はたらく魔王さま!SP

魔王、就農す

 快晴の中央高速道を、佐々木里穂が運転する車がひた走る。

 世間は夏休みの時期だがお盆を過ぎたこともあり、おかげで大きな渋滞もないまま車は諏訪湖のサービスエリアにやってきた。

「じゃあここら辺でお昼にしましょうか。漆原さんもダメそうだし」

 里穂が駐車場に車を入れ、後部座席を見て苦笑する。

「おい、漆原生きてるか」

「う……うん。うぷっ」

 後部座席の中央では、小柄な青年、漆原半蔵が青い顔で息も絶え絶えな様子。右隣の黒髪の青年、真奥貞夫は万が一に備え、ここまでずっと紙袋を手放すことができなかった。

「漆原さん、もしトイレ行くならあっちにあったはずです」

 漆原の左隣に座っていた千穂はさっとドアを開けて漆原を新鮮な空気に触れさせると、這って出てくる漆原に手を貸して、やっと駐車場に立たせる。

「全く情けない。申し訳ありません佐々木さん。もう使えない奴で」

 一人辛辣なのは、助手席から出てきた長身の芦屋四郎である。

「漆原、しっかり立て。佐々木さんにご迷惑をかけるんじゃない。全く、銚子で車に乗ったときはこんなことにならなかっただろうが」

「ゆ、揺らさないで、うぷ……」

 芦屋は青い顔の漆原に手を貸すと、トイレまで引っ張ってゆく。

 その姿を見送りながら、真奥は里穂に頭を下げた。

「すいません本当、だらしなくて」

「いいのよ、千穂も昔はよく車酔いして大変だったわ。小学校の修学旅行とかバスに乗りたくないって泣いちゃったことがあったわね」

「お、お母さん! それ言う必要ない!」

 思わぬ形で微妙に恥ずかしい過去を暴露されて、顔を赤らめる千穂。

「さて、お昼だし、お腹が空くと車酔いしやすくなるって言うしね。真奥さんもお腹空いたでしょ。何か食べましょ!」

 里穂は車のドアをロックすると、先に立ってサービスエリアの建物に入ってゆく。

「でも、本当に漆原さん、大丈夫ですか?」

 漆原と芦屋が消えた先を見ながら、千穂は心配そうに尋ねる。

 千穂の家の車はごく普通の五人乗りのファミリータイプ。一番大柄な芦屋が助手席に座り、後部座席の配置は窓際に真奥と千穂、そして真ん中に漆原という、やむを得ないのだが色々と空気を読めない配置。

 そのポジションも相まってか漆原は大分早い段階で車に酔っていたようだ。

「まぁ……うん、この夏は、悪魔の身でも夏バテもすれば車酔いもするってことで、色々発見が多い夏だというこったな」

 真奥も肩を竦めて苦笑する。

「でも空中であんなに凄い動きできるのに……」

「人の運転で、しかも長時間車に乗ってるとなるとまた違うんだろ。銚子のときは十分乗ったかってとこだったからな。ま、放っときゃ戻ってくるさ。俺達も先に入ってようぜ。お袋さん待たせちゃ悪い」

 二人は連れ立って里穂の後を追う。

 広い建物の中は多くの観光客で賑わっており、お土産物売り場もフードコートも大盛況だ。

「二人ともこっち! 早く早く!」

 里穂の声がして真奥と千穂が顔を上げると、窓際に見事、五人分の席を確保した里穂が手を振っていた。

「俺、高速道路のサービスエリアって初めて来たんですけど、広いんですね」

 真奥は里穂の正面に腰掛ける。

 千穂はわずかな逡巡の末、大人しく母の隣に腰を下ろした。

「昔はここが一番凄かったけどねー。でも最近はあっちこっちのサービスエリアが大きくなって、それほど目立たなくなっちゃった感はあるわ。まぁ、眺めだけで言えば圧巻だけどね」

 里穂はそう笑って窓の外を見る。

 そこには快晴の空を切り取ったかのように静かな水面を湛える巨大な湖、諏訪湖の大パノラマが広がっていた。

「時間があったら温泉でも入っていきたいところなんだけどね。向こうの人も待ってるから、帰りに余裕があったら寄りましょうか」

「温泉?」

 真奥は高速道路にはあまり似つかわしくない単語に首を傾げる。

 すると里穂は、窓から見える散歩道の隅にある看板を指さした。

「え!? ここに温泉があるんですか!?」

 なんとサービスエリアの隅に『ハイウェイ温泉諏訪湖』の文字が。

「まぁそれなりの、だけどね。話のタネにはなるかしら。あ、二人ともこっちですよー!」

 そこに芦屋と、少しだけ顔色が戻った漆原がやってきて、全員で卓につく。

「それじゃ、順番にご飯注文してきましょうか。真奥さん達、お先にどうぞ」

「恐れ入ります。おい漆原、どうする」

「……かけうどんで」

 顔色は戻ったが、まだ車酔いは治まっていないらしい漆原は具も何もない普通のうどんを芦屋に注文して、卓に突っ伏す。

「千穂、これ」

「え? ……あ、うん分かった」

 里穂と千穂が何事か話している間に注文に立った真奥と芦屋は、ポークカレーとしょうゆラーメンという当たり障りのないものを注文する。

 そんな二人を横目に千穂は、なぜかフードコートの正面カウンターとは別の方へと歩いていき、

「ん?」

「あ……」

 真奥と芦屋がテーブルに戻ってくると、そこに千穂も戻ってきて真奥達のトレーに饅頭のようなものを載せていく。

「ちーちゃん、これは?」

「長野名物のおやきです」

 千穂は母と笑みを交わしながら答える。

 おやきは小麦粉やそば粉を練った皮で、肉や野菜、山菜やアンコなどの餡を包んだ饅頭のような食べ物である。

「お仕事で来てもらうのはそうなんですけど、折角普段来ないところに来たんですから珍しいものとか食べてもらってってお母さんが。あ、中身はスタンダードに野沢菜です」

 手のひらより少し小さいおやきを見て、真奥と芦屋は顔を見合わせる。

「じゃ、じゃあ……」

「恐れ入ります、頂戴します」

 そう言って、出来立てらしいおやきの包みを剝いて一口。

「「……美味い」」

 単なる饅頭のように見えるが、薄めの皮なのに餅のような食感で食べ応えと甘味があり、それが中身の野沢菜とよく合っている。

「おい漆原、食ってみろ美味いぞ!」

「あ……うん、もうちょっとしてから……」

 一気に食べ終えてしまった真奥に勧められるが、漆原はまだ回復しきらない。

「まぁ、ご飯食べてからまたすぐ乗って吐いちゃってももったいないし、夕方までに着けばいいからゆっくり行きましょ。じゃ、私も何か買ってくるわ」

 里穂が立ち上がると、千穂もそれについてゆく。

 母子の後ろ姿を見送ると、真奥と芦屋は顔を見合わせる。

「いやぁ、やっぱ土地が違うと食い物も変わるな!」

「そうですね。銚子とは違って今度は山ですし、山の食材がどのようなものか、興味もあります」

 マグロナルド改装までの間の勤め先として目されていた銚子の海の家が、まるで予想外の理由で閉店してしまった。

 戻ってきてからも、テレビなどの大きな買い物をしたことで、魔王城の財政は逼迫とは言わないまでも、あまり余裕のある状況ではなかった。

 そこに今回の千穂の父方の田舎での農作業アルバイトである。

 マグロナルドよりも若干時給は下がるものの、宿泊費無し、食費の一切が先方持ちとなれば飛びつかない方がどうかしている。

「なんだか……外に出るようになってからロクな目に遭ってない気がする」

 突っ伏す漆原のうめき声は、騒めくフードコートの中で誰の耳にも届くことはなかった。


         ※


 八月上旬の魔王城周辺は、とにかく慌ただしかった。

 ただでさえ、魔王城の主である魔王サタンこと真奥貞夫のアルバイト先で魔王城の家計の要であるマグロナルド幡ヶ谷駅前店が、新装開店のために一時休業しているのである。

 そこに、魔王城が入居する六畳一間の木造アパート、ヴィラ・ローザ笹塚の大家志波美輝から、彼女の親戚が経営する海の家で住み込みで働いてくれないかと打診があった。

 喜び勇んで出向いた真奥達を待っていたのは、異世界の住人であるはずの真奥達をして、理解不能な地球の不思議と、予定よりはるかに早く仕事が終わってしまった現実だった。

 収入の面では決して悪い稼ぎではなく、結果的には普通にアルバイトをするよりもわずかばかり多い現金収入を得て、おかげでこれまで購入を渋っていたテレビを購入することができた。

 ところがテレビ購入にまつわり、日本における真奥達の唯一の理解者、佐々木千穂が入院する程の被害が及ぶ事態が発生する。

 魔王たる真奥の宿敵であり、今は携帯電話会社ドコデモの受信専門テレホンアポインターとして生計を立てている勇者エミリアこと遊佐恵美と、魔王城の隣の部屋に入居している異世界エンテ・イスラの聖職者、クレスティア・ベルこと鎌月鈴乃と共に一連の事件はなんとか解決した。

 その後、真奥は魔界統一、エンテ・イスラ侵攻、日本漂流と激動の歴史から今に至るまで、一度も取ったことのなかった『休み』を取ると宣言する。

 その方が自分達の身を守ることはもちろん、万が一のときに千穂や日本の安全を守ることが容易だからだ。

 そうして何百年ぶりかの『休み』に入った真奥は、図書館に行ったり、テレビを見たり、時折アパートを訪ねてくる恵美と、自分と恵美を両親と慕う聖剣と融合した赤子、アラス・ラムスを迎えて遊んだりと、完全に休日のお父さん状態が続いた。

 世界征服の野望を抱く魔王のダラけた有様に、真奥を人類の敵と常々自分に言い聞かせている恵美と鈴乃は複雑な顔色を見せていた。

 が、やはりというかなんというか、魔王城の悪魔達は、何かと働く運命にあるようだ。

 千穂の実家の農業を短い間手伝ってほしい、という佐々木家からの打診を、真奥は二つ返事で了承した。

「やっぱ家でのんべんだらりとしてても調子が出ねぇや」

 とは真奥の弁。

 日々ニートの立場に甘んじ、できれば家から出たくない堕天使ルシフェルこと漆原はそれを聞いて大いに顔を顰めたものだ。

 とはいえ魔王城の大黒柱である真奥と、家計の一切を握る悪魔大元帥アルシエルこと芦屋四郎が応じてしまえば、漆原に拒否権は無い。

 とんとん拍子に千穂の田舎へ悪魔三人揃って手伝いに向かうことが決まったのは、お盆を過ぎた、八月の下旬のことだった。


         ※


 諏訪湖サービスエリアを出た車は、再び中央道をひた走る。

 休憩したおかげで漆原もなんとか意識を保っており、渋滞も軽微なレベル。

 一行の道行は順調だった。

「この調子ならあと一時間はかからないかしら」

 里穂がそう呟いて、助手席の芦屋が顔を上げる。

「これからお邪魔する佐々木さんのご実家は、正確にはどのあたりにあるのですか?」

「あら、千穂、ちゃんと説明しなかったの? ごめんなさいね」

「い、いえ、伺ってはいるのですが、何せ土地勘がないもので」

 母の軽口に頰を膨らませる千穂の顔がミラー越しに見えて、芦屋は慌てて首を横に振る。

「えっとね、私も主人の実家ってだけで、それほど地理に詳しいわけじゃないんだけど」

 里穂は前置きしてから言う。

「とにかく、あれほど山が綺麗な場所はないんじゃないかしら」

「山ですか」

「すっごい、山脈って感じなんです」

 母の後をついで、千穂が意気込む。

「登山して楽しいとか、見て圧倒される山っていうのは沢山あるかもしれませんけど、お父さんの田舎から見える南アルプスは本当に綺麗なんです。水もすごく綺麗で美味しくて、夏も風が通って涼しいんですよ。エアコンなんかいらないくらい」

「涼しいのは助かるな。なんだかんだで肉体労働なんだろうから」

 千穂からの情報に真奥は顔を綻ばせるが、

「昔はねー、確かにそうだったけどねー、最近はねー」

 里穂はそこにやんわりと影を落とす。

「千穂がちっちゃい頃は、本当に涼しい避暑地って感じだったけど、ここ何年かは東京とほとんど変わらないわよ。まぁ肉体労働するんだったら水分補給は怠らない方がいいわねー」

「うう……」

 後部座席で漆原が唸った理由は、決して車酔いが再発しただけではあるまい。

「あと、高速降りたら通るけど、天竜川が流れてるわ……あ、いけない、そろそろ」

 里穂はふと道路標示を見て、そこそこ出していたスピードを落として左車線に移る。

「漆原さん! ちょっと大きなカーブ入るわよ!」

「は~~い……」

 里穂の合図と共に、車は高速道路の出口に向かう。

 東京を出発して約三時間。

 悪魔三人を乗せた車は、中央高速道駒ヶ根インターチェンジから長野県駒ヶ根市に降り立った。

「でも……今更ですけど遊佐さんに声かけなくて良かったんですか?」

 ETCレーンを抜けて左折し市街へと向かう車の中で、急に千穂が思い立ったように真奥に尋ねる。

「帰ってから怒られたりしません?」

「怒るかもしれねぇけど、別に俺達がどこに行こうとあいつの知ったこっちゃない」

 建前上、エンテ・イスラから真奥を討伐しにやってきているはずの恵美は、当然真奥達の動向を逐一摑みたがる傾向にある。

「それにな、多分怒られるなら、帰ってからじゃない」

 千穂は首を傾げると、真奥は面倒くさそうにため息をついた。

 丁度車は市街の中心へ入り、フロントガラスの向こうにJR駒ヶ根駅が小さく見える。

「来る前に調べたんだけどな、新宿からここまで、高速バス一本で来られるんだ」

「え……あ!」

 千穂の一瞬の疑問に答えるように、今まさに、千穂達の車は駒ヶ根駅前の高速バス停留所の前を通り過ぎた。

「恵美には何も言ってねぇけど、鈴乃はちーちゃんの話、一緒に聞いてたろ」

「……ですね」

 千穂は納得して頷いた。

 確かに真奥の部屋を訪れて佐々木家の田舎の仕事を打診したとき、鈴乃も隣室から出てきてその話に関心を見せていた。

「銚子にだって追いかけてきただろあいつら。絶対、来ないわけがない」

「……ですよねー」

 真奥の推測を否定できる材料を、千穂は持ち合わせていなかった。


         ※


「ぇぷしっ!! ……あぅ」

「あら、どうしたのアラス・ラムス」

 恵美はショルダーバッグの中からポケットティッシュを取り出すと、くしゃみをした『娘』の鼻に当てて鼻水を拭き取ってやる。

「エアコンが寒かったのかしら。でも、外は暑いしね……出発までどこかお店に入った方が良かったかしら」

 言いながら、腕時計と掲げられている電光掲示板の文字を見比べる。

 新宿駅西口、ヨドガワバシ電気前の高速バス乗り場の切符売場で恵美とアラス・ラムスが見上げるのは、長野県南部へと向かう高速バス、飯田線の掲示板だ。

「待たせたエミリア」

 そこに、和装の小柄な女性が駆けてくる。

 手には細長い封筒のようなものを持っていた。

「ギリギリだった。お盆が過ぎてるはずだが、ほとんど席が埋まっているらしくてな。一時間後、京王バス駒ヶ根車庫行きだ」

「ありがとうベル。最近はお盆休みも皆ずらして取るみたいよ。切符、いくら?」

 恵美は、切符を買う列に並んでくれたクレスティア・ベルこと鎌月鈴乃に礼を述べて財布を取り出す。

「ちょっと待ってくれ、確か三千ちょっとだが、細かかったから後で落ち着いたらな」

 鈴乃は恵美に見てもらっていた古めかしい手持ちのトランクの中に切符を収める。

「アラス・ラムスは? 小児運賃だった?」

「いや、母親が膝に抱えればアラス・ラムスの年齢なら料金はかからないと言われた。道路事情にもよるが三時間ほどかかるらしいが、大丈夫か?」

 赤ん坊連れで公共交通機関に長時間乗るのはなかなか周囲の乗客に気を使うことが多い。

 アラス・ラムスは癇癪を起こして泣きわめくようなことはないが、車中で三時間大人しくしていられるかどうかは微妙なところだ。

「外見せてれば大丈夫かなって思うけど……ベル、私とアラス・ラムス、窓側でいい?」

「構わんが、窓側は窓側で車酔いをしそうではあるな」

「ガブリエル相手にあれだけ大立ち回りができるのに、車酔いなんかするのかしら」

 恵美は、アラス・ラムスが聖剣と融合する前に、大天使の力を軽く凌駕する戦いを見せたことを思い出す。

「……分からんぞ。悪魔が夏バテしたり猫アレルギーだったりするくらいだからな」

「……そうね、ガブリエルに頭突きできるのに、電車の窓に頭ぶつけて泣いちゃうしね」

「……う?」

 恵美と鈴乃は乾いた笑いを浮かべてから、束の間がっくりと項垂れる。

「それにしても、この前千葉に行ったと思ったら今度は長野? 少しは大人しくしてればいいのに。いちいち仕事休まなきゃいけないこっちのことも考えてほしいわ」

 恵美がうんざりした口調で言うのは、もちろん真奥達のことだ。

「大体、大黒屋のアルバイトでも、きちんと実入りはあったんでしょ? この前千穂ちゃんを巻き込んであんなことがあったばっかりなのに、あっちこっちふらふらしてどういうつもりなのかしら」

「まぁだがそれは……」

 恵美の文句を受けて鈴乃が口を開こうとするが、恵美はやんわり止める。

「待って、言いたいことは分かるわ」

「んん?」

「そりゃ世界征服を叫んでる魔王が東京を中心に千葉や長野までしか移動してないんだったら十分大人しいって言い方はできるかもしれないわ。それは分かってるわよ」

「……うむ」

「どうせあいつらのことだから、休んで日がな一日家でごろごろしてるのに耐えられなかったんでしょ。そうでなくてもあのアパートってエアコンも無いし娯楽も無い。あの魔王が寝っ転がってぼんやりテレビ見てる姿なんて想像できないもの」

「……うむ」

「そんなときに日頃お世話になってる千穂ちゃんのおうちの用事で働けて、しかもお金が入るんならそりゃ誰だって行くわよ。分かってるのよそんなことは」

「で、とどのつまり何が言いたいんだ」

 言い募る恵美に、鈴乃としてはもう苦笑するしかない。

 別に鈴乃自身はそこまで考えて何かを言おうとしたわけではないのだが、確かに千穂から話をされたときの真奥達は、『休み』に飽き飽きしていた様子だったことは間違いない。

 行くのを嫌がっていたのは漆原くらいで、真奥と芦屋は二つ返事を絵に描いたような即答ぶりだった。

 時給だけで言えば決して高いものではないが、三食付いて土産に採れたて農産品とまで言われたら今の真奥達にとっては願ってもない話だろう。

 つまり鈴乃が見たものと恵美が想像した真奥達の姿は全く同じなわけだが、そこまで言い募る恵美が最終的に何を言いたいのか鈴乃は測りかねる。

「何が……何が一番嫌って……」

 恵美はなぜか鈴乃にびしりと指を突きつけたかと思いきや、急に顔を顰めて頭を抱えて、今立ち上がったばかりのベンチにまた座り込んでしまう。

「あいつらのそういうところが簡単に想像ついちゃう自分が一番嫌なの!」

「そこまで悲観することでも……まぁ、あるか」

 鈴乃は頰を搔きながら、恵美の複雑な心中を察する。

 宿敵と追ってきた魔王の生活やら考えやら思惑が手に取るように分かれば勇者たる恵美にとってはいいことのはずだ。

 だが、恵美が手に取るように分かりたかったのは、魔王一派の経済観念とか労働意欲とか勤勉さとか、そういうことではないのだ。

「第一!」

「おう!?」

 今度は勢い良く立ち上がり、隣に大人しく座っていたアラス・ラムスがはっと恵美を見上げ、鈴乃も驚いて低い声を上げてしまう。

「佐々木家の、よりにもよって農業を手伝いに行くっていうのがまた気に入らないわ!」

「そ、それは仕方のないことだろう。それが佐々木家の稼業なわけで……」

 言いがかりに近くなってきた恵美の愚痴に圧倒される鈴乃だが、

「私の故郷の麦畑を踏み潰した奴らが、どの面下げて畑仕事する気なのかしらね!」

「……ああ」

 エンテ・イスラの恵美の故郷は、当時の漆原率いるルシフェル軍によって壊滅させられている。

 元々農家の娘である恵美にしてみれば、その一事をとっても今の真奥達の行動が許しがたいのだろう。

 どう声をかけていいか分からない鈴乃に気づいたのか、恵美ははっとしたように眉を上げて、深呼吸をするようにため息をついた。

「……ごめんなさい、ちょっと、熱くなっちゃったわ」

「いや、いいさ。エミリアにはそれだけのことを思う理由がある」

 かけられる言葉は少ないが、鈴乃は恵美の腕を軽く撫でると、トランクを抱え上げて明るく言った。

「さて、バスが出るまで少し時間がある。どこかで時間を潰すか? ここはアラス・ラムスには冷房が強すぎるだろう?」

「……ええ、そうね」

 鈴乃の明るさには、いささかのわざとらしさが混じる。

 それは軽はずみに恵美の気持ちを理解したなどと言わない代わりに、気持ちだけは受け止めたという彼女なりの誠意だった。

 恵美も、それを理解できないほど熱くなっているわけではない。

「三時間もかかるんじゃ、向こうに到着するのはもう夜ね。ちょっと遅くなっちゃったけど、高速が渋滞したら嫌だし、ご飯食べていきましょうか」

「それがいい」

「こーんすーぷ!」

 ご飯、の単語に反応したアラス・ラムスが、恵美の手を摑んでせがむ。

「はいはい、コーンスープね。最近急にコーンクリームが好きになっちゃったみたいで」

「ならば洋食屋にするか? 私はこの近くの店はうどん屋しか知らないのだが……」

 恵美は脳内に新宿駅西口の地図を思い浮かべて、いくつかの飲食店をピックアップする。

 鈴乃の一言のおかげで、洋食を食べられる店の中で一か所だけまんまるうどんが検索されてしまったのは検索ミスとして放置した。

「ちょっとボリュームが男性向けだけど、安くておいしい洋食屋さんがあるわ。行きましょ」

 こうして魔王を追う勇者と聖職者は、聖剣に宿る赤子を連れて、とりあえずコーンスープがある洋食屋を目指して歩きはじめたのだった。


         ※


「おいおい漆原! 見ろあれ!」

「ゆ、揺らさないで……今ちょっとまたヤバ……」

「川の傍の建物! カッパの顔みてぇな形してたぞ!?」

「あ、真奥さん気づいた? あれ『カッパ館』って言うのよ。冗談みたいでしょ?」

「え? そうなんですか?」

 運転席の里穂の言葉に、真奥は信じられないような面持ちで後ろに流れていった『河童の顔の建物』を振り返る。

「郷土の河童に関する伝説とか資料とかが展示されてるの」

「河童って……本物じゃないですよね?」

 真奥は、最近テレビでやっていたUMA特集番組を思い出して眉根を寄せる。

「本物じゃないだろうけど、でも河童の伝承に基づいた古いものとかが結構展示されてるらしいわよ? 一度も入ったことないけど」

「へぇ……」

「そのカッパ館が建ってたところの川が天竜川なんです。だから水の妖怪とかの伝説が生まれやすかったんじゃないですか?」

 千穂が後ろに過ぎ去った大きな橋を振り返ってそう補足した。

「……なるほど……ということはもしや……」

 里穂の話に思わず唸ったのは、助手席の芦屋である。

 だがそのくぐもった独り言には誰も注意を払わず、代わりに、

「あ、もうすぐ着きますね」

 正面に顔を戻した千穂の言葉に男性三人に緊張が走る。

 新しい雇い主と対面する間際というのは、やはり緊張する。

 千穂の親戚というだけでは人となりまでは測りようがないし、それに三人にとっては農業など全く未知の分野である。

 仕事を紹介してくれた千穂や千穂の父の顔を潰すようなことはあってはならないと肝に銘じ、漆原以外の二人は車の中で背筋を伸ばした。

 車は小高い山の道を上り、杉林沿いをひた走る。やがて杉林が消えて視界が開けたとき、

「おお!」

 最初に声を上げたのは芦屋だった。

 フロントガラスの向こう側には、千穂と里穂が語った南アルプスの青い峰が大パノラマで広がっていたのだ。快晴の空とは一線を画した大地の青に芦屋と真奥は息を吞む。

「あ、ちなみに」

 遠くに見える南アルプスの絶景に感嘆の声を上げる二人に、里穂はこともなげに言う。

「今いる丘というか山、公道以外はほぼ全部佐々木の家のね」

 束の間、エンジン音が車内の主役となった。

「「ええええええええええええええ!?」」

 真奥と芦屋の絶叫に、車酔いが再発していた漆原はビクリと体を震わせたのだった。



「やい里穂さん遠いとこすまんね、よく来たよく来た!」

「義姉さん、お久しぶり! ごめんね遅くなって!」

 車の音を聞きつけていたのだろう。

 お屋敷としか呼びようのない一軒家の前には、恰幅の良い中年女性が待ち構えていた。

「伯母さん、お久しぶりです」

 里穂と千穂が一足先に車から降りて笑顔でその女性に挨拶をしている。

「やい千穂! 久しぶりだなぁ! また大きくなったな!」

 まるで小さい子にそうするように千穂の頭を撫でる女性は、後からおずおずと車を降りる真奥達を見て、また破顔する。

「あんたが真奥さんけ!」

「あ、は、はい、どうも、初めまして」

 明るい声が急接近してきて、真奥は思わず姿勢を正す。

「やいこの度は本当、無茶なお願いを聞いてくれてありがとうございますー。本当、千一さんから聞いたときには天の助けだと思っちまって」

 悪魔の王相手に天の助けもないものだが、そこを突っ込んでも仕方がないので、真奥はとりあえずお辞儀をする。

 悪魔の王だからこそ、礼儀を失してはならない。

「真奥貞夫です。しばらく、お世話になります。よろしくお願いします。あ、大きい方が芦屋で、小さい方が漆原です。おい、二人とも」

 芦屋と漆原を呼び寄せる。すると、

「芦屋さんに漆原さん。本当によく来てくれたなぁ! こちらこそよろしくお願いしますー」

 明るい声で、女性は真奥達よりもよほど深々と頭を下げる。

「恐れ入ります。芦屋四郎と申します」

「……漆原、です」

「千穂の伯母の由美子ですー。やい、里穂さんも真奥さん達も、長いこと車で疲れたら! 上がって休んでくれよ! 里穂さん、手数だけど、車は裏のいつものとこに置いてくれな! 千穂、真奥さん達の部屋はもう用意してあるで、とりあえず二階の右の部屋に案内してやってくれよ。私はお父さん呼んでくるに。お父さーん! お父さーん!」

 千穂の伯母、由美子は嵐のように矢継早にそう言うと、身を翻して家の中に駆け込んでいってしまう。

「……」

 真奥は勢いに圧倒されたまましばし固まっていたが、

「それじゃ真奥さん、芦屋さん、漆原さん、荷物持って、上がりましょ」

「お、おう」

「は、はぁ」

「……うぷ」

 千穂に促されて、そう多くもない荷物を車のトランクから下ろすと千穂に従ってお屋敷の引き戸を開く。

「ひ……広い……」

 最初に声を上げたのは、芦屋だった。

 純日本家屋の趣の佐々木の実家は、玄関から見える廊下だけで、ヴィラ・ローザ笹塚の共用廊下に匹敵する長さを誇っていた。

 玄関だけでもヴィラ・ローザ笹塚二〇一号室がまるまる収まってしまうのではないかと思うほど広く、下駄箱の上にはどういうわけか巨大なスズメバチの巣が飾られている。

「お、おい芦屋、廊下の先、曲がってるぞ、まだ部屋があるんじゃねぇのか」

「どうなのでしょう……あったとして、そんなに沢山の部屋を一体何に使うのか……」

 一つの大陸の都市一つ潰した魔王城に住んでいたはずの魔王と悪魔大元帥は、長野の農家の日本家屋の玄関口で既にその広大さに圧倒されてしまっている。

「とにかく、荷物置いちゃいましょ。私が言うのもおかしいですけど、どうぞ、上がってください」

 一方千穂は、当然というかなんというか、幾度も訪れた親戚の家。特別な感慨もなく玄関に上がる。

 真奥と芦屋は恐る恐る、漆原は相変わらず青い顔をしながら千穂の後に続いた。

「く、靴とか揃えておいた方がいいんじゃねぇか」

「そ、そうですね」

 普段あまり気にしないことなのに、踏み入れたことのない環境にすっかり尻込みしてしまった悪魔二人は、律儀に漆原や千穂の靴まで揃えておく。

「伯母さん二階の右って言ってたから……こっちです」

 千穂が先に立って歩こうとして、真奥はあることに気づく。

「あ、芦屋、俺は今、とんでもない事実に気がついた」

「な、何事でしょう」

「真奥さん?」

 廊下の真ん中で不思議そうに振り返る千穂。

 一方の真奥は、玄関を上がったところで落ち着きなく周囲を見回し、そして言った。

「玄関から、階段が見えねぇ。階段は、あの角の奥なんじゃねぇか?」

「……な……ま、まさか!!!!」

 芦屋も真奥の言わんとしていることに気づき、表情が固まる。

「ま、魔王様」

「あ、ああ」

「我々は、とんでもない所に来てしまったのでは」

「……なんでもいいから早く行けよ」

 車酔いの余韻が残っていて一刻も早く休みたい漆原が、大悪魔の威厳も形なしに佐々木家の広大さにショックを受けている二人に冷たい突っ込みを入れると、

「誰か来たのか?」

「「うわああっ!?」」

 その途端、真奥と芦屋の背後の襖が物凄い勢いで開いて大柄な男性が姿を現し、二人は思いきり飛び上がってしまう。

「うおっ!? びっくりした!」

 だが驚いたのは向こうも同じだったようだ。

 年のころは三十前後と思われるが、人懐っこそうな柔和な表情と健康的に日焼けした筋肉質の体は真奥や芦屋の人間型と変わらないほど若々しい。

「あ、一馬兄ちゃん、こんにちは」

 一人千穂だけが何事も無かったように、現れた男性に笑顔で挨拶する。

「に、兄ちゃん?」

 真奥は千穂らしからぬ人の呼び方に激しく鼓動を打つ心臓を抑えながらも首を傾げる。

「おお千穂、着いてたのか。てことは、この人達が」

 一馬兄ちゃん、と呼ばれた男性は一瞬真奥達を値踏みするような目になったが、

「まぁ遠いとこ疲れてるだろうから、まずは荷物を置いてくれ。挨拶は後でな」

 そう言って、出てきた部屋の襖を閉じると玄関から外へ出ていってしまう。

 その背中を呆然と追う真奥と芦屋。漆原はもう限界に近い。

「え……っと」

「あ、一馬兄ちゃんは……私の従兄弟です」

 困惑顔の真奥の疑問を察したのか、千穂が説明してくれた。

「い、従兄弟? そ、そうか」

 真奥は頷く。

「兄ちゃんなんて言うから、ちーちゃんに兄貴がいたのかと思った」

「……あっ」

 真奥の言うことに一瞬遅れて気づいた千穂は、思わず頰を赤らめる。

「すいません、小さい頃からずっとそう呼んでたから、子供っぽいことは分かってるんですけどつい……」

 昔は一馬も千穂のことを「ちー」とか「ちーちゃん」とか呼んでいたのだが、それは向こうが高校生で、千穂が小学校に上がった頃の話。

 自分だけが未だに昔からの倣いが抜けないのが気恥ずかしくなってしまう。

「ああ、悪い悪い、そういうことじゃねぇんだ。ま、なんというかお袋さんと話してるときも思ったんだが」

「はい?」

「ここにいると普段見られないちーちゃんの顔が見られる気がして、面白くなってきた」

「…………っ!」

 真奥にとっては何げない言葉だったが、

「し、知りませんそんなことっ!」

 千穂にとっては、それはなかなか心の奥底まで鋭く入ってくる言葉だった。

「ん? 俺なんか変なこと言った?」

「な、なんでもないですよ! こ、こっちです!」

 見間違いようもなく顔を赤らめた千穂は、自分の顔をぺちぺちと叩きながら廊下を進んでいってしまう。

「お、おい待ってくれ! 置いてかれたら迷子になる!」

「……そんなわけないだろ」

「魔王様……さすがに、佐々木さんに今の発言は……」

「あら? 真奥さん達まだそんなところにいたの?」

 千穂が廊下の先に消えてしまった瞬間に、背後の玄関から里穂の声がかかる。

 どうやら真奥達が廊下で勝手に圧倒されている間に、もう車を置いてきたようだ。

「あ、す、すいません」

「いいんだけど、皆が真奥さん達が来たこと知ってそろそろ戻ってくるだろうからちょっと急いでね。今表でカズ君にも会ったし」

「は、はい、おーいちーちゃん待ってくれ!」

「う、漆原、早くしろ!」

「ぐずぐずしてたのはどっちだよ……」

 廊下を曲がった先にようやく階段が現れ、その下で千穂が赤い顔をしながら待っていた。

 だがこの廊下にもまだ先があり、ふと真奥は思う。

 これだけ広い家である。

 長野の佐々木家には、一体何人の人間がいるのだろうか。

 千穂の先導で階段を上がった先はまた長い廊下であり、千穂が開いた襖の部屋は、

「……魔王城の、倍あるな」

 更に六畳の二間をぶち抜いた、三人では持て余しそうな程に立派な客間だった。



 先ほど千穂の従兄弟である一馬が出てきた部屋の向かいは、古式ゆかしい茶の間だった。

 千穂に案内され、真奥達は一礼して茶の間に入る。

 そこには里穂と、由美子と一馬と、千穂の父に似ている中年の男性、そして、

「あれ!? お婆ちゃん!?」

 小柄な老婆が座っていた。

 千穂は長卓の正面に座っていた老婆の姿を見て大声を上げる。

「怪我して入院したんじゃなかったの!?」

「入院はしたんだ、一応」

 一馬が老婆の隣で肩を竦める。

 千穂や一馬の様子からいって、この老婆が千穂の祖母に当たる人なのだろう。

 ということは、一馬と同じく苦虫を嚙み潰しているような表情の男性が、千穂の伯父の万治のはずだ。

「したんだが……」

「へぇバカってぇ。あんなもん怪我のうちに入らん」

 千穂の祖母は軽い口調でそう言った。

「え、でも、イノシシか何かに体当たりされたって……」

「されとらんぜ?」

「ええ?」

 事前に聞いていた話と祖母の言うことが食い違って首を傾げる千穂。

「まぁとにかく座れ。ええ、真奥さんに芦屋さんに漆原さんだったかな、皆さんもそちらに」

 一馬に促されて、魔王城のカジュアルコタツとは存在感からして違う、力強い拵えの長卓につく千穂と真奥達。

「この度は無茶を聞いてもらって、本当にありがとう」

 丁度真奥の正面に座っていた中年の男性が、小さく頭を下げる。

「俺が千穂の伯父の万治だ。名ばかりだけぇど、佐々木の家の社長をやってます」

 初老に差し掛かって尚頑健そうな肉体を持つ万治は、家族達を見回しながら言う。

「そんでそっちのが、うちの長男で現場を取りまわしてる責任者の一馬。俺の嫁の由美子と、俺のお袋のエイです」

「真奥貞夫です、こっちは芦屋と、漆原。今日から、お世話になります」

 魔王城側は真奥が代表して部下二人を紹介し、芦屋と漆原も頭を下げる。

「そ、それであの、お婆ちゃん、本当に大丈夫なの?」

 とりあえずの面通しが済むと、千穂は我慢できない様子で身を乗り出した。

 千穂としては祖母の無事が喜ばしいことだけれども不思議でもあるらしい。

「まぁかいつまんで言うとだ。婆ちゃん、畑でイノシシと遭遇したのは間違いないんだが、体当たりされたんじゃなくて、イノシシの突撃を避けて転んだだけなのえ。それで一応検査を受けさせにゃって医者連れてったっちゅーことで」

「え」

 万治の解説に、千穂は目を丸くする。

「俺ぁだからはじめっからそう言っとるに」

 祖母のエイは不満げな様子で息子を見るが、

「言っても婆ちゃん、もう年ずら」

 孫の一馬に窘めるように言われて、とりあえず黙るエイ。

 千穂は謎が解けて複雑な顔で頷く。

「そ、そうなんだ。大したことないなら良かったけど……」

「大したことあった方がええのよ。それで帰ってきたその日にもう畑に出とっちゃこっちは心配でしゃあねぇ」

 万治も呆れたように言う。

 万治も一馬も、真奥に馴染みの無い方言で喋るせいで、ともすればエイを疎ましく思っているようにも聞こえるが、表情を見ていれば本気で祖母に静養していてほしいという心持ちは手に取るように分かる。

「ま、まぁでも今日からしばらくは肉体労働は俺達がしますから、お婆さんには休んでてもらって……」

 完全に身内話が進行する流れを読んだ真奥は、とりあえず口を挟んで流れをこちらに戻す。

「っとそうそう、千一や里穂さんが紹介してくれた人を疑うわけじゃねぇけども、きつい時は本当にきついが、大丈夫か?」

 はっと顔を上げた万治が、確かめるように真奥に尋ねる。

「僕はあんまり自信な……って!」

 早速怖気づいている漆原の一言は、芦屋が腕を抓って封じ込める。

「単純な体力だけならば、人並み以上にはあるつもりでおります。専門的な作業となるといささか自信はありませんが……」

 芦屋の言葉に一馬が首を横に振る。

「いや、そんな難しいことはさせない。ただとにかく収穫やら草取りやらの単純作業が、今いる人数じゃとてもおっつかないんだ。やってほしいことは全部こっちが指示して一から教えるし、そんな複雑なこともないからそこは心配しないで」

 一馬は立ち上がると、今の壁に掲げられているカレンダーに歩み寄る。

「日数も、そんなに拘束はしない。五日後にはなんとか農協の方から人を都合してもらえるようになったから、慣れない仕事で手間だろうが、四日間だけよろしく頼みたい」

 真奥達にしてみれば別にマグロナルドが再開するまでいても構わないのだが、元々期間は長くないと言われていたのでそこは素直に頷く。

「本当にギリギリだったんだ。明日にはもう、かなりの数の茄子やキュウリがいい大きさになっちまう。今日はこのあと俺の嫁に畑の様子だけ案内させるから」

「そういえば一馬兄ちゃん、陽奈子姉ちゃんとひー君は?」

 千穂が一馬の『嫁』という言葉に反応して、思わず周囲を見回す。

「あ、陽奈子姉ちゃんとひー君……一志君っていうのは、一馬兄ちゃんの奥さんと息子さんです」

「「……ああ!」」

 千穂の言葉に、真奥と芦屋がなぜか大仰に頷く。

 そして二人揃って一馬に向き直ると、

「「その節はお世話になりました!」」

「は? 何が?」

 一馬はもちろん、他の面々も何がなんだか分からないだろう。

 だが、真奥と芦屋にとって、一馬の家族は遠い恩人と言わざるを得ない。

 かつて真奥と恵美の『娘』であるアラス・ラムスが魔王城に来た当初、慣れない育児にてんてこ舞いの魔王城に一筋の道を指し示したのは、千穂の『従兄弟の子供』の世話をした経験だった。

 それが無ければアラス・ラムスの世話はより困難を極めていただろうし、今の疑似親子ながら良好な関係を築くには至らなかったかもしれない。

「後でその一志君と奥さんにもお礼言っとかなきゃな」

「左様ですね」

「な、何かよく分からんが……」

 真奥と芦屋の様子に戸惑う一馬だが、軽く咳払いをすると最初の千穂の疑問に答える。

「陽奈子は今、一志の予防接種に行ってる。もうすぐ帰ってくると思うけど」

「予防接種?」

「四種混合とかいうやつ。帰ってきたら、俺と親父はまた畑に出るから、悪いけど千穂、陽奈子に真奥さん達を案内してもらってる間、一志の面倒見ててくれるか?」

「分かった。任せて」

「やい千穂はまたいい女になったなぁ。里穂さんも鼻が高いら!」

 自信たっぷりに頷いた千穂を、由美子が手放しで褒める。

「そんなことないのよ義姉さん。なまじ外でアルバイトするようになった分、うちじゃあてんでね」

 里穂は苦笑して首を横に振る。

 母がそう言うことは分かってはいたが、それでも微妙に面白くない千穂。

「そんなことはねぇら」

 由美子はそれでも千穂を褒めようとするが、次の一言は千穂も、そして真奥も予想だにしない爆弾だった。

「やい千穂、最近料理の腕も上げとるって聞いて、伯母さん楽しみにしとったのよ。真奥さんのために作っとるで料理のレパートリーが増えたって言うじゃねぇか」

「え!? ちょ、ちょお母さん! お、伯母さんに話したの!?」

 何故伯母が、千穂が真奥の家に手料理を差し入れしていることを知っているのか。

 これには千穂だけでなく、真奥も芦屋も漆原も吹き出した。

「え? お? 何? 真奥さんは千穂のそういうことだったのか!?」

 一馬も驚いたように、そして好奇心丸出しの顔で千穂と真奥の顔を交互に見る。

「ちちち違うってその、あの、違うけど違わなくなってほしいっていうかそのあの、でも今は別に一馬兄ちゃんの想像してるようなことじゃああ痛っ!!」

 千穂は慌てて立ち上がろうとして、長卓に思いきり膝をぶつけてうめき声を上げる。

 千穂は日頃から、真奥との付き合いが不純なものでないことを証明する意味で、真奥や魔王城の面々と過ごす間のことを、エンテ・イスラ絡みのこと以外は逐一両親に報告している。

 それでも、特定の男性に手料理を振る舞っているという事実を親戚とはいえ他人に漏らされれば、それはもう気恥ずかしさがナイアガラの冷や汗となって、膝の痛みとの相乗効果で千穂の顔を真っ赤に染め上げる。

「あーごめん、話の流れでつい」

 当の里穂はまるで悪びれる様子も無く、むしろにやにやしながら娘が慌てふためく様子を見物している。

「つつつつつついってお母さんっ!」

「だあって、千穂の紹介ってだけじゃ万治さんに納得してもらえないでしょうが。身元がはっきりしてて、きちんと仕事ができる人達で、千穂がとっても信頼してるってことを説明しなきゃと思ってー」

「ほー! 千穂が信頼してるかぁ。やるなぁ真奥さん。こりゃあ夜は千穂とのことを肴に一献傾けなきゃなぁ!」

「一馬兄ちゃん! だからそういうんじゃないんだったら!!」

「いや、その、あの、はあ」

 真奥もどう返していいものやら困るが、何を言っても地雷にしかならないような気がして、結局あいまいに唸って押し黙ってしまう。

「やい、まぁとにかくだ」

 一挙に騒然となった茶の間を、万治が家長として収めるのかと思いきや、

「千穂も、そういう年頃っちゅうことよ」

「伯父さん!!!!」

 いよいよ千穂の混乱の火に油を注ぎ込む。

「婆ちゃん曾孫は一志だけで手一杯だもんで、ちっと間を開けてくれよ」

 そこに、先ほどから全く話に加わっていなかったくせに、きちんと流れを把握していたエイの一言がトドメとなって、

「わううううううう~!!」

「お、おいちーちゃん!?」

 真奥が落ち着かせようとするが既に遅し。

 千穂は羞恥が臨界に達し、目を回して倒れてしまったのだった。



「確かこれって、マズいんじゃありませんでしたっけ?」

「大丈夫大丈夫! どうせ全部うちの敷地だし!」

 助手席に座る真奥はそういう問題でもないと思うのだが、運転席でハンドルを握る女性は真奥の指摘にも特別何かを思う様子は無い。

「やー、帰ってきたら千穂ちゃんがぶっ倒れてるから何事かと思ったよー」

 畑と畑の間の舗装されていない農道を、軽快に走り抜ける軽トラックを運転するのは、千穂が気絶した後に帰ってきた一馬の妻、陽奈子だった。

 陽奈子はアラス・ラムスと同じ年頃であろう男の子、一志を千穂に預けた後、さっと軽トラックを回してきて、真奥達の案内役を一馬に言われる前から買って出てくれた。

 一つ問題があるとすれば、

「案外この方が車酔いしないかなー」

「わ、私はうっかり警察が通りがかって罰金を払わされるのではないかと思うと……」

 芦屋と漆原が、荷台にいることだろうか。

 漆原は運転席の屋根の突起に摑まり立ちして前を見ているが、芦屋は荷台で大きな体を精いっぱい縮こまらせている。

 その視界にあるのは、使い方の分からない道具が沢山入ったプラスチックケースと畳まれた緑色のシートだ。

「やー、それにしても本当ありがたいよー。男手三人分あれば、その分私達が別の作業したりぐっと時間が短縮できるしさー」

 何かと礼が先行する佐々木家だが、真奥達としてはまだ何もしていないのに礼ばかり言われるとハードルの高さがめきめき上がっているようにしか思えない。

「あ、ここらでいいかな。止めるよ」

 変化の無い畑の真ん中の道でトラックを止める陽奈子。

 元気な様子の漆原と、逆に車酔いでもしたかのような芦屋が荷台から降りてくる。

 そこは、なだらかな斜面の丁度真ん中あたりに位置する場所だった。

「この時期は収穫するものの種類は多くないんだけど、何せ広いし機械が使えないものばっかだからね。一馬がどれだけ真奥さん達に頼むのか知らないけど、多分メインはあそこ」

 陽奈子が指さす先には、ビニールハウスが幾筋も並んでいるエリアがあった。

「あそこ、茄子作ってるんだ。で、その隣のハウスじゃないところでキュウリやってる」

「隣って……」

 悪魔三人は、思わず顔を見合わせる。

 隣、と陽奈子は簡単に言うが、遠目に見てもそれは、笹塚で軽く一丁は歩くほどの距離があった。

 そしてハウスの数も、その広大な畑を覆い尽くすように十棟あった。

 茄子とキュウリを栽培しているというそれぞれの畑の面積は、土地を区切った部分まで全て含めると、ヴィラ・ローザ笹塚の敷地が軽く四つは入りそうな広さだ。

 少し離れたこの距離から見てそう思うのだから、実際その場に立てばもっと広大に見えるのだろう。

「思ったより広くないっしょ?」

「コメントに、困りますね」

 確かに、山一つ持っているらしい佐々木家の畑としては、大規模なものではあるまい。

 だが果たしてあの畑で自分達の作業量がどれほどのものになるか、経験の無い三人には全く分からないのだ。

「あー、でももしかしたら、誰かは下の畑のスイカの方かもなぁ。どっち優先かは悩むところだね」

「スイカ、ですか」

 真奥達の立っている位置からは、スイカ畑らしきものは見えない。

「ここからもうちょっと下った場所にあるんだ。あんまり林に近いとハクビシンとかにやられちゃうんだよね」

「ハクビシンって?」

 動物の名前だろうか。漆原が問うと、

「なんか体の長いネズミみたいなの。まぁ、もしかしたらどっかで出会うよ。そんなでっかい生き物じゃないし出会ったら向こうが逃げるから、そこは安心して」

 エイのイノシシ騒動で実習生に逃げられたせいか、ハクビシンなる生き物のサイズを両手で指し示しながら、殊更に安全性を強調する陽奈子。

「あ! あそこ一馬がいる! おーい!」

 そのとき陽奈子は、ビニールハウスから出てきた人影に気づき、大きく手を振る。

 遠目だがそれは確かに一馬で、向こうも気づいてこちらに手を振り返してきた。

「やっぱとりあえず茄子っぽいね。スイカはあと一週間先ってとこだろうしな、うん」

 陽奈子は一人で納得すると、

「折角だから、ちょっと見てみようか?」

 三人を促してトラックに乗せると、細い農道を辿りながらビニールハウスの傍まで降りてくる。

「明日明後日、やばいな」

 こちらの動きに気づいていたらしい一馬がハウスの前で待っていて、手にしている二、三本の茄子の中から一本を陽奈子に差し出す。

「わ、本当だ」

 陽奈子は手渡された茄子をさっと眺める。

「真奥さん芦屋さん漆原さん、多分明日は茄子にかかりっきりになってもらうことになりそうだ。場合によっては隣のキュウリもって感じだが、まずは茄子の収穫を優先で頼む。やり方は明日教えるよ。と言っても、手ごろな大きさのを見つけて鋏で切るだけだ、そんな難しいことは無いけどな」

「は、はい」

「分かりました」

 真奥と芦屋は翌日の仕事の内容に目途がついてほっとするが、

「って、え?」

 次の瞬間の一馬と陽奈子の行動に目を剝いてしまう。

「さてどうするか、今日はこのあとスイカの方に案内して、軽く草取りだけやってもら……どうした?」

 真奥と芦屋と、そして漆原が自分の方を向いていないことに気づく一馬。

 三人の視線の先にあるのは。

「す、捨てた……?」

 一馬と陽奈子が無造作に畑の隅の明らかに廃棄物入れと思しき箱に投げ捨てた、三本の茄子だった。

「え、あ、あれ、今の茄子、捨てちゃうんですか?」

「ん? 何が……ああ」

 一馬は最初、なんのことを言われているのか分からなかったようで、三人の視線を追ってようやく疑問に気づく。

「あんなもんは売れも食えもしないクズだ。いちいち拾ってたらえらいことになる」

 一馬は苦笑しながら廃棄物入れに捨てた茄子を拾い上げると、三人の目の前でくるくると回して見せた。

「……あ」

 その茄子には、最初見たときには気づかなかった大きな傷が入っていた。

 瘡蓋のように乾いたそれは、確かに都市のスーパーでは見たことの無い状態だ。

「で、でも他のは……」

「こっちは色が死んでる。こっちは細すぎて中身が無い」

「そ、それはそうかもしれませんが……」

 芦屋はそれ以上続けられずに絶句する。

 確かにもう一本の茄子は水分が抜けたようにひょろひょろで、もう一本は形は熟しているのに反った下側が真っ白だった。

 だが、ニンジンのヘタや豆苗を再利用して夕食を作る芦屋にしてみれば、商品価値が無いだけで茄子としては普通に食べられるものとしか思えなかった。

 日頃農家はより食べ物を大切にする人種なのだろうと想像していただけに、一馬と陽奈子の行動は魔王城の、特に芦屋にとってはあまりにショッキングなものだった。

「あー、そういや里穂叔母さんに聞いたけど、真奥さんちはえらく節約上手なんだって?」

 そのとき、一馬は何かに気づいて大きく手を打った。

「三人とも東京から来て、農家の仕事はこれが初めてなんだよな」

「そ、そうですけど」

「あー、そういう」

 一馬の言葉に、陽奈子も何に気づいたものか、追憶するようにうんうんと頷く。

「言ってなかったけど、私、実家が都内のサラリーマン家庭でさ」

 陽奈子は自分を指差して言う。

「大学進学で上京してきた一馬と会って結婚してこっち来たんだけど、確かに私も最初はもったいねーっ! って思ったよ。本当に最初だけね」

「……?」

 陽奈子の言わんとしていることが分からない真奥達に、一馬は重々しく言った。

「ま、明日んなりゃ分かるさ。とりあえず今日はこれから少しだけ、明日の予行演習的に仕事を頼もうか。陽奈子。トラックに軍手あったか?」

「んー……あ、無いなあ。どっちにしてもこの天気で何かやってもらうなら、うちから水取ってこないと」

「じゃあ一旦帰って軍手とかタオルとか水持ってきて、下のスイカに案内したら、軽く草取りしてもらってくれ」

「了解! 三人とも、違ったって今更どうにもならないけど、靴は汚れてもいい靴だね!?」

 それはこちらに来る前から何度も確認されていることなので、揃って頷く。

 漆原だけが、迫り来る労働の足音に若干表情が硬い。

「大丈夫大丈夫! 草取りだけであの重いスイカを皆に取ってもらうことはないから!」

 そのスイカ畑の面積を、真奥も芦屋も漆原も、怖くて聞くことができなかった。

 そして。



「おーい、漆原ー。生きてるかー」

「……」

「死んでるな。芦屋……おい芦屋?」

「……」

「……こっちもか。案外だらしねぇなぁ」


 その日の夕暮れ。

 陽奈子の運転で家に戻った悪魔三人は、まさしく満身創痍だった。

 芦屋と漆原は畳に寝ころんだまま微動だにせず。

 かく言う真奥も柱に背を預けたまま、もらった麦茶のペットボトルを物憂げに摑むだけ。

 件のスイカ畑は、さすがに作物そのものが大きいだけあって茄子とキュウリの畑を合わせたのと同じくらいの面積を誇っていた。

 真奥達の目にはスイカはまるまると成長していて都会のスーパーなら何千円もしそうな迫力を誇っていたが、プロに言わせるとあと数日は寝かせなければダメだという。

 そして長野の佐々木家での初日の仕事は、このスイカ畑の雑草取りだった。

 蔓のある植物であるスイカ畑は、当たり前だが機械を用いての除草など不可能である。

 除草剤の使用は佐々木家の経営方針により最初から外されているらしく、主だった作物は病気予防の消毒を除けば全て無農薬化学肥料なしの有機栽培で育てられているらしい。

 それだけに細かい畑のケアはかなりの部分、人力に頼らざるを得ない。

 スイカが未だ生育途中であるため、蔓を踏んで傷つけたりしないよう注意しながら行う畑の除草は、慣れない真奥達には困難を極めた。

 面積が広大であることと取り除く雑草の量も半端ではないので、日頃アパートや地域で行っている除草作業のようにゴミ袋を抱えていちいち回収していては何日あっても終わらない。

 腰をかがめて、根を張っている草を引き抜き、裏返して土の上に置くと、その上から根を踏み潰して日に当てる。

 そうすると再び根付くことなく枯死するのだそうだ。

 もちろん全ての雑草がそれで死ぬわけではなく、しぶとく生き残るもの、そのときに芽吹いていなかったもの、鳥や虫がよそから運んできた種などが芽吹いて、二、三日もすればまた新たな雑草が無数に顔を覗かせるので、それをまた定期的に除草する。

 万治からの受け売り、と前置きしながら、

「農業の大部分は草との戦いなんだよ!」

 と陽奈子はのたまったものだ。

「……っつっても、確かに慣れない筋肉使ったらから、明日はきっついかもなぁ」

 真奥は立ち上がると、柔軟体操を始めて腰と足をほぐす。

 実にヴィラ・ローザ笹塚の敷地の何倍もの面積のスイカ畑で、延々腰をかがめて除草作業をしていたため、負担がかかっていた筋肉が早くも悲鳴を上げはじめている。

 漆原などは途中もはや動いているのかいないのかすら分からない有様で、畑の中で倒れなかったのが不思議なほどだ。

 大柄な芦屋も延々中腰の姿勢は厳しかったようで、体力が回復してくる気配が無い。

「銭湯にでも行きたいとこだけど、さすがにそういうわけにもいかねえよなぁ」

 風呂について説明を受けたわけではないが、住み込みである以上この家のどこかにある風呂を借りることになるのだろう。

 いくら家が広大だからといって風呂が銭湯並みということはないだろうし、そもそも人様の家の風呂をそうそう長いこと占領できないだろうと憂鬱な気分になりかけた真奥だが、

「真奥さん、入って大丈夫ですか?」

 ふと、襖の向こうから千穂の声がして真奥は顔を上げる。

「どうした、ちーちゃん」

 きしみ始めている体に鞭を打って入口の襖を開けると、

「あらら、ずいぶんお疲れみたいね」

 最初に聞こえた声は、千穂ではなく里穂のものだった。

 そして若干母の陰に隠れるようならしくないことをしている千穂がいて、

「あっ……あの、一馬兄ちゃんが真奥さん達呼んでて」

 真奥と目が合うとその顔がさっと赤らむ。

 その理由を問いただすほど真奥も馬鹿ではないのでそのことはスルーして、

「一馬さんが? 見ての通り芦屋と漆原死んでるけど、俺だけでいいかな」

「あ、できれば皆で……ご飯まで少し時間があるから、一馬兄ちゃんが、皆さん疲れただろうし、温泉に入りに行かないかって」

 その言葉に、真奥が目を見開いたのはもちろん、漁協の冷凍マグロよりも深い凍結状態に陥っていた芦屋と漆原が、ものすごい勢いで顔を上げたのだった。



「へー! 随分綺麗なのができたのねー!」

「去年里穂叔母さん達が帰った後にできたんだ。まだ一年かそこら」

 里穂の感嘆の声に、一馬が眉を上げる。

 一馬の運転するワゴン車で辿り着いたそこは、真新しい温泉付きホテルだった。

 観光客が利用しやすいよう、温泉宿とビジネスホテルの中間のような作りをしていて、宿泊客以外にも有料で温泉を開放しているらしい。

 その入湯料も笹塚の銭湯より少し高い程度で、広い風呂に入りたいと思っていた真奥達にとってはまさしく僥倖だった。

「うちの風呂に入ってもらったっていいんだけど、やっぱ狭いし気兼ねするかと思ってな」

 駐車場に車を入れながら一馬が言う。

「こっちだと金払ってもらうことになっちまうけど、その分広いし遠慮もいらねぇから、明日からも来たくなったら言ってくれ」

 真奥達としても願ってもないことで、一馬の好意に思いきり甘えることを心に決める。

 佐々木家から車で二十分ほどの山にあるホテルの駐車場からは、駒ヶ根市街の明かりが遠く見えた。

 駐車場にはタクシープールや循環バスのバス停も設えられており、このホテルがそこそこ繁盛していることを物語っていた。

 日帰り温泉客用の入り口で入湯料を先払いすると、太っ腹なことにバスタオルとフェイスタオルが一枚ずつ貸し出される。

 一馬は何度か来たことがあるらしく、どこに自動販売機があってどこにマッサージチェアがあってなどということを一通り説明してくれた。

「じゃあ里穂叔母さんと千穂はそっちな。俺達はこっち。中に時計があるからそうだな、飯が遅くなると婆ちゃんがうるさいから、六時半になったらロビー集合な」

 男湯と女湯が分かれる通路。

 別料金で岩盤浴だのマッサージだのもやっているらしく、カウンターから軽くかかる声をいなして男女が別れようとしたその瞬間だった。

「うわわっ?」

 千穂は、膝に何かがまとわりついてバランスを崩しそうになり、思わず声を上げた。

「ん? どうした?」

 背を向けていた真奥達もそれに気づいて一瞬千穂を振り返る。

「え、あ……」

 千穂は自分の足を力強くホールドしている存在に気づき、視線をそちらに向けて、

「あれえっ!?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった。

 湯上がりのツヤめく赤ちゃん肌で千穂の足をがっちり抱きしめている小さい小さい赤ん坊。

 天の川を思わせる長い銀髪。

 得意満面の笑みで千穂を見上げる前髪には、一房の紫色。

「ちーねーちゃ! みっけ!」

「あ、あ、アラス・ラムスちゃん!? な、なんで!?」

「ぶふっ!!」

「なっ!」

「えええっ!?」

 千穂の叫びに反応したのは、当たり前だが悪魔三人である。

 真奥は吹き出し、芦屋は硬直し、漆原は警戒するように一歩後ずさる。

 千穂の足に抱きついてにっこり笑っているのは、紛うことなく魔王と、そして勇者の『娘』であり、勇者の聖剣と融合した世界組成の宝珠セフィラの化身、アラス・ラムスだった。

 そしてアラス・ラムスがいるということは、

「ちょっとアラス・ラムス! 走ったら危ないわよ!」

「珍しいな、アラス・ラムスが勝手に。こらこら、誰かとぶつかったら危な……」

 それを追ってくる人間は、当然そこにいなければおかしい。

 ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、女湯に続く廊下を駆けてきた二人こそ、

「ゆ、遊佐さん! 鈴乃さん!!」

 遊佐恵美と、鎌月鈴乃以外の誰だというのだろうか。

 二人ともいつもの私服と和服ではなく、ホテルのロゴが入った館内浴衣を着用していた。

「あ、千穂ちゃん!? なんでここに!?」

「そりゃこっちのセリフだっ!!」

 アラス・ラムスの出現に驚く千穂や里穂よりも、誰よりも早く真奥が恵美の言葉に反応し、千穂の前に滑り込むと恵美に顔を近づける。

「ち、近いっ! 何よ魔王もいたの!?」

 恵美は恵美で、千穂と出会ったことも意外なら真奥がいることはもっと予想外だったらしく、必死の形相で迫る真奥を見て思いきり顔を顰めた。

「ああどっかのタイミングで来るだろうたあ思ってたさ! 思ってたがお前何も初日の俺達がこれからゆっくり疲れを癒そうってその瞬間に現れなくたっていいだろうが! せめて風呂出てからにしろよ! 毎回毎回いいとこ泊まりやがって畜生!」

「な、なんの話よ! ちょっとなんか汗臭い離れてっ!!」

 まくし立てる真奥を押しのけて恵美は距離を取ろうとするが、真奥はひるまない。

「汗臭いたぁなんだ汗臭いとは! 労働の証だ! 汗は男の勲章だ!」

「何言ってるのよバカじゃないの!? いいから離れて! 今お風呂あがったばっかりなんだから、アラス・ラムスにも近づかないで!」

 あたり構わず言い争いを始める真奥と恵美。

「ま、真奥さん? その人達、知り合いか?」

 真奥と見知らぬ女性との唐突な言い争いの驚きから回復した一馬が後ろから真奥に恐る恐る尋ねる。

 が、真奥も恵美も当然というかなんというか、一馬の言葉が耳に届いていない。

 代わりに答えたのは里穂だった。

「遊佐さんと鎌月さん。二人とも真奥さんと千穂のお友達よ」

「ちーちゃんはともかく、俺はこいつとは友達じゃないです!」

「えっと、つまりその、じゃあ一体どういう……」

 真奥と里穂のやり取りで意味が分からない様子の一馬は重ねて問う。

 確かに真奥は、恵美の襲来を予言していた。

 とはいえ、双方ともこんな唐突な出会いがあるとは思っていなかったため、千穂も芦屋も漆原も、恵美とアラス・ラムスのことを一馬にどう説明すれば良いのか困ってしまう。

 一方の鈴乃は、千穂の母である里穂の存在と、初対面の一馬の存在がこの場面にどのような深刻な事態をもたらすか理解し、顔を青ざめさせた。

 なぜなら、日本に来た当初のアラス・ラムスは魔王城に住む真奥の親戚ということになっていて、その後恵美に引き取られることになったのは、エンテ・イスラ絡みの事件で偶然が重なったためだからだ。

 そんな真実を無暗に話すわけにはいかないし、第一信じてもらえるはずもない。

 だが外から見れば真奥の親戚の子を、なんの関係もないはずの恵美が引き取って世話をしているようにしか見えない。

 全く赤の他人相手なら、真奥と恵美が特別な関係、と出まかせを言って誤魔化せないことはないのだが、里穂だけは別だ。

 里穂は娘の千穂が真奥に思いを寄せていることや、真奥と恵美の日本人としての距離感も知っている。

 そんな里穂に、真奥と恵美が疑似的であれアラス・ラムスを挟んで特別な関係であるなどという話を容認しろという方が無茶だろう。

 とはいえ他のうまい言い訳も思い浮かばぬまま、事情をきちんと理解している者達が手をこまねいている間に、全てを手遅れにする爆弾が千穂の足元で炸裂する。

「まま、まま! ぱぱともっかいおふろ! ざぶーん!」

 アラス・ラムスが恵美の足元に戻ると、恵美の浴衣の裾を引っ張りながら真奥を指さしてそう言ったのだ。

「まま……ぱぱ!?」

 一馬が恵美と真奥を見比べながらその言葉の意味を正確に理解して、

「ああ、じゃあこの子がアラス・ラムスちゃんね? でもあれ? 遊佐さんがママって……ねぇ千穂、あの子、真奥さんの親戚じゃなかったっけ?」

 里穂がアラス・ラムスの表向きの立場を思い出した瞬間、千穂と鈴乃と芦屋と漆原は、信義則と社会常識に基づく複雑な修羅場の到来を予感し、硬直したのだった。

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