はたらく魔王さま!SP

魔王と勇者、佐々木家を守るために立ち上がる

「おーい、見てみろよこれ!」

 マウスをひっきりなしに動かしながら、漆原は楽しそうにパソコンを操作する。

「……」

「地方紙はもちろん、全国紙の地方欄にも扱いは小さいけどばっちり載ってるよ!」

「……」

「いやー、これ本当、写真撮られなくて良かったな! ちょっと都市部に行ったら余裕で携帯で写真撮られて、あっという間に拡散してるよ」

「……」

 楽しそうにしている漆原とは対照的に、頭を抱えたまま部屋の隅でうずくまっているのは、当然のことながら恵美だ。

 漆原の挑発しているのか本気で喜んでいるのか分からない言葉に言い返す気力すら無く、ひたすら頭を抱えて唸っている。

 いるはずのない熊が人里に下りてきた、というのは場所が場所なら全国ニュースで報道されるほどの一大事だ。

 それこそ自然保護、動物保護などの観点からその日一日は論争が起こる展開だが、今回はくっついているオマケが壮絶すぎて、本来の問題は霞んでしまっている。

「えー、何々? 『駒ヶ根市に下りた熊を倒したのは、農業手伝いの女性(23)。体長二メートルの雌の熊相手に睨み合いでも一歩も引かず、一喝してひるませたところを拳で一撃、気絶させたという。』これ、スポーツ紙のサイトのコラムね」

「いい加減なこと書かないでよ! 散々競り合った末に投げ飛ばしただけよ!」

 恵美もようやくささやかな反論を試みるが、そんなことを言っても記事を書いたマスメディアにも、その向こうの読者にも届かない。

「そっちの方がよっぽど凄いだろ」

 漆原はあっけらかんと笑う。

 一方でそんないい加減な話が誌面を賑わしているのは、真奥達はもちろん、一馬や陽奈子も外部に何も漏らしていない、ということでもある。

「それから……『ただし本来ならば登山などの際に熊と遭遇したら、睨み合ったままゆっくり後退し、安全を確保してから警察や猟友会に通報するよう、読者諸氏には注意を促したい』だってさ」

「私だってそうしたかったわよっ! 大体私の年齢が二十三て何よ! 分からないこと適当に書くとかどうかしてるんじゃないの!?」

 恵美は漆原に嚙みつく。

 昼間の熊騒動は、市内はもちろん長野県全体でもちょっとした騒ぎになった。

 県全体で見れば熊が人里に出没した例は無いではないが、それでも駒ヶ根市の佐々木家周辺地域では初めてのことだったし、熊が通過したと思われるルート上の自治体も、市民に大いに警戒を促した。

 佐々木家の通報を受けてやってきた警察と猟友会は、当たり前のことだが、女性が一人で熊を倒したなどという話を信じなかった。

 だが稲穂以外何も無い水田で熊が倒れているのは事実であり、一体どういう理由でこの熊はこんな所で気絶したのか、と考えると、その場にいた人間がなんとか対抗した、としか考えられず、最終的に警察は『住民が適宜対処して捕獲』と発表した。

 怪我人はおらず、熊も死んではおらず、熊出没事件としてはいささかセンセーショナルさに欠けることもあってすぐに忘れ去られるかと思いきや、事件のあったその日のうちに、地方新聞の記者や週刊誌、スポーツ紙の記者と名乗る連中が佐々木家近辺に出没しはじめたのだ。

 警察発表では事実として認識されてはいないものの、どこからか現場にいたのが若い女と子供連れの男一人だったということが漏れたらしい。

 やがて、熊を倒したのは若い女性、という話だけがネット上で独り歩きをしはじめ、結果、恵美は漆原と一緒に佐々木家の二階に引きこもらざるをえなくなってしまったのだ。

「そもそもね! あのフザけた車があんな馬鹿なことしなければ、私が熊と戦うことになんかならなかったのよ! どこかに書いてないの!? 事件を誘発した車のことは!」

 駆けつけた警官には、熊を驚かせた謎の黒いRV車のことはもちろん話している。

 だが、車に詳しくない恵美達にはなんとなくの形と色くらいしか伝えることができず、ナンバーを見る余裕も無かったため、悪質性は高いものの検挙は難しいだろうという非常に腹立たしい答えが返ってきた。

「いや? どこもかしこも金太郎ばっか」

「誰が金太郎よっ!!」

 恵美は腹立ちまぎれに、部屋の隅に重ねられていた座布団を一枚ひっ摑んで漆原に投げつける。

「その怒ると物投げつけるクセやめろよな! それに熊を投げ飛ばしたのは本当なんだろ」

 背中に座布団を思いきり食らって、漆原は口を尖らせる。

「いいじゃんいいじゃん。佐々木陽奈子と子供が無事だったんだからさ」

「その腹立たしいニヤニヤした笑いをやめてから言えば、素直に頷けたわよっ!」

 座布団二枚目。だが漆原は堪えない。

 とそこに、

「何を騒いでいるんだ」

 三角巾を被った鈴乃が、部屋の襖を開けた。

「半蔵殿、いい加減恵美殿をからかうのはやめろ。もう万治殿があらかた記者を追い払ってくれたし、そもそも長続きするような話題ではない」

 鈴乃は部屋の様子を見て、漆原と恵美の間に何があったかすぐに察したようだった。

 それと同時に、恵美と漆原もあることに気づく。

 鈴乃が、自分達を日本の名で呼んでいる。誰か、すぐ傍にいるのだ。

「……一馬殿、良さそうだ」

 果たして鈴乃の後ろから現れたのは一馬だった。

「すまん、ちょっといいか」

 一馬は言うと鈴乃に促されて部屋に入ってきて、恵美の前に座る。

 鈴乃は襖を閉じるとその後ろに正座した。

 一体何が始まるのかと思いきや、突然一馬が物凄い勢いで頭を下げたのだ。

「本当に、本当に、陽奈子と一志を守ってくれて、ありがとう!」

「あ、ど、どうも」

「念のために陽奈子は病院行ったけど、転んだときの擦り傷だけでなんともないそうだ。本当に、本当にありがとう!」

「陽奈子さん、そう……良かった」

 恵美の胸にあるのは、陽奈子に大した怪我が無いことを喜ぶ気持ちが半分、もう半分は一馬が次に何を言い出すのかという不安だ。

 地球の常識で考えれば、弱っているとはいえ生身の人間が熊を相手に徒手空拳で戦った上に投げ飛ばせる道理は無い。

 そのことが、一馬の中でどう咀嚼されているのだろう。

 だが恵美側からそれを突っ込むのも何かおかしい気もするし、どうするか悩んでいると、

「ところで、本当に遊佐さんは病院に行かなくていいのか?」

「え?」

「走ってくる熊を正面から止めたんだろう?」

「ぶっ!」

 投げ飛ばしたどころの話ではなかった。

 当然の流れかもしれないが、陽奈子は熊と恵美の取り組みの立ち合い部分から全て包み隠さず話したらしい。

「だ、大丈夫ですよ。お風呂は借りたし、着替えもありましたから」

 慌てた恵美は、全く答えになっていないことを答える。

 実際のところ、恵美の被害といえば全身に熊の臭いが染みついてしまった程度なのだ。

「そうか……でも、本当に後から体に何か異常があったら、絶対にこっちに言ってくれよ? できる限りのことをさせてほしいから」

「は、はい。じゃあ、そのときには」

 恵美はどうにか笑顔を作って頷く。

「それじゃあ、遊佐さんはゆっくり休んでくれ。遊佐さんの分は真奥さん達が頑張ってくれてるし、今日の遊佐さんは佐々木家の英雄だからな」

 またひとしきりお礼を言って、恵美の手を握ってまた頭を下げてから、一馬は去った。

「……ふぅ、まぁ、これなら大丈夫だろう」

 一馬が階段を下りる音を聞きながら、彼がいる間ずっと一馬を見続けていた鈴乃は大きく息を吐く。

「エミリアが倒した熊は『飢えて体力の無い年老いた熊だった』ということらしい」

「え? どういうこと?」

 恵美は首を傾げる。

 確かに飢えた熊ではあったろうが、体力の無いとか老いたということは、あの熊には当てはまらないような気がする。

「なるほどね、そっちで整合性を取るわけか」

 だが漆原は、鈴乃の言葉に納得した様子だ。

「そりゃ都会のOLが格闘の末に背負い投げで熊を気絶させたなんて言うより、まだそっちの方が納得できるもんね」

「そういうことだ」

「ああ……」

 つまり恵美が人間として異常な強さを持っているわけでなく、熊が元から瀕死で、恵美の必死の抵抗が偶然功を奏した、という筋書きで全員が納得した、ということだろう。

 実際は瀕死の野生動物の力というものは決して侮れないのだが、世の中がそう納得したのならそれに越したことはない。

「でも、世の中はそれで良くても、一馬さんや陽奈子さんは目の前でそれ見てるのよ?」

 恵美が不安なのは、どちらかといえばそのことだ。

 実際に見た人間が抱いたインパクトは、文章で伝わる以上のものだったはずだ。

 すると鈴乃は、複雑な表情で頷いた。

「一馬殿が何を言い出すかによっては、千穂殿には申し訳ないが記憶操作も辞さないつもりでいた」

 それで鈴乃は、じっと一馬の後ろで座っていたのか。

「だが一馬殿も陽奈子殿も、外はもちろん『遊佐恵美』の友人である私の前ですらエミリアの戦いの詳細を一言も話さなかった。二人が熊事件の全てを過去にすることにしたのなら、後から真実をうっかり誰かに漏らしたとしても、それはもはや酒宴の戯言にしかなるまい」

「そっか……」

 一馬と陽奈子がそうすると決めたなら、もう恵美の側からそれを掘り起こしてはならない。

 彼らと自分の、そして千穂との間にある絆を不確かなものにするからだ。

 恵美の、少しだけ寂しげな、それでいて安堵したような表情に、鈴乃もすっと目を伏せる。

「まぁ『熊殺し』の二つ名はエミリアにとっては不本意かもしれないが、佐々木家に事実と異なる記憶を……」

「ちょっと待ってベル。何、その『熊殺し』って」

「刷り込むよりはいい……うん?」

 一馬や他の佐々木家の面々に、不審な思いを抱かれずにホッとしたのも束の間、降って湧いた物騒な二つ名に恵美は目を剝き、

「ぶふっ、く、熊殺しって……」

 漆原が噴き出す。

 鈴乃は恵美の剣幕に一歩身を引き、

「い、いや、私は昼の事件を魔王とアルシエルから聞いたのだが、そのとき盛んに奴らがそう言うからてっきり……」

「まああああおおおおううう~~~~っっっ!!!!」

 恵美は先ほどまでの静けさから一転。

 瞳から憤怒の炎を吹き出しながら、この場にいない真奥に吼える。

「い、いや待て落ち着けエミリア! 魔王もアルシエルも今は家にいない! 先ほど万治殿と一緒に出かけた!」

 そのまま襖を蹴破って飛び出しかねない恵美を、鈴乃は慌てて制止する。

「離してベル! アラス・ラムスはどこにいるのっ!? まさか魔王と一緒にいないでしょうね!?」

「あ、アラス・ラムスは下の座敷で一志と一緒に昼寝している! 案ずるな!」

「案じるわよ! アラス・ラムスに『ままくまごろしー!』とか言われてごらんなさい! 私一生立ち直れないわ!」

「でも倒すとこは見られてるわけだろ?」

 漆原は冷静に突っ込むが、そういう問題でもないのだ。

「子供は語呂や語感を気に入ると、ずっとそれ言い続けるのよ! 魔王がアラス・ラムスに『熊殺し』とか言い出したその瞬間、魔王の首を刎ね飛ばしてやるわ!」

「どんな宣言だっ! 頼むから落ち着け!」

「何がそんなに嫌なんだよ。そもそもエミリアは最初から『悪魔殺し』だろ? 『熊殺し』なら、最初から頭取れてんじゃん」

「うまいこと言ったみたいな顔してるんじゃないわよ嫌に決まってるでしょ!! どこの世界に『熊殺し』呼ばわりされて喜ぶ女がいるって言うのよ! 大体悪魔殺しだって好きでやりはじめたんじゃないんだからっ!!」

 電光石火の動きといささか殺伐とした乙女心を発揮した恵美は、漆原に向けて三枚目の座布団を全力で投げつけ、顔にクリーンヒットさせたのだった。


         ※


「うっ……」

「どうした、真奥さん」

「あ、いや、ちょっと寒気が……」

「この暑いのにけ。風邪だけは引かんようにしてくれよ」

 梱包作業所の片隅で、真奥は正体不明の悪寒に襲われて身震いする。

「はい、これで最後です」

「はいよ、ご苦労さん」

 真奥は抱えた箱に入っていた最後の苗を、万治に手渡す。

 万治はその苗を丁寧に土に植え、大きく息を吐いた。

「さて、どうなることやら」

「うまく行くといいですね。これだけ植えたら、結構な量になるんじゃないですか?」

 茄子やキュウリの畑とは違う場所に連れていかれた真奥と芦屋。

 しっかり遮光されているビニールハウスの中には整然と畝が並んでおり、今日からここで、イチゴの栽培実験をするというのだ。

 夕方で、遮光がされていて、例によって風が流れるハウスとはいえ、基本的には蒸し風呂状態である。

 何度も汗を拭いながら作業をしていた万治は、立ち上がると大きく伸びをして凝り固まった腰をほぐした。

「まぁ、最初の内は自家用よ。数もこんだけじゃ売れんし、よっぽどうまく行って、外に出せるのは三年後ってとこじゃねぇか」

「万治さん、概ね草取り終わりました」

 そこに、芦屋が外から入ってきて声をかけてくる。

 芦屋はハウスの外。何も植わっていない畑の草取りをしていたのだ。

 万治曰く、イチゴの栽培が軌道に乗れば芦屋が草取りをした畑にハウスを増やして、生産ラインを確立させるのだと言う。

「でも、三年じゃ相当先ですね」

「うまくいかにゃ、場合によっては五年先かもしれねぇしな。どっちにしても俺はもうそろそろ体もきついで、後のことは一馬に任せてゆっくりしてぇんだけどもなぁ」

 朗らかに笑う万治。

 千穂の祖母であるエイが元気なので忘れがちだが、万治も既にお爺ちゃんと呼ばれる立場なのだ。

「でもまぁこんなこと言っとると由美子に怒られるで、内緒にしといてくれよ。このご時世、働けるだけありがたいんだからお父ちゃん文句が多いってうるせぇに」

「私も、日頃漆原にはそう言って聞かせているのですが……」

 万治の言葉が胸に染み入るのか、芦屋が遠い目をする。

「漆原さんは、もうちょっと体力つけにゃぁなあ」

 万治はまたそう言って笑う。

 一馬は何も言わなかったが、やはり傍目には漆原の仕事量は、はっきりと真奥や芦屋には劣っているのだろう。

「それでも働こうっちゅう気持ちがあるだけええ。今は働けるのに働こうとしない衆もおるっちゅうじゃねぇか。おやげねぇことよ」

「「……」」

 漆原もどちらかというと後者の部類なのだが、一応評価はしてくれているのだからそれをあえて落とす必要もないだろう。

「まぁ偉そうに言う俺も、一馬や由美子にはへぇかなわんぜ」

「そうなんですか?」

 聞き返すと、万治は苦笑いして頷く。

「うちは元々米農家なのよ。野菜は自家用しか作っとらなんだの。でも一馬が高校に入って親に手かけなくなったころから由美子が手を広げはじめて、いつの間にか俺が法人の社長とかいうでたまげちまって」

「へぇ」

 千穂や里穂からは、万治の代から法人化したということしか聞いていなかったが、あの底抜けに明るい女傑が動き回っていたとは。

「ほいで一馬も、お母ちゃんにほだされて東京の大学で経営とか農法とか勉強して、大学で会った陽奈子を連れて帰ってきて、事業を広げはじめたのよ。おかげで俺や親父……千穂の祖父にあたる人だけぇど……がやっとったころから、年商が三倍」

 万治は複雑な表情で指を三本立てる。

「年商三倍は凄いですね!?」

 真奥が勤めるマグロナルド幡ヶ谷駅前店も、常に日商前年比百パーセント越えを果たし、化物店舗などと言われることもあるが、年商で三倍となるとそれどころの騒ぎではない。

「まぁ、元が大したことなかったのよ」

 万治は苦笑する。

「大学の研究室とかけあって畑にならんところに実験用の太陽電池パネルを安く置いたり、俺達の時代じゃ考えられんけぇども農協を通さずに都内のレストランとかと有機野菜の直接売買する契約取ったり、昔は捨てるしかなかったクズ野菜を小銭程度だけどお金になるように引き取ってもらうようになったりとかな」

「ああ……先ほどの」

 最後のクズ野菜のことについて、芦屋が深く頷いた。

「昔は、ああいったものはどうしていたんですか?」

「本当に昔は燃やしたり埋めたり、あとは普通にゴミに出してたなぁ。それだけやっても未だにその場で捨てにゃならんものもあるに」

 最初の作業が始まる直前、一馬と陽奈子が紙屑を捨てるように茄子を捨てた衝撃の瞬間を、芦屋は忘れられなかったが、今日、その謎が解き明かされた。

 恵美も真奥に語ったクズ野菜というのは、収穫する度に、想像を絶する量が出るのだ。

 種や苗を植える時点で、全ての作物は出荷予定量よりもずっと多い収穫量を想定して栽培を始める。

 天候不順や台風などの自然災害、病気、他にもなんらかの事故でダメになる分を考慮してのことだが、それでも大抵の場合、商品規格に収まるものすら、若干余る。

 まして育ちすぎたもの、育ちきらなかったものを始め、様々な理由で出荷規格から外れた作物の量は、出荷する野菜の総量に迫る場合すらあるのだ。

 時にはA品と呼ばれる高水準の規格に合格した作物ですら、市場の動向や全国的な生産量などの数字次第で廃棄せざるを得なくなることもある。

 農家の規模によっては数百キロ単位で出る廃棄野菜を『もったいない』といちいち拾っているだけの余裕はどこにも無い。

 ここ数年は全国で廃棄野菜の活用法が模索されはじめているが、あくまで模索の段階であり、廃棄される野菜の総量を大幅に減らすには至っていない。

 イチゴ苗の定植作業に入る前、真奥と芦屋は万治と共に選果工場の裏手で、恐らくは太陽光発電施設で提携している大学と同じ所なのだろうが、とある大学のトラックに廃棄野菜を大量に積み込む作業を手伝った。

 なんでもその大学の研究室では、農産物から電気を作る実験をしているのだという。

 化石燃料や原子力発電に変わる新たなエネルギー生産の道を作ろうしているとのことだったが、科学に疎い真奥も芦屋も、何をどうすれば茄子やキュウリやトマトやキャベツやレタスから電気が生まれるのか、そもそも何故野菜が電気を生むと考えるに至ったのか、まるで分からなかった。

 もちろん大学は廃品業者ではないので、廃棄作物全てを引き取ってもらえるわけではない。

 有機肥料を作る業者や、廃棄品の中でも食品として無害なものは福祉施設などに安く卸したりと、農家も消費市場に出回らない方法でロスを削減しようと必死なのである。

「もちろん育てたこっちとしちゃ、美味いって人に食べてもらうのが一番なことは間違いないんだけぇどな。それでも丹精込めて育てたもんを自分で捨てて殺すよかどんなことでも役に立ってもらいてぇで」

 言いながら、万治はもう一度伸びをすると、

「ま、つまりはそんだけ忙しいで、俺ぁまだ引退できんちゅうことよな」

 そう笑って、道具の片付けを始める。

 その姿を見ながら、真奥と芦屋は嘆息した。

「食べ物を作る、というのは、大変なことですね」

「……そうだな。なんだか……」

「はい?」

「魔界が……俺が統一するまで、争いが全く収まらなかった理由が分かった気がする」

「……魔王様?」

 真奥の意識は、そう遠くもない過去へと回帰する。

 赤い大地に赤い空。

 真奥や芦屋達が生まれた魔界に満ちているのは、恨みと、狂気と、暴力だった。

 魔界に住む悪魔達は、特定の種族を除けば、生命エネルギーを得るために食事をする必要が無い。

 大気に満ちる魔力。それそのものが生きるための糧であり、暴力こそが全ての魔界で生まれる悲劇は、いつまでもその力で魔界全土を覆い尽くしていた。

「食い物を生まない世界は、社会を形成できねぇんだ」

 食べるために生きる。

 獣と魚を狩り、草や実を育て、それらを交換することこそ、最も原始的な人間の社会だ。

 だが、魔界の魔力は、誰かが生産したものではない。

 魔界にいる悪魔、全てが生きている限り得られる無限の力だ。そのはずだった。

「……仰ることは分かりますが、ですがそれは魔王様の責任ではございません。魔界は、我らの生まれるずっと以前から、そういう場所でした。その全てを救おうとした魔王様の尊いご意志を否定することは、誰にもできません」

「その尊かったはずの意志がちょっと視野が狭かったせいで、今こうなってんだけどな」

「失敗は成功の母とも申します」

「そう割りきれたらどんなに楽かねぇ」

「おーい、そろそろ帰るぜ、暗くなりはじめてるしな。帰って飯を食って、風呂に入ろう!」

 そのとき万治が声をかけてきて、真奥と芦屋は顔を見合わせる。

「ま、割りきれなくても腹は減るか」

「しかし、ここに来てまでベルの料理を食べることになるとは思いもしませんでしたね」

 結論の出ない複雑な思いを腹の底にしまって、二人は万治に促されてビニールハウスを後にする。



 三人が家に着く頃には、日が落ちかけていて、そこかしこから夏の虫や蛙の大合唱が聞こえはじめていた。

「ん? なんだ?」

 ライトバンを運転していた万治がふと、前方を見て声を上げた。

 家の前に、佐々木家のものではない軽トラックが止まっている。

 玄関の明かりもついていて、誰か来客だろうか。

 玄関をくぐると、そこには精悍な顔つきの老人が立っていて、玄関に由美子が出てきて何か応対をしていたようだ。

「あれ、どうもお世話様です!」

 万治は老人の顔を見て軽く頭を下げた。

「やい万治さん、ちょうど良かった。由美子さんにも話してたとこなんだけぇど」

 振り返って言う老人の顔が暗いのは、決して玄関の明かりが逆光になっているからだけではあるまい。

 真奥と芦屋の姿を捉えたその瞳が、かすかに鋭くなる。

「……そっちの二人は? 見ない顔だけぇど」

「ん? ああ、例のことで東京から来てくれたアルバイトの真奥さんと芦屋さんえ。千一の紹介で。ああ、二人とも。こちら自治会長の恩田さん」

「どうも」

 真奥と芦屋は促されて軽く老人に会釈する。

「ほうか、千一さんの紹介じゃあ身元は確かっちゅうことか」

「身元?」

 日常生活では、物騒な話題のときにしか出ないような単語だ。

 真奥と芦屋は怪訝な顔をする。何か、初対面の余所者を警戒する理由があるのだろうか。

 最初の警戒こそ万治の紹介を聞いて解かれたものの、恩田老人は歴史を感じさせる深い眉間の皺を更に深くして言う。

「市内で畑泥棒が出た。もう何軒か、果物を中心にやられてる」

 その瞬間万治の顔が強張った。


         ※


「いやでも、不謹慎だけどあの瞬間は感動しちまった。なあ、芦屋もそうだろ?」

「仰る通りです」

 二階の真奥達の部屋。

 畳の上に車座になる、真奥、芦屋、恵美、アラス・ラムス、千穂、鈴乃、そして少し離れた所に漆原。

 日頃魔王城に集結するメンバー全員が久方ぶりに揃った席で、真奥と芦屋は感慨深げに語る。

「恩田老人の『身元は確か』の言葉で、私の日本での生活は、僅かですが報われました」

「初めてヴィラ・ローザ笹塚の部屋借りたときは、きっぱり『身元不確かな客』とか言われてたもんなぁ。それがちーちゃんの親父さんの紹介ってだけで一瞬で信用されるとは……」

「もう我々は、佐々木家には足を向けて寝られませんね」

「べ、別にそこまでしてもらわなくても……」

 千穂としてはそこまで持ち上げられても困ってしまうが、真奥の感動は止まらない。

「とりあえず笹塚のちーちゃん家とここの方角はきちんと調べておかねぇとな! んで恵美、お前なんでさっきから、アラス・ラムスを俺から遠ざけようとすんだよ」

「あなたが余計なこと吹き込まないようによ」

「あ?」

 恵美は先程から真奥が何かを喋る度に、アラス・ラムスの耳を塞ごうとするのだ。

『熊殺し』のワードを恐れてのことだったが、それを言うほど恵美も愚かではない。

 言えば真奥は絶対に面白がって言い出すに決まっている。

「大体そういうことなら、足向けられないリストに永福町の方角も入れておきなさい。私が昔、身元保証人になってあげたこと、忘れたわけじゃないでしょうね」

「いや、お前とちーちゃんちじゃ受けた恩が比べ物にならんし、大体それは貸し借り無しになった話だろうが」

「ゆ、遊佐さん? なんですか? 真奥さんの身元保証人って」

「あ、ち、千穂ちゃん? 違うのあのね、本当に最初の頃にこのバカ達があそこのニートとやり合ったときに私にさんざん迷惑を……」

「おい芦屋、帰ったら恵美のマンションの方向調べろ。意地でも足向けて寝てやる」

「は……しかし、その、そうするとアラス・ラムスにも足を向けることになりますが」

「じゃあ恵美の職場だ!」

「それは鈴木さんに申し訳がありません」

「……そろそろいいか?」

 どこまで行っても実りの無い、虚しさの極致の争いの中で、鈴乃の声が涼やかに、厳しく響いた。

 決して力のある声でもなかったのに、話の輪に全く入っていなかった漆原すら迫力に引かれて一瞬振り向く。

「今は、身元がどうとか話している場合ではあるまい。魔王、アルシエル。貴様らがそこまで佐々木家に恩義を感じているのならば、今直面している危機をなんとかすることを考えろ」

「ああすまん、そうだな」

 思いのほか素直に謝った真奥は、胡坐をかき直すと厳しい目つきで、先ほどの恩田老人の話の続きを思い出す。

 恩田老人は、市内で発生した果樹園や田畑の作物盗難について警戒するよう、各戸に呼びかけて回っている最中だった。

 被害に遭っている作物は、果物やスイカ、トマトなど、小売り単価が高いものばかりだと言う。

「佐々木家も、スイカとトマトを扱っていますね」

 芦屋がこれまでの作業を思い出しながら言う。

「でも盗んでまでトマトをどうにかしようなんて奴いるの? 果物とかと比べると、そんなに高額なイメージないんだけど」

 漆原がパソコンを叩きながら言う。

「一馬兄ちゃんが言ってたんですけど、ブランド野菜らしいんです。農協以外にも都内の一流レストランとかに直接卸してるとかで、そういうのが最近流行ってるらしくて」

「ふーん、トマトにブランドねぇ」

 漆原はピンとこないのか、首を傾げていたが、

「あった、これか。確かにニュースになってるね。扱いは小さいけど」

 目的のページを見つけたのか、パソコンを全員の前に押し出してくる。

「……犯行時刻が分からないってのは、痛いな」

 真奥が顔を顰める。

「場所が場所だしねぇ。大体どこも大きな畑抱えてて、隣の家との距離が歩いて十分以上離れてるようなとこだもん。監視カメラも無いだろうし、時間絞れって方が無茶だよ」

「だが、さすがに夜の間に限定はできるだろう」

 漆原の言葉を引き継いで、鈴乃が言う。

「この家の台所で働いていて気づいたが、ここは都内ではありえないほど地縁の結びつきが強い。訪ねてみえた近所の衆はもちろん、郵便局員や宅配便の者まで、私がこの家の者ではないと気づいて何者かと誰何してきたほどだ。いくら人気が無いとはいえ、昼間に人目につくリスクを考えれば、やはり夜が妥当だろう。佐々木家もそうだが、やはり農家は夜早い時間に寝静まってしまうからな」

「じゃあ、夜に見回りをすればいいんじゃないですか」

 千穂のシンプルな提案に、難色を示したのは恵美だった。

「口で言うほど簡単なことじゃないわ。相手の手口も、そもそも来るかどうかも分からないのに、丸一晩この広い土地を見回る労力は、並大抵じゃないわよ」

「それくらい……いや、無理か」

 真奥はそれくらい俺と芦屋がやれる、と言おうとして、すっと冷静になる。

 真奥と芦屋は、何事も無ければ明日朝早くから、また仕事をしなければならない。

 そうすると夜の活動時間はどうしても限られてくるし、そもそも土地の広さに対して人数が少なすぎる。

 窃盗犯は傾向としては高額な作物を狙っているが、単価が低くても量を盗まれてしまえば被害の大きさは変わらないし、そうなると一点に張りついていては他を狙われた場合に完全に徒労に終わってしまう。

「何より、我々はあと何日もいられません。我々の後から来る者達がどのような立場の人間か分かりませんが、我々が無料奉仕で警備を買って出たとしても、後の人員に警備をさせればその分人件費が発生します」

 芦屋も渋い顔で言う。

「一応農協でそういう保険は扱ってるみたいだけど、まぁこういうことを佐々木家の人達が考えないわけがないし……お手上げじゃない? それこそ、素人の僕らがどうにかできる問題でもないよ。第一、自治会に注意喚起が回ってるくらいあちこちやられてるんだろ? そろそろ犯人達も引き揚げてる頃じゃないの?」

 漆原の言うことは至極尤もだ。

 真奥も芦屋も漆原も、恵美も鈴乃も、千穂の縁者、という筋はあるにせよ、基本的には佐々木家の好意で雇ってもらっているだけの短期アルバイトに過ぎない。

 それを保険だ警備だと言い出すのはいくらなんでも出すぎたことのような気もするし、真奥達が素人考えで出す案など万治や一馬がとっくに考えているだろう。

 そもそも漆原が言うように、別に泥棒が来ると決まったわけではないのだ。

「悔しいですが、ルシフェルの言うことには一理あります」

「芦屋、いちいち僕の言うことに賛成するのに、余計なひと言つけるのやめてくんない?」

「佐々木家の不安を取り除いて差し上げたいと思うのはやまやまですが、あまり不安を煽るのも、それに付け込んで自分達の仕事を増やすようで良いこととも思えません。やはり恩返しは何か別の方法で……」

「おい恵美」

「な、何?」

 芦屋の言葉を遮って、突然真奥が恵美を呼んだ。

「お前はどう思う」

「どうって……」

 低い声で尋ねられて、恵美はわずかに狼狽えつつも、芦屋と漆原の顔を見る。

「私も正直癪だけど、ルシフェルの言うことが正しいと思うわ」

「あのな」

 漆原の抗議を無視して、恵美は続ける。

「どうしたって私達がこの状況に対処するだけの力も、もっと言えば権利も無いと思う。来る来ないで言えば、そりゃ泥棒が来る確率はゼロじゃないけど、警告がされたまさにその日に来るなんてことは、ねぇ、アラス・ラムス?」

 恵美も不完全燃焼なところはあるのだろう。

 千穂の手前もあるし、何もしない、というのは見捨ててしまえと言っているようで据わりが悪いが、かと言って実際にできることが思いつかないのも事実なのだ。

 そんな心情が無意識に表に出たのか、恵美は膝の上に抱えたアラス・ラムスに思わず同意を求め、

「なーに?」

 求められたアラス・ラムスは、当然話を聞いているはずもなく、無垢な瞳でままを見返すのみだ。

「だが、魔王はそうは思わないんだろう?」

 しかし、そこに異議を挟んだのは鈴乃だった。

 皆が思い思いに足を崩して座る中、一人すっと背筋を伸ばしたまま正座する鈴乃は、漆原、芦屋、恵美の発言を聞いても表情を変えない真奥を見る。

「まぁ、な。確信があるわけじゃねぇが」

 真奥は頷くと、パソコンを手繰り寄せてページをスクロールしはじめる。

「この中じゃサクランボくらいだろ、手で持って帰れるのは」

「どういう意味だ?」

「ニュースになってるだけで、サクランボ、ブドウ、トマト、スイカ、梨……サクランボ以外は、とてもじゃねぇけど、手で運んでちゃ重かったり邪魔くさかったりで金になる量を盗めないもんばっかりだ。だが実際は誰にも気づかれないうちに、大量に盗まれてる。誰がどう考えたって、犯人は車使ってんだろ。芦屋みてぇに悪魔型で念動力でも使えるってんなら話は違うが」

「まぁ、そうだね」

 頷くのは漆原だ。

「で、だ。ニュースを見ると、被害はここ一週間以内。ごく短い期間に集中してる。大量に盗まれたってのが具体的にどれほどか分からんが、少なくとも盗んだものを一時的に置いておく場所は絶対に必要だ。まさか盗んだものを全部自分で食うとはとても思えないから、犯人には盗んだ作物をこっそりと捌ける場所があるんだろ。てことは少なくとも、地元の人間じゃない。まぁ、出身者という可能性はあるが」

 真奥はここで一旦言葉を切って全員を見回して、反論が出ないことを確認する。

「畑から直接盗んだってことは、当然盗まれた作物は箱詰めされちゃいないわけだ。農家だらけのこの辺で、値段が高い農作物をダイレクトに荷台に積んでるのを万が一にも誰かに見られたら怪しまれるに決まってる。だから荷台が剝き出しの軽トラックじゃない。ライトバンじゃスイカはそう大量には積めない。大型トラックを借りたりすりゃ、万が一バレた場合、足がつきやすい」

「……つまり、何が言いたいのよ」

 怪訝な様子の恵美に、真奥は鼻を鳴らす。

「ここまで言って分からないか? 俺はごく最近、このあたりで野菜泥棒やるのにうってつけの車、見てるんだよ」

「野菜泥棒にうってつけの車?」

 そんなニッチかつ不名誉な用途にうってつけな車などあっただろうか。

 千穂が首を傾げる横で、恵美は息を吞んでいた。

「魔王、まさかそれって……」

「この場合、夜間に目立たない色で、人目につかない形で大量に荷物を積むことができて、その荷を積んだまま畑脇の農道を迅速に逃走するパワーとスピードが出せる車ということになるな」

 鈴乃が真奥の推測から導き出される、車の特徴を指折り上げる。

「あ……」

「ま、まさか」

 千穂と芦屋も、どうやらその条件に合う車に気がついたようだ。

 闇夜に紛れる黒い色。大きな車体。農道を疾走するパワー。

 恵美に不本意な伝説を作らせたあの車は、確かに真奥の言う特徴に合致する。

「もちろん今まで話したのは全部推測だ。だが、もし当たってれば、泥棒が来るのは今夜だ。家族や従業員が熊に襲われたその夜に、明かり一つない畑に出たい奴はいねぇだろ。今日の夜、佐々木家の畑は絶交の狩場だ」

「……」

 真奥の言葉に反論する者は、誰もいない。

「ちーちゃん」

「は、はいっ」

 これまで全員の議論を聞いているだけだった千穂は、急に指名されて飛び上がった。

「一馬さん達、今夜何かするつもりとか言ってたか?」

「どうでしょう……。でも、一馬兄ちゃんは今日は陽奈子姉ちゃんとひー君についてるって言ってましたし、もちろん泥棒について対策を考えるとは言ってましたけど、伯父さんも伯母さんも、もちろんお婆ちゃんも、さすがに夜に畑を回るとは言ってませんでした」

「……そうか」

 真奥は神妙な顔で頷く。表情には、小さな決意が宿っていた。

「本気で見張りに立つ気?」

 その決意に対し、恵美は思わず尋ねる。

「本気だ。お前は例によって俺に色々言いたいことはあるだろうが、ここは黙っててくれ。何ごとも無ければ、文句は後からいくらでも聞く」

「……そのことは、関係ないって言ったでしょ」

 茄子のビニールハウスでの話を結局気にしているらしい真奥に、恵美は呆れて肩を竦める。

「大体、私に気を使って佐々木のおうちに迫ってる危機を見逃したなんて言ったら、それこそ怒るわよ」

「なんの話ですか?」

 千穂は尋ねるが、恵美は複雑そうな微笑みを浮かべて首を横に振るだけ。

 自分の思いは佐々木家には関係ないし、これを言えば、千穂の心をまた無暗に曇らせるだけだ。

「話はまとまったな」

 唯一、二人の間にわだかまっている問題を具体的に理解している鈴乃が、恵美と真奥の顔を一度ずつ見てから、大きく柏手を打つ。

「それでは!」

 それが少々唐突で、恵美と真奥の話の成り行きを見守っていた千穂と芦屋と漆原が驚いたように顔を上げた。

「実際に見張りに立つとして、何をどうする? 想定される敵の装備は魔王が推測した通りだとして、どのタイミングで何を狙ってくる? 完全に陽が落ちるまでもう時間が無い。見張りに立つにしろ、我々の戦力は五人だ。まさか千穂殿を盗人の前に立たせるわけにはいかないし、今日の佐々木家の者はさすがに見張りには立てまい」

「……やっぱ僕も数に入ってんのね。はぁ」

 漆原はもちろん外出などしたくないのだが、空気を読んで独り言に留める。

「何を狙うか……か。俺達が見た中じゃ泥棒が目ぇつけそうなのはやっぱスイカだが……」

「真奥さんと芦屋さん、さっきイチゴがどうとか言ってませんでした?」

 千穂の言葉に首を横に振るのは芦屋だ。

「あれは万治さんが苗を植えただけのことで、イチゴの実があるわけではありません。私もやはりスイカが狙われる気がします」

 芦屋が真奥の意見に賛成するが、反対意見を上げたのは漆原だ。

「確かに値段だけで言えばそうかもしんないけど、あのスイカ相当デカいよ? 真奥達が見たワゴンがどんだけの大きさか知らないけど、車に運び込む手間考えると、もっと手軽なものにする気がするけど」

「……確かに。一つ二キロはありそうな大きさだったもんな」

「小さい頃はいっぱい食べました。すごく甘くて美味しいんですよ!」

 千穂の思い出話は尊いが、この場ではその意見はあまり意味を為さない。

「待って、私達が見た作物が全部とは限らないわよ? 万治さんの話じゃ、特別な有機野菜とかも作ってるんでしょ? そういうところは大丈夫なの?」

 恵美の言う通り、真奥達は今現在佐々木家が栽培している全ての作物を見たわけではない。

 真奥達の知らない場所に、収穫時期を迎えた作物があることも否定はできない。

「そういえば陽奈子姉ちゃんが、ハクビシンにトマトをやられたって言ってましたね。でもトマトのハウスの場所、私分からないです」

「……おい恵美、鈴乃、お前らがちょっとひとっ飛びこの辺ざっと飛んで、空から地形確認できねぇか」

「あのね」

 恵美は呆れて額に手を当てる。

「空からじゃ昼間じゃないと地上の様子なんかちゃんと見えないし、それこそ誰かに見られたら目も当てられないじゃない」

 折角熊の件が穏やかに済んでいるのに、これ以上佐々木家に怪しまれる問題を増やしたくない、という本音もある。

「そ、そりゃそうか……こうなると敷地や周辺の地図が欲しいとこだけど……漆原、確か検索サイトのすげぇ精密な地図あったろ。航空写真とかで見られるやつ。あれでなんとかこの辺りの地図出せないか? それ見ればどこに何があるかくらいは……」

「はぁ? 何言ってるの真奥。あのマップ、リアルタイムじゃないんだよ? いつ撮影されたかも分かんないのに、どこに何があるなんて分かるわけないだろ?」

 真奥の提案を鼻で笑いながら、それでも漆原はパソコンを使ってマップを出す。

「それに、精密って言ったって、映画に出てくるスパイ衛星じゃないんだから、実際の解像度なんかこの程度だし」

 漆原が表示する佐々木家周辺の航空写真は、山の中にかろうじて森とそうでない場所があるのが分かる程度。

「ここでぐだぐだ言ってるより。佐々木家の誰かに直接聞くのが一番早いと思うけど?」

「まぁ……そりゃそうなんだが、なんて言って聞けばいいんだよ」

「泥棒が来るかもしれないから見張りに立つって言えばいいじゃん。例の車が怪しいって話は、僕が言うのもあれだけど説得力あると思うよ?」

「その車なんだよ、問題は」

「は?」

「考えてみろ。熊に襲われそうな俺や恵美にクラクションならして熊けしかけるような相手だぞ? 相当頭がおかしいか、そうでなきゃ人を傷つけることを屁とも思わないような奴としか思えねぇ。恵美や鈴乃ならちょいと聖法気出してびびらせりゃ、並みのごろつきが百人来ても返り討ちにできるだろうが…………っと」

 かつて人を傷つけることなど屁とも思っていなかった魔王の発言としてどうだろうと思いながら真奥は、つい恵美の様子を視界の端で窺ってしまう。

 が、

「いちいち私をチラ見しないで。特に突っ込むつもりないから!」

 恵美にはしっかりバレていて、

「むー……なんか今日の真奥さん、ずっと遊佐さん気にしてる」

 千穂まで変なところでむくれる始末。

「……はぁ。では佐々木家の者を巻き込みたくないのなら、我々が分かる場所だけ見回るか? 現実問題、五人でカバーできる範囲はその程度だろう」

 不可思議な三角関係に疲れた様子の鈴乃が話を先に進めるが、それはかなり不完全燃焼な結論だ。

「それしか……ねぇのかな。一応、スイカって目星はついてるわけだし……」

 さりとて千穂を除いた五人で最適な警戒ルートを構築する妙案も出ないため、真奥は胡坐をかいた膝に頰杖をついて不満の唸り声を上げる。

「……じゃあとりあえずだ、スイカ畑を中心にどういうルートで車が入ってくるか考えて、それで怪しまれないように一人ずつ畑を張るか……」

 なんともシンプルな案で皆が妥協するしかないと思われた、その瞬間だった。

「やい邪魔するぜ」

「うわっ!」

「きゃっ!」

「えっ!?」

「むっ!?」

「あ?」

「なっ……!?」

「……ふみゅぅ……」

 まさしくなんの前触れも無く、部屋の入り口の襖が勢い良くがらりと開いた。

 ゆったりと入ってきた声に、退屈な大人達の話に飽きて眠ってしまったアラス・ラムス以外の全員が、尻を浮かして飛び上がる。

 襖が開いて声がするまで、誰一人としてその気配を感じ取ることができなかった。

「お、お、お、お婆ちゃん!?」

 誰よりも驚いたのは千穂である。

 そう、異世界人達の情けない警備計画が実行に移されようとしたそのとき、衝撃的に部屋に乱入してきたのは、誰でもない、千穂の祖母、エイだった。

「い、いつの間に……っ?」

「ぜ、全然気配を感じなかった……」

 特に人間の戦士である鈴乃と恵美の受けた衝撃はすさまじく、部屋に入ってきたエイと廊下とに何度も視線を往復させている。

「もうお婆にゃ階段上がるのもえれぇことよ。はぁ、どっこいしょ」

 当のエイは若者達の驚きなどどこ吹く風で、大儀そうに会議の場に腰を下ろした。

「お、お婆ちゃん、い、今の話……聞いてたの?」

 千穂が恐る恐る尋ねると、エイは大きな目で千穂を見る。

「俺は補聴器もいらん耳だもんで」

「……っ!!」

 息を吞んだ鈴乃が、思わず立ち上がる。

「す、鈴乃さん、待ってください!」

 千穂は鈴乃が何をする気か悟り、慌てて止めに入った。

「しかし千穂殿っ!」

 鈴乃は、エイの記憶を操作するつもりだ。

 核心に迫る言葉こそ出なかったものの、エイが部屋の外にいるとは思いもせずになされていた会話は、千穂以外の日本人には決して聞かれてはならないものも含まれていた。

 まして東京で千穂を取り巻く情勢が複雑化している今、遠く離れた駒ヶ根に危機の種を増やすわけにはいかないのだ。

「心配しなんでも、俺ぁ別に誰かに言おうとか、そんなことは考えとらんよ」

「……お婆ちゃん?」

「お婆ちゃには難しいことは分からんし、人様の秘密を言い触らすほどのずくもねぇし、そう遠くないうちにお迎えも来ちまうで」

「……エイ殿……いや、しかし」

 あっけらかんと笑うエイに、鈴乃は吞まれそうになる。

「お前達ゃもしかしたら普通の衆じゃねぇのかもしれんけど、俺にとって大切なのは、お前達が万治や由美子や一馬や陽奈子や一志を守ろうって思ってくれとるっちゅう、ただそれだけえ。やい、それを見せてくれよ」

「あ、は、はい」

 エイの醸し出すどこまでも平らかな空気に吞まれ、漆原が請われるままにエイの前にパソコンを差し出す。

「はぁ……パソコンちゃぁこういうことができるんけ。うちの畑が丸見えじゃねぇか」

 表示されている航空写真を見て、エイは感心したように声を上げる。

「陽奈子が言っとったけぇど、今じゃ電話でもこういうものが見れるんずら?」

「あ、は、はい。マップ機能で、ナビとかもしてくれます」

 携帯電話の関連会社に勤める恵美が、自分のスリムフォンを取り出しながらほとんど反射的にそう答える。

 エイは恵美のスリムフォンをしばし眺めて、それから恵美に笑いかける。

「えれぇことだなぁ」

「は、はい……」

「うちに初めてテレビが来たのはへぇ先の東京オリンピックのときよ。白黒テレビを死んだお爺様が牛に荷車引かせてうちまで運んできて、それからへぇ、電話が勝手に道案内してくれる時代まで生きるっちゃあえれぇことだぜ」

「牛に荷車って……」

 千穂も初めて聞く、佐々木家の過去。

「都会の衆は知らんだろうけど、ほんの五、六十年前までは当たり前だったことよ。だから、俺はもしかすりゃお前達が空の向こうから来たって言われても、そりゃえれぇことだくらいにしか思わんもん」

 エイの淡々とした物言いには一切の虚飾は無く、積み上げた歴史が作る価値観に、もはや鈴乃も当初の緊張を失いつつあった。

「書くものあるか?」

 芦屋が、旅行鞄の中からさっとペンを出して差し出す。

 するとエイは懐から取り出した、近所のスーパーのチラシの裏面に何かをさらさらと書き出してゆく。

 何度かパソコンの画面を見直しながらエイが書き上げたそれは、まぎれもなく佐々木家の田畑の地図だった。

 チラシの裏の白面に書かれたその地図はフリーハンドとは思えぬほどに正確で、文字も殴り書きに見えて一本筋が通った美しい字だ。

「一番大きい道に出るのがここで、今日お前達が熊に出会った田がここ。万治の小さいトラックで通れる道は沢山あるけぇど、大きな車が通れるのはそんなに多くはねぇ。ここと、ここと、この辺りくらいよ」

「婆ちゃんすげぇ……」

 真奥はエイの隣から地図を覗き込み、息を吞む。

 これならば泥棒を警戒する上で真奥達が挙げた問題点を全てカバーし、どこに何があるかが一目で分かる。

「小玉スイカ……こんなのもあったんだ」

 恵美も真奥と反対側から覗き込んで、自分達が作業した場所とは全く違う場所にある畑に目を留める。

「最近は都会のスーパーじゃ大きなスイカが売れんちゅうで、少しずつ入れ換えてるのえ」

「でもその小玉スイカの畑、大きな道に面してないわ」

「そうか。そうすると、熊と戦った田んぼ沿いか、大きなスイカからちょっと歩いたとこ、あとはここのビニールハウス群か。ここも危なそうだな。小さい野菜が多い。ちょっと離れたそっちの梨はどうだ。道に入ってすぐだが」

「それは幸水ちゅう梨でもう時期が過ぎとるで、今月の頭にゃもう全部取っちまっとるわ」

「じゃあ……やっぱり最初のスイカ、こっちのトマトのビニールハウス周辺の二か所か。さすがにまだ青い稲を盗むバカはいねぇだろうしな」

 水田を除外した二か所に、RVクラスの車も乗り入れることができて、かつ比較的単価の高い作物が密集している。

 見張る場所が二か所に絞れるなら、荒事にも恵美と鈴乃を分散させることで対応できる。

「よし、じゃあ日が暮れたら、一人ずつこっそり出よう。もし見つかっても散歩に行くって言えば不自然でもな……」

「ちょっと待った」

 計画をまとめようとした真奥を止めたのは、漆原だった。

「なんだよ」

 真奥は出鼻をくじかれて不機嫌そうに顔を顰めるが、漆原は構わず、エイが描いた地図の一点を指さす。

「ここ」

「あ?」

「ここ、どうなの。やばくない?」

 漆原が指さす場所は、警戒予定地のトマトのビニールハウス群から少し離れた場所だった。

「ここって、お前、そこは関係ないだろ」

「なんで」

「なんでって、そこ畑じゃないだろ」

「あのさ、熊にクラクションを鳴らした車、どっちから来てどっちに行った?」

「……だから、家の方からこう、俺達が歩いて田んぼまで行った道を通って、ここで熊に会ってそのまま道なりに………………ん?」

 真奥は地図を指でなぞりながら、漆原が言わんとしていることに気づいた。

「トマトのハウスと田んぼの丁度中間にある……? あの車ここを昼間通ってるのか」

「間違いないでしょ。このルートの他に外に出られる道ないもん」

「てことは……いや、でもまさかそんな」

「どうして? 僕は野菜を盗むより、こっちの方がずっと魅力的だと思うよ。だってやろうと思えば、生の農産物なんかより捌ける業者は段違いに多いし、ほとぼり冷めるまで長期間保管しておいても絶対腐らない」

「……」

「何よ、なんなの?」

 未だ漆原が言わんとしていることが分からない恵美が尋ねると、漆原は苛立ったように、該当する場所を指さした。

「これ、大学で開発中のものを借りてるんだろ。そんなにしっかりしたプラントが造られてるとはとても思えない。一つ二つ持ってって捨て値で捌いても、野菜を何十個も盗むよりよっぽど金になる」

「ま、待ってください! もしそこで何かがあったら……」

「ああ、最悪、ビニールハウスの作物は全滅するかもね。そうはならなかったとしても、同じだけのシステムを復旧させるにはとんでもないお金がかかると思う」

 漆原の言葉に、千穂は真っ青になる。

 真奥も恵美も、芦屋も鈴乃も、もはやそのポイントを無視することはできないでいた。

 漆原が警告を発したその場所は、佐々木家の田畑に電力を供給している、太陽電池パネルの設置ポイントだった。



         ※


「確かに、道具があれば、素人でも簡単に取り外せそうだった」

 再び、真奥達の部屋である。

 漆原の進言で急きょ一馬に車を出してもらい、温泉の帰りがてら問題の太陽電池パネルが設置されたポイントを案内してもらった。

 地図の印象よりもずっと大きな道に近い場所にあり、警備システムのようなものは無く、露出した地面に架台に据えつけられた太陽電池パネルがまばらに並ぶ、頼りない発電プラントだった。

 太陽電池パネルを固定している架台は単管パイプを組み合わせただけのシンプルなもの。

 パネルの一枚一枚はマンションサイズの畳一枚ほどだが、あのRVなら余裕で収納できるだろう。

 一つの架台に二枚ずつ、計六台の架台があり、太陽電池パネルの総数は十二枚。

 それが土地の隅の配電設備と接続されていて、それがまた各ハウスに向けて電線を伸ばしている。

「一枚のパネルの発電効率を測ったり、屋外で実際に業務利用することで電池にどんな変化が起こるかをここで実験してるんだ。で、たまたまうちに中規模のプラントを置ける条件のいい場所があって、それで例の規格外野菜を安値で大量提供する代わりに、タダに近い額で借りてる」

 一馬は誇らしげにそう説明してくれたものだ。

「でも、泥棒は道具なんて持ってるんでしょうか」

 千穂の疑問に答えたのは漆原だ。

「被害に遭ってる農家の中には、ビニールハウスを壊されてるところもあるみたいだし、向こうにしてみればパネル本体が傷つかなければいいわけだから、いざとなれば多少無茶な外し方だってすると思うよ」

「で、結局どこにどう張りつくわけ?」

 恵美の問いに、真奥はエイの地図をざっと見直す。

「こことここ、だな」

 真奥が指さした場所は、当初と変わらない、トマトのハウスとスイカ畑の脇だった。

「この道は抜け道としても機能してるから、ここを通る車が全部泥棒のはずがない。漆原の狙いはいい線ついてるが、やはりトマトを狙う可能性もある。ただトマトと太陽電池に集中して万が一スイカの方に来られてもマズいから……」

 真奥は地図を指さしながら、その場の全員にてきぱきと指示を出す。

「ちーちゃんは、家で待機。いざってときに俺達が通報するよりも、一馬さんや万治さんに電話してもらった方が、警察が来たときに面倒じゃなくていい。俺達が連絡したら、何があっても家の人間を叩き起こしてくれ」



「……で、なんで私が貴様とペアなんだ」

 すっかり闇が世界を支配した、夜のスイカ畑。

 目立たないように深い藍色の服装でスイカ畑の蔓に紛れて潜む鈴乃は、隣の真奥を不満げに見る。

「仕方ねえだろ。機械のことは漆原の方が詳しいからあいつは太陽電池に張りつかせておきたいし、お前と恵美は戦力的に二分しておいたほうがいい。となりゃ俺か芦屋かどっちかとペアになるしかねぇじゃん」

「……正直、私一人でも問題ないのだが……」

 実際問題、悪魔三人は正体が悪魔だというだけで、現時点では単なる人間の若者となんら大差ない能力しか持たない。

 常に超常的な力を発揮できるのは恵美と鈴乃で、確かに戦力という点では、鈴乃にとっては真奥はいるだけ足手まといだろう。

「あのなぁ、お前、恵美がさんざん『熊殺し』の件で困ってたろうが」

「何?」

 虫と蛙の声が響き、一寸先も見えづらい夜の中で、真奥の小さな声が返ってくる。

「相手が何人組かも分からないんだぞ。ましてここんとこ市内を荒らしまわってる泥棒だ。もし首尾良く捕まえたとして、例えば相手が男四人とかだったら、お前ネットニュースに『熊殺しの女傑に続け! 窃盗犯を相手に大立ち回り!』とか書かれるぞ、いいのか?」

 鈴乃はその事態を想像し、一瞬だが押し黙る。

「別にいいなら、俺もあっち行くけど」

「……いや、それは確かに……確かに困るがしかし」

 鈴乃はしばし唸りながら、やがて諦めたようにため息をついた。

「何か釈然としない」

「あ?」

「確かに一人の女としては、男勝りな行動をもてはやされてもあまり嬉しくはないが、かと言ってそうならないために貴様らの力を借りなければならないというのが、激しく釈然としない。ただそこにいるだけの貴様らなのに」

「ひでぇ言われようだ」

 真奥が声を忍ばせて笑う気配が伝わってくる。

 そして、言葉がやんだ。

 決して静かではない。恵美達がいるトマトのハウスに繫がる県道はかなり離れているはずなのに、時折そちらを通る車の音が聞こえる。

 虫の声も響き、蛙は数えきれないほどの輪唱で夜を彩る。

 人間だけが沈黙し、そのまま十分近くが経過した。

「……おい」

 鈴乃は、ふと闇に呼びかける。

「魔王?」

 真奥が静かすぎる。まさかとは思うが、眠ってはいないだろうな。

 薄曇りで月明かりも無く、スイカの蔓に身を伏せている真奥の姿は闇が深いことも相まって全く判然としない。

「おいまお……」

「なんだよ」

「うおっ!?」

 思いがけない方向、呼びかけていた方向とは全く反対側の、しかもすぐ傍から声が聞こえて、鈴乃は驚く。

「い、いつの間にそちらに!」

「いや、そっち大きなスイカが多くてうまく座れなくてよ。丁度いいとこねえかなって……」

 畑は収穫間際ということもあってなかなかにスイカの玉が大きく、蔓や実を傷つけないように畑の中に隠れるのは結構気を使うのだ。

「んー、あ、あぶねっ! 踏むとこだった」

「……」

 その後真奥はしばらく暗闇でごそごそやっていたが、なかなかうまい場所を見つけられないようだった。

「おい、いい加減にしろ。動いていれば夜の闇でも目立つ」

「あ、ああ、その……」

「……あ、おいっ! くっ!!」

 その瞬間、鈴乃の耳が低いエンジン音を捉える。

 遠くの県道側ではなく、鈴乃達が見張っているすぐ目の前の道からだ。

 鈴乃の行動は素早く、そして反射的だった。

 中腰の真奥の胸倉を摑むと思い切り引き寄せて姿勢を低くさせる。

 接近してくる車のヘッドライトが見えたのは、真奥が鈴乃に引っ張り倒された直後のことだった。

「ぶべっ……」

 真奥は口の中に土が入ってうめくが、なんとか高い声を上げることだけは我慢する。

 息詰まる緊張の中、軽いエンジン音がスイカ畑の前をそのまま通り過ぎ、テールランプが尾を引きながら去っていった。

 どうやら、抜け道を使う地元の人間の軽自動車だったようだ。

「うー、すまん」

 真奥は引き倒されたのが自分がもたもたしていたせいだと分かっているので、口の中の土を吐き出しながら鈴乃に詫びる。

「普通の軽っぽかったが……一応恵美にメールしておくか。よっと……ん?」


 真奥は引き倒された姿勢から立ち上がろうとして、うっかりスイカに体重をかけないように慎重に地面のありかを探し、左手が蔓を搔き分け土に触れ、右手が、土でも蔓でも葉でもスイカでもない柔らかい何かに触れ、次の瞬間、真奥は自分が触れたものがなんだったかを理解するよりも早く、それに触れてしまったことによって自分に降りかかるであろう惨劇を未来予知のレベルで正確に予測し、そしてそれは現実のものとなった。

 鈴乃が振るった拳が真奥の顔に、暗闇の中でも正確にクリーンヒットした。

 真奥は思いきり仰け反って倒れそうになるが、背後のスイカに倒れ掛かる直前で、Tシャツの胸倉がまたもグイと摑まれ襟が伸びる。

 闇の世界の王である魔王サタンは、闇の中に、夜よりも尚暗い漆黒の殺気を放つ聖職者の影を見た。

「死んでしまえ、ああそれがいい。エミリアにも連絡してやるから今すぐ死ね」

「ま、待て、お前、簪は抜くな! 目立つ! 法術は光って目立つ!」

 鈴乃の本気を悟った真奥は逃げようとするが、襟元を鈴乃に摑み上げられ、体が海老反った状態なので、腕をぐるぐる振り回すしかできない。

「悪かった! 俺に緊張感が無かったから、直前にぐずぐずしててこうなって、つまり俺が何もかも全部悪かった!」

「……」

「不可抗力だったなんて言い訳するつもりはない! 口ん中に入った土に気ぃ取られてて色々距離感摑めてなかった! 後でなんでも埋め合わせはする! だから俺の頭でスイカ割りだけはやめてくれ!」

 鈴乃は法術を使わなくても、その小柄で細身の肉体からは想像もできないほどのパワーファイターである。

 鈴乃の簪は彼女の重要な武器だが、それが無くても今の真奥の脆弱な人間の体を拳一つで粉々にするのも容易いはずだ。

「貴様の……」

「は、はい……」

「……貴様の日頃の行いを見ていなければ、最初の一撃で貴様の顎は砕けていた」

 どこまでも武闘派なセリフを吐く聖職者クレスティア・ベルは、真奥のTシャツを摑んでいた手を唐突に離した。

「うべっ」

 畑の土に背中から落ちて、肺から空気が絞り出されてあえぐ真奥。

「そ……そりゃどうも……」

 怒りで獣のように荒い息を吐く聖職者に、悪魔の王は恐れ慄くしかできなかった。

 真奥は今ほど、魔王だてらに日頃品行方正に生活していて良かったと心から思ったことはない。

 最近折角宿敵の勇者からの殺意の重圧が、金魚のエサ一粒分程度和らいでいたのに、隣人に過失で働いたセクハラが原因で命の火が消えたら、逆に宿敵に対して申し訳がない。

「……っていうか、す、鈴乃……あの」

「……………………………………余計なことを言い出したら、殺す」

 どうやらこちらに背を向けているらしい鈴乃の声は、どこまでも物騒な色を帯びている。

 それを聞いて真奥は喉まで出かかった言葉を引っ込めた。

 鈴乃に引き倒されたから、先ほど立ち上がろうとしたときに右手に触れたのは鈴乃の着物だ。

 だが、鈴乃がここまで怒るからには袖とか腕とか肩とか背中といったセーフティゾーンではなかったのだろう。

 厳密に確認すれば生物学的な意味でも社会的な意味でも生命が絶たれる。

「………………………………はぁ」

 暗闇の中の鈴乃のため息が、とことん恐ろしい。

 一方の鈴乃はというと深呼吸をして、怒りと羞恥に荒ぶる内心をなんとか収めようとしていた。

 言われるまでもなく、日頃の真奥を見ていれば女性に対して狼藉を働こうとするような性格ではないことは分かっているし、先ほどの事態が不可抗力であることも分かる。

 だが、理屈では越えられない女性の矜持、というものもあるのだ。

 暗闇のスイカ畑で、鈴乃は口をへの字に曲げながら、着物の胸元を何度も手で払った。

「……魔王」

「はいっ!」

 暗闇から音量を抑えた、だがはっきり恐怖に彩られた返事が即座に返る。

「……冷静で理論派の私だから貴様の命が長らえているということを忘れるな」

「ご寛恕くださいましたこと、感謝いたします」

 どこまでも腰の低い真奥は鈴乃の背に向かって何度も土下座する。

「……それに……」

 米搗きバッタのように土下座を繰り返す真奥には聞こえていなかったが、鈴乃は口の中で悔しそうに独り言を呟く。

「千穂殿なら……もっと前にアウトだった」

「な、なんだって? 何か気に食わないことでも……」

「何もかも気に食わん!」

 もう一発殴られた。



 それから先は、じりじりと時間が過ぎた。

 真奥と鈴乃が見張っているスイカ畑の前の道は一時間に一、二台の車が通ったが、どれも真奥と恵美が見た黒のRV車ではない。

 真奥は光が外に漏れないように、携帯電話で時刻を確認する。

 夜の十二時。今日はいつにもまして色々なこともあったため、眠気も強くなってくる。

 まして何事も無ければ明日も朝早くから仕事があるのだ。

 畑の警戒に入る前、エイには、

「お前達のことは何も話せんもんで、もし今夜何も無かったら俺は一馬達に口を聞いちゃやれんぜ」

 と釘を刺されている。

 あくまでこの警戒は真奥達の独断専行なのだ。

 徹夜で起きていて何も起きなかったからといって、翌朝寝坊をしていいということにはならないのである。

「……当てが外れたかな。まぁ、来ないなら来ないに越したことはないんだが」

「エミリア達に連絡して、交代制にするか?」

 鈴乃も眠気が強くなってきているのか、先ほどから言葉が少しあくび混じりだ。

「そうだな。よし、十二時になったら交代で眠ろう。明日のこと考えりゃ、ちょっとでも寝ないよりゃましだ」

「……」

「どうした?」

「……寝ている間に、妙なことをしたら殺すぞ」

「だから悪かったって謝ってるだろが! そんな命知らずなことしね……ん?」

 鈴乃が何やら身構える気配がして、不毛かつ恥ずかしい言い争いが再発しようとしたそのときだった。

 道の向こうからエンジン音が近づいてきて、真奥と鈴乃は体を緊張させて身を低くする。

 重い、パワーのありそうなエンジン音だ。

 スピードは出していないようだが、それがかえって不自然に思える。

 今までこの道を通った車は、どの車も細い道なりに走り慣れた様子でそこそこのスピードで通り過ぎたからだ。

 やがて、彼方から接近してくる車の影を捉えた真奥は、はっと息を吞む。

 それは鈴乃も同様だった。

 不自然な車だった。

 ヘッドライトではなく、低い位置にあるフォグランプを点灯して走行している。

 かなり大きな車だ。闇の中のことなので正確な色は分からないが、黒か紺といった、夜に紛れやすい色であることは間違いない。

「……あれか?」

「分からねぇが……似ている。第一なんだあのトロトロ運転は」

「物色しているのか……来た」

 二人は土に汚れるのも構わず、畑の中に匍匐して自分の体をスイカの蔓に隠す。

 大きな図体に似合わず不自然にのろのろと走っていた車は、やがて、スイカ畑の前で停車し、エンジンとライトを切ったではないか。

 だがまだそれだけでは、泥棒とは言いきれない。

「「!!」」

 真奥と鈴乃は息を吞んだ。

 運転手が車から降りたのだ。

 遠目で顔や服装は分からないが、男性のように見える。

 と、闇夜に突然、小さな赤い火が灯り、すぐに消えた。

 それと同時に、運転手のものと思しき唸り声。どうやら、車から降りてタバコを吸っているようだ。

 単にタバコが我慢できなくて偶然この畑の前で止まった地元の人間だろうか。

 禍々しいホタルのようなタバコの先の赤い火を眉を顰めながら眺めていた真奥だったが、ふと、伏せていた右手の甲を、鈴乃が指先で叩いた。

 声が出せない状態で、何かを伝えたいらしい。

 真奥は掌を上にすると、その上に鈴乃が指で何かを書く。

 それは、数字の『4』だった。

 真奥は目をこらし、タバコを吸う男ではなく車の方を凝視する。

 と、

「……!」

 中に、まだ誰かいるようだ。

『4』とは、タバコの男を含め四人いる、ということなのだろうか。

 だが、やはりタバコを吸う以外の動きを見せないならこちらが姿を現すわけにはいかない。

 しばし息詰まるような時間が流れ、どうやらタバコを吸い終わったのか、赤い火が消えた。

 男は足で踏んで火を消しているようだ。

 これでこのまま車に戻って走り去れば良いが……。

「……っ!」

「!!」

 だが、そうはならなかった。

 真奥はそれを見て飛び出そうとする傍らの鈴乃の細い手首を思いきり摑んで自制させる。

 タバコの男一人が、スイカの畑に一歩足を踏み入れるではないか。

 相変わらず車の中からは誰も出てこないが、タバコ休憩をするだけの人間は、人様の畑に無断で入ったりはしない。

「……!」

 鈴乃が抗議の意志を込めて抵抗するが、真奥は落ち着かせるようにその手を離さない。

 やがてタバコ男は一度だけ周囲を見回すと、その場にしゃがんで何かをしはじめる。

 時間にしてほんの十秒程度。

 だが、再び立ち上がった男の手には、

「!」

 大きなスイカが一つ、抱えられていた。

 タバコ男はそれを頼りない足取りで車に持ち帰る。

 やはりこれが、近隣で大きな被害を出している畑泥棒なのだろうか。

 だが次の瞬間、また意外なことが起こった。

 タバコ男はそのまま運転席に戻り、車のエンジンをかけたのだ。

「え」

 真奥の隣で、鈴乃が意外そうな声を上げた。

 もっと大量に盗むのだと思っていたのだろう。

 もちろん一個だろうが大量だろうが窃盗に変わりはないわけだが、その行動は予備知識にある周辺の畑泥棒の行動と一致しない。

 やがて車は、来たときと同じくらいのろのろとした走りで、スイカ畑を後にした。

「……魔王、何故止めた」

 まだテールランプが見えているので、鈴乃は這った状態のまま剣吞な声を上げる。

「……盗られる前に声かけたら、シラ切られて終わりだろ。それに、何か変だったろ。多分奴らの目的は、こっちじゃねぇ。あのスイカ一個は、ついでだ」

「ついで?」

「ああ。とにかく恵美に連絡するぞ。多分、奴らだ」

 真奥と鈴乃はテールランプが戻ってこないことを確認して体を起こすと、携帯電話を取り出した。



「……本当に来たみたいよ」

 電話を切った恵美の言葉に、芦屋と漆原が頷く。

 スイカ畑側から来るということは、トマトのハウスよりも先に太陽電池パネルの傍を通ることになる。

 三人は太陽電池パネルの架台全てを見上げる坂の下の立木の根元に待機していた。

「んじゃエミリア、携帯貸して」

「変なことしたら、殺すわよ」

 どこぞの聖職者と同じく物騒なことを言いながらも、恵美は素直にスリムフォンを漆原に手渡した。

 漆原は恵美のスリムフォンをUSBケーブルでノートパソコンに繫ぎ、とあるアプリケーションを恵美のスリムフォンにインストールする。

「はい。アプリ自体はここに入ってるから終わったらアンインストールして。それでも不安だったら、ショップ持っていけば掃除してくれるよ」

「私の仕事をなんだと思ってるの。言われなくてもそうするわよ」

 苛立ったように言いながら、恵美は返されたスリムフォンを憐れむように撫でる。

「それじゃ、手順を確認するわよ」

 短い打ち合わせの後、恵美がパネルのプラントの反対側の上り斜面の林に移動し、芦屋と漆原は最初の場所に待機する。

 そしてそれから数分後、重いエンジン音が近づいてきた。

 芦屋と漆原は道から下の斜面にいるので車の形は見えない。

 だが、

「どうやらこれみたいだよ」

 漆原が伏せたパソコンの画面を見て芦屋に伝える。

 恵美のスリムフォンから漆原のスカイフォンに着信。来た車が問題の車であることを示すサインだ。

 漆原は着信を取ってスカイフォンを起動させる。

『もしもし、聞こえる?』

「はいはい」

『……あの車よ。間違いない。ライトの下のチリトリみたいなでっぱりに見覚えがある。熊をクラクションで脅かした車に間違いないわ』

「ふうん、改造車か。で、どう、見えそう?」

『待って、今カメラを起動するわ』

 しばらく何かががさごそと動く音がして、不意に、スカイフォンの画面に暗い映像が映し出されるではないか。

 恵美のスリムフォンのカメラを起動して、撮影している映像が映し出されているのだ。

 道路の街灯程度の明かりしかないが、画面には大きな車と、三人の人間が輪郭が分かる程度に映し出されていた。

 かつて魔王城が訪問販売詐欺に遭った際に証拠集めのために使った手だが、まさかこんなところでまた役に立つとは誰も思っていなかった。

「何か手に持ってるね。もう完全に黒だねこれ」

 画面に映る男性と思しき影は三人。それぞれ何か手に持っている。

『……工具に見えるわ』

 恵美の抑えた声が漆原のイヤホンマイクに響く。

『一人、台の下の方に入っていったわ……』

「よし……いい位置だね」

『他の二人が、横からパネルを支えてる……外れたわ、まだなの?』

 緊迫する恵美の実況。闇の中で解像度が悪い映像の中でも、恵美の実況を裏づける行動が続いている。

「まだだ。それを車に運び込むまで待って。一枚外れたぐらいなら別の五台のプラントが電源を支える。もう一枚待つんだ」

 漆原は恵美にそう返答してから、

「芦屋、そろそろね。二枚目が外れたら」

「任せろ」

 芦屋が小さな声で、足をしっかりと斜面に当てる。

 やがて一枚目のパネルを車に運び込んだらしい三つの人影が戻ってきて、再び新たなパネルに取り掛かりはじめる。

『……二枚目。来たわよ』

 しばしの息詰まる瞬間、虫の声すら消えたのは気のせいだろうか。

 芦屋が指の骨を鳴らしながら、斜面にクラウチングスタートの姿勢を取ったそのとき、

『外れた!』

「今だっ!!」

「ふううっ!!」

 恵美の合図で漆原が画面を確認、芦屋は猛然と斜面を駆け上がった。

 土と草の斜面を駆け上がっているとは思えないほどの力強いストライドで、芦屋は太陽電池パネルのプラントに躍り出る。

 そして、

「全員動くなっ!!」

 腹の底から響かせた大音声が、山の時を止めた。

 プラントを照らすのは道にあるたった一本の街灯。

 白く古い蛍光灯に照らされる三人の男(一人はパネルの裏側にいるせいで芦屋からは見えないが)は、突如現れた謎の長身の男に完全に凝固していた。

「ここは私有地で、この太陽電池パネルはこの土地の持ち主が管理するものだ。貴様ら、誰の許可を得てそのパネルを持ち出そうとしている」

 芦屋は男達を睨みつけながら一歩前に出る。

 それだけで相手は動揺した。固まったまま声も上げないのは恐れているというよりは、芦屋の正体を測り兼ねているのと、この次にどう行動すれば良いのかが分からないからだろう。

 芦屋は一瞬だけ、彼らの向こう側の斜面に視線をやる。

 斜面で素早く動く影を確認してから、芦屋は、男達を強制的に次の一手に動かす一言を放つ。

「パネルの陰に隠れている者、出てこい。そして全員、道具を足元に置け」

 その言葉の意味を数瞬遅れて理解した男達は、

「……」

 無言で手に持っているものを構えて、芦屋に向けた。

 芦屋は思わず、笑ってしまう。あまりに、浅く、愚かで、予想通りの行動だ。

 道具を置けという言葉で、彼らは自分の手にあるものが何かを思い出した。

 それは太陽光電池を架台から外すための工具と、パネルを支えていた単管鉄パイプだ。

 成人男子が三対一で、芦屋は手ぶら、男達には使い方次第で武器となり得るものがある。

 その瞬間に優位を確信して、心に余裕が生まれたのだろう。

 彼らは芦屋を脅すなり攻撃するなりして、撃退して逃げることを考えたに違いない。

 相手が、芦屋でなければそれは正解だった。

 悪魔大元帥アルシエルの人間型である芦屋四郎でなければ。

「お……お前なんだよ、関係あんのかよ。け、怪我したくなかったら消えろよ、オラ」

 太陽電池パネルを支えていた男が、鉄パイプを振り回して脅しにかかろうとする。

 だが、状況だけ見ればこれだけ優位に立っているにも関わらず声が震えている。

 荒事に慣れていないのだろう。ついでに言えば、その声は最初に芦屋が想像したよりずっと若く細く頼りない声だった。

 芦屋は余裕の笑みを浮かべながら、一歩、男達に向かって踏み出した。

「無駄なことをするな。逃げられはせん」

「う、うっせぇよ、ち、近寄るなぶっ殺すぞ! お、おい、はやくそれ持って逃げるぞ! エンジンかけろエンジン!」

 鉄パイプの男は後ずさりしながら、残る二人にパネルを運ばせようとする。

「諦めの悪い奴め」

 芦屋は足を止めない。

 大股にどんどん鉄パイプの男に近づき、三人の男達はそれだけで恐慌をきたしはじめる。

「お、おい、やべえぞ逃げよう!」

「バカ! 相手は一人だ! びびんな!」

 残る二人は折角外したパネルを放置したまま逃げようとするが、強力な武器を持っている一人は引っ込みがつかなくなったのだろう。

「うわあああああああ!!!!」

 甲高い叫び声を上げて鉄パイプを振りかぶって力任せに芦屋に叩きつけようとする。

 スイカ割りでもするように上段から振りかぶられたそれを、芦屋はその場で体を軽く横に開いて、なんら苦労することなく回避する。

「ううっ!」

 土を叩きつけた鉄パイプを子供のチャンバラのように振り回し、なんとか芦屋を殴ろうとするが、その全ての打撃を芦屋はわずかな動きでいなしてしまう。

「往生際の悪い……」

 何度目かの上段からの振り下ろし、芦屋はもう避けることすらせず、自分から相手との距離を詰めると、振り上げられていた相手の手首を大きな左手でがっしりと摑み押し返した。

 そして、

「せいっ!!」

 芦屋の予想外の行動に目を見開き、ついでに重心が後ろに持っていかれてがら空きになった男の顎目がけて、芦屋は小さくフックを繰り出した。

「うがっ……」

 顎を真横から殴られた男は、うめき声を上げて鉄パイプを取り落とし目を回す。

 芦屋が手を離すと、男はなんとかバランスを取って立とうとするが、思いきり揺らされた顎の衝撃が頭を揺さぶり、目の焦点すら合わせられずにへたり込んでしまう。

 芦屋は素早く背後に回ると、腕を背後に回し、背に膝をついて肩を極め、鉄パイプ男を拘束した。

「現場で一人確保。残りの連中は」

 その瞬間、車のエンジンをかける音が山に響き渡った。

「……まぁ、大人しく投降するはずもないか。仲間を見捨てて逃げるとは」

 芦屋は鼻で笑う。

 男達が乗っていたRV車は土煙を上げながら猛然と逃走を開始した。

 テールランプが細い舗装道路をフラフラしながら去ってゆくのを見ながら、芦屋は今まで車が止まっていた場所に恵美が立って、こちらに向けてOKマークを作るのを見る。

 芦屋が頷き返すのを見た恵美は、

「天光駿靴っ!!」

 飛翔の法術を発動させ、空を飛んで車を追いはじめた。

「ルシフェル!」

「もう繫がってるよー」

 それを見送った芦屋の呼びかけに漆原は斜面の下からのんびりと返してきた。

「もしもし佐々木千穂? うん、車は市街に向かってる。車種は外車を改造した黒のRV車。県道からカッパ館のある橋の方に動いてる。うん、エミリアと真奥とベルが追ってる。橋は渡らせないと思うから、警察にそう伝えて。はーいそれじゃ。ふう、芦屋お疲れ」

「大したことではない」

 芦屋は組み伏せた男を見下ろしながら頷く。

「それより、きちんとナビをしろよ。逃がすな」

「任せろよ。あーベル? 敵は真奥お気に入りのカッパ館の方角目がけて逃走中。そ、市街に向かう下りの道ね。はい、頑張ってねー」

 スカイフォンで楽しげに電話をする漆原の手の上のパソコン画面では、精密な道路地図の上をよろよろとうごめくアイコンが、天竜川目がけて移動していた。


         ※


「な、なんだよ! どうなってんだよクソ! おい! ミツルはどうすんだよ! お、置いてきちまったのかよ!」

 暗い山道を真っ青な顔をしてRV車を運転している若い男が、同乗する仲間達を怯えた声で責める。

「し、仕方ねぇだろ! まさか誰かいるなんて……」

「ど、どうしよう、見られた……ミツルが逮捕されたら俺達も……」

「に、逃げるのか、どうすんだ?」

「逃げるったって、どうしようもねぇだろ!」

「落ち着け! 今までだってそうだろ、そうすぐに警察が来るわけねぇ! 高速に乗って、適当なとこで車捨てて逃げるぞ! どうせこの車だってミツルの車だろが!」

 芦屋に捕まったミツルという男の仲間であるらしい三人の若い男は、恐慌をきたしながらも、なんとか自分達は罪を逃れようと希望的観測に縋って夜道を走っている。

 街灯も少なく車も人も通っていない。車線が無い道で信号も無視し、猛スピードでとにかく逃げる。

「で、でも太陽電池はどうすんだよ。せ、折角盗ったのに……」

「そんなこと言ってる場合かバカ! 捨てるんだよ一緒に!」

「ああクソっ……今までうまく行ってたのに、なんだよこれ、クソっ!」

「長居しすぎたんだ。うまくいくからってこの辺の畑荒らしすぎたんだ。だから警戒されてたんだよ! 前のとこやった後に、さっさと逃げとけば良かったんだ!」

「今更言っても仕方ねぇ! とにかくまず高速に入るぞ! ナンバーまでは見られちゃいないはずだ! とにかく今は遠くに逃げなきゃ」

 運転手の男は、焦った心に後押しされてアクセルを踏み込む。

 駒ヶ根市の外れの田舎道を走るには危険な速度で爆走する車は、やがて山を下りて天竜川が見える丘の中腹までやってくる。

「もうちょっと、もうちょっとだ、この時間ならあと十分もあれば高速に……」

 市街の明かりを見て愚かな希望を口にした運転手の男だったが、そのとき、助手席から金切り声が響く。

「前、前前っ!!!!」

「え……? うわああああああああっ!!!!」

 一体どういうことだ、こんな時間に、道の真ん中で、一体何してやがる!!

 運転手の男は一秒以下の時間で、それだけの悪態を脳内で叫び、そして全力でブレーキを踏み込みながら、来るべき衝撃に備えた。

「ぐわっ!!!!」

「ぎゃあっ!!」

「ひいっ!!!!」

 瞬間、この世のものとも思えぬ衝撃が車を襲った。

 運転席と助手席のエアバックが一瞬で膨張し、三人の男達が口々に悲鳴を上げる。

 衝撃と共に横滑りして、危うく横転しかけ、ようやく車が止まる。

 三人はしばらく頭を抱えたまま、動かなかった。

 彼らの中では数十分、実際には一、二分ほどの長く、短い時間の後、

「お、おい……何が、ごほっ」

 後部座席に座っていた男が、肺を圧迫したシートベルトで咽ながら恐る恐る尋ねる。

「……ひ」

「え?」

「ひ、轢いちまった……かもしれねぇ」

「ひ、轢いたって……え、た、タヌキとか……」

「ちがう……ひ、人、人を……」

 運転手は顔も上げず、エアバッグがしぼんでも尚、耐衝撃姿勢のまま震える声で答えた。

「ひ、人っ!?」

「分からねぇ、一瞬だったから、で、でも」

「な、なんでこんな時間にあんなのが……き、着物着た女が……道の真ん中でこっち見て棒立ちに……」

「なんだよ……なんだよそれ、幽霊かよ、フザけんなよ」

 道を塞ぐようにして横滑りした車のヘッドライトが、何も無い道の脇の林を照らし出している。なまじ明かりがある分、それだけではカバーできない闇がどこまでも不気味に広がっていた。

「で、でも幽霊じゃないだろ? エアバッグが動いたってことは、やっぱ何か当たって」

「やめろやめろやめろ!! 人轢くとかなんだよ! はぁ!? 有り得ねぇ! あんなのがこんな時間にこんなとこうろうろしてるわけがねぇ! 逃げるぞ!」

 運転席の男はハンドルを切ってアクセルを踏み込むが、

「んん!?」

 ハンドルが異様に軽い。

 まるで、前輪が地面についていないかのようだ。奇妙に思いつつもさらにアクセルをふかす。が、回転数の上りが悪く、車もがたがた震えるだけで前に進まない。

「くそっ! 道端の岩か何かに乗り上げたか!? お、おいテツ! 降りて見てこい!」

「え、ええ、嫌だよ!!」

 運転席の男は突然声を荒げて、後部座席の男に向けて怒鳴る。

「いいから行け! このままじゃ全員捕まるぞ!」

「う、うう……頼むから置いていくなよ?」

 テツと呼ばれた男は、泣きそうになりながらも命令に従って車をおっかなびっくり降りた。

 人を轢いた、というのが本当なら、すぐ目の前に死体が転がっていたりしないだろうか。

 そう怯えながら開いたドアの外はごく普通の山道で、横滑りしたタイヤの跡が足元に走っている。

 そして、おっかなびっくり周囲を見回すが、

「ひ、人なんか、いないじゃないか」

 着物を着た女どころか、案山子の一本もありはしない。

 やはり小動物や標識か何かを見間違えたのではないだろうか。恐れの中にそんな逃避の思考を生み出したテツだったが、車の前方に回ったとき、常識ではありえない恐ろしい現象を目の当たりにして身を竦ませる。

「……え……」

 目の前の光景を、脳が理解するのを拒否する。

 なんだこれは。運転席の二人は、これが見えていないのか?

 運転手の男は言った。着物姿の女を轢いたと。

 なら、これはなんだ。

 最大十人乗ることができるRV車を、正面から受け止めて前輪を持ち上げている、この着物姿の女は、一体なんだ?

「ひ……え、ぁ」

「ンん~っ!?」

 テツの口から情けない声が漏れて、それが聞こえたのか、着物の女が振り返った。

「次は、貴様かあ?」

 ヘッドライトに照らされたその顔が、獲物を見つけた狼のような笑顔を闇夜に浮かび上がらせる。

 その瞬間、また運転席の男がアクセルをふかしたのだろう。女が一瞬バランスを崩しかけるが、

「はああああっ!!!!」

 女は裂帛の気合で片足を上げると、思いきり足元にスタンプする。

 それがどのような威力を持っていたものか、細い足がアスファルトの地面を砕き、まるで一本の鉄杭のように女を地面に固定した。

「逃がさんぞおおおおおっ!!」

 そしてそのまま、一トン以上あるはずの車を、ゆっくりと持ち上げはじめるではないか。

「そこの貴様も、逃げられると思うなよぉ!?」

 今や完全に斜めに車を持ち上げた女に凄絶な目で睨まれたテツは、恐怖のあまりその場で失神し、倒れてしまった。



「なんだ何だなんだ何だなんだ何だなんだよなんなんだよおおおおおおお!?」

「ひえええええああああああああああ!?」

 運転席と助手席の男は、完全にパニックに陥っていた。

 テツが外に出た途端、突然フロントガラスから見える視界がせり上がりはじめたのだ。

 ヘッドライトがゆっくりと林の木の上の方を照らし出し、今や疑いないほど、車が斜めに持ち上げられている。

 ハンドルは完全に空転しているし、いくらアクセルをふかしても後輪は全く回転しない。

「何が起こってんだよおお!!!!」

「た、助けてええええ!!」

 一体何が車を持ち上げているのかまるで理解できない二人は、叫び声を上げながら、それでも恐れの本能が体を動かし、車を捨てて逃げようとする。

 が、彼らの恐怖はそれで終わらなかった。

 上昇が止まった瞬間、何かが車の上に落ちてきたのだ。

「今度はなんなんだあああ!?」

 助手席の男が頭上を見て泣きわめく。

「お、おい、ヒロ……て、天井、天井が」

 運転席の男は、助手席の男の見上げた車の天井を見て言葉を失う。

 何か固いものが、物凄い力で屋根を連続で叩いている。

「ひ、え、ぁ……」

 まるで機関銃でも浴びせられているかのように、でこぼこに凹む天井。そしてもはや声を失った二人の間に、

「ぎぇっ!?」

 天井を断ち割って氷柱のような刃物が刺し込まれ、運転席と助手席を分断するではないか。

 二人は、その鏡のような刀身に映る涙と鼻水だらけの自分の顔と間抜けににらめっこをする。

 二人の間とシフトレバーを断ち割って座席の下まで貫いたその刃は、やがてゆっくりと戻ってゆく。

 だが、恐怖は終わらない。

 謎の刀身が貫き空いた穴から次に刺し込まれた物を見て、

「「~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!!!!」」

 もはや二人は、叫びを声にすることすらできなかった。

 それは、手だった。

 黄色い炎に包まれた、人間の右手だ。

 外板がありえない音を立ててめりめりと剝がれ、更に同じように炎に包まれた左手が車内に侵入してくる。

 炎の両手は、しっかり天井を摑むと、なんと板切れでも持ち上げるように、屋根ごと天井を剝がしはじめたではないか。

 サンルーフも無いのに、完全に夜空が見えるほどにこじ開けられた屋根を見上げると、そこには金色の炎に包まれた、月と同じ色の長く蒼い銀色の髪をたなびかせる女がいた。

「逃げられると思ったの……?」

 女の殺気に満ちた低い声は、まるで地獄から響く鬼の声のようだ。

「徒に人の命を危険に晒した報いを、受けてもらうわよ」

 やがて女は引き裂いた屋根をそのまま車から毟り取り、ぽいと傍らに投げ捨てる。

 アスファルトに落ちたそれが甲高い音を立てたとき、

「……あ、あ……ああああああ」

 助手席の男、ヒロが恐怖の限界値を超えたらしい。

 あろうことか座ったまま、失禁したのだ。

「う、うわっ」

「え、ちょっ……」

 だがそれで、同じく恐怖の限界値に達しかけていた運転席の男は我に返った。

 屋根の上の炎の女が自分と同じタイミングで狼狽えたことには気づかなかったが、

「く、ち、畜生っ!!」

 もがきながら運転席のドアを蹴破るように開け、ずっと下にある地面目がけて飛び降りたのだ。

「あらら……ふうん、まだ逃げるだけの余裕があるのね」

 屋根を毟り取った女は、それをあえて追うことはしなかった。この暗闇、そして徒歩。

「逃げられないわよ、農家の敵。労働の結晶を横から盗んだ罪、千穂ちゃんや陽奈子さん、一志君を危険に晒した罪は償ってもらうわよ」

「……エミリア、いいか、下ろすぞ」

「あ、ごめん、重かった?」

「大したことはないが、一応こいつらをきちんと拘束せねば」

 ふと、下からかけられる声で、女は我に返った。

 もちろん車を持ち上げていた着物の女は鈴乃。素手で車の屋根を引き剝がしたのは破邪の衣を纏って空を飛んできた、恵美ことエミリアである。

「魔王は?」

「ああ、少し先で待機している。ルシフェルが千穂殿に指定させた通報ポイントだ。魔王が終わったら、こいつらをそこまで運ぶぞ」

「はいはい。あ、ちょっと待って、携帯回収するから」

 エミリアが車から飛び降りて、車の後ろに回る。

 窃盗の証拠である太陽電池パネルがしまわれているトランクを開けると、横滑りで色々なものが散乱している中に、エミリアの携帯電話があるではないか。

 芦屋が最初の男と睨み合っている間に車の陰に回った彼女が、自分の携帯電話を車の中に放り込んでおいたのだ。

 事前に漆原のパソコンと連動するGPS追跡アプリケーションをインストールしたおかげで、エミリアがかつてサリエルに誘拐された際に、真奥と漆原が用いたのと同じ追跡システムを使えるようにしておいた。

 それがあったから、漆原は鈴乃と真奥に正確な車の逃走経路を知らせることができたのだ。

「もういいわよー」

「よし」

 エミリアが携帯電話を回収すると、鈴乃は車から手を離した。

 地面に落ちた車は、衝撃と自重で前輪のホイールが潰れヘッドライトも砕け、見るも無残な有様になる。

「でも、そんなに怖かったのかしら。いくらなんでもおもらししなくても」

「……それは、相当怖かったのだろうなぁ。自分で言うのもあれだが」

 ボロボロの車と恐怖に凍った泥棒二人を背に、エミリアと鈴乃は肩を竦めて苦笑した。



「はっ……はあっ……はあっ」

 運転手の男は、車から飛び降りた衝撃で痛む足に涙を流しながら、必死に道を走った。

 今更一人で走って逃げたところでどうにもならないだろうが、常識を超えた事態の連続に、もはや冷静な判断ができなくなっているのだ。

 途中何度か振り返ったが、あの金色の炎に包まれた女が追ってくる様子は無い。

 それでも運転手の男は足を止めなかった。止められなかった。

 足を止めれば得体の知れない何かが闇を割って飛び出してくるのではないかという恐怖が、もたつく足を動かす原動力だった。

 夜も更け、わずかな街灯とまばらな農家の明かりだけが点々と見える道を、涙と涎を流しながら一心不乱に逃げる。

 やがて道の勾配が緩やかになり、先の方に天竜川が見えてきた。

 だが、当然人の足では高速道路は逃げられないし、隠れられる場所も多くはない。

「くそっ……なんでこんなことに……」

 運転手の男は悪態をつきながら、一度呼吸を整えるために立ち止まった。

 もちろん自分達の悪行の報いを受けているのだが、そんなことを理解できるような心根の持ち主ではないし、報いの受け方が常軌を逸しておかしいといえば確かにそうかも知れない。

 と、そのとき遠くにサイレンの音が聞こえたような気がして男は顔を上げた。

 救急車か? それともミツルを捕まえた男が通報して警察がやってきたのだろうか。

 今にも死にそうな顔を上げ、それでも尚逃げようとした男は、

「……うっ!?」

 天竜川にかかる橋の入り口に、人影を見つける。

 この期に及んで、近所の人間がたまたま通りがかったと思うほど、男も馬鹿ではなかった。

 なぜなら、近所の人間が車道の真ん中で仁王立ちしているはずがないからだ。

 人影は、既にこちらを認めていた。

 ゆっくりと歩み寄る影は、男とそれほど体格差が無いように見えた。

 だが、

「運が悪かった……とか思っちゃいないだろうなぁ?」

 闇から聞こえる声は、若い男の声だ。

「勘違いすんなよ。お前らがバカだったんだ。バカだったから、踏まなくていい虎の尻尾を踏んじまったんだ」

 だが、その声が耳に届くと同時に、運転手の男は背筋に悪寒が走り、呼吸が急激に苦しくなりはじめる。

 今まで全力疾走をしてきていたが、それとはまったく違う苦しみ。

 見えない手に、首を絞められているような、そんな息苦しさだ。

「悪行に貴賤はねぇ。だがな、やっぱりお前らは俺達とは違う。俺達は、生きるために奪った。テメェらは……何も考えてなかった。何も考えずに、奪い、傷つけた。だからテメェらは、きっとこの期に及んでも、なんで自分がこんな目に遭うんだとしか思ってねぇんだろうな」

 息苦しさが見せる幻覚だろうか、近づく影が、心なしか大きくなっている気がする。

 人影に闇より黒い禍々しい何かが取りつき、膨れ上がっているかのようだ。

「お前らはきっと、無事に逃げおおせたら自分の悪事を思い出すことなんかこれっぽっちも無かったんだろうな。感じるぜ、テメェの、心根の腐った負の感情をな」

「……ひぃぇぁ……」

 呼吸もままならない中、男は見た。

 人影に、街灯の光が当たる。

 その頭には、角が生えていた。

 その足は、人間ではありえない、この世のものとも思えない獣の足だった。

 上背は、最初にミツルを捕まえた男よりずっと高い。

 まるで、昔話に出てくる鬼だ。

 運転手の男は震えながら、自分を見下ろす鬼を見上げた。

「地獄を見る覚悟の無い奴が、粋がって悪さするもんじゃなかったな。人を傷つけた代償は、これからテメェら自身が、一生かけて払ってくんだ」


 片方の角が欠けた大鬼が、へたり込んで声も出ない男の頭を摑む。

 もはや体の全てがパニックを起こし、指一本動かせない男の頭を摑んだ鬼は、脱力した男を高々と持ち上げ、そして、

「……俺達みたいにな」

 その声を聴く前に、運転手の男は気絶し、鬼の手の中で脱力していた。


         ※


「一馬兄ちゃん、大丈夫だからちょっと落ち着いて」

 夜道を猛スピードで走る一馬の車の助手席で、千穂は焦る一馬を落ち着かせようとしていた。

「い、いやしかし、真奥さん達がまさかそんなことしてるなんて……もし何かあったら……」

「大丈夫だって。大体私達が事故起こしたらそれどころじゃないでしょ」

「千穂の言う通りえ一馬、俺達が焦ってもしゃぁねぇぜ」

「うう……」

 だが、一馬の心情を考えればそれは無茶というものだ。

 夜中に叩き起こされたと思ったら、畑に泥棒が入っていると千穂がまくしたてるのだ。

 最初半信半疑の一馬は警察への電話を渋っていたが、そんな一馬の尻を叩いたのが、今、後部座席にいる、祖母のエイだった。

「でも、なんで婆ちゃんも一緒に来るんだよ! 危ないだろ!?」

「危ねぇことはなんもないで来たの。ずーっと山の下の方から冷たい感じがするら。そこでもう全部終わっとる気がするで、まずは橋のとこまで走らせりゃええに」

 千穂は不思議に思い、祖母を振り返る。

 まさか祖母が、銚子で出会った大黒天祢のように普通の人間ではない、などということはないだろうが、それにしても、まるで真奥や恵美達の事情を最初から斟酌していたかのようなことを言うのが奇妙だ。

 すると、そんな千穂の視線を感じたのか、祖母はにやりと笑ってこう言った。

「昔はああいう衆はたまにおったのよ。俺はそういう衆を見たことがあるっちゅうだけのこと。へぇ今は色々と便利で安全になって、不思議な力を持った衆が生まれる必要の無い時代ずら」

 それは、何かの答えなのだろうか。

 分からないままやがて、

「あっ!」

 一馬が道の先、天竜川にかかる橋のたもとに沢山のパトランプが回っているのを見つける。

 車を降りた千穂と一馬とエイは、この場所この時間に意外なほど多く集まっている野次馬の中に、五人の人間の姿を見つけた。

 黄色いテープが張られた向こうには、どんな事故に遭えばそんな状態になるのか、天井が剝がれ、前輪が砕けて横転している大きなRV車があった。

 丁度、四人の若い男がパトカーではなく救急車に乗せられており、それを見届けた五人は、軽く肩を竦めるとその場を後にしようと振り返り、そして、

「「「「「あ」」」」」

 千穂と、一馬とエイと、目が合う。

 一馬は、訳が分からなかっただろう。

 千穂の話では、真奥達は畑の見回りをしていて、泥棒を見つけて通報しただけのはずだ。

 その真奥達が泥棒らしき一味の車の事故現場に何故勢揃いしているのか。

 千穂に叩き起こされてからここに到着するまで二十分も無い。

 佐々木家の畑のどこにいようと、たった二十分では徒歩でここまで来られるはずがない。

 真奥と、芦屋と、漆原。

 恵美と鈴乃は少し居心地悪そうに顔を見合わせたが、

「真奥さん、遊佐さん、芦屋さん、漆原さん、鈴乃さん」

 そのとき千穂が、満面の笑みで五人に駆け寄った。

「ありがとうございました」

 そしてぺこりと頭を下げる。

 それを見たエイは、一馬の尻を叩いて言った。

「やい一馬」

「あ、ああ」

「あの人らは陽奈子と一志と俺達を守ってくれた、千穂の大事な友達ぇ。それでいいっちゅうこと」

 この日本という国で、激動の時代を生き続けた祖母の言葉は、シンプルに、力強く一馬の心を揺さぶった。

「千穂の、友達か……」

「ほうよ」

「……そっか、そうだな」

 一馬は、苦笑して頷いた。

「だったら」

「ん?」

「明日の朝は、普通に働いてもらった方がいいんだよな」

 一馬は肩を竦めて、千穂がねぎらう五人の不思議な都会人を見た。

「そういうことぇ」

 エイは、一馬の言葉に満面の笑みで満足そうに頷いたのだった。

刊行シリーズ

はたらく魔王さま! ES!!の書影
はたらく魔王さま! おかわり!!の書影
はたらく魔王さま!21の書影
はたらく魔王さまのメシ!の書影
はたらく魔王さま!20の書影
はたらく魔王さま!19の書影
はたらく魔王さま!SP2の書影
はたらく魔王さま!SPの書影
はたらく魔王さま!18の書影
はたらく魔王さま!17の書影
はたらく魔王さま! ハイスクールN!の書影
はたらく魔王さま!0-IIの書影
はたらく魔王さま!16の書影
はたらく魔王さま!15の書影
はたらく魔王さま!14の書影
はたらく魔王さま!13の書影
はたらく魔王さま!12の書影
はたらく魔王さま!0の書影
はたらく魔王さま!11の書影
はたらく魔王さま!ノ全テの書影
はたらく魔王さま!10の書影
はたらく魔王さま!9の書影
はたらく魔王さま!8の書影
はたらく魔王さま!7の書影
はたらく魔王さま!6の書影
はたらく魔王さま!5の書影
はたらく魔王さま!4の書影
はたらく魔王さま!3の書影
はたらく魔王さま!2の書影
はたらく魔王さま!の書影