はたらく魔王さま!SP
勇者、伝説となる
夜の九時。
一馬を始め佐々木家の全員が寝静まってしまい、芦屋も漆原も、慣れぬ力仕事と温泉でのリラックス効果と、用意された布団の寝心地故か、二間続きの奥の部屋でさっさと就寝してしまった。
だが真奥だけは、ぶち抜かれた部屋の間の襖を閉め、寝ている芦屋と漆原を起こさないように用心しながら廊下側の部屋で声を顰めて電話をかけはじめた。
『……もしもし』
何コールかした後、極めて不機嫌そうな抑えた声が応答し、真奥はそれに負けじと低い不機嫌な声で応戦した。
「……おい恵美てめぇ、どういうつもりだ」
『……何よこんな時間に。携帯の音でアラス・ラムスが起きちゃうでしょ』
電話を取ったのは恵美だ。
『……ベル、ちょっとゴメン、魔王が……うん、鍵は持ってく…………で、何!?』
「うおっ!」
ホテルの部屋から出たのだろうか。
電話の向こうでガサゴソとしたやり取りがあったと思ったら、急に喧嘩腰の大声が飛び出てきて真奥は軽く腰を浮かしてしまう。
「な、何じゃねぇよ! そっちこそなんだよ! どういうつもりだ一体!」
『どういうつもりもないわよ。千穂ちゃんのおうちの人にお世話になってるのは私達も一緒だし、こんなときくらいしか恩返しはできないでしょ? それに慣れない農業でバタバタしてるあなた達の負担を軽減してあげるのに、なんで文句を言いたそうなのかしら?』
「ちーちゃんち云々はともかく後半はそれお前ぜってぇ本心で言ってねぇだろ」
しゃあしゃあと言ってのける恵美に、真奥は見えないと分かっていても歯を剝き出しにして威嚇をせざるを得なかった。
※
ホテルでの予期せぬ遭遇の後、真奥は魔界を支配した精神力と知力をフル活用して、主に里穂相手に、必死の弁明を行った。
曰く、千穂だけでなく隣人の誼もあって鈴乃もアラス・ラムスの世話にはずっと協力してくれている。
今回駒ヶ根の佐々木家に来るにあたり、里穂や佐々木家に気を使わせないように、アラス・ラムスを鈴乃に預けた。
だが、時折鈴乃の所に遊びに来る恵美がアラス・ラムスの母親に似ていて、アラス・ラムスが勘違いをして懐いてしまった。
ここで真奥は、話を鈴乃にバトンタッチする。
鈴乃が引き継いで言うには、預かったはいいものの、日本での父親役の真奥を恋しがってアラス・ラムスがぐずり出してしまった。
自分や恵美ではその寂しさを紛らわすことができない。
なので結局迷惑にはなるが、どこかで顔を見せることができればと思い、観光がてら連れてきた。
以上の話を、なんの打ち合わせもないまま瞬時に構築した。
その話を聞いた里穂の反応は、
「親の顔を忘れちゃうほど放りっぱなしってのは問題ねぇ。人のおうちの事情にとやかく言いたくないけど、真奥さんも一度その親戚にビシっと言ってあげたほうがいいんじゃない?」
存在しない真奥の親戚に対する苦言と、
「子供に負担をかけるくらいなら、最初から連れてきなさい」
というお叱りだった。
最初から連れてくることは恵美とアラス・ラムスの特殊な関係上不可能だったのだが、それを言ったところで始まらない。
ともかく真奥や、真奥を慕う千穂の株が急落することだけは避けられた。
「俺の学生時代の友達も丁度会社が忙しくなる年齢だし、色々四苦八苦して子供と生活してるけど、皆一回は子供に顔忘れられたって言って泣いてるしなぁ」
一馬の働く男性サイドからのしみじみとしたフォローも、僅かながら効いたと思われる。
とにかく社会的な立場の維持になんとか成功した真奥達。
そこまでは、まぁ良かったのである。
恵美が余計なことを言い出さなければ。
「あの……一馬さん」
「ん?」
「初対面で、しかもお見苦しいところを見せて、こんなことをお願いするのは本当に不躾なんですけれども……」
恵美はすっと社会人の顔になって一馬に向き直る。
その瞬間、なぜか真奥は、嫌な予感を覚えた。
「遊佐さん?」
ずっと息を潜めて成り行きを見守っていた千穂も、恵美がなんらかのアクションを起こそうとしていることを察する。
「お願い? なんだろうか」
「鈴乃が千穂ちゃんから聞いたことの又聞きではあるんですけど、この時期に予定していたアルバイトの人数は、六人だったんですよね?」
細かいことを指折り確認する恵美に、一馬は頷く。
「そうだが」
意を決した恵美の口から放たれたのは、誰もが予想できない一言だった。
「私と鈴乃を、真奥達と一緒に雇っていただけませんか? 私の実家は小麦農家です。規模は小さいですが野菜や家畜を扱った経験もありますから、真奥達よりは最初からお役に立てると思います」
※
『ふん、一馬さんから、お宅の駄元帥がほんの二、三時間草取りしただけでグロッキーになったって聞いたけど?』
「一馬さんそんな悪意のある言い方してねぇだろ……」
恵美の申し出は確かに唐突ではあった。
しかし佐々木家にとっては更なる労働力の出現は願ってもないことで、一馬は即座にホテルのロビーで簡単な面接を行い、真奥達が手の出しようの無い場所で、あれよあれよという間に恵美と鈴乃の短期採用が決まってしまった。
期間は真奥達と同じ日数。
そのこともあってホテルで結構な時間を過ごしてしまい、結局真奥達の駒ヶ根初日の夕食はホテルのレストランで食べることになってしまった。
一馬は予想外の労働力の確保に上機嫌だったが、真奥は終始機嫌が悪く、アラス・ラムスは『両親』に挟まれてのお子様ランチとコーンスープにご満悦。恵美は何を考えているのか一馬と随分話が弾んでいて、千穂は不機嫌そうな真奥を心配げに見て、やきもきする千穂に声をかけた鈴乃が、何を考えたか二人連れ立ってしばらく場を離れ、里穂は娘の落ち着かなげな様子をどこか面白がっていて、芦屋はあえて一馬の隣に座ることで、なんとか場の空気が険悪にならないよう気を回し、漆原は一人でマイペースに食事を進める。
結局真奥は、広い温泉でゆっくり一日の疲れを癒すはずが、もっととんでもない疲労を背負って帰ってくることになってしまったのだ。
「とにかく俺達から目を放したくねぇのは分かるが、それにしたって限度ってもんがあんだろうが。大体……おい、恵美? 聞いてんのか」
『……』
突然向こうが黙ってしまって眉根を寄せる真奥。
『……どういうつもりであなた達がこの仕事を受けたのか知らないけど』
「あ?」
『とりあえず、農業ナメないことね。それじゃ、明日朝早いから、もう寝るわ』
「え? なんだよおい恵美……っ! ……切れた」
固定電話であれば受話器を叩きつけるような空気で恵美は一方的に電話を切った。
「な、なんなんだよあいつ……ん?」
イライラして頭を搔く真奥だが、ふと襖を叩く音がして顔を上げた。
「真奥さん」
千穂の声だ。真奥ははっとして手の中の携帯電話を見る。
最初は声を潜めていたが、結局恵美と大声でやり合ってしまった。
ここはヴィラ・ローザ笹塚の魔王城ではなく駒ヶ根の佐々木家。既に寝静まっている家人に迷惑だっただろうか。
「わ、わりぃちーちゃん。騒がしかったか?」
「え? あ、いえ、何も。何かしてたんですか?」
襖の向こうの千穂が首を傾げる気配。
「いや、ちょっと恵美に抗議の電話をな。で、ちーちゃんなんか用……ん?」
真奥は立ち上がって襖を開けようとするが、開かない。
「ん? ちーちゃん?」
軽く力を入れると、どうやら向こう側から押さえられているらしいということが分かる。
そうすると当然襖を押さえているのは千穂しかいないわけだが……。
「す、すいません、考えてみるとまだ心の準備が……」
「は?」
用があって来たのだろうに、心の準備もクソもないものだ。
「すー……はー」
深呼吸をする気配。一体なんだというのだろう。
「ど、どうぞ」
ようやく千穂から声がかかる。
普通それは部屋の中にいる側が言うことだと思うが、変に間を持たされたことで、真奥もそれなりの緊張感を持って襖を開く。
と、
「こ、こんばんは、真奥さん……」
改まった挨拶が、真奥の顔より少し下から聞こえた。
電球の寿命か、くすんだ黄色い明かりが灯る廊下で落ち着かなげに立つ千穂の姿がそこにあった。
普段リボンやゴムなどで纏められている髪は前もサイドも下ろされて、いつも髪を纏めているヘアゴムはほっそりとした手首にある。
少し着古された感のあるゆったりしたTシャツ越しにも量感のある胸に、スウェット地のハーフパンツ。足は裸足だ。
どこからどう見ても百パーセント『部屋着』と呼ぶにふさわしいスタイルである。
「おう、どうした?」
「ど、どうも……」
薄明かりの中のことで判然とはしないが、上目遣いの千穂は、少し顔を赤らめているようにも見える。
「で、どうした?」
真奥は用があって訪ねてきたであろう千穂がなかなか用件を切り出さないので不思議に思いながら再度問いかける。
「……えっと」
千穂は千穂で、今の今まで顔を赤らめていたような気がするのだが、真奥の反応に何か思うところがあったのか、一瞬顔が素の表情に戻り、そして言った。
「……す、すいませんこんな格好で来ちゃって」
「え?」
真奥は今度ははっきりと首を傾げた。
もうあとは寝るだけなのだから部屋着であろうとなんの問題も無いし、第一真奥だって下着でない、というだけで上はTシャツ一枚下もハーフパンツで裸足である。
千穂となんら変わるところは無く、故に、
「いや別に。それで、何か用か?」
と、ごく自然に問い返していた。
「……………………いえ、その、なんでもなくはないですけど、なんでもないです」
千穂に、一瞬落胆の色が見えた気がした。
「はぁ……それであの、遊佐さんに電話って、お仕事のことですか?」
小さくため息をついた千穂は、気を取り直すように一つ頷くと真奥に尋ねる。
「まぁ仕事だな。あいつらの気持ちも分からんでもないけど、こんな押しかけみたいな真似して一馬さん達に迷惑になってんじゃねぇかと思って文句言ってやろうと思ったんだが……」
「それは大丈夫だと思います。元々人は欲しかったって言ってましたし」
「にしたってなぁ……」
真奥は千穂からの伝聞では納得しきれないらしく、眉根を寄せる。
「別にわざわざ雇われなくたって、そんなに長くこっちにいるわけじゃないし、今までみたいに大人しくストーカーまがいに遠くから観察でもしててくれりゃいいと思うんだが」
「あはは……」
ストーカーという直接的な物言いに、千穂は苦笑する。
確かに嫌がる真奥を追いかけて何かと付きまとっているのは恵美の方で、これまでなら魔王と勇者の関係から納得できなくもない程度ではあったが、今回のことは今までの恵美らしからぬ行動だとは千穂も感じていた。
だが一方で、今の千穂には一つ、思い当たる理由があった。
「で……その遊佐さんのことでお話があるんですけど……」
「え?」
千穂は柔らかく微笑むと、大きく息を吸って、そして、
「ちょ……ちょっと、お外に散歩に行きませんか?」
真奥の手を取ろうとして、結局ためらって真奥のTシャツを摑んで引っ張ってしまう千穂。
「ん? んん? まぁ、いいけど」
千穂からの唐突な夜の散歩の誘い。
そしてそれは恵美に関することだと言う。
真奥はちょんと引っ張られたTシャツの裾をちょっと見てから、
「いいよ。行こうか」
一つ頷くと、そのあまりにかすかな力に引っ張られるようにして、部屋から出る。
「あ、で、でもそんな遠くまでは行かないですからね? 街灯ないですし……」
そういう問題でもない気がするが、先に立つ千穂の不思議な予防線に真奥は頷き、そして、
「そういや……ちーちゃんのそういうラフな格好って、初めて見るかもな」
静かに階段を下りる千穂の背に、なんとなくそう声をかけた。
「……っ!」
階下に下りた千穂が、一瞬竦んだように止まる。
「髪下ろすのも可愛いじゃん。たまにはそうしたらいいのに」
「そ、そういうものでもないんです!」
振り返った千穂はいつもよりずっと目を見開いて、まるで言い訳するように、それでもどこか嬉しそうに、複雑に顔色を変えながら言うのだった。
「い、家の中だからできるんです。誰にでも見せられるような格好じゃないんですっ!」
そして慌てながらも音を立てないように、そして真奥から少しだけ距離を取るように早足で玄関に向かう。
「そ、そうなのか……」
田舎のこととはいえこれから外に出るわけだし、誰にでも見せられないと言っておきながらすでに真奥は見てしまっているのだが、それはいいのかという突っ込みは入れられそうにない。
夜だというのに鍵がかかってないどころか、ちょっと隙間が空いていた玄関の引き戸をゆっくり開けて、千穂が夜の闇へと出てゆく。
ちらちらと恥ずかしそうに振り返る表情の意味を測りかねた真奥は一定の距離を保ちながら、千穂に従って表へと出た。
「おお……」
玄関の明かりの届かぬ先は、真の暗闇に見えた。
だが、すぐに目が慣れてきて、うっすら青く夜の道の姿が浮かび上がってくる。
そして、
「真奥さん、見てください!」
数歩先の暗闇からかかる千穂の声は、真奥の方ではなく夜の空に向いていた。
その声を追って顔を上げた真奥は、
「おおおおお───……」
闇を支配する、光の渦を見た。
夜の黒い帳が、星々の明かりで藍色にすら見える、満天の星空。
暗闇に目が慣れてくるたびに、見える光の数が幾何級数的に増えてゆく。
眺め続けていればそのまま夜空が星で埋め尽くされてしまうのではないかと思える程の光景だった。
「なんだか」
「真奥さん?」
「……随分久しぶりに星空を見た気がする。なんでこんなに星が見えるんだ? 銚子じゃこんなに見えなかったのに……」
「月の光じゃないでしょうか」
「月?」
「月の光が山の影になって全部はこっちに来ないから、その分いっぱい星が見えるんですよ。銚子では月が明るく空を照らしてましたし、大体銚子じゃゆっくり夜空を眺める暇も無かったですし」
「はは、そりゃそうだ」
ほんの少し前の出来事を思い出して、真奥は苦笑する。
「お、なぁちーちゃんちーちゃん! あ、あれ見ろあれ!」
「えっ!? ど、どうしたんですか!?」
急に真奥が緊迫した声を出して、千穂は身を竦ませる。
「ど、どれですか?」
「あ、あれだって、こっち来いよ、あれ!」
真奥は余程興奮してるようで、
「え、あ、わっ」
千穂の手を摑むと自分の方に引き寄せる。
「ままままっま真奥さんああああの……」
「あれ! ほらこっから真っ直ぐ見えるあそこの赤い星!」
「は、はひいっ?」
引き寄せられて、ほとんど肩を抱かれる形になった千穂。背中に真奥の体温が感じられて思わず血圧が上昇するが、なんとか真奥の指さす方向に目を向ける。
「あの星変な動きしてねぇか」
「ええあええあいいえ?」
沸騰しそうになる頭の冷却処理が追いつかない千穂の目が捉えたのは……。
「ああ……」
「あれ、もしかしてUFOってやつか!?」
少年のような期待を乗せた真奥の言葉が耳をくすぐる。
その言葉を否定するのが、少々心苦しいほどに。
「真奥さん、あれきっと、人工衛星です」
「……人工衛星? あの、気象衛星とかそういう?」
「気象衛星かどうかは分かりませんけど、国際宇宙ステーションとかは肉眼でも見えるらしいですよ? 多分あれも、ちょっと低いところ飛んでる人工衛星の一つです……ひゃっ」
千穂の話の途中から、あからさまに落胆した様子の真奥のため息が耳にかかり、千穂は思わず身を竦ませる。
「そっかー……それはそれでスゲェかもしれないけど、やっぱちょっと残念だな。UFOってやっぱいないのかな」
「そ、それは……」
UFOどころか、存在の珍しさで言うならエイリアンとだってタメを張れる異世界の魔王にそう尋ねられては、矮小な一人の人間でしかない千穂にはなかなか回答が難しい。
「ゆ、UFOは分かりませんけど……」
「じゃあカッパは!? あれは日本産だろ?」
「知りませんよカッパの産地のことなんて! もう……」
想像上の生物繫がりで、昼間のカッパ館のことを思い出したのだろうか。千穂だってあのカッパ館には入ったことが無いし、そもそもカッパについて深く考察したことなど無い。
千穂は真奥と密着するほど接近しているにも関わらず、急に気持ちが冷静になる。
決して真奥との距離感が劇的に縮まるような過度の期待を抱いてこそいなかったが、だからと言って満天に煌めく星空の下、想い人と二人きりで交わす話題がUFOとカッパでは、気持ちのときめきようが無い。
ロマンのベクトルが、XYZ全ての軸に於いて別方向に飛んでいってしまっている。
「……真奥さん、遊佐さんのことですけど」
このままでは何時まで経ってもファンタジーな存在のファンタジーじみた想像が続きそうなので、千穂は今の魔王と女子高生の現実の話を持ち出した。
「お、そういや恵美の話だったんだっけか」
真奥もようやく、千穂の用事を思い出したようだ。
それでも真奥は何を諦められないのか、夜空のあちこちに視線を飛ばし続けている。
「遊佐さんがどうして真奥さん達と一緒に佐々木のおうちで働こうとしだしたのか、知りたいですか?」
「……ん」
真奥は空を眺めたまま、肯定とも否定とも取れるあいまいな音を鳴らした。
「恵美から聞いた……わけじゃないよな?」
「鈴乃さんから聞きました」
ホテルでの食事の間、鈴乃が千穂を連れて場を中座した瞬間があった。
「あいつも大概気にしいだな。まぁ、鈴乃が直接俺に言えばカドが立つか」
「そうですね。そう言われました」
千穂は苦笑する。
「悪いな。俺達の脇が甘いせいで、いつも細々したとこでちーちゃんに頼りきりだ」
「その代わり私は毎日楽しいですし、そういうところで役に立てるのが嬉しいですし、いざというときには命を守ってもらえてますから」
気にしていないし、真奥達が気にすることではない、ということだろう。
真奥はその言葉に甘え、無言で先を促す。
「遊佐さんは……真奥さん、芦屋さん、それに漆原さんが、農業をやるのが複雑なんだそうです」
「……やっぱそういうことか」
千穂が託された真実は、それほど真奥の予想を超えるものではなかった。
「気づいてたんですか?」
「いや、そこまで具体的に分かってたわけじゃないけど、今まで余程のことがなきゃ越えてこなかった一線を、最初から踏み越えてきやがったからな。よっぽど気に食わないことがあるんだろうなとは思ったが」
真奥は先ほどのホテルでの、恵美と一馬のやり取りを思い出す。
「さっき聞くまで忘れてたけど、あいつの実家って農家だったんだよな」
「……はい」
エンテ・イスラの西大陸。その片田舎にあったという恵美の、エミリア・ユスティーナの故郷。
決して恵美から詳しく聞いたわけではない。
だが、恵美の故郷の思い出には、優しくたくましい父親がいたこと。
父と、その家業と、慎ましやかな生活の全てを、恵美が愛していたことくらいは真奥も理解していた。
そして、その生活を破壊し恵美の人生を狂わせたのが、自分達であることも。
「そりゃ気に食わないわけだ。あいつの農業生活踏み潰した俺達が、どの面下げて畑仕事するんだってなるわな」
「遊佐さん、そう言ってたって鈴乃さんが」
「気に食わねぇな。最近あいつのそういうとこが、簡単に想像つくようになっちまってる自分がとことん気に食わねぇ」
真剣に顔を顰める真奥の横顔を見て、千穂はわざとらしく口を尖らせた。
「……ちょっとだけ、妬けちゃいます」
「勘弁してくれよ」
恵美の話になってから、真奥はずっと遠くを見ている。
昼間はあんなに青々としていたアルプスの峰も、星空の下では黒い稜線が大地に覆い被さる影のように見える。
真奥の目は、山の闇と、光る空の境目を見ていた。
「遊佐さん、まだ気持ちの整理がつかないんだと思います」
「だろうな」
真奥と千穂が思い出すのは、つい数日前の東京タワーでの出来事だった。
ただの女子高生のはずの千穂が、異世界の超常現象が飛び交う戦場に出てしまったあの事件。そこで恵美は、真奥と自分の関係を決定的に変えてしまう真実を知ったのだ。
「でも、それはそれ、これはこれじゃねぇのか? やっぱあいつ、どっかで俺達の邪魔できればそれでいいって思ってるフシあるぞ?」
「それはさすがに遊佐さん本人じゃないと分かりませんけどね」
想像でしかないが、もちろん今までの恵美の性格からいって、そういう側面があることは否定はできないだろう。
「何にせよ……明日から本気で面倒くさいことになりそうだな。経験者だとかエラそうなこと言ってるんだったら、一馬さん、あいつらを俺達とは別んとこで使ってくれねぇかな」
「元々いなくなった実習生の人の穴埋めなんですから、難しいと思いますよ」
「だよなー。はぁ」
真奥はようやくここで目線を落とした。
遠くを見ていたときに千穂が感じた、普段の真奥と違う難しいことを考えている雰囲気が消え、千穂が知るいつもの、飄々とした真奥が戻ってくる。
「真奥さん」
「ん?」
「私……いつも考えてるんです。私の大好きな人達が、今からみんなで幸せになる方法は無いのかなって」
「無いんじゃねぇか?」
今はただ、不可思議な停滞が続いているだけだ。
真奥が侵略者たる魔王で、恵美が救世主たる勇者であった過去がどうにもならない以上、千穂のその望みは叶えられることはないだろう。
真奥は本心でそう思うからこそ、千穂の幼い願いに即答する。
だが、そんな残酷な答えにも関わらず、千穂は真奥の傍でくすくすと笑った。
「そんなところも、遊佐さんとそっくりです」
「だから勘弁してくれってば」
「妬けちゃいます」
千穂は悪戯っぽくそう言うと、ぱっと真奥から離れて、歩き出す。
「ちーちゃん?」
「そろそろ戻らないと。お母さんと芦屋さんが心配します。お散歩、付き合ってくれてありがとうございました」
元々、散歩というほど家から離れたわけでもない。
真奥が返事できない間に千穂はさっさと家の中に入っていってしまった。
「本当に、周りの連中は芦屋を俺のなんだと思ってんだ……」
真奥は小さくぼやいて、もう一度だけ星空を振り仰いでから、ゆっくりとした足取りで家へと戻ったのだった。
※
翌朝、真奥達が泊まる部屋の襖が、衝撃で崩壊するのではないかと思うほど暴力的な勢いで開かれた。
スパァンと、ライフルの狙撃音の如き甲高い襖の開閉音に、布団の中で熟睡していた真奥と芦屋と漆原は、全身を痙攣させながら飛び起きる。
だが、衝撃はそれだけでは収まらなかった。
「一体いつまで寝てるの!!」
狙撃の犯人は、恵美だった。
真奥達はまるで状況を理解できないが、そこに立っているのは千穂でも一馬でも、佐々木家の誰でもなく、車で二十分のところにあるホテルに泊まっているはずの恵美だった。
魔王や悪魔大元帥にとって、これほど心臓に悪い朝の目覚めは長い人生の中でも数えるほどしか無いだろう。
爆発と錯覚するほどの大音響に飛び起きると、そこに完全武装の勇者が仁王立ちで立っているのだから。
唯一安心できることといえば、その完全武装が聖剣と鎧と盾ではなく、長袖長ズボン、日よけのキャップと首にタオルというスタイルだということだろうか。
だが手には鎌のようなものを持っているのだから、全く油断はできない。
「な、な、え、エミリア!?」
「ふにゃ……ふぐ」
芦屋は恵美の姿を捉え、寝癖のついた寝起きの頭でふらふらしながら身構えるが、漆原は驚きが一周回ってまた布団に倒れ込む。
「お、お前なんだよ!? なんでここにいるんだよ!?」
ようやく意識がはっきりしてきた真奥は、精いっぱいの虚勢で抗議する。
「あなた、昨日何を聞いてたの!? 私も今日からここで働くって言ったでしょ!」
「いやそりゃ聞いたが、だからってなんでお前が俺達を起こしに……っておい! まだ四時半じゃねぇか!」
真奥は枕元の携帯電話の時計を見て悲鳴を上げる。
夏のことなので既に空は白みはじめているが、午前四時半起床はいくらなんでも早すぎではないだろうか。
だがそんな真奥の抗議を恵美は鼻で笑って一蹴する。
「これでもギリギリまで寝かしてあげてるのに、何を甘いこと言ってるのかしら。千穂ちゃんと一志君とアラス・ラムス以外の人達は、もう起きて働いてるわよ」
「「え」」
「むにゃ……」
真奥と芦屋は揃って間抜けな声を上げ、漆原は布団の中でただ唸る。
「一馬さんから今日の仕事の開始時間聞いてなかったの!?」
「え、いや、朝早いとは聞いてたが、こんな時間から……?」
「今は夏なのよ! 当たり前でしょ! ほらさっさと起きなさい! もう下に朝ご飯できてるんだから!」
「な、夏ってなんだよ!? うわ、わわ、分かったからちょっと待てぇっ!!」
「ふぎゃっ!」
未練がましく布団の上から離れようとしない悪魔達に業を煮やした恵美は、敷布団をわし摑みにすると、埃を払うように悪魔達を畳の上に放り出したのだった。
「あ、おはよー! 皆!」
鬼の形相の恵美に急かされて、最低限の身だしなみだけ整えて階下に下り、台所の戸を開けると、味噌汁のいい香りと共に陽奈子の明るい声が飛んできて、
「起きたか貞夫殿! 四郎殿! そら、二人とも空いてるところに座れ!」
ついでに鈴乃のせわしない声が浴びせられる。
「お前は何をナチュラルに台所に交じってんだよ!」
既に卓には万治、由美子、一馬、陽奈子、そしてエイと里穂の姿があって、なぜか鈴乃が忙しくキッチンを動き回っているではないか。
「おお、真奥さん達、早起きだな! もうちょっと寝てても良かったんだが」
一馬が真奥と芦屋に気づく。
「さすがに千穂が見込んでるだけあってやる気があるな」
万治は真奥達の出現に満足げに頷いている。
とても、恵美に叩き起こされたとは言えないし、第一なんでこんな朝早くから恵美と鈴乃が当たり前のように佐々木家に溶け込んでいるのか、まるで分からない。
だが、さっと食卓を見回して真奥が思ったのは、恵美に叩き起こされて正解だったということと、明日以降は自分の力であと十分は早く起きなければならないだろうということだ。
里穂以外の全員が、恵美と同じく今すぐ畑に出ていける完全武装なのである。
つまり、少なくとも全員が、四時半よりずっと早く起きて身だしなみを整えてこの場にいたと判断せざるを得ない。
キッチンで朝食を作っている鈴乃など、果たして何時からここにいたものやら。
「お、おはようございます……」
真奥と芦屋は言われた通りに空いている場所に座ると、そこに仲居さんよろしく三角巾と割烹着姿の鈴乃が寄ってきて、山盛りの白米と味噌汁を配膳してくれる。
「飯は重くしておいたぞ。たっぷり食べろ」
「あ、ああ……」
鈴乃がヴィラ・ローザ笹塚にやってきた当初のように好意的に真奥達に配膳してくれる姿に気味の悪いものを覚える。
「ところで一人足りないが、半蔵殿はどうした」
鈴乃はふと、漆原の姿が見えないことに首を傾げるが、真奥と芦屋は揃って天井を指差す。
「ん?」
鈴乃がそれを追って天井を見上げると、電気の紐がかすかに揺れているのに気づいた。
「漆原が命知らずにも、布団にしがみついて頑として起きようとしねぇもんだから……」
一体今、二階ではどんな人外の戦いが繰り広げられているのだろう。
エンテ・イスラ西大陸、笹塚と続き、勇者エミリアと悪魔大元帥ルシフェルの三度目の決戦の場が、まさかの佐々木家二階とは誰が想像しただろうか。
「やれやれだな」
鈴乃は肩を竦めてため息をつくしかできない。
真奥と芦屋もそれは同じで、せめて仕事が始まるまでには漆原が五体満足で起きることを願いながら箸とご飯茶碗を手に取った。
「「いただきます……」」
そして炊き立ての白米を口に運び、
「ん!」
「おお」
それぞれの口から、感嘆の声が漏れる。
「美味い……」
研ぎ澄まされた泉のような自然の甘い香りが、鼻腔をくすぐる。
それでいて歯ごたえがあり、深い味わいが口いっぱいに広がった。
「こ、この米は一体……?」
今まで口にしたことの無い味わいと食べ応えに感銘を受けた芦屋が、主夫らしく誰となく米について尋ねると、向かいに座っていた由美子から驚くべき一言が放たれた。
「悪いなぁ古い米で。あんま美味くねぇら」
「「え!?」」
本気で言っているのだろうか。少なくとも一年以上に及ぶ魔王城での生活で、これほど美味い米を真奥も芦屋も食べた覚えが無い。
「え? 古い米? え? そんな、めちゃくちゃ美味いですよ!?」
「そうけ? そう言ってもらえりゃ嬉しいが」
だが由美子はどこまでも本気のようだ。顔を見合わせる真奥と芦屋に気づいた一馬が補足する。
「この米は去年の米をうちで精米したものなんだ。去年は日本中で米が豊作で生産調整があって、えらい米が余っちまって、農協に引き取ってもらえなかったものの余りでな」
さらりと『うちで精米』と言われた。
「もうちょっと時期が遅かったら真奥さん達にも美味い新米食べてもらえたんだけどな」
これが美味くないというレベルならば、その新米に至るとどんなことになってしまうのか、まるで見当がつかない。
「やい」
と、突然横合いから、奈良漬けにたくあん、梅しそ漬けに白菜の浅漬けなど、漬け物が山盛りになった鉢が真奥と芦屋の前に寄せられる。
「もっと食わにゃ、慣れねぇ野良はやってられんぜ。よく食ってくれよ?」
大儀そうにそう言うのは、エイだ。
「は、はい、いただきます」
恐縮しながらも、二人は漬け物の鉢に箸を伸ばす。
「う、美味いな」
「は、はい、こんな大きな漬け物食べたことがありません」
一切れ一切れが東京のスーパーで売っているものの何倍もあろうかという漬け物は、それだけで立派なおかずになった。
「やい、漬け物ばかりじゃ喉が渇くら。鈴乃さん、悪いけぇど茶を持ってきてくれ」
万治が言うと、鈴乃は薬缶のようなサイズの急須とポットを担いできて、真奥と芦屋に緑茶を出してくれた。
混乱はあったものの、美味い朝食のおかげですっかり目が覚めた二人。
「それじゃ、五時になったら出るから、真奥さん達も準備を……」
一馬の言葉で席を立とうとしたその瞬間、
「!!」
二階からの鈍く強い衝撃が家全体を揺らし、エイ以外の全員が一瞬天井を見た。
そしてしばらくして、
「ようやく起きたわ」
恵美に引っ立てられるようにして漆原が下りてきた。
目覚めるのを渋っていた漆原に恵美がどんな制裁を下したのか、真奥と芦屋は想像もできない。ただ、
「ゆ、遊佐さん、明日からはもうちょっとお手柔らかに……」
後から現れた千穂の青ざめた顔と、恐怖に慄き無言の漆原が、その凄惨さを物語っていた。
「あー……寒っ!」
漆原と恵美が朝食を終えるのを待ってから表に出た真奥は、再び鎌首をもたげる眠気を一瞬で飛ばす外気温の低さに思わず声を上げる。
「今のうちさ。お昼前には、もう昨日くらい暑くなる。さ、乗ってくれ」
家の前には軽トラックが一台、ライトバンが一台、そして、真奥達をここまで運んできた笹塚の佐々木家の車があった。
里穂は、今日で一度笹塚に戻るのだ。
随分早い出発のような気もするが、エイが入院していないのなら里穂にできることは無いし、渋滞が起こる前に帰ってもう一眠りするつもりなのだそうだ。
次は四日後、また真奥達を迎えにやってくる手筈になっている。
「それじゃ真奥さん、芦屋さん、漆原さん、あと遊佐さんと鎌月さんも、あとのこと、よろしくお願いしますね」
里穂は帰る間際、真奥達に頭を下げる。
「千穂は本当、いい友達を持ったわ」
「ど、どうも」
「こちらこそ」
真奥はいささか歯切れが悪く、恵美は如才なくお辞儀する。
「里穂さん気をつけて帰ってくれよ」
由美子も表に出てきて里穂を見送る。
「それじゃ申し訳ないけど私は一旦これで。あ、千穂」
「ん、何?」
里穂は車のエンジンをかけると運転席の窓を開けて、娘を手招きし、耳を寄せさせる。
「真奥さん達も慣れないお仕事するんだから、あんまり夜遅くまで引っ張り回すんじゃないわよ?」
「わうっ!! お、お母さんっ!? お、起きてたの!?」
未だ眠気が残る頭をハンマーで殴られたかのような衝撃。
千穂はささやき声ながらも母に摑みかからんばかりの勢いで窓から運転席に顔を突っ込む。
「母親の目を誤魔化せると思ったら大間違いよ」
どの程度娘に釘を刺したいのか分からないが、里穂はにやりと笑うと、千穂の肩越しに見えた真奥にウィンクして見せた。
「?」
会話が聞こえていない真奥にはその意図が分からず首を傾げるが、もちろん千穂も里穂もその疑問に答えるはずもない。
「それじゃね、また四日後に」
羞恥で震える娘の顔を運転席から押し出すと、里穂は窓を閉め、クラクションを一回鳴らしてから走り去った。
その姿が見えなくなっても固まりっぱなしの千穂。
心配にはなったが、なぜか今の千穂には触れてはいけない気がして、真奥は、
「そ、それじゃあ俺達も行きましょうか」
とわざとらしく一馬に話を振る。
「おう? それじゃ行くか。皆、陽奈子のバンに乗ってくれ」
今日は荷台に乗ることはなさそうだ。
軽トラックに一馬と万治が連れ立って乗り、真奥と芦屋と漆原、そして恵美と鈴乃が陽奈子の運転するライトバンに乗る。
「いってらっしゃーい」
千穂は、この時点では留守番だ。
この後起きてくる一志とアラス・ラムスの面倒を見ることが主な仕事。
とはいえ、一志の世話は由美子かエイの方が慣れているので、実質千穂には特別な仕事は無いと言える。
軽トラックとライトバンが山の下の方の畑に向けて発進し、すぐに見えなくなると、
「やい千穂」
「なぁに? 伯母さん」
由美子が何やら神妙な顔つきで、真奥達が乗った陽奈子のライトバンを目で追っていて、そして、
「遊佐さんと、鎌月さんか?」
「え?」
「えらい美人だなぁ。真奥さんも案外隅におけんで、千穂もうかうかしとれんら」
「…………へっ!?」
一拍おいて、伯母が何を言いたいのか理解した千穂。これ以上赤くなりようがないというほどに、また顔を赤くする。
「伯母さんの贔屓目で千穂も負けんくらい美人だけども、ちょーっと真面目すぎて、遊佐さん達みたいな強引さには欠けるからなぁ。しっかり食いついていかにゃ」
「な、なんの話ですかっ!!」
「あっはっは! 照れるな照れるな!」
千穂は冷たい外気の中で火照る頰を押さえながら、その後しばらく必死に抗弁し続けた。
※
五分ほどの短いドライブの末に、軽トラックとライトバンは昨日真奥達が見学した、茄子のビニールハウスに到着する。
「ほら! 皆起きた起きた! 仕事だよー!」
ライトバンを運転していた陽奈子は、車内の五人が一言も口を開かなかったのを、単に目覚めていないと解釈したらしく、殊更明るく気合を入れるように全員の肩を叩いてゆく。
もちろん真奥や恵美達が一言もしゃべらなかったのは眠いからでもなんでもなく、単に押し込まれた席順の問題で真奥と恵美が隣り合ってしまい、その緊張感に芦屋と漆原と鈴乃が押し黙ってしまったからなのだが。
「じゃ、皆これ持って!」
陽奈子がライトバンのトランクから持ち出して全員に渡したのは、園芸用の鋏だった。
「皆、準備できた?」
そこに一馬もやってきて、真奥達を順繰りに見回す。
万治はというと、ビニールハウスの前で折り畳みのプラスチックケースらしきものをいくつも組み立てている。
「とりあえず朝のうちは、茄子と、それからキュウリを取る」
「え? キュウリも?」
陽奈子が意外そうに言うと、一馬が頷いた。
「やっぱやっちゃわないとダメだ。ヘチマになる」
「わー、マジかー」
佐々木家の前線に立つ若夫婦の会話に不穏なものが混じる。
「昨日言った通り……ああ、遊佐さんと鎌月さんにはついさっきだが、皆にやってもらうのは収穫だ。ついてきて」
一馬に促されて、悪魔と勇者と聖職者はぞろぞろとビニールハウスの中に入ってゆく。
「おー」
昨日は中まで入らなかったので、真奥は初めて入るハウスの内部に感嘆の声を上げた。
白いビニールハウスの中は、整えられた畝に数えきれないほどの茄子の株が並んでいる畑であった。
「どこからか風が流れていますね」
芦屋が何かに気づいて天井を見上げると、そこには大きな換気扇が一機回っていた。
確かによく注意すると、外は無風だったのにハウスの中はかすかに風が流れている。
「ああ、畑の向こう側まで行くと分かるが、このハウスの天井は水平じゃないんだ。ちょっと高低差があって、それでできた気圧差を換気扇で動かすと風が流れやすくなる。温度管理がしやすくなって、湿気も適度に流せるから病気が出にくくなるんだ」
「へぇ……考えられてるのね。でも、動力はどうしてるんですか?」
恵美は質問しながらハウスの周囲を思い浮かべる。
換気扇そのものは家庭用と大差ない外見で、恐らく電気を動力源としている。
だが周囲に発電機のようなものは見当たらなかった気がするが……。
「ああ。ここじゃないけど、またちょっと上に行ったとこの土地を造成して、そこに太陽電池パネルを何機か置いてるんだ。山のこっち側の電気の供給元は、全部それ」
「太陽電池パネル!?」
予想していなかった答えに、全員が驚く。
「興味があるなら、後で連れてってやるよ。とりあえず今は急ぐから、その話は後でな」
一馬は真奥達の驚きに若干気を良くしたようだが、すぐに真面目な顔になって、手近な株に近づくと全員を手招きする。
一馬の手には程良い大きさの茄子が握られており、そのヘタはまだ枝に繫がっている。
「ごく簡単な作業だ。これと同じくらいかそれ以上の大きさになってる茄子を、全部こうやってヘタから切ってくれ。小さいのはほっといていい」
言いながら一馬は、鋏でさっと茄子のヘタもとを切る。
それでもう、日頃真奥達がスーパーで見るのと変わらない、いつもの茄子の姿になる。
「親父がさっき組み立てたこの黄色い箱に入れてく。満杯になったら外のトラックに積み込んで、新しいケースをハウスの前から持ってきて、また入れていってくれ。何本か見本があった方がいいかな……」
一馬は同じ株から、新たに五本、収穫時を迎えている実を切って五人に渡した。
「すまないが、今日は作業量が多い。チーム分けをして、全部のハウスをさっとさらっちまいたい」
見本の茄子を手渡してから、一馬はもう一度、さっと五人を見回し、
「遊佐さん、茄子を扱ったことは?」
「あります」
恵美に問いかけ、恵美は自信を持って頷く。
チーム分けされる事実と、一馬が恵美に経験を確認したことで、真奥はもはや予感というのも馬鹿馬鹿しいほどの確信に等しい嫌な予感を胸に抱いた。
「それじゃあ、このハウスは芦屋さんに頼む。親父も一緒だから分からないことがあったら聞いてくれ」
「了解しました」
「おーい、じゃあこっちから順にやってくぞ」
班分けされた芦屋は、既に作業に入っている万治に呼ばれて、自分のケースを担いでそちらに駆けてゆく。
「鎌月さんは陽奈子と一緒にこっちの隣を」
「了解した。陽奈子殿、よろしく頼む」
鈴乃は素直に頷くと陽奈子に一礼する。
鈴乃は一体どこで調達したのか、観光地の茶摘みや田植えなどに用いられる茜襷が眩しい農業用のかすりの着物を纏っていた。
「漆原さんは俺と一緒に反対側をやるぞ」
「…………はい」
漆原は一番活動的と思われる一馬と組まされ、若干顔をひきつらせつつなんとか頷く。
真奥や芦屋と一緒なら目を盗んでだらだらすることもできないではないが、一馬相手ではそういうわけにはいかない。
そして当然の如く、
「真奥さんと遊佐さんチームは、陽奈子と鎌月さんのハウスのもう一個隣な。分からんことがあったら、すまんが俺か陽奈子のとこまで来てくれ。それじゃあ、始めるぞ!」
「はい……」
「……はい」
真奥と恵美の返事は、一馬の気合の声に搔き消されたのだった。
「イテっ!」
真奥は軍手の生地を突き抜けて指に刺さったトゲのダメージで、思わず声を上げる。
「……あー痛……刺さった」
ビニールハウスの中は、換気扇の音と、真奥の独り言、そして、
「……」
恵美が黙々と、茄子を切ってはケースに落とす音しか聞こえない。
真奥は畝の向こう側の、枝葉の隙間から時折覗く恵美の頭を一瞬だけ見る。
普段だったら、
『茄子のヘタにトゲがあることも知らないの!? アルシエルにばっかり家事を任せてるから、そういうことになるのよ』
くらいの嫌味を言ってきそうなものなのに、今は真奥が何を言おうと何をしようと、恵美はなんの反応も示さない。
一度だけ、真奥が見本の茄子より少し小振りな実を切ろうか切るまいか悩んだとき、
「切りなさい。じゃないと明日、もうダメになるわ」
と反対側からアドバイスを飛ばしてきたきりだ。
別に、これまでも恵美と二人きりで仲良くお喋りするような間柄では決してなかったが、こうもだんまりを決め込まれるとそれはそれで居心地が悪い。
当初、真奥はこの収穫作業をナメていたところがあった。
初日に畑の広さに度肝を抜かれたものの、ハウスの中の畝はそこまで長大なわけではない。
また全ての茄子を今日収穫するわけでもないと聞いていたので、この人数でかかれば二時間もあれば終わるだろうとタカをくくっていた。
だが、実際にやってみると、一本目の畝を半分も行かないうちにプラスチックケースが一つ、満杯になってしまった。
ハウスの中には畝が三本あり、恵美と二人で一つの畝に両側から取り組んでいるにも関わらずだ。
単純計算すれば、真奥と恵美のハウスだけで十二ケース分もの茄子を収穫することになる。
また、茄子はリンゴのように実を高い所につけているわけではない。
真奥の身長とほぼ同じ高さの株の下の方に、葉に隠れていくつもの茄子が実を結んでいる。
しゃがんで、切って、立って、しゃがんで、切って、立ってと強制ヒンズースクワットを繰り返しながら作業をするため、真奥は早くも先の体力に不安を感じはじめていた。
ついでに言えば、一馬と一緒にいる漆原が途中で死なないかどうかも心配になっている。
「……う、汗が目に……」
次の株に取り組むべくしゃがんで顔を下に向けた瞬間、額に滲む汗が目に流れ込んで真奥はしばし瞑目する。
目をこすりたいところだが、既に軍手も軍手の下の手も土だらけだ。
「タオル」
「あ? うおっ!」
痛みをこらえて薄く目を開けると、茄子の木の間から恵美の腕がにょっきり生えていて、その手にタオルが握られている。
「つ、使っていいのか?」
「私のじゃないわよ。私が持ってないんじゃないかって、陽奈子さんが貸してくれたの。目に汗が入ったくらいで手止めてたら、とても間に合わないわよ」
「あ、ああ……すまん」
土だらけの軍手を外してから、取引先だろうか、青果店と思しき店舗名が入った洗い古された白いタオルを受け取り、目の周りを拭う。
「持ってていいわよ。私は自分のがあるから。汗は額に巻いても流れてくるから、首にかけてシャツの襟の中にでも入れておきなさい」
「あ、ああ……」
真奥は言われたように首にかけて、垂れ下がる端をシャツの中に入れる。
確かにそうするといざというときには顔を拭けるし、下を向いても垂れ下がらないから作業の邪魔にもならない。
「千穂ちゃんのお母さんから、タオルを沢山持ってくるように言われなかったの?」
「……持ってきちゃいるが、今朝は慌ただしかったから忘れた」
ここ一時間ほどで初めて会話らしい会話。
恵美の声にはところどころ、真奥を揶揄するような雰囲気があったが、それ自体はいつものことなので真奥もとりあえず意識の外に置く。
「結構涼しいと思ってたが、こんな汗かくなんてな」
もともと高地であるところに持ってきて太陽が昇りきっていない早朝、かつハウスの中にはそこそこ風が流れているはずなのにこの有様である。
「あの駄天使、今頃死んでるかもね」
「それが一番心配だ」
やはり恵美も、漆原のことは気になっているようだ。
「涼しい、か……どうして、こんな朝早くから収穫するか、分かる?」
「え?」
真奥のためらいがちな作業とは違い、恵美の作業は軽快そのもの。
規則正しく聞こえてくる鋏の音はそのまま作業速度の違いを表すため、真奥は恵美に負けまいと、話をしつつも慌てて次の茄子を探しはじめる。
「夏の野菜の収穫は、朝摘みが基本なのよ」
「あさづみ?」
「植物が日光を浴びて成長することくらいは知ってるでしょ」
「ああ」
「根は茎を、茎は葉と花と実を、そして花と実は種を育てるために成長する。そのために必要なのは十分な水と土壌と湿度と気温と日光。でも日光が無い間の実はどうしてると思う?」
「日光が無い間……?」
真奥は丁度、手に取った茄子を眺めて恵美の問いかけの意味を考える。
日光が当たらない間とは、つまり夕方から夜、そして今のような早朝の時間帯を指すのだろう。
「手、止まってるわよ」
「あ、ああ、悪い」
真奥の鋏の音がしないのに気づいて、恵美が注意する。
「……夜は日も当たらず気温も下がる。だから野菜はそれに備えて、自分が死なないために栄養を内側に溜め込むのよ」
「栄養を溜め込む?」
「そう。それが糖分だったり、デンプンだったり、ビタミンだったり……要するに、人間が摂取して美味しいと感じたり体に良かったりするものが、夜の間に精製されて蓄積される」
「おお、なるほど。つまり、朝に収穫すると、栄養が一番溜まった状態で収穫できるってことなのか」
「そういうことね」
「でも、これから太陽が昇って明るくなるし、気温も上がるよな。そしたらどうなるんだ? そのとき収穫すると、何が違うんだ?」
「今の話聞いてて、分からない?」
恵美はわずかに呆れを含んだ声で言った。
「気温が上がって日光が供給されると、野菜は溜め込んだ栄養を使って、成長を始めるわ」
「成長?」
「夜の間に溜めた栄養と日光を使って自分を大きくするのよ。野菜だって生きてるの。それもこれも、子孫を残そうとする自然の行動よ。だから同じ日、同じ畑、同じ株から収穫しても、朝に収穫したものと午後に収穫したものでは驚くほど味が違うわ。トウモロコシなんかはその差が特に顕著ね」
「はぁ……なるほどなぁ。そりゃ早起きしなきゃならんわけだ。八時くらいにはもう暑くなりはじめるもんなぁ」
「そこを境にいきなり味が落ちはじめるわけでもないけどね。でも、隣のキュウリ畑に取りかかる必要があるなら、遅くとも八時半くらいまでには茄子を終わらせておきたいところね」
恵美の言葉で、真奥はポケットから携帯電話を取り出すと時計を見る。
仮に恵美の言う通り茄子を八時半までに終わらせなければならないなら、あと二時間あるか無いかというところだ。
「ま、間に合うかな」
「さぁね」
恵美の投げやりにも聞こえる返答。
だが真奥は、あることを思いついて尋ねる。
「なぁ、でもさっきの話の通りなら、今日収穫しきれなくても、また明日の朝早く収穫すればいいんじゃねぇのか?」
一馬は、小さい茄子は放置して良いと言っていた。
かといって放置した茄子をそのまま放置しっぱなしのはずがないので、収穫は何回かに分けて行われるのだろう。
そう考えてのことだったが、
「はぁ~~……」
茄子の枝葉の向こうから、完全に真奥を馬鹿にしきったため息が漏れてきた。
「な、なんだよっ!」
「……これ」
また先ほどと同じように枝葉の間から恵美の腕が突き出てきた。
だが、その手に握られているのはタオルではない。
「な……なんだそりゃ」
それは、真奥が見たこともないほど巨大な茄子だった。
一リットルの牛乳パック位ありそうな胴回りは、パンパンに膨らんで今にも弾けそうだ。
「言ったでしょ。野菜は成長するのよ」
「せ、成長……?」
「収穫時期の野菜っていうのは、野菜自身にとって一番コンディションがいい時期なのよ。ここから実が種を育てて次の世代に繫げようとするんだもの」
真奥は思わず巨大茄子を受け取る。
それは握った手応えこそしっかりしているが、見た目の印象ほど重くはなかった。
そして皮の表面が、今まで収穫した普通の大きさのものと比べて、明らかに艶が無くくすんでいる。
「今日採り頃の野菜は、あと一日でも夏の陽差しと気温に当ててしまったら、一日二日で物凄い速度で成長してしまうの。そんなの、スーパーで見たことある?」
「……いや。じゃ、じゃあさっき一馬さんが言ってた『ヘチマ』って」
「育ちすぎちゃったキュウリのことでしょうね。見たこと無いだろうけど、ウリ科の野菜はちょっと時期を逃すととんでもない大きさに膨れ上がるのよ」
スーパーで購入できる大きさの野菜しか見たことの無い真奥には、この巨大茄子も衝撃だし、ヘチマ大のキュウリなどもっと想像できない。
「そこまで大きく育っちゃうと商品としては完全に規格外だし、中身はスカスカ。もちろん美味しくなくなっちゃうわ。不揃い野菜としてだって、誰も買い取ってくれない。まぁ、エンテ・イスラではそういう収穫時期を逸した野菜も売りに出せば小銭程度にはなったけどね」
真奥はそれを聞いて、思わず自分の足元にあるケースに収まった無数の茄子を見る。
「エンテ・イスラですら、そうなのよ。まして日本で今私達が採ってる数をその大きさにしたら、どれくらいの損害になると思う?」
「……えーっと」
この夏は野菜の値段が上がっているが、真奥は頭の中で、スーパーでの小売価格を仮に一本五十円として計算してみる。
小売価格でそれなのだから、卸値はその半額と仮定して二十五円。
この一時間で真奥一人が収穫した分だけでも軽く二百本は超えている。
恵美も同じだとして、一つの畝の半分で四百本。残り全ての畝で同じだけの量を取れると仮定すると、真奥と恵美のハウスだけで二千四百本もの茄子を収穫することになる。
そしてハウスは十棟あるので、単純計算で、今日だけで二万四千本の茄子を収穫することになるのだ。
「小売価格が五十円で仮に卸値が二十五円だと考えれば、六十万近く損するのか」
「バカじゃないの」
真奥は茄子の数と六十万円の損失という試算に慄くが、恵美は吐き捨てるようにその結論を一蹴した。
「あ? 計算間違ってるか?」
「茄子の種や苗は、湧き水のようにどこからか無料で湧き出てくるものなの?」
「……ああ」
真奥は納得して頷いた。
「経費か」
「そう。茄子の苗や種を買うお金。このハウスの維持費。土を作るための機械の燃料代。肥料代や世話にかかった人件費。出荷する野菜を梱包するためのダンボール箱なんかの生産資材。売値の『六十万円』を得るためにかけた経費が諸々全部パァになるのよ。全体の損害が六十万円程度で収まると思う? 収穫が遅れるっていうのは、それくらいの一大事なの」
「……」
「その大きな茄子の周りに、何日か前に収穫した形跡があったわ。根性なしの従業員に逃げられてからも、一馬さんとか万治さんが元々雇ってる人と一緒に頑張って隙を見て収穫したんでしょ。でも結局手が回らなくて、そんなのが出てきてしまったのね」
「…………」
しばしの間、真奥は唸るしかできなかった。
改めて、佐々木家の広大さを意識する。
里穂は山一つ、と言っていたから、真奥達が見た茄子、キュウリ、スイカ以外にも様々な作物があるのだろう。
万治は法人を立てて人を雇っていると言っていたが、今のところ、佐々木家以外の人間の姿を真奥達は見ていない。
それだけ人数はギリギリだということなのだろう。
もしかしたら家族以外の社員はほとんどいないのかもしれない。
だからこそ、この素人の真奥達でもできる作業を、斡旋された実習生で賄おうとしたのだろう。
だが、彼らは逃げ、佐々木家は育てた作物を収穫する時期を逸しかけた。
「……大変だな」
真奥はぽつりと呟く。
ただ鋏で切るだけの収穫ですらこれほど重労働なのだ。
仮の試算の卸値六十万円という数字も、真奥の実生活から見れば大きな金額だが、かけられている労力を考えれば、対価としては決して高いものではない。
「……そうよ、大変なの」
「あ……」
一瞬物思いにふけった間に、恵美の声が少し遠くなった。
手際の良い恵美に置いていかれかけている。
真奥は慌てて作業を再開するが、
「…………」
つい、恵美の様子を窺ってしまう。
昨夜の千穂の話を思い出すまでもなく、恵美が農業に関してそれほど豊富な知識を持っているのは、彼女自身に経験があるからだ。
それは当然彼女の実家の稼業が農業だったからであり、そしてそれを叩き潰したのは、ほかならぬ真奥自身だ。
その真奥が恵美から農業にまつわる話を聞いて、農業は大変だ、などと言えば、間違いなく恵美の逆鱗に触れてしまう。
怒るときは、いつ聖剣を抜いてもおかしくない本物の憎悪を叩きつけてくる恵美だけに、真奥は自分の失言に慌てる。
「何よ」
恵美もそんな真奥の逡巡に気づいたのか、手を止めて尋ねてきた。
畝の向こう側にいるので表情は判別できない。
だが、想像したほどにはその声に、怒りの感情は見受けられなかった。
「まさかとは思うけど」
「お、おう」
「反省とか、してたりしないでしょうね。勘弁して頂戴」
「え? あ、その……」
真奥は混乱する。
恵美は何を言いたいのだろう。
反省するなと言いたいのか? だが、千穂が聞いた鈴乃の話では、恵美は真奥が農業に従事することを快く思っていなかったはずだ。
そんな真奥が恵美の前でナメたことを言えば、怒りこそすれ反省するななどと言うはずがないと思うのだが……。
「反省って、その」
「私の故郷と、お父さんの畑をあなた達が全部壊してくれたことよ」
「……」
真奥は、押し黙る。
まさかこれほどストレートに来るとは思わなかったからだ。
「言っておくけど、そのことを怒ってないわけじゃないし、許すつもりもないわ。そのことを思い出すだけで、あなたとルシフェルを今すぐにでも殺したくなる」
二人きりということもあり、恵美は物騒な物言いを隠そうともしない。
「でも……あなたにそのことを後悔されたり反省されたりしたら、私の中の復讐心が、ミジンコのフン程度だけど、揺らぐかもしれない。だから反省なんかされたくないわ」
「……はぁ?」
「当時のあなた達にとっては、歩く途中にある邪魔な小石を蹴飛ばす程度のことだったんでしょ。でもたとえ小石ほどに取るに足らなかったとしても、あなた達にはそれを蹴飛ばすだけの理由があった。蹴飛ばされた小石が何より大切だった私は、それを許せない。だから私は、いずれあなた達にしっかり落とし前をつけてもらう。それでいいのよ」
一瞬途切れていた恵美の鋏の音が、また再開される。
「でもそれは、私とあなたとの間だけの問題。そのことと、あなた達が佐々木家の人達の農業を手伝うこととは全く別の話。そう思うことにしたわ。だから私のことは気にせずに、仕事してなさい。別に意地悪して邪魔したりはしないから」
言いながら、恵美はまた少し畝を先に進む。
真奥は思わず止めていた息を吐き出すと、緊張していた肩から力を抜いた。
「……なんつーか……」
「何よ」
「……面倒くせぇ奴」
吐き捨てるように言う真奥だが、それでもその顔にはかすかに笑みが浮かんでいた。
「あら? 『絶対に許さない』って叫ぶ私に切り刻まれて、この畑の肥料になるのがお望み?」
極端な物言いをする恵美の言葉も、笑っているように聞こえたのは気のせいだろうか。
茄子の枝葉に阻まれて、宿敵である勇者の顔を窺い知ることはできなかった。
「美味いっ!! 美味すぎる!!」
昨日と変わらぬ抜けるような青空の下、真奥の絶叫にも似た声が佐々木家の畑にこだまする。
「ちょっと、いきなり叫ばないでよ」
すぐ隣でその声を聴いた恵美は、耳を押さえて顔を顰めた。
太陽が大地を照らし、気温も上がりきった午前十一時。
なんとか今日の分のキュウリまで収穫し終え、畑の隅に腰を下ろした真奥達は、陽奈子が持ってきていた自家製の味噌を調味料に、獲れたてのキュウリを貪っていた。
産地直送どころか、産地直食のキュウリは果物のように瑞々しく、汗をかいた体に自家製の味噌が程良く塩分を染み渡らせてくれる。
最初はおずおずといった様子だった真奥達も、豪快にキュウリをかじる陽奈子に触発されて新鮮そのもののキュウリをバナナのように頰張っていた。
「ちょっと、あんまり食べすぎてお腹いっぱいになっても知らないわよ。もうすぐお昼ご飯なんでしょ」
三本目のキュウリに手を伸ばそうとしている真奥を見て、恵美が思わず咎める。
「そんなこと言ったってお前、こんな美味いもん今食わないでいつ食うんだよ」
味噌の塩気とキュウリが持つかすかな甘さがまた絶妙にマッチし、それを冷たいお茶で流し込めば、もうこれ以上何もいらないと思えてきてしまう。
「限度があるでしょ。由美子さんが折角お昼作ってくださってるのに、食べきれなかったらどうするつもり?」
「人に作ってもらった飯残すわけねーだろ!」
「どうかしらね。なんでもいいけど、アラス・ラムスの前でご飯残すようなことだけはしないでよね」
なおもキュウリを食べ続ける真奥に、ほとほと呆れた様子の恵美。
そんな二人を不思議そうに見ているのが鈴乃と芦屋だ。
「……なんだか」
「普段と変わらんな」
芦屋は芦屋で、昨夜から恵美の様子が普段とどこか違うことには気づいていた。
真奥と違い千穂や鈴乃から何かを聞いたわけではないが、やはり自分達が農業に従事しているのを快く思っていないのだろうくらいには思っていた。
が、茄子のビニールハウスから出てくる頃には、真奥も恵美も、すっかり普段通りの様子に戻っているではないか。
決して仲直りしたということではなく、真奥のやること為すことに何かと恵美がつっかかるという日頃のスタイルに戻った、という意味だが。
「鎌月、一体遊佐に何があったんだ」
「……私にも分からん」
ずっと陽奈子と二人で作業をしていた鈴乃には分かりようもない。
真奥達の就農を快く思っていなかった恵美が、なんらかの方法で自分の気持ちに整理をつけたのだろうとしか言いようがなかった。
ともあれ、訳が分からないなりに、真奥と恵美が佐々木の本家を舞台に本来の対立関係に戻るようなことはなくなったと見て、鈴乃は胸を撫で下ろす。
「やーよく頑張ったよく頑張った。帰ったら少し昼寝してねー」
「うきゅう……」
並んで座る四人の後ろでは、完全にノックアウト状態の漆原が、陽奈子にうちわで扇がれていた。
一馬の手前一切の手抜きやサボりができなかった漆原。
慣れぬ肉体労働も相まって完全に力尽きていたが、それでもなんとかキュウリの収獲までやりきった。
「昼寝?」
結局四本目のキュウリをかじっている真奥が、陽奈子の言葉に振り向く。
「昼寝なんかできるんですか?」
労働の合間のシエスタなど、貴族かヨーロッパでもなければ有り得ない事態だと思っていたが、
「しないと持たないよ」
陽奈子には苦笑交じりで返される。
「この暑さだもん。ご飯食べたら今日は二時間くらい休憩しないと。みんなのおかげでなんとか朝のうちに茄子とキュウリは片付いたし、あとは今日は草取りくらいじゃないかな。出荷や梱包なんかはまた別の慣れた人がやるからね。ま、何かあれば一馬かお義父さんが言うと思うよ。明日は多分、ハウスの残りの茄子を全部取っ払って、そのあと更新剪定かな」
「更新剪定とは?」
芦屋の問いに答えたのは、陽奈子ではなく恵美だった。
「茄子は基本的に夏の野菜だけど、秋茄子ってあるでしょ。一度全部の株から今ある茄子を収穫して、そのあとで秋茄子を実らせるために余分な枝葉を剪定するのよ」
「おおー正解!」
陽奈子が拍手する。
「でも更新剪定って、夏が本格化する前にやるものじゃないんですか?」
「ハウス栽培だから、そこらへんは調整してるみたいだよ」
「成程……輸入したいものがまた増えたわね……」
「おい、程々にしとけよ」
勇者のくせに、腹で何か不純なことを考えているらしい恵美に、真奥は小声で注意する。
以前にも恵美は、魔王討伐の暁には故郷の家に冷蔵庫と電子レンジを持ち帰って運用する方法を考えていた。
大方、エンテ・イスラで野菜を生育させるためのビニールハウスを作ることでも考えているのだろう。
「でもそっか、遊佐さんのおうちって農家なんだもんね? 差し支えなければどの辺? 何やってたの?」
だが、地球とエンテ・イスラのカルチャーギャップを最大限利用してやろうとする勇者の策略は、陽奈子の無邪気な問いで阻まれる。
「あ、その、えっと、こ、国内じゃないんです。ずっと小麦を……」
恵美は黒い微笑みを凍りつかせて、数瞬で頭を高速回転させてなんとかその場をしのごうとするが、
「海外で小麦!? すごいね!? アメリカ!? ヨーロッパ!? アジア!? 小麦ってデュラム? 硬さは? いや実は今、米のウラで麦やろうかってお義母さんが言ってたんだけど、何がいいと思う!? 海外だと麦のウラとか何かやってたりすんの!? 休ませるときのチリョクは何がいいかな!?」
「え、あ、あ、あの、えっと……」
陽奈子の輝く瞳と熱意に迫られ、しどろもどろになってしまう。
「今は国産の麦も結構質が上がって需要あるしさ! ほら、酒税法が改正されてビールの出荷量減って、代わりに第三のビールが伸びてるじゃん!? 今あちこちの酒造メーカーが商品開発でいろんな麦とかホップとか探してるんだよね! 米はここのところ値段も頭打ちで毎年とんでもない量で米余りが出てるし、やっぱこれからは国産麦じゃない!?」
「ひ、陽奈子さんあのね、私も実家がそうだってだけで、それほど詳しくは……」
恵美が陽奈子の勢いを必死に躱そうとしている傍らで、真奥は今の会話を反芻する。
「ウラとかチリョクとか、なんだ?」
「それならば分かる。裏は裏作。地力は、休耕地の土壌に活力を与えるための地力作物のことだろうな。レンゲやクローバーが一般的だと聞いたことがある」
「折角説明してくれたところすまないが、何を言ってるのかさっぱり分からん」
解説を耳が跳ね返してしまい、真奥は思いきり鈴乃に睨まれる。
その向こうでは恵美が相変わらず陽奈子の質問攻めを必死で躱そうとしていたが、ちょうどそのとき、
「おーい、お待たせー! 帰って飯にしようぜ!」
収獲した茄子とキュウリをどこかへと運んでいった万治と一馬が、軽トラックと軽ワゴンで戻ってきた。
そのため話が中断してほっと気を抜くが、
「んじゃ続きは帰ってからだね!」
との陽奈子の宣言に、顔を強張らせたのだった。
※
「しかし……本当にこれで良いのでしょうか……」
「あ?」
芦屋の不安そうな声に、真奥は少しだけ首を動かす。
あてがわれた部屋に戻った悪魔三人は、涼しい風の抜ける畳の上に思い思いの格好で寝そべっていた。
「確かに朝早く、結構な重労働でした。ですが……」
「まぁ、確かにな、俺も若干落ち着かない。たらふく美味い飯食わせてもらって、二時間は昼寝とかな」
「これで日当を頂いては、何かバチが当たるような気がします」
「悪魔がバチ当たるの気にしててどうすんだよ」
「僕はもう、一生寝込んでしまいたい……」
漆原一人は窓際で、うちわで力なく顔を扇ぎながら辞世の句を詠んでいるが、真奥も芦屋も聞いてはいない。
「情けない話だが、俺達にできることは今の時点では無いってことだろ。現に、恵美の奴は駆り出されてんじゃねぇか」
「そのことが余計に腹立たしいし、不安の種でもあるのです!」
芦屋は上体を起こして頭を抱える。
結局恵美は、陽奈子の麦談義から逃げることができなかった。
恵美も諦め、実家を手伝っていたのは本当に幼い頃だと前置きした上で、自分が分かる範囲のことだけを陽奈子や万治に伝える。
もちろん恵美の故郷はヨーロッパの架空の土地ということになっているし、麦の品種名がそもそも違うので語れることは多くはなかったが、陽奈子は熱心に聞き入っていた。
その知識と経験が買われたわけではないだろうが、今恵美は、陽奈子と一馬に請われて麦の裏作を考えているという水田の視察に引っ張り出されている。
「こんなとこで張り合ったって仕方ねぇだろう。なまじ意気込んで間違ったことするよりは、雇い主の言う通りここは素直に休憩しておいた方がいい」
「むむむ……」
芦屋は未だ納得が行かないようで、落ち着かなげに貧乏ゆすりを始める。
「そうだ!」
「……芦屋、今絶対余計なこと思いついたでしょ……僕嫌だよ、行かないからね」
芦屋が突然手を打って顔を上げる。
その芦屋が何かを言い出す前から漆原は力なくそう言い、
「それで日当に差がついても僕は一向に構わないから、いってらっしゃい」
のそのそと押し入れに這っていったかと思うと、中に入ってそのまま襖を閉めてしまう。
「むしろ芦屋が何言い出すかによっちゃ、お前と俺らで日当に差がついてなかったときのこと考えると不安になるんだがな……で、なんだよ芦屋」
真奥も苦言は呈するが、今の時点ではこれ以上漆原をどこかに引っ張り回したところで足手まといにしかなるまい。
「久しく定期的なアルバイトから離れていたので心がけを忘れておりました。魔王様、仕事は、自分から見つけるものです! 現にエミリアもベルも得意分野を生かして、生意気にもそれぞれ所を得ているではありませんか」
確かに、朝食の席で鈴乃が当たり前のように台所をうろつきまわっていたのは予想外すぎる光景だったし、恵美も佐々木家への貢献度では明らかに真奥達を上回っている。
「特に我々には、ルシフェルというマイナス要因があります。ここは一つこちらから仕事を申し出ることで、少しでも心証を良くするべきではないでしょうか」
「何言われたって僕は絶対に行かないからねー!」
押し入れの中からの抗議の声。
「……ま、確かに一理あるな。何ができるか分からんが、日中何もせずにごろごろしてるのが嫌でここに来たってのもあるからな。それが遠出までしてごろごろしてんじゃ、なんの意味もねぇもんな」
真奥も体を起こすと、ぴしゃりと膝を打って立ち上がる。
「とはいえ、一馬さんと陽奈子さんと万治さんは今いねぇだろ。由美子さんとエイ婆ちゃんに聞いて、俺達ができそうな仕事あっかなぁ?」
「無ければそのときは、家の周りの掃除でもしましょう」
真奥と芦屋は言いながら、部屋を出て階下に下りる。
しばらくして誰もいなくなった部屋の中で、
「本当に行っちゃった」
自分で行かないと宣言したものの、一人取り残されてちょっぴり寂しそうな漆原が、押し入れから出てくる。
「こんなとこでも、ネットが入るのが唯一の救いかな」
三人分の荷物が入ったトランクを開けて、漆原はいつも使っているノートパソコンを取り出す。
起動すると、幸いにして無線の回線を拾ってインターネットに接続することができた。
「そこまでして働こうとするお前達を尊敬するよ僕は……。休めるときに休むのも仕事のうちじゃないのかなぁ」
駒ヶ根の空から吹き込んだ淡い風を感じながら、漆原は普段通り、ネットの風に身を晒すべく、南アルプスを大パノラマで映す大きな窓の下で、電子の光が満ちる小さな窓を覗き込むのだった。
※
「あお───────!!」
「……う」
駒ヶ根の山に、のびのびとした大きな声と、何かを達観したような唸り声が響く。
「ひー、あお!」
「……う」
「ひー、おそら! けせど!」
「……けーと」
「けせど!」
「け……けへど」
「けせど───!!」
「アラス・ラムス、いくらなんでもセフィラの名前言わせるのは無茶だろうよ」
真奥は、肩の上にいる小さな愛娘が、
「な、何故一志君は、納得すると言葉でなく行動で示すのでしょう。あだだだ!」
芦屋の肩の上で哲学的な表情で彼女の言葉に聞き入る一志に無茶な言葉を教えようとしているのに苦笑してしまう。
「ひーくん凄いね! もうそんなおしゃべりできるようになったんだ!」
その傍らでは、おむつやウェットティッシュ、タオルに経口補水液などの子守セット一式をトートバッグに入れた千穂が二人のやり取りに破顔している。
「さ、佐々木さん、何故一志君は私の髪をこんなに引っ張るのであいたたた!!」
「ひーくん、最近摑んで引っ張るのが大好きなんですって」
「そ、そのままですね。こ、こら、ちょっと一志君、もう少しやんわりと……」
「まだ一志君は手が小さいからな。頭摑むより、髪の方が摑みやすいんだろ」
静かな表情で芦屋の髪を両手で引っ張り続ける一志を見て、真奥は笑う。
売り込みに行った真奥と芦屋に与えられた新たな仕事。
それはなんと、子守りだった。
一馬と陽奈子と万治が働きに出てしまって、朝に引き続き千穂と由美子とエイがかわるがわる一志とアラス・ラムスの世話をしていたのだが、由美子とエイも午後になってから仕事があるらしく、真奥達の申し出は渡りに船だったらしい。
「さっきからママに会いてぇってグズっちまって、悪いけど真奥さん芦屋さん、一志を陽奈子んとこまで散歩に連れてってやってくれねぇか。私と婆ちゃんは、これから選果工場の方に行かにゃならんのよ」
「お母ちゃの顔見りゃ、ちっとぁ落ち着くら。一馬も陽奈子も西の田に行っとるで」
「西の田?」
しばらく佐々木の本家の面々と接していて気づいたことだが、この家族はある場所のことを『下』とか『上』とか『西』とかざっくりとした方向で言うのだ。
身内同士ならそれで通じるのだろうが、『隣』の概念が都会とは根本から違う土地でその情報だけを頼りに動けば、間違いなく迷子になる。
「あー、千穂、分かるけ? 千穂が分からなんだら仕方ねぇから伯母さん連れてくけども」
真奥達の逡巡を理解したか、由美子は千穂に話を振る。
「えっと、確か川を渡って林の脇の道を右に行った先の?」
千穂は記憶を探るように答える。
さらりと『川』という単語が出てきたが、まさかこの家は敷地内に川が流れているのか。
「そこそこ。悪いけど千穂、そこまで真奥さん達案内してやってくれんか。そう遠くねぇで行って帰ってくるだけでいいから」
かくして千穂の案内で、一志を『西の田』にいる陽奈子に会わせるミッションを仰せつかった真奥達。
そこには恵美もいるし、当然のことながらアラス・ラムスを置いていくわけにはいかないので、急遽、母を訪ねて真奥と芦屋と千穂と、そしてアラス・ラムスと一志というパーティーで夏の山道を散歩することになったのだった。
「いやー、しかしアレだな、空気が美味いってのはこういうこと言うんだな」
真奥が山道から見える青空と南アルプスを眺めて言う。
陽差しは強いし、気温が高いのは間違いないのだが、空気は澄んでいて時折風が渡るので、気分は涼やかなのだ。
「アラス・ラムス、暑くないか?」
「ない! ひー、ひーのぼうし、むぎわら、おそろい!」
「……う」
アラス・ラムスはこの半日の間に、一志とすっかり仲良しになったらしい。
ここに来るまでも何かと一志との会話に(と言っても一志は「う」しか言わないのだが)注力している。
形は全く違うが、同じ麦わら帽子を被っていることがお互い心地良いらしく、一志もアラス・ラムスをひたと見据えながら、彼女を真似るように自分の帽子の鍔を摑んでみせる。
するとアラス・ラムスは、恐らく恵美の好みだろうが、帽子のリボンに縫いつけられているリラックス熊のアップリケを一志の方に向けて、自慢げに頰を膨らませる。
一志自身はものの優劣という感情を持つに至っていないため、見せられたリラックス熊の能天気な顔に、真剣な顔で見入っていた。
「アラス・ラムスちゃん、お姉ちゃんみたいですね」
「ねーちゃ! ひーねーちゃ!」
「アラス・ラムス、それちょっと違うぞ。それじゃ一志君が姉ちゃんになっちまう」
「アラス・ラムス、ねーちゃ?」
「うーん、間違いじゃないが、自分で自分をそう呼ぶのもな」
「ねーちゃよ! アラス・ラムスねーちゃ! ずっとねーちゃ!」
「ま、なんでもいっか」
「ねーちゃ!」
「……う」
「あいたっ! い、今のは特に強かった……」
「あはははは!」
芦屋には悪いが、さすがの千穂もこのやり取りには思わず笑ってしまう。
「なんだか芦屋、一志君に操縦されてるロボットみたいだな」
「漆原が部屋で引きこもっていてくれて、今はホッとしております……」
確かに漆原なら、芦屋のこんな姿を見れば当分ネタにしてからかい倒しそうだ。
「漆原さん、大丈夫ですか? 一馬兄ちゃんが心配してましたけど」
今日は食事時くらいしか漆原と顔を合わせていない千穂がそう尋ねると、
「疲れてはいるみたいだけど、死にはしねぇだろ。今頃休憩時間なのをいいことに、ネットでもやってるんじゃねぇか?」
「ところで佐々木さん、西の田というのはまだ先なのですか?」
五人は、出かける直前に由美子が話していた林と思しき場所に差し掛かっていたが、未だ水田は見えてこない。
一志に髪を引っ張られまくって若干涙目になっている芦屋に苦笑しながら、千穂は記憶を辿り前方を指さす。
「もう少しです。この林をもうちょっと行った所に橋があってそこに……きゃっ!」
「むっ!?」
そのときだった。
脇の林の中から、何か黒い影が飛び出してきた。
予想外の事態に千穂が飛び上り、芦屋も足を止める。
「なんだ、どうした?」
アラス・ラムスを担ぎ直すので一歩遅れた真奥は、二人の様子に驚いた。
「い、いえ、大事ありません。林の中から何かが飛び出してきて……」
「あれ、ですね」
千穂と芦屋は、足元を横切った影の行く先を見、真奥も千穂の指さす先を見て首を傾げた。
「……なんだ、あれ?」
路傍で立ち止まりこちらを見返しているそれは、見たことの無い動物だった。
大きな動物ではない。小さい目、小さい耳のついた細い顔に、ずんぐりした長い体と太い尾、そして長い胴と尾に若干不釣り合いな短い四肢。
ネズミというには体が長すぎる。
リスというには体が大きすぎる。
かといって、犬猫の類では絶対にない。
「なんでしょう……それほど凶暴な生物には見えませんが」
言いつつ芦屋は、肩車していた一志を背負い直し、そして真奥と千穂を背後に庇うように一歩前に出る。
すると、その謎の動物は芦屋の動きを警戒してか、すっと身を翻すと走り去っていってしまった。
「生で見るのは初めてだけど、タヌキとかキツネとかか?」
存在は知っていても、都会ではなかなか見ることのない動物を挙げる真奥だが、それは千穂によって否定された。
「タヌキ……じゃない気がします。イタチとか、そんな感じがします」
「イタチ、ですか。なるほど。確かに以前図書館で見た写真は、あんな感じだったかもしれません。何にせよ、何事も無くて良かった」
芦屋の一言で、ちょっとしたハプニングに止まっていた一行の足が再び動き出す。
「芦屋、お前一体どういう理由で、イタチの写真を図書館で調べる用があったんだ?」
ようやく前方にそれらしい水田が見えはじめた頃、真奥が尋ねる。
「大したことではありません。実は、タヌキも狐も、あとカッパも、調べたことがあります」
芦屋は至極真面目な顔をして答える。
芦屋と真奥は話をしていて気づかないが、唐突に出てきた『カッパ』というワードに、千穂は昨夜の真奥との夜の散歩を思い出して一人でもじもじしていた。
「日本に来て間もない頃、日本のメジャーな魔物について調べたことがありました。タヌキや狐、カッパにイタチは、日本中で人間を妖術で惑わす伝承が残っていました」
「ああ、そういう」
意外と真面目な理由で、真奥は素直に納得する。
「特にイタチやカッパは人間に対して凶暴な行動に出るという伝承が多かったので、魔力回復の手段になるかと期待していた時期があったのです……ですが……」
「ん?」
「この地に来てカッパが予想以上に人間に愛されすぎていて、その方面での探索は私はもはや諦めております」
「ああ……カッパ、なぁ」
芦屋は芦屋で、やはり例のカッパ館が気になっていたのだろう。
真奥の思いに気づいて、芦屋も苦笑する。
「結局カッパは架空の存在で、イタチは外見にそぐわぬ凶暴な性格から古くから害獣とされてきた、ただそれだけのことでした。まったく、この国は平和すぎて困ります」
「……そうだな。お、あそこにいるのって」
「まま!」
「う!」
「あいたっ!」
真奥達よりも、子供達の方が最初にその姿を捉えた。
行く先の道に山の上から林を通って流れる小さな小川とそこにかかる石橋があり、川から田には用水路が引かれている。
秋には豊かな実りが期待できそうな、青々とした田が一面に広がる中に、恵美と陽奈子、そして一馬の姿があったのだった。
※
「それ多分、昨日言ったハクビシンだよ」
「ああ、あれが」
千穂と芦屋から謎の獣の外見を聞いた陽奈子が、膝の上で一志をあやしながら答えを導いてくれた。
「千穂ちゃん、そいつどれくらいの大きさだった?」
「えっと……急に林の中から出てきたからちゃんとは分からないけど……これくらい?」
陽奈子の問いに、千穂は首をひねりながら体の前で手を広げてみる。
「うわ、結構大きいな、どっかやられてなきゃいいけど」
「どっかやられてって、何か食べられちゃってるってこと?」
「去年トマトのハウスがやられて大損害。あれは参ったわ」
大損害、というフレーズに、二人の会話を聞いていた真奥は思わず恵美との会話を思い出し、一体どれほどの損害が出たのかついつい頭の中で計算してしまう。
「ずんぐりしてるくせに、顔が通れる穴があれば抜けちゃうらしくてさ。去年は一志の好きなトマト、いっぱい食べられちゃったんだよねー」
「アラス・ラムスもとまとすき!」
すると、真奥の膝の上にいたアラス・ラムスが、陽奈子に向かって大いに主張する。
「お、そっかー、一志聞いた? おねーちゃんもトマト好きなんだってー」
「う」
「ねーちゃ! ひーもとまとすき?」
「だーいすきよー。アラス・ラムスちゃんは、トマトの他には何が好きなの?」
「カレー!」
「カレーかぁ、まだちょっと一志には早いかなー」
正確に言えばカレーは『まま』の好物なのだが、基本的にアラス・ラムスはぱぱとままが好きなものは全部好きなのだ。
「あと、こーんすーぷ!」
「それなら一志も大好きよー。今日は夕ご飯にコーンスープ作ってもらおうか!」
「う!」
「すーぷ!」
さすが子供の扱いに慣れている陽奈子は、早くもアラス・ラムスの心を摑みつつある。
「コーンスープで思い出したけど、鈴乃はどうしたの?」
そこに、両手に明るい色の長い草の束を持った恵美がやってきた。
長靴を履いて、シャツや作業ズボンには少し泥が撥ねている。
「……一体何をしていたのだ」
恵美の質問に答えるより先に、芦屋がその姿に対して疑問を呈する。
「稗を抜いてたのよ」
「ヒエ?」
恵美は足元に草の束を置く。よく見ると先端には貧相な稲穂のようなものがついており、素人目には田に植わっている米と大差ないように見える。
「どこからか飛んできたり、水を引き入れたときに流れてきた種が稲穂の間に根付いて成長しちゃうの。草取りするつもりで来たわけじゃないから道具も無くて、量もそんなでもなかったから三人で手でね」
「そんな簡単に見分けられるもんなのか」
「色が全然違うのよ。稗は米や麦と違って明るい黄緑色なの」
恵美が一房手に取って、すぐ目の前の稲穂に突きつける。
比べると確かに、深い緑の稲穂に比べて恵美の持っている草は明るい黄緑色だ。
色を見比べて感心していた千穂は、ふと思い出して恵美を見上げる。
「へぇ……あ、鈴乃さん、晩ご飯の支度してます」
「え? そうなのか?」
千穂の答えに驚いたのは、恵美ではなく真奥だった。
そういえば先ほど出かける前に、家の中で姿が見えなかったが……。
「真奥さん達が下りてきたときは、ちょうど台所の裏口出たところに包丁研ぎに行っちゃったところで」
「どこの鬼婆だあいつは」
「本人に聞かれたら叩き潰されますよ」
和装の鈴乃が山間の古い屋敷裏でしゃーこしゃーこと包丁を研いでいる図は、ある意味なかなか古式ゆかしい光景かもしれない。
「私から本人に伝えておくわ。多分今日の真奥の夕食は無しね」
「ぱぱ、ごはんなし!」
千穂が上げたセンタリングは最悪の形で恵美とアラス・ラムスに渡り、それが狂気のパスワークを見せはじめる気配を察した真奥。
「すまん、謝る撤回する。だからそれだけは」
「あははー、やっぱり奥さんと子供には頭上がらないんだねー」
恵美とアラス・ラムスに真剣に手を合わせて頭を下げる真奥を見て笑う陽奈子。
「陽奈子姉ちゃん……」
その隣で口をむすっと引き結んで小さく抗議したのは千穂だ。
「うん、千穂ちゃんのそーゆーとこ見たくて、わざと言ってるとこある」
「もう!」
「ごめんごめん、あ、そういや遊佐さん、一馬は?」
陽奈子はふと、先ほどまで恵美と一緒にいたはずの一馬の姿が見えないことに気づき周囲を見回した。
「下の方の排水用の水路でゴミが詰まってて、今それを掃除してます」
「ゴミ?」
「はい。いくつかの堰で木くずとか木の皮みたいのがいっぱい入り込んでるみたいなこと言ってましたけど」
「そっか。なんだろ、この前も掃除したはずだけど……」
陽奈子は立ち上がって、目の前の田から一馬がいる下の田に続く水路を軽く見やる。
水田の水というものは川から直接取っているわけではなく、地域で一つの上水道を共同利用し、給水栓から水を引くという形になっている。
それだけに排水路の詰まり、というのは自分の田の被害という点もさることながら上水道にも影響するため、それぞれの家で定期的な管理が欠かせない。
そしてその視線が、先ほど真奥達がやってきた排水路の起点でもある川のすぐ近くまで行った瞬間だった。
「……っ!!」
陽奈子の顔色が変わり、緊迫したように息を吞む。
「ど、どうしたの陽奈子姉ちゃん……?」
その尋常ならざる様子に、千穂は心配そうに声をかけるが、しかし陽奈子は答えない。
「う? ……うー」
だが、抱えた一志を強い力で抱きしめると、青い顔で再び身を低くした。
「み、み、皆、落ち着いて、大きな声、出さないで。身を低くして、お願い」
陽奈子の震える声は、やはり尋常なものではなかった。
「どうしよう、どうしたらいいんだろう、一馬ぁ……」
「ひ、陽奈子姉ちゃんしっかりして、一体どうしむぐっ!」
一志を抱きしめて震える陽奈子の異常さを感じ取った千穂がその背に手を当てて声をかけようとしたのを、
「千穂ちゃん、静かに」
恵美が、口を塞いで止めた。
そしてそのままゆっくりと千穂の頭に手を当て姿勢を低くさせる。
「なんだ、どうした……」
その低い声に、真奥と芦屋も緊張して千穂と陽奈子に倣い姿勢を低くする。
恵美は自分も姿勢を低くしながら、陽奈子が見ていた方向に視線をやると、短く言った。
「熊よ」
「なっ……!」
「えっ……」
「く、ま……?」
真奥と芦屋と千穂は、はっとなって稲穂の隙間から川の方向に目を向けた。
姿勢を低くしているのではっきりとは見えないが、確かに、何か黒いものがうごめいているのが見える。
「く、熊ってあの熊ですか?」
他にどの熊があるのか分からないが、千穂の問いに頷こうとした恵美は、ふと、アラス・ラムスを抱き寄せる。
「そう、この熊よ」
アラス・ラムスの麦わら帽子に縫い止められているリラックス熊を指さしてみせた。
すると、それを横目で見ていた陽奈子が、
「あは……あはは……」
怯えながらも、少しだけ微笑んでしまう。
「少し落ち着きました?」
「ううん、全然、でも、ありがと。ちょっと、しっかりしなきゃって思った」
恵美の機転で、どうやら陽奈子は急激なパニックからは抜け出したようだ。
「良かった」
恵美は安心させるように微笑むが、すぐに顔つきを厳しくして稲穂の間から少しだけ様子を見て、それからゆっくりと陽奈子に問いかける。
「今まで、熊が出たなんてことはあったんですか?」
「し、知らない。私は聞いたことない。一馬もそんなこと一言も……」
そのとき、一馬の名を聞いて全員がハッと顔を見合わせる。
「……おい芦屋、お前、下の方にいる一馬さんに知らせてこい」
「了解しました」
芦屋も真剣な顔つきで頷いて、身をかがめたままゆっくりと動く。
「でも確か熊って、人間の気配を感じたら逃げるんじゃありませんでしたっけ? だから山を登る人は鈴とかつけるって……」
「だと、いいんだがな」
千穂は冷静に自分の記憶を引き出すが、それを真奥と恵美が否定する。
「陽奈子さんが聞いたことないってことは、多分遠くからやってきたんでしょうけど……」
「瘦せてんのはそのせいか」
「もし餌を探してるんだとしたら……ちょっと面倒かもね」
真奥と恵美は、姿を現した獣を見て、口々に言う。
それは間違いなく熊だった。
四足でゆっくり歩いているため体長は判別できない。
熊、と聞いてイメージできる大きさよりはむしろ小さくも見えるが、それでも先ほどのハクビシンなどとは比べようがない。
立ち上がれば、真奥より少し大きいくらいだろう。
黒い体毛に覆われてはいるが、遠目にはっきり分かるほど瘦せている。
餌を求めて長旅の果てにこの地域に迷い込んだとすれば、迂闊に刺激すれば人間を敵とみなして襲ってくる可能性も無いとは言えない。
「追い返すのが無理なら、近づいてこない間にゆっくり逃げちゃえませんか? 芦屋さんの後を追って、一馬兄ちゃんと下の道に逃げて、警察とかに連絡すれば……」
「それが一番いいかもね」
千穂の提案に恵美が頷き、真奥もそれに同意する。
千穂が陽奈子に比べて落ち着き払っているのは、それこそ熊が出ようがライオンが出ようがティラノサウルスが出ようが、所詮真奥や恵美の敵ではないことを肌身に感じて知っているからだ。
「ち、千穂ちゃん、凄いね。わ、私なんか足震えて立てなくなってるのに……」
そんなことを知らない陽奈子は、夫の年下の従妹の冷静さと豪胆さに驚くばかりだ。
「そ、そんなことないよ。私も怖いよ」
自分でも若干白々しいと思いつつも、千穂は首を横に振った。
「それじゃ、ゆっくり逃げるわよ。真奥、アラス・ラムスをお願い。千穂ちゃんは一志君を。陽奈子さんは私が支えるから」
恵美の号令で全員が頷く。
「よし、アラス・ラムス、しー、だぞ」
「ぁぃ、しー」
アラス・ラムスは自分で自分の口を押さえると、力強い瞳でぱぱを見返して頷く。
「ご、ごめんね遊佐さん」
「大丈夫ですよ、焦らずゆっくり……」
恵美は陽奈子の肩に手を添え、陽奈子は申し訳なさそうに恵美を見上げる。
そして、その陽奈子から千穂が一志を受け取ろうとしたそのときだった。
「うー!」
それまで大人しかった一志が、突然グズりはじめたのだ。
空気が凍る。
「ひ、ひーくん、しー、しーよ」
「うー! ううぅー!」
焦った千穂が一志をあやそうとするが、一志は収まらない。
一志なりに、周囲の大人達の緊迫した様子は察していたのだろう。
それでも今の今まで母親の陽奈子の胸に抱きしめられていたから落ち着いていたが、突然その母から離されそうになって、不安が一気に増したのだろう。
「ひ、一志、お母さん大丈夫だから、お願いだから静かに……」
「うぅぅ~!!」
なかなか立ち上がれない陽奈子の懇願も虚しく、千穂の腕の中で母を求めてばたばたと暴れはじめた一志が、
「いぇぁぁぁぐむぐぁぇぁ~~!!」
大声で泣き出してしまったのだ。
慌てて千穂が口を押さえるが、
「マズいわ! 気づかれた!」
手遅れだった。
田を挟んで対岸にいたはずの熊が、一志の泣き声に気づいてこちらに近づいてくるではないか。
「う、うそ……」
「ひーくん、お願い、静かに……」
「やべぇな、ありゃ」
真奥も熊の接近に気づいて顔を顰める。
普通の熊なら、人間の気配を感じ取ると、姿が見えないうちは身を隠すか逃げるはずだ。
だが、接近してくる熊は大きく口を開けて荒い息を吐き、涎を垂らしているように見える。
「ちーちゃん、一志君と陽奈子さん連れてなんとか一馬さんと芦屋と合流しろ。ここは俺と恵美が引き受ける!」
「えっ……あ、は、はいっ!」
千穂は疑問を差し挟むよりも早く、二人の意図を理解した。
もはや隠れていても意味は無い。一志の泣き声は千穂が必死に口を押さえても当然漏れ聞こえて、熊も田んぼに分け入りながらこちらに真っ直ぐ向かっているのだ。
「行くぞ、恵美」
「分かった」
恵美も、真奥の意図を察し、そして、
「「っ!!」」
二人は揃って立ち上がった。
その瞬間、熊が驚いて足を止める。
千穂はそれを見逃さず、左手に一志を抱え、右手で陽奈子の肩を支えながらその場から離れようとする。
「陽奈子姉ちゃん、行くよ!」
何度も真奥と恵美の隣で異次元の戦いを目の当たりにしてきた千穂である。熊程度の相手でしり込みしている場合ではない。
「え、で、でも、二人は、アラス・ラムスちゃんは……!」
「いいから、転んでもいいから! 今ひーくんを守れるのは陽奈子姉ちゃんしかいないんだよ! しっかりして!」
「う、うん、わ、分かった」
陽奈子は真奥と恵美を心配そうに振り返るが、千穂の強い力に引かれてゆっくりと、だが少しずつ二人から離れてゆく。
熊は千穂達の動きには気づいているのだろうが、唐突に現れた真奥と恵美を警戒して動けないでいるようだ。
「日本の熊も、にらめっこするとビビるんだな」
「これで向こうが逃げてくれればいいけど……」
山中で熊と対峙したときにやってはいけないのは、背を向けて走り出すこと。
そうすると熊は相手を獲物と認識し襲ってくるのだ。
本来なら睨み合ったまま後退して熊の視界から外れるのが一番なのだが、目の前の熊は、一志の泣き声に引き寄せられている。
ここで恵美と真奥が退いてしまったら、千穂達が危険に晒されることになる。
「アラス・ラムス、大丈夫か?」
真奥は熊を睨んだまま、抱っこしているアラス・ラムスの髪を撫でる。すると、
「しー、なの」
律儀にも、アラス・ラムスはこの期に及んで自分の手で自分の口を押さえたままである。
「余裕あんなぁ。将来が怖い」
こんなときだというのに、真奥は苦笑してしまう。
「臭い平気か? 臭くないか?」
だが恐怖は感じなくても、大型野生動物特有の体臭は感じるだろう。
真奥も恵美も、熊特有の獣の臭いに辟易としつつあるのだが、
「くしゃぃ」
アラス・ラムスは正直にそう言うと、また口を押さえて真奥の胸に額を当てる。
真奥は思わず苦笑して娘の髪を撫でながら、すぐに気を引き締めて熊を改めて睨む。
「さて、どうしたもんか」
「これで逃げ帰ってくれるのが一番なんだけどね……」
恵美は視界の端で、千穂と陽奈子と一志が稲穂の陰を抜けつつあるのを捉える。
もう少し行けば水路脇の斜面に辿り着いて、そこから一馬と芦屋がいる場所まで一気に逃げられる。
「魔王、皆もうすぐ。そしたら」
「分かった」
熊は相変わらずその場に立ち止まったまま荒い息を吐いているが、時折睨み合いに飽きたように二人から視線を外すようになった。
それが逃げる兆候なのか他の何かに気を取られたのかどうかは分からないが、恵美と真奥は新しい行動の前兆と警戒し、会話をお互い最低限に絞る。
不本意ながら、二人ともそれだけで通じるほどに生活を共にしているのだ。
そして真奥も恵美も熊から視線を外せないので気づくことは無かったが、そんなお互いの通じ合いっぷりに気づいた瞬間、双方の表情の険しさと迫力が二割ほど増した。
そのときだった。
「お」
己を呪う二人の鬼の形相が効いたのかどうかは定かではないが、熊が背後を振り返り、のそりと後退する気配を見せたのだ。
どうやら諦めてくれたようだ。
後で警察や地元の猟友会に通報する必要はあるだろうが、少なくともこの場においては、それが熊にも人間にもベストな展開である。
そう、理想通りに進むはずだった。
「ん?」
「え?」
その音は、唐突にやってきた。
それがなんなのかに気づいて、真奥と恵美は顔を強張らせるが、今度はその表情も役には立たなかった。
真奥達が歩いてきた道の向こうから、車の音が近づいてくるのだ。
申し訳程度に舗装された道幅いっぱいに、車幅のある随所にごてごてとパーツを付け足した大型のRV車が結構なスピードを出して接近してくる。
折角身を翻しかけていた熊は、その音に気づき唸り声を上げはじめた。
「おいおい、なんだありゃ。佐々木家の車じゃねぇぞ?」
決して広くない道をハイスピードで走ってくる、田舎道に似合わぬ真新しい黒のRV車は、何を考えているのか、明らかに熊を確認した上でクラクションを鳴らしたのだ。
「なっ!?」
「噓でしょっ!?」
これにはさすがの真奥と恵美も面喰らってしまう。
RV車の運転席から熊を視認しているなら、、真奥達の姿が見えないはずがない。
迂闊に熊を刺激すれば、真奥や恵美が襲われてしまうだろうことは十分予想できるはずだ。
そして、誰もが恐れていた事態が起こった。
猛進するRV車のパワーのありそうなエンジン音とクラクションに恐慌をきたした熊が、せっかく真奥と恵美との睨み合いを中断して退散しかけていたのに、車とは反対側、すなわち千穂と陽奈子と一志が逃げた方角に向かって走り出す。
「やべぇっ! ちーちゃん陽奈子さん逃げろ!」
真奥の叫び声が飛ぶが、明らかに遅かった。
少しだけ遠く離れた分、異常に気づくのが一瞬遅れた千穂達に、熊は既に肉薄していた。
足元の悪い水田を突っ切っているのに、恐るべき速度だ。
熊の急接近にようやく気づいた千穂も、顔を強張らせる以外何もできない。
「真奥さんっ!」
「一馬あっ!!」
千穂と陽奈子の悲鳴が上がり、全てが手遅れのように思えた、次の瞬間。
「……あ、あれ?」
陽奈子を抱きしめて思わず目を閉じてしまった千穂は、何も起こらないことに気づき薄く目を開ける。
熊のきつい臭いが周囲に充満していて、決して危機は去っていない。
だが、
「ふ、ううっっ!!」
千穂と陽奈子のすぐ傍で、大きく気合いを入れる呼吸が聞こえた。
「な……んで、こう、なるのよっ!!」
翻る長い髪と、土にめり込む細い脚。
千穂とさして変わらず、陽奈子よりも小柄な恵美は千穂達を背に庇いながら、
「ゆ、遊佐さんっ!?」
「ひ、え、あ、な、何が……って」
「ひ、陽奈子さんは見ないでくださいっ!」
「ええええええええええええええええええええ!?」
警告も虚しく、陽奈子は衝撃の光景を目の当たりにする。
「ふぐるるるるるるるるる……っ!」
「こ、の……大人しく、してっ!!」
恵美が、突進してきた熊を、真正面から受け止めているのだ。
「ち、千穂ちゃん、早く離れてっ!」
「あ、え、あ、はい、ひ、陽奈子姉ちゃんほら」
「う、うん? え? あ、うんでもあれ大丈夫なの!? なんなの? どういうことなの!?」
「今は気にしちゃだめ! いいから早く!」
熊の全速力の突進を、都会のOLががっぷり四つで受け止められることについて、合理的に説明できる気がしない。
焦った千穂は陽奈子が立ち上がるのを待たず、半ば引きずるようにしてその場を離れる。
「え、恵美! 大丈夫か!?」
「大丈夫じゃ……ないわよっ! どうすればいいのよもうっ! っせいっ!!」
真奥の声に喚き声で返事した恵美は、腰に力を入れると、正面から熊の肩を摑み、気合一閃、四肢を大地に張っている熊をパワーだけで押し返す。
「ぐふうっ!」
押し返された熊は、唸りながら恵美と押し合う力を支えにして、なんと上体を起こして立ち上がろうとするではないか。
「く……し、しぶといわねっ!」
人という字は、熊と異世界の勇者が支え合ってできている字ではない。
だが結果として、恵美と熊は前のめりになりながら、お互いの腕を支えに組み合う形となってしまう。
「ままー! がんばれー!」
「魔王! ぼけっと見てないでアラス・ラムスをちょっとこの場から遠ざけて!」
恵美は悲鳴を上げる。
深刻な非常事態のはずなのに、熊との相撲を娘に応援されては母親というより女性としていたたまれない。
が、神はそんな恵美を即座に見放した。
「陽奈子っ! 一志っ!! 無事かっ!!」
水路の下の坂から聞こえてきた一馬の声に、恵美は絶望と共に項垂れた。
「か、か、かず、一馬、あの、熊と、遊佐さんが、あの、えっと」
一緒に混乱した陽奈子がなんとか状況を伝えようと四苦八苦する声も聞こえる。
「げっ!?」
後から一馬に追いついてきた芦屋は、水田という名の土俵で繰り広げられる大一番を見て、思わずうめき声を上げた。
「あ、芦屋さん! 一馬兄ちゃん達を……!」
「あ、は、はいそうだ、あの、陽奈子さんと一志君は無事だったんですから皆さんとりあえずここから離れて……!」
恵美と熊の取り組みに絶句した芦屋を千穂がせっつき、なんとか三人をこの場から遠ざけようとする。
「で、でも遊佐さんが! 遊佐さんがあれじゃ!!」
だが今度は一馬が譲らない。
それはそうだろう。男だって熊は怖いが、だからと言ってか細い女性が熊に組みつかれている状況を放置して逃げることなどできはしない。
だが、芦屋と千穂にしてみれば、そうしてもらわねば困るのだ。
芦屋は大きな体を使って必死に一馬と陽奈子の視界を遮ろうとするが、その背後では、恵美と熊が組み合ったままお互いのバランスを崩そうと、所狭しとすり足で動き回りはじめている。
「一馬兄ちゃん! 大丈夫だからとにかく電話! 警察と猟友会! 遊佐さんは真奥さんが守るから! そうですよね真奥さん!!」
「…………あ、そ、そうか、え、恵美ー。大丈夫かー!」
「気が散るからあなたは黙ってて! このおおおっ!!」
千穂のほとんど金切声に近い声に一馬は気圧され、真奥はなんとか場を誤魔化すために棒読みのセリフを吐き、恵美がそれを突っぱねる。
水や泥が撥ねまくり、稲は薙ぎ倒され、それでも東京からやってきたOLは、熊相手に一歩も引かないどころかむしろ相手を土俵際まで追い詰めようとしていた。
その間、芦屋と千穂は、陽奈子をほとんど引きずるようにして下の方の田まで遠ざけた。
「ゆ、遊佐さ────ん!!」
陽奈子の悲痛な叫びが耳に届くが、恵美こそ悲痛な声を上げて泣きたい気分だ。
素手のまま熊相手にこんな大一番を繰り広げては、もはやどんな言い訳も通用しまい。
「え、恵美っ! 今だ! 一馬さんと陽奈子さんいなくな……」
「やることないなら黙ってて! もう! どうしてこうなっちゃうのよっ!!」
優勢のはずの恵美は完全に涙目になりながら、ふと顔を上げる。
そのとき、熊と思わず目が合った。
耐え難い獣の臭いと呼気に顔を顰めずにはおれないが、その顔は、最初の印象以上に瘦せていた。
恵美と組み合う腕も、摑んだ手先から熊の骨格が察せられるほどに細い。
飢えて、いたのだ。
そしてこの熊にとって、藁にもすがる気持ちで食糧を求めてどこからか旅をしてきたのだろう。
「……ごめんね」
熊の身の上には同情の余地は多々ある。
だが、恵美は人間だ。
今この場においては、日本に暮らし、人間社会の営みの中に立って生きる、遊佐恵美という一人の人間だった。
そして人間社会に害を為そうとする者は、排除されねばならない。
恵美は熊の反応速度をあっさり凌駕する速度で、ふっとしゃがみ込んで熊を支えていた体重を外す。
だが支えを失った熊の前足が、再び大地を摑むことはなかった。
懐に飛び込んだ恵美の右の拳の一撃が、熊の下顎にクリーンヒットする。
脳を揺らされて、熊は悲鳴すら上げることはなかった。
だが恵美の攻撃はそれでは止まらない。
熊の体は恵美の細腕から繰り出されたアッパーカットで浮き上がる。
恵美は伸び上がった腕を体の横まで引くと、がら空きになった熊の胸の中心目がけて、返す右手で掌底を打ち込んだ。
「うへぇ……容赦ねぇなぁ」
掌底がヒットした瞬間、熊の体が、物理的な衝撃ではありえない痙攣を起こす。
恵美が掌底を打つと同時に、聖法気のエネルギー塊を撃ち込んだのだろう。
だが、
「しぶといわね……」
熊は、尚も立った。
まるで命を燃やし尽くすかのように、手加減されていたとはいえ、異世界の勇者の技をその身に受けて尚、熊は立ち上がった。
「ぐるおおおおおおおお!!」
決死の咆哮と共に、熊は恵美に渾身の一撃を加えんと腕を振りかぶる。
恵美は、その腕を難なく受け止めると、流れるような動作で熊の腕の毛を左手で摑んだ。
思いきり自分の方に引きつけ、右手で胸倉を摑む勢いで更に引きつけ、
「はああああっ!!」
上体のバランスが崩れた熊の全体重を、自分の肘、背、腰で浚い上げ、
「うおおおおお!!」
見ていた真奥が歓声を上げてしまうほど見事な一本背負いを放った。
熊の黒々とした巨体が田の水を撥ね上げ、青い空に弧を描いた。
轟音を上げて熊は背中から大地に落ち、その衝撃で田の水と泥が激しく飛沫を上げる。
「はぁっ……はあっ……もう、起きないでよ」
熊はまだ生きてはいるようだったが、もはや背負い投げされた形で気絶したようだ。
恵美は熊の沈黙を確認し、大きく息を吐き、ようやく緊張を解く。
が、
「ゆ、ゆ、遊佐さん?」
後ろからかけられた声に、すぐさま背筋を伸ばして顔を強張らせる。
恐る恐る振り向くと、そこには恵美の背と、恵美の目の前に倒れている熊をこれ以上ないほど見開いた目で見比べている陽奈子と、武器にするつもりだったのだろうか、頼りない木の棒を構えた一馬の姿があったのだ。
「あ、あの……これは、その」
恵美は戦いの余韻によるものではない汗を滝のように流しはじめる。
「ゆ、遊佐さん今、そ、その熊、えっと」
「ち、違うの一馬さん! そ、その、違わないけど私は何も特別なことはそのあのえっと」
「……な、投げ……」
背負い投げを、見られていた。
そのとき一馬の後ろから棒を持って芦屋が現れ、それから千穂も顔を出す。
二人とも申し訳なさそうな顔をしているのは、一馬を止められなかったからだろう。
芦屋が棒を持っているのは、要するに一馬と共に恵美を助けにきた体だからだ。
それが最悪のタイミングだったのは、一馬の目が、背負い投げされた熊の最高到達点である空を見ていたことからも明らかだ。
恵美はもう完全に涙目で、
「してないそんなことしてないわ熊が足を滑らせただけよ私は本当に逃げ回ってただけで命からがらだからあのその真奥! 芦屋! 千穂ちゃん! なんとか言って!」
奇妙なダンスでも踊るような仕草で熊の毛がこびりついた袖を拭いながら、恵美は顔を真っ赤にしてなんとか言い訳しようとするが、例え背負い投げの瞬間を見られていなかったとしても、熊の毛だらけの恵美の足元で熊が倒れていれば誰がどう見たところで、
『恵美が熊を倒した』
としか思えない。
恵美らしくもなく真奥や芦屋にも素直に助けを求めたが、もちろん二人は一馬を納得させるだけの解説ができるはずもなく、千穂も明後日の方向に目をそらしている。
そして、
「まますごいの! くまどーんて!」
アラス・ラムスの一言で、全てが終わる。
それは駒ヶ根の佐々木家に末代まで語り継がれることとなる『熊殺しの遊佐恵美伝説』が誕生した瞬間であった。