はたらく魔王さま!SP
序章
リビングのテレビが流行りの雑学クイズを流している、ある日の夜。
佐々木家のリビングには家族三人が勢揃いしていた。
揃っていると言ってもやっていることは全員バラバラである。
佐々木千穂は携帯電話を片手にテレビをなんとなく眺め、警察官である父、千一はソファで横になって眠ってしまっている。
母の里穂は新聞を眺めながら、
「吉田東洋」
「かがり縫い」
「パキケファロサウルス」
と、千穂が見ているクイズ番組の解答をさっと答えてみせて、千穂は時々母に驚き振り返ったりしていた。
夕食も既に済んでおり、あとは各々明日に備えて眠るだけ、といった風情の、日本中どこにでもあるような家庭の一幕。
そんな佐々木家のリビングに一本の電話が入ったのは、件のクイズ番組が終わった直後のことだった。
電話に反応したのは里穂。さっと立ち上がって受話器を上げる。
千穂は視界の端で、電話の音に反応して父が寝返りを打ったのを捉えていた。
「もしもし……あらお義兄さん! どうも、お久しぶりです」
最初の瞬間だけよそ行きの声だった母の声がぱっと明るくなり、千穂もなんとなく電話を取る母の横顔を見た。
母が『お義兄さん』と呼ぶということは……。
「はいはい、千一さん今お酒飲んでソファで寝てます。起こしますね」
里穂は非情にもそう言うと、千穂に顎をしゃくる。父を起こせ、との指示だ。
「お父さん、お父さん電話」
千穂も素直に従って父の肩を叩く。
「う……んむ……んん?」
「お父さん! 伯父さんから電話! ほら、さっさと起きる!」
「んん……兄貴が? うー、よっこいしょ……」
千一はだるそうにソファから身を起こすと、一度大きな伸びをして受話器を受け取る。
「もしもし?」
まだ少し眠そうな声で、千一は電話を代わった。
「長野の伯父さん、こんな時間に珍しいね」
父に電話を渡した母に、千穂は言う。
佐々木万治は父千一の兄であり、千穂にとっては父方の伯父に当たる。
千穂の父の実家は長野にあり、万治はその実家の農家を継いでいる。
農家の仕事はとにかく朝が早く、夜の九時ともなれば皆床に就いてしまうため、この時間に佐々木の実家から電話があること自体、大変に珍しいことだった。
「ああ……まぁぼちぼちよ。俺の稼業じゃ忙しいことの方がありがたくねぇんだけども」
父の言葉に、東京ではまず聞かないイントネーションが混じる。
実家の人間と話すとき、父は生まれ育った地域の言葉が戻るのだ。
「ん、ああ……何!? お袋が!?」
と、突然、父の声色が険しくなる。
千穂も里穂も何事かと顔を上げた。
父にとっての『お袋』ということは、千穂にとっては祖母に当たる人物である。
父のただならぬ様子に、佐々木家に緊張が走る。
「ああ、ああ……。あ? ……ああ。そうか」
だが、すぐに父の声に安堵の色が混じり、それに伴って千穂の緊張も少し緩和される。
そのまましばし電話が続き、
「ほいだけぇど俺もそう簡単に帰るこたできんもんで……いや、そりゃ手伝いたいのはやまやまだけぇどもな。すぐっちゅうわけには……ああ、うん、まぁ、あまり期待しなんでくれ。ああ、お袋に無茶はせんで大事にするよう伝えてくれよ? はい、はい、それじゃ」
父は若干疲れた様子で電話を切った。
「何よ、お義母さん、どうしたの?」
父に息もつかせぬまま、母が詰め寄る。
「うん、まぁ大したことじゃないんだけども」
父は首を横に振りながらソファにどっかりと腰を下ろした。
「お袋が畑で、イノシシか何かに怪我させられたって言うんだ」
「「えっ!?」」
これには千穂も里穂も驚く。
「お、お婆ちゃん大丈夫なの!?」
千穂は身を乗り出すが、父はそれを制する。
「大事をとって医者には行って、命に関わるとかそういうことじゃないって言うんだ。ほいだけどまぁ年寄りっちゅうことで検査入院することになったってことらしいんだけど」
電話の余韻でまだ少し方言が残る父の言葉に、千穂は安心するべきかどうか悩む。
「けど兄貴の話のメインはどっちかっていうとその後の方で」
父は心底困ったように額に手を当てた。
「俺に収穫を手伝ってくれないかと。従業員に逃げられたんだとさ」
「はぁ?」
母娘は揃って首を傾げる。
「知ってるだろ、兄貴の代になってから農業法人立てて農業実習生を雇ってることは」
それを聞いて、千穂はうっすらと思い出す。
幼い頃に父の田舎に遊びに行ったとき、伯父の万治が、
『やい千穂、俺は社長になったんだに』
と、言っていたことを。
高校生になった今も『法人』というもののシステムはよく分かっていないが、とにかく万治は佐々木家の農業を会社組織にして、そこそこ利益を上げているらしいことは知っていた。
「逃げたって、つまり雇っている人が逃げたってこと? 随分無責任な話じゃない?」
「いや、どうも話を聞くと面倒なんだが……」
父は、俺もよく分かっていないんだが、と前置きしてから佐々木の実家の状況を話しはじめる。
佐々木の実家は、国と県の若者の就農支援プログラムが紹介する実習生の引き受け手になっているというのだ。
農業を志す若者を集めて経験を積ませ、国内就農人口の底上げを図る政策の一環らしい。
今年はたまたま地域で何軒かある引き受け手の中で佐々木家が当番となって、県が斡旋した実習生の若者を雇い入れることとなった。
斡旋される実習生は大抵が未経験者であまり難しい作業はさせられないが、補助金はおりるし自分で人手を募集する手間は省けるし、受け入れ先の農家にとってもメリットは大きい。
だから佐々木家も、収穫期には臨時アルバイトを募集するところ、今夏の収穫に限っては就農支援プログラムに斡旋された実習生を使って、繁忙期を乗り切る計画を立てていた。
ところが、である。
「ハズれもいいとこだったんだと」
就農支援プログラムに斡旋された若者だから、当然本人達もある程度は農業を志してやってきているはずだった。
事実、以前に佐々木家が当番で引き受けた若者達は、未熟ながらになかなか活動的で、後から一人、他県で農家を始めた、と知らせが来たほどだった。
ところが今回やってきた連中は、揃いも揃って『農業の楽なところしか見えてなかった』者ばかりだった。
まず、基本的に農業には『休みの日』が無い。作業量の濃淡はあるものの、年中無休が基本である。
法人形式の佐々木家はそれでも従業員に定期的に休みを与えているのだが、天候や田畑の状況次第ではそれも潰れる可能性はゼロではない。
そして、どうしたって肉体労働である。慣れない者が丸一日農作業に従事すれば、翌日には日頃使わない筋肉が絶叫大合唱である。
照りつける陽差しに痛む筋肉、体を汚す土や泥や埃、都会ではまず見ない虫や蛙や家畜の糞、それらが渾然一体となった臭いにノックアウトされ、一人、また一人と実習生の若者が姿を消した。
そこに、このイノシシ騒ぎである。
祖母の怪我で野生動物に恐れをなした実習生達が全員いなくなってしまったのだ。
斡旋された六人の実習生があてにならなくなり、困ったのは佐々木家である。
プログラムからは補助金と労働力が稼働しなかった場合の見舞金は出るには出るが、金があっても収穫する手が無ければ丹精込めて作った作物がダメになってしまう。
手ずから育てた作物を自分の手でダメにしてしまうことは、農家にとって最も許しがたい事態だった。
しかし、今から慌てて求人を出しても、近隣の経験豊富で元気な若者達は概ね他所に取られてしまっている。
収穫まで間が無く、アルバイトの応募も見込めない上に重大な戦力である祖母が怪我をしてしまい、佐々木家は窮地に立たされているらしい。
それで、実家を出て東京で独立している千穂の父、千一にお呼びがかかったのだが……。
「もう今年の盆休みは決まっちまってるからなぁ……」
父は頭を抱える。
警察官である父の休みはそもそもカレンダー通りではないし、盆暮れ正月ならともかく、そう何日も仕事を休んで手伝いに帰ることなどできるはずもない。
「非力な私が行っても邪魔になるだけだしねぇ……お義母さんのお見舞いとか入院中のお世話くらいならできるけど、畑のことはからきしだし」
母も沈痛な面持ちだ。
「私、行ってもいいけど」
千穂は思い切ってそう言ってみる。
千穂も経験があるわけではないが、幼い時分に田舎に赴いたときには出荷作物の選別くらいは手伝ったことがある。
「今お店閉まってるからアルバイトも無いし、学校の課題もほとんど終わってるし、部活も夏休みの間はもう……」
「ありがたいけど、千穂一人で行ったら兄貴や義姉さんが気を使う。それにこの時期は本当に大変だから、できれば男手の方がいいんだが……ううむ……」
千一が悩んだところでどうにかなる問題でもないのだが、それでも実家のちょっとした危機に、悩まずにはいられないのだろう。
「男手ねぇ……」
父の言葉を反復して、里穂も腕を組むが、
「あ、そうだ」
唐突に手を打って、千穂を見る。
「あなたのバイト先、今改装中なのよね?」
「う、うん」
千穂のアルバイト先である大手ファーストフード、マグロナルド幡ヶ谷駅前店は、新規業態であるマッグカフェ導入のための改装で一時閉店しているのだ。
「ってことはさ、暇してるんじゃないの?」
誰が、とは千穂は聞かない。
母が考えていることが、分かってしまったからだ。
千穂は目を見開き、母はそんな千穂の内心の動揺を見透かしたように口の端を上げて面白がるような口調で言った。
「真奥さん達に声かけてみたら? 今、お仕事お休みされてるんでしょう?」