前アネットがシュークリームを作った時の試食者の感想である。
最後のは正確には、『ぶくぶくに肥ったヒキガエルの轢死体』と言っていた。形状はともかく何故か色までそっくりだったのだとか。
「今あるのは大丈夫よ。昨日見合い相手が来やがってそいつで実験済みだから」
試作五号あたりで泡吹いて撃沈したが。
「ならいいけど……いくら気に入らなくても、その方にもまともな新作も分けてあげてね」
「もちろん。わざわざ可愛くラッピングまでしてあげたわよ。ピンクの包み紙でリボンで、キスマーク付きのメッセージカードに『愛しのテオバルトへ』って書いて、愛人と同棲してるアパルトマンのポストに」
「……」
気の毒に、と思うべきなのかどうか、レーナは迷った。
ケーキと紅茶とアネットとのおしゃべりを楽しむ間にデータ書き換えの完了したレイドデバイスを、帰宅した屋敷の自室でレーナは首に嵌める。
ふと、昼間の話を思い出した。
死神。自殺者さえ出している。人の死をどうとも思わない、──エイティシックスの。
どんな、人だろうか。
わたし達を、──やはり、嫌っているのだろうか。
一つ首を振り、ふ、と短く息をついた。
よし。
「──アクティベート」
接続完了。問題なし。さわさわと、この部屋の音ではないごく微かな雑音。
「ハンドラー・ワンより、スピアヘッド戦隊各位。──初めまして。本日より、貴方がたの指揮管制を担当いたします」
戸惑うような、間が空いた。
それをレーナは哀しく感じる。
担当した戦隊の誰もが、着任に際しこうして挨拶すると、一様に戸惑う。
本来なら同じ人間同士、当たり前のことのはずなのに。
困惑の気配は一瞬、同調した聴覚の向こうで、静かな、ごく年若い声が応じた。
『初めまして、ハンドラー・ワン。こちらはスピアヘッド戦隊戦隊長、パーソナルネーム〈アンダーテイカー〉です』
不吉な異名や噂とは裏腹、耳に心地よい正確な発音と発声の、深い森の湖水のように静穏な声だった。元は中流以上の家の出ではないかと思わせる、おそらくは同年代の少年の声。
『ハンドラー交代の通達は承っています。本日よりよろしくお願いいたします』
寡黙な性情を容易に想像させる淡々とした声音に、レーナは微笑んだ。
そう、こうして直接会話をすればすぐにわかる。誤魔化すことなど絶対にできない。
彼らは、人間だ。
エイティシックスなどという、人間以下の何かではない。
「こちらこそ。よろしくお願いしますね、アンダーテイカー」