はたらく魔王さま!SP2

終章 ─ 六人の『その日』の前日 ─

 店内の時計は、十四時を少し過ぎた頃をさしている。

 これくらいの時間になると、ランチタイムのピークも過ぎ、店内の様子も少しずつ落ち着いてくる。

 仕事に手抜きは禁物だが、それでも一分一秒を争う時間帯を抜け出すと、どこかホッとした空気がクルーの間に流れるのも確かだ。

 だが、ここ数日のマグロナルド幡ヶ谷駅前店では、むしろこれからが本番だと言って良い。

 時間帯責任者の真奥貞夫を含め、多くのクルー達が『その瞬間』を緊張の面持ちで待っていた。

 そして、今日も、ソレはやってくる。

「き、来た……」

「あの小さな影は……」

「まーくん! 『ヤツ』が来たよ!」

「み、皆下がってろ! 俺が相手をする!」

 屋外の逆光に照らされた小さな影が、店の入り口の自動ドアに立った瞬間、骨の髄まで鍛えられたはずの木崎真弓のクルー達は、騒然となって慌てふためきはじめる。

 時間帯責任者たる真奥は、指揮官として全員の動揺を鎮めつつ、自ら最前線に立ち、『ヤツ』を迎え撃つべくレジに立った。

「い、いらっし」

「太陽と月、それはあまねく大地に光をもたらしながら、決して交わることのない悲運の星! そうまるで、この僕と我が女神のようにっ!!」

「……ゃいませー……」

「き、来た」

「うわぁ」

「毎度毎度よくもまぁ」

 真奥の背後でクルーがざわめくが、真奥はそれを手で制し、ただただ『ヤツ』がカウンターの前までやってくるのを待つ。

「この燦々と降り注ぐ業火のような太陽の光は、僕の愛をより激しく燃え上がらせるっ! 我が女神よ! 今日もまた、僕の愛を届けにやって参りましたっ!!」

「いよっ! いいぞ!」

「うわぁ、何アレー!」

「何? 何かミュージカルのドッキリ? フラッシュモブって言うんだっけ?」

 これだけ入り口で大騒ぎしていれば当然店内の客も注目するわけで、真奥もクルー達もただただ冷や汗を流すしかない。

 夏の暑さのせいで、頭のネジが芋羊羹か何かに入れ替わってるとしか思えぬ傍迷惑で小柄なこの男こそ、真奥達の商売敵であるセンタッキーフライドチキン幡ヶ谷駅前店店長猿江三月にして、その正体は恵美の聖剣を追ってエンテ・イスラの天界からやってきた、大天使サリエルその人である。

「っと、これはこれは、真奥貞夫君、我が女神の姿が見えないようだが?」

 手にはミニヒマワリとバラという不思議な取り合わせの花束を抱え、この暑いのにタキシードと見まごうばかりの三つ揃い。

 数日前に真奥と異次元の激闘を繰り広げたこの男は、今は単なる愛の奴隷(自称)である。

 恵美の聖剣を奪う過程で千穂をかどわかし、真奥の逆鱗に触れたサリエル。

 もちろんサリエル側としても魔王サタンたる真奥を放置することなどせずにお互い命を賭けた死闘を繰り広げたが、力の性質の差により真奥が勝利。

 その後、行先も指定せぬゲートに放り込んだはずが、どういうわけかマグロナルド幡ヶ谷駅前店の冷蔵庫の中から再び出現。

 そこで出会ったマグロナルドの店長木崎真弓に一目惚れして以来、大天使は、どうも大天使であることを捨てたらしい。

「も、申し訳ございません、本日、店長の木崎は不在でして……」

「なぁんと! それは間の悪いときにお邪魔したね! では真奥君、この花束を持って猿江が来たと、女神帰還の際にはぜひ伝えていただきたい!」

「は、はぁ、かしこまりました……」

 それ以来毎日毎食木崎目当てにマグロナルドにやってきては、センタッキーの店長としても、一般的な成人男子としてもあり得ない量のオーダーをして帰ってゆくのだ。

 売り上げに貢献する客には木崎が愛想が良いということを分かっているのである。

 見ての通り、一度は真剣に干戈を交えた真奥に対しても異常なまでに愛想が良く、それは真奥や千穂に限らず他のマグロナルドクルーに対しても同様で、木崎への贈り物である花束を標準装備として、二度ほど菓子折りまで持ってくる始末だ。

 そして一番恐ろしいのは、注文するたびに三千円には達しようかというマグロナルドのメニュー全てを、彼がきちんと完食しているらしいことだ。

 明らかに、サリエルはたった数日で急激に太った。

 一度は真奥と千穂がその健康を心配してスーパーサイズミーな食事内容を考え直すよう止めたのだが、サリエルは聞く耳を持たなかった。

 ハンバーガーはジャンクフードの類いであることは自覚していたものの、これでは確かにかつての芦屋が真奥の健康状態を心配したのもやむなきことである。

 結局この時間も、サリエルは二千五百円もの注文を通した挙句に律儀に領収書を要求し、両手に紙袋を抱えて去っていった。

 残ったのは店内の異様な雰囲気と、大きな花束。そして、猿江三月の名が記された領収書控えである。

 木崎が不在の場合、サリエルは必ず控えに宛名が残る手書きの領収書を要求する。

 そうすれば、自分が売り上げに大きく貢献したということが木崎の目に留まりやすくなるからだ。

 ここまで来ると完全なストーカーに見えるが、サリエルのアプローチは、意外にも犯罪の臭いを感じさせない。

 自らも仕事があるせいか、客として店にいる時間は長くても三十分。木崎のプライベートを探るような気配も無く、基本的に接触してくるのは営業中のみ。

 木崎の不在時も、今日のように素直に引き下がり、しかも売り上げには貢献し、最近は常連客の間で『名物客』として認知されはじめ、サリエルの登場を見るためにわざわざ店に来る客まで現れる始末だ。

 恵美も以前心配していたが、サリエル自身は真奥に敗北したものの、聖剣の勇者たる恵美すら圧倒した実力と聖法気は決して無くなったわけではない。

 やろうと思えばサリエルは、その能力で木崎を自分のものにすることすら訳ないはずだし、実際に千穂はサリエルにそのまま天界へと連れ去られそうになったこともある。

 それだけに、ここまで斜め上な正攻法で来られると、真奥としてもどう対処していいものやらまるで分からないし、千穂も無暗に緊張すると零していた。

 何も起こらないに越したことはないが、何かが起こらないはずがない、でもやっぱり何も起こらないという状況は、なかなか精神に来るものがある。

 そして当然というかなんというか、

「戻ったぞー……って」

 真奥以上に、この事態に辟易しているのは、

「また来たのか、猿江が」

「お、お帰りなさい、木崎さん……」

 カウンターで花束を抱えたまま棒立ち状態の真奥を見て思いきり顔を顰めた、木崎真弓本人であった。



「ええい! もう花瓶が足らん!! まーくん! 君の家に引き出物の余りの花瓶が転がっていたりしないのか!」

「そんなものありませんよ」

 スタッフルームでサリエルが持ってきた花束を解体しながら、木崎と真奥はため息をついた。

 スタッフルームや木崎の事務室はもちろん、店内も既にサリエルが持ってきた花で溢れてしまっている。

 店内に植物を飾る場合には事業所にいちいち申請書を書かなければならず、木崎もそろそろ我慢の限界が近づいているようだ。

「花に罪は無いと思いたいが、こう毎日だとどうにもならん! 大体奴の金銭感覚はどうなっている!? 花束だってタダではないだろうに、毎食の注文と合わせれば奴は私のためだけに毎日一万円近く出費していることになるぞ!」

「そ、それは、やっぱその、木崎さんに気に入られたいからだと……」

「こんなことで私の心を手に入れられるなどと思っているうちは、箸にも棒にもかからん!」

 言いながら木崎は、それでも花の茎を揃えて切ると、なんとか先ほど持ち込まれたバラとミニヒマワリを店内にある花瓶に入らないかどうか四苦八苦する。

 最終的にバラはなんとかなったものの、行き場を失ったミニヒマワリの束をデスクに横たえた木崎の顔には、妙な疲れの影が浮かんでいた。

「それに……気に食わないのは、だ!」

「は、はい?」

「今に至るも我々は、総客数に於いて奴の店の後塵を拝しているということだ!」

「え」

「実はな、近々エリア全体で新業態導入の大きな流れがあるらしい。その中で各店舗と近隣他社の客数が計測され、どうやら我が店は、日に五十人近くも、奴の店に後れを取っている。どういうことか、分かるか?」

「あ、あの、えっと、平均の客単価が……」

 真奥が恐る恐るそう述べると、木崎は魔界の王すら竦み上がらせる鋭い目つきで大きく頷いた。

「そぉだ! マグロナルドとセンタッキーでは平均の客単価だけで見ればセンタッキーの方が高いのだ! その上集客数でも負けているとなれば、即ち売り上げでも負けていることになる!! その上そこの店長に毎食高単価の金を落とされてみろ! 耐え難い屈辱だ!」

「あ、あの、木崎さん、ちょっといいですか。前から聞きたかったんですけど」

「なんだ」

「木崎さん、なんかものすごくセンタッキー嫌ってません? 猿江店長が来るようになる前から、なんかそんな感じが……」

「……別に会社や店、品物に含むところは無い。だがな、あのセンタッキーという会社には、私の終生の宿敵が在籍しているのだ!」

「宿敵!?」

 ただの日本人であるはずの木崎の口から出てきた物騒な言葉に、真奥は驚く。

「最初は、向かいの店に『奴』が赴任してくると聞いて闘志をたぎらせていれば、実際に現れたのはあの変態だろう。私はこの拳をどこに振り下ろせばいいのやらっ!」

 その『奴』というのが一体何者なのかは分からないが、それを聞ける空気でもないので真奥は貝の沈黙を貫いた。

 何か心の底から溢れる煮えたぎる思いをこらえるように木崎はしばし拳を握るが、やがて小さく息をつくと、なんとか湧き上がる怒気を抑えて冷静な顔を作った。

「とにかくっ! 他のどこに負けても、『奴』のいるセンタッキーに負けることだけは罷りならん! そこでだまーくん!」

「はいっ!?」

 特別強い言葉で言われたわけでもないのに、天性の女帝軍曹の気質は魔界の王の姿勢を自然と正してしまう。

「丁度いいことに、これからマグロナルドは一週間、クリンネス強化週間に入る。まずはそこから、店内の綱紀を改めて引き締め、次なる戦略に備えようと思う」

「は、はい」

 真奥は普段あまり耳にすることのない『クリンネス』という言葉の意味を思い出しながら頷く。

 業態や会社によって使われる意味合いが微妙に異なる言葉ではあるが、共通するのは『清潔』というキーワードだ。

 お客様の目に触れる所はもちろん、ありとあらゆる場所や道具を清潔に保つことで、より店舗のイメージを向上させる。

 肝心なのはただ掃除をすればいいということではなく『清潔な状態を維持し続け』、さらに『そのイメージをお客様に感じ取ってもらう』ことである。

 だからこそ、どんなに店舗の清掃が行き届いていても、例えば従業員の爪や髪が伸びていては、特に食べ物を扱う店ではお客様に商品への不安を抱かせてしまうことになる。

 お手洗いのトイレットペーパーや、手洗い用液体石鹼の残量が少ない、というのもクリンネスの概念上、よろしくないことだ。

 また『清掃する姿や姿勢』というのも案外重要で、どんなに綺麗に見えても、従業員が清掃する姿や取り組み方がいい加減だと、それはそれでお客様に悪い印象を与えるし、逆に清掃する姿をあまり大っぴらに見せていると、お客様が落ち着いて食事できない。

 こと清掃というのはお客様の数が少ない時間帯に行われがちで、かつ余程しっかり従業員に教育が行きわたっていなければ、アルバイト従業員で営業が回っている店など目につき辛いところは手を抜かれがちである。

 その点マグロナルド幡ヶ谷駅前店は、全ての従業員が自分達が使うロッカーの清掃にすら手を抜かない訓練されたクルーであるので、これ以上店舗設備のクリンネスは行きわたらせようがないのだが……。

「とりあえずまーくん、最近ちょっと髪が伸びてきてるんじゃないか?」

「髪……そういえば、そうだ、随分切ってなかった気がします」

「学生が夏休みに入って、新しいクルーも入ってくるかもしれん。時間帯責任者として皆に模範を示すためにも、一週間以内に髪を切ってこい。これは店長命令だ」

「分かりました、明日シフト入ってないんで、明日の内に切ってきます」

「そうしてくれ。頼んだぞ」

 木崎は頷くと、再び残ったミニひまわりの行先について、頭を悩ませはじめたのだった。

 真奥は事務室を出てスタッフルームに戻ると、ちょうど千穂が出勤してくるところに出くわす。

「あ、おはようございます真奥さん」

「やぁちーちゃん。今からか」

「はい。どうしたんですか、髪なんかいじって」

「ん? ああ」

 木崎に言われた途端に、どうにも前髪が目にかかるのが気になってしまい、ずっと触れたままでいたのだ。

「クリンネス強化ってことで、髪切ってこいって店長命令が下ってさ」

「そういえば真奥さん、髪ちょっと伸びましたよね」

「やっぱそう思うか?」

 千穂にも言われてしまい、真奥は自分の身だしなみチェックの甘さを歯嚙みした。

「そういえば真奥さんって、普段どこで髪切ってるんですか?」

「え? どこって?」

「美容院とか、床屋さんとか」

「ああ」

 真奥は手をついて頷くと、千穂にとっては予想外なことを言い出した。

「俺そういうとこで切らないんだよな」

「えっ? じゃあ、一体どうしてるんですか?」

 千穂の記憶にある限り、真奥は一度だけ、髪を短く切ってきたことがあった。

 だが、美容院にも床屋にも行かないとはどういうことなのだろう。

「うん。だから明日は昼過ぎくらいに……」

 そして真奥の答えは、彼の生活スタイルについてかなり理解を深めているはずの千穂をして、予想外すぎるものだった。


         ※


 鈴乃はポストに入れられていた電気屋の広告を眺めながら、昨日の恵美との電話を思い出して買い物の予算を計算していたのだが、玄関のドアをノックする音に顔を上げた。

「ベル、私だ。少しいいか」

「アルシエル? どうした」

 珍しいことに、芦屋が訪ねてきているらしい。

 鈴乃は立ち上がると、何事だろうと思いながらドアを開ける。

 鈴乃は、悪魔大元帥が日中当然のように訪ねてきて、その訪問になんの警戒心も抱かず素直にドアを開けてしまう生活に早くも疑問を感じなくなっている自覚はあるのだろうか。

「ベル、古新聞か大きな広告紙を余らせてはいないか。あれば少し分けてもらいたいのだが」

「新聞紙か広告? ちょっと待て。確かこの前、興味本位で買った新聞がどこかに……」

 悪魔大元帥が要求してくるものが古新聞と広告紙なのだから、もう何を警戒しても無意味かもしれないが。

「これしかないが、これでいいのか?」

 鈴乃が持ってきたのはごく普通の朝刊が、半分ほどの厚みになった束だった。

「十分だ。恩に着る」

「この程度で恩を着せるつもりは無いが、なんだ、窓掃除でもするのか?」

「何? 新聞紙は、窓掃除に使えるのか」

「窓掃除用スプレーと併用するといいらしい」

「なるほど、今度実践してみよう」

 とても、悪魔大元帥と、元異端審問官の会話とは思えない。

「ともあれ、今日はそうではない。これくらい大きな紙が無いと、捨てるのが大変でな」

「捨てる?」

「うむ」

 芦屋はこともなげに頷いた。

「今日は、魔王様の御髪を切る」

「………………は?」



「あ、鈴乃さん、こんにちは」

「おお、千穂殿も来ていたのか」

 とんでもないことを言い出した芦屋を追って二〇一号室に乗り込んだ鈴乃を待っていたのは、部屋の隅にどかされたカジュアルコタツと、部屋の真ん中に座る真奥。いつも通りパソコンに張りついている漆原と、何やら見慣れない道具類を興味深げに眺めている千穂だった。

「はい、ちょっと、興味があって」

「うむ。私も正直、驚きを隠せないでいる」

「なんだよなんだよ鈴乃まで。見せもんじゃねぇぞ」

「すまない、だが」

 鈴乃は、てきぱきと古新聞を畳に広げて、さらに束ねた雑誌類を中央に置き、そこに真奥を座らせる芦屋を見ながら言う。

「まさか、アルシエルがそこまで多芸だとは思いもしなくて、一体どうするものなのか、少し興味が湧いてな」

「芦屋さんって、本当になんでもできるんですね。尊敬しちゃいます」

「それほどのことは……ははは」

 ストレートに褒められて、芦屋もまんざらではない様子。

 千穂も鈴乃も、まさか真奥の髪を切っているのが芦屋だとは思いもしなかった。

 真奥の髪が不自然な形をしていた覚えは無いので、一体どこでどう学んだかは不明だが、芦屋が単に髪の長さを短くする切り方をしているのではないことが分かる。

 千穂が眺めていたのは、魔王城の備品である妙に年季の入った成人用の散髪セットだった。

「な、なんだか落ち着かねぇなぁ」

 一方の真奥は居心地悪そうにしながら、芦屋に背を向けて雑誌の束を椅子にしている。

「佐々木さん、そのケープを、取っていただけますか」

「あ、はい」

 千穂は芦屋に言われて、固い輪の付属したケープを、芦屋に渡す。

 芦屋がそれを真奥に頭から被せると、ちょうど円錐の上部が真奥の肩に支えられ、真奥の肘あたりで大きな輪が止まり、テルテル坊主のような形になる。そして、裾の部分が切られた髪を受け止める構造になっている。

 だが芦屋が言うには切った髪は結構周囲に飛び散るらしく、髪を切る際には足元に新聞などを敷く方が後々片付けも楽なのだということだった。

「どうされますか魔王様。いつも通りの髪型に?」

「そうだな。ちょっと多めに梳いておいてくれると、暑くなくていい」

「かしこまりました。では」

 芦屋は頷くと、軽快にハサミを鳴らしながら、真奥の髪を切ってゆく。

「ほう、うまいものだな」

「芦屋さん、凄い……」

 芦屋の手の動きはよどみなく、明らかに百円ショップで購入したと思われる櫛を使いながら、あっという間に真奥の髪型を整えてゆく。

「本当最初のうちは、床屋とか行ってたんだよ。でもまた芦屋がさぁ……」

「この近所では、どんなに安くても散髪に最低二千円を要します」

「とまぁ、いつもながらのこの調子で」

「男の人って、安く済むんですね」

「私はまだ日本で髪結などしたことは無いが、いくらくらいかかるものなのだ?」

「私が美容院に行くと、色々あって安くても四千円はかかっちゃいます。鈴乃さんだと髪長いからもうちょっとかかるかも」

「とにかく、髪切るたびにそんな金使ってたら、芦屋が心臓発作で死んじまうからよ」

 千穂の言葉をため息交じりに受けながら、真奥は目だけで芦屋を示す。

「そしたら、商店街の雑貨屋でこんな散髪セット見つけてきてさ。どうしても自分がやるって言うからおっかなびっくりやらせたら、意外とうまいでやんの」

「出費を抑えることこそ、魔王城の正義ですので。この散髪セットも、未使用ですが古いものだということで、雑貨屋の店主が千円に負けてくれたのです」

「悪魔の正義は結構だが、終わった後しばらくちくちくすんのは勘弁してほしいんだがなぁ」

 普通は髪を切ったらその場で軽く洗い流して細かい髪の毛を取り除くものだが、今更言うまでもないことだが魔王城に髪を洗い流せるような設備は無い。

 だから普段、真奥は髪を切った後は、その足で銭湯に向かうことにしている。

「じゃあ、芦屋さんや漆原さんは、どうしてるんですか? 真奥さんが切ってるんですか?」

「僕はまだこっちで髪切ったことないよ……っていうか、そもそも髪切ったことないけど」

 千穂の疑問に、またも驚きの回答をしたのは漆原である。

「そ、そうなんですか!?」

 千穂の驚きに、真奥が顔だけで頷いた。

「そうだなぁ、魔界には美容師なんて洒落た職業はねぇし……なんか、そんな髪伸びた記憶も無いなぁ。なんで伸びなかったんだろうな?」

「髪が伸びる必要が、そもそも無いからだと思われます。さすがの私も、魔王軍全盛当時は髪など気にしたこともありませんでしたし」

 芦屋の分析に、千穂は唸る。

「……こうして聞くと、やっぱり違う生き物なんですねぇ」

「うーん、でも、全部の悪魔が髪が無かったり伸びなかったりしたわけじゃないし、詳しいとこは分かんねぇな。まぁ、人間みたいにオシャレするために髪切るような奴がいなかったことだけは確かだな」

「色つけて、威嚇するとかしてた連中もいるけど、あれも身だしなみとか理美容かって言われるとねー」

「ともかく、我々は元々こまめに髪を切る必要の無かった種族なだけに、人間の世界では身だしなみのために髪を切らねばならないと知ったときの衝撃はもう……」

「芦屋、そこは泣くとこじゃねぇだろ」

「で、でも今は芦屋さんも漆原さんも、髪伸びるんですよね?」

「僕はまだそれほど実感ないけど、芦屋はどうなの?」

「そうだな、確かに伸びてきてはいる」

「やっぱりそういうときは、真奥さんが切ったりするんですか?」

「「いや、それが……」」

 するとなぜか、真奥と芦屋が複雑な顔で声を揃えた。

「散髪セットを買った当時はそうすっかって話してたんだけどな……俺、芦屋ほど器用じゃなくて」

「……決して魔王様を責め奉るつもりは無いのですが……しばらく、辛い髪型で過ごした期間がありまして」

「辛い髪型とは、一体どういうものだ?」

「さぁ……」

 悪魔時代は髪の毛のことなど気にしたことも無かった、と豪語する芦屋をして辛いと言わしめるのだから、生半可な失敗ヘアーではなかったことだけは想像に難くない。

「そもそも今の私は魔王様ほど頻繁に髪型を整える必要はありませんし、どうしてもやむを得ない場合のみ、千円カットで十分以内に済ませることにしております。実際、まだ日本に来て髪を切ったのは二度ほどですし、それで用は足りましたから」

 だが飲食業に従事する真奥なら、最低でも二ヶ月に一度は髪を切りたいところだ。

 接客をする以上単純に短くすればいいというものでもなかったため、結果として、芦屋が真奥の髪型の切り方だけを覚えてこのように散髪しているのだという。

「だが、一体どうやって知るのだ、髪の切り方など。素人が見様見真似でできるほど簡単な作業ではあるまい?」

 鈴乃の疑問に芦屋が口を開こうとして、

「どうせまた図書館とか言うんでしょ」

 機先を制したのは漆原だった。

「図書館に髪の切り方の本が置いてあるのか?」

「っていうか、置いてあったとして、どういう理由で芦屋さんがそんな本を?」

「佐々木さんはともかく、ベル、貴様は分かってもおかしくないと思うがな。あ、魔王様、目を閉じておいてください」

 芦屋は今度は真奥の前に回って、前髪を整えはじめる。

「貴様とて、儀式に化粧を用いていたと言っていたではないか。悪魔も同様だ。オシャレだ身だしなみだという意味で髪を整える者はいなかったが、魔術や儀式の都合上、一定の髪型に整える種の悪魔もいたのだ」

「ああ、なるほど」

 鈴乃は素直に納得した。

 教会の儀式にも、フードに隠れる下の髪型まで細かく指定されている儀式はいくつもある。

 そういう意味で言えば実は剃髪するのが一番聖職者としてオールマイティではあるのだが、鈴乃は過去の役職柄聖職者だと知られてはいけない場面も数多くあったし、そこまで極端ではないにしろ、場面場面に応じた髪型ができることは、俗世間との繫がりを残す意味でも重要なことだった。

「あー、思い出した。それで一度芦屋と大ゲンカしたことあったんだった」

 目を閉じたまま、真奥が言う。

「ありましたね、そんなことも」

「え? なんでですか?」

「ちーちゃん、日本で超常的な力を持っていそうな人っていったらどんな奴想像する? 現実がどうかは置いておくとして」

「超常的って、つまり真奥さん達みたいに、魔法みたいな力を使いそうな人ってことですか?」

「そうそう」

「うーん……やっぱり、お坊さんとか、神主さんとか、巫女さんとかですか?」

「てなるだろ? で、マグロナルドに入る前のことだけど、日本に来て初めて髪を切った方がいいんじゃないかって話になったときに、芦屋が坊主頭にしようとか言い出したんだよ」

「「「えええ!?」」」

 これには千穂のみならず、漆原と鈴乃も声を揃えて驚いた。

「まだその頃は、日本に於ける聖魔の区別がはっきりついていなかったこともありまして」

 真奥の言葉を受けて、芦屋も少し恥ずかしそうに苦笑する。

「芦屋がいきなり丸坊主にするとかスキンヘッドにしようとか言い出したときには、いよいよ貧乏暮らしが行きすぎて頭おかしくなったかと思ったぜ」

「私はいつだって大真面目です」

「真奥さんと……」

「アルシエルが」

「スキンヘッド……」

 千穂と鈴乃と漆原は、目の前の主従をしばし凝視し、

「「「ぶふ────!!」」」

 一斉に噴き出した。

「なんだよそれなんだよー! そんな面白そうなこと、なんで実行に移さなかったのさー!」

「く……くくくくくく」

「す、すいません……すいませんすいません、でも……うふ、ふふふ」

 漆原は遠慮なく笑い、鈴乃は腹を抱えて畳に顔を伏せて必死で笑いをこらえ、千穂も我慢しようとするが、どうにもこらえきれない。

「なんなら漆原、今すぐ貴様を摂生と自戒を込めて丸坊主にしてやってもいいのだぞ!?」

「他人に丸坊主にされるのに自戒とかならないでしょ!? 日本語おかしくない!?」

「でもあのときは本当にヤバかったよな。芦屋に説得されて実行一歩手前まで行ったもんな」

「ええ!? そうなんですか!?」

「あはは、そ、そうなのか、ど、どうして思いとどまったんだ?」

「それが……」

 芦屋の説得に折れる形で、真奥は芦屋と揃って床屋へと出向いた。

 スキンヘッドにするには剃刀が必要で、さすがに家庭で行うには危険を伴ったし、美容室ではなく理髪店、つまり理容師の手でなければできないということもあり、町内の理髪店に出向いたところ。

「すげぇ高かったんだ。料金が」

「へ?」

「ちーちゃん、見たことねぇだろ? 床屋のメニューでスキンヘッドとか」

「そっか、丸刈りとは、また違うんですもんね」

 中学のころは、クラスの野球部の男子が何ミリカットなどと言っているのを聞いたことがあったが、剃髪、つまりスキンヘッドとは、完全に頭皮を露出させるので、ただバリカンやハサミで髪を切るのとはわけが違う。

「通常カットの二倍の料金がかかると言われて……その時点では安定した収入も無く、二倍のカット料金など払うのは不安すぎたので、結局見送りになったのです」

「へぇ! 高いんですね!?」

「話聞いたら時間もかかるらしくてさ」

「そうだな、魔王もアルシエルも毛量が多いから、完全に剃髪するなら三時間はかかるだろうな」

 するとなぜか鈴乃が得心顔で頷き、前髪を切り終わった真奥が驚いたように目を開いた。

「何? 鈴乃お前、やったことあんの? スキンヘッド」

 そして、鈴乃はこともなげに頷く。

「ああ、一度だけだが、修道僧時代に」

「ええ!? そうなんですか!? こ、こんなに髪綺麗なのに!?」

 もちろん驚いたのは千穂である。

 今はシャンプーのCMにでも出演できそうな鈴乃の長い髪が、剃髪されていた時代があるなど女性として信じられないのだろう。

「よほどの事情が無い限り、神に仕える道を選んだ者は修道僧時代には一度は剃髪をしなければならない。免除されるのは、貴族や王侯の子女が、なんらかの事情で一時的に出家するときくらいだな」

「そ、そっか、鈴乃さんって聖職者なんですもんね」

「でもさ、オルバはずっとツルツルだったみたいだけど、スキンヘッド維持しなくちゃいけないとか無いの? まさかその髪、取り外し自由とか」

「修道僧時代を終えれば髪型は自由だが、敢えて剃髪を維持し鬘を着用している者もいる」

「いるの!?」

 漆原としては鈴乃をからかう意味で言ったのだが、大真面目に返されて逆に驚いてしまった。

「それほど驚くことでもあるまい。日本ではどうか知らないが、海外の作曲家の肖像画など、大半は正装としての鬘を被っているだろう。私はこの通り妙に髪の伸びが早く毛量も多かったから大抵自前でどんな髪形でも作れたが、私が所属する宣教部には、剃髪を良しとしない地域の貴人などと接見するための専用の鬘を持っている者は多い」

「へぇ! 何か勉強になります」

 異世界の上流階級の文化を学んでもどうにもならない気がするが、千穂は熱心に鈴乃の話に聞き入っている。

「オルバ様は単純に自分の好みで剃髪を維持されていたのではないかと思う。大法神教会の聖職者達が剃髪するのは一度は俗世から離れたことを示す儀式やけじめのようなもので……女としてこんなことを言うのもどうかとは思うが、剃髪していた頃は、髪の手入れなど考える必要は無いからその点は楽だったな。今はこの長さだから、銭湯のドライヤーで髪を乾かすのに十円玉が五枚は無くなってしまう」

 ヴィラ・ローザ笹塚からほど近い銭湯『笹の湯』のドライヤーは十円で約二分ほど利用できるのだが、鈴乃の長い髪をきちんと乾かそうとすれば、確かに十分はかかるかもしれない。

「あー、銭湯でたまーにスキンヘッドの人に出くわすけど、確かに頭洗うのはラクそうだな」

「今なら少し家計に余裕がありますし、やってみますか?」

「明日いきなり俺がスキンヘッドで出勤したら、さすがの木崎さんも腰抜かしちまうよ」

 芦屋の冗談を、真奥は笑って流す。

「でも、芦屋さん、本当に上手ですね。ちゃんと格好良く短くなってる」

「恐れ入ります。よろしければ、参考書などお貸しすることもできますが」

「参考書ですか?」

「おい、漆原」

「え? もしかしてあれのこと?」

 芦屋に言われて、漆原は押し入れを開くと下の段から大きな段ボールを引きずり出す。

「どれ?」

「最近見ていないが、確か青い表紙の大学ノートだったはずだ」

「えー、ほとんどそんなんだから分かんないよ」

「なんですかそれ?」

 千穂と鈴乃が興味を抱いて近づくと、漆原がその中の一冊を適当に手渡す。

「芦屋お手製の資料集」

「凄いな、どれも手書きではないか」

「これ……芦屋さんが一人で?」

 芦屋の得意分野である家事全般はもちろんのこと、魔法や科学、地理や歴史、新聞のコラムなどと題されたノートの山に、千穂も鈴乃も啞然としてしまう。

「あ、あった、これかな。『理髪』って書いてあるけど」

「それだ」

 漆原が手に取ったノートを受け取って千穂が開くと、それはわざわざイラストまで写生した理髪の教科書の丸写しだった。几帳面な芦屋らしく表紙に引用した本のタイトルと出版社まで書かれていて、その詳細な内容に千穂と鈴乃は肝を潰す。

「何か……真奥さんが、ほとんど違和感なく日本に馴染みきってる理由が、分かった気がします」

「すげぇだろ? これ以上ないほどの、縁の下の力持ちってやつだ」

「お褒めにあずかり光栄でございます」

 真奥が我がことのように誇らしげに言い、芦屋も気負うことなくその言葉に応える。

「これは一度時間をかけて、じっくり読んでみたいな。私にもこれくらい精密で、時代に合った資料があれば……」

「鈴乃さん?」

 芦屋の手書きのノート群を見て知的好奇心を刺激されたか、鈴乃が新たなノートに手を伸ばそうとするが、

「佐々木さんは構わんがベル、貴様からは閲覧料を取るぞ。伊達や酔狂で作った資料ではないのだからな。おいそれと敵に見せたりはせん」

「む……そ、そうか」

 芦屋に言われて、鈴乃は少し残念そうにしながらも素直にノートを箱に戻す。

 千穂も苦笑するが、真奥達と鈴乃の関係性を考えれば、外野が口を挟める問題でもない。

 ところが一度はあきらめかけた鈴乃が、ふと、別の一冊のノートを手に取ると、芦屋に向き直った。

「それでもこの『日本の仏教』というものには興味がある。職業柄、異国の宗教を学ぶ機会は逃したくなくてな。読ませてもらうには、いくら払えばいい?」

「え?」

「む?」

 鈴乃が素直に金を払うと言い出して、逆に千穂も芦屋も驚いてしまう。

「う、む……そ、そうだな」

 まさかそう来られると思っていなかった芦屋は、しばし逡巡したがやがて鈴乃から顔を逸らした。

「……表紙の裏に、参考文献の表題が書いてある。宗教関連は、基本的に聖性に属するものだと分かって以降あまり真面目に資料を収集していない。本当に学習したいなら、タイトルだけ覚えて図書館に行け。貴様の学習水準ならその方がずっと良いだろう」

「……アルシエル?」

「芦屋さん!」

 先ほど底意地悪く笑っていたくせに、いきなり気弱にそんなことを言い出す芦屋に、鈴乃はきょとんとし、千穂は思わず微笑んでしまう。

「芦屋って、案外そういうとこ日本人的だよね。お金取ること遠慮しちゃったりしてさ」

「う、うるさい」

 漆原の突っ込みに、芦屋は決まり悪そうに顔を顰めた。

「宗教関連の資料は本当に適当なのだ。後で間違っていたなどとと文句を言われたくないし、きちんと学ぶなら本来の文献を当たる方がいいことは自明の理だろう」

「芦屋さんって、やっぱり真面目ですね」

「ふむ、ではお言葉に甘えて、書名だけメモさせてもらおうか」

「やれやれ、日頃節約節約うるさいくせに、お金のこととなると変に真面目でやんの」

 髪を切られながら、芦屋と、千穂と、漆原と、鈴乃の、そんな益体も無い話を聞いていた真奥は、小さく笑った。

「ま、ご近所付き合いってやつだ。悪いことじゃねぇや」

「真奥さん?」

「ん? なんでもね」

「さ、魔王様、終わりましたよ」

「おう、さんきゅ。うー、真夏にもなるとコレもあっちぃなぁ」

 真奥は髪を受け止めていたケープの下で汗をかいてしまっていた。

「アイスかなんか食べたいよねー」

「日がな一日家でごろごろしている貴様にそんな贅沢品は必要ない。なにがアイスだ」

「えぇー、いいじゃんそんくらい。ほら、スーパーで箱アイスが二百円の時代だよ!?」

「その二百円を稼ぐ労力を理解してから言え」

「あー、もう分かった分かった。銭湯の帰りに買ってきてやっから、喧嘩すんな暑苦しい」

「魔王様は漆原を甘やかしすぎです! 子供には厳しいくらいが丁度いいのです!」

「ちょっと芦屋! 誰が子供だよ!」

「漆原さんは一番子供だと思いますよ?」

「千穂殿に全面的に同意する」

「なんだよお前らまで! 本当の子供は怒られただけで素直に引き下がったりしないだろ!?」

「漆原さんが怒られて引き下がらなかったらそれこそドン引きですよ」

「うむ、子供の躾というのは最初が肝心だと言うからな。そういう意味では魔王軍時代から既に失敗しているということか」

「クレスティア・ベル! 貴様、漆原に何を言おうと勝手だが、魔王様の御力を疑うような発言は許さんぞ!?」

「僕はもうこの場の全員を侮辱罪で訴えたい!」

「もし将来魔王様に御世継ぎが生まれた場合には、きっと魔王様の指導の下、父君の御心を立派に受け継ぐ立派な御子になろう! 漆原の如くなるはずがない!!」

「おおおおお御世継ぎ!? まままま真奥さんまさか魔界に帰ったらそんな予定が!?」

「ねぇよ!? そんな予定も身に覚えもねぇよ!? 芦屋お前も適当なとこにしとけよ!」

「……そんなことになる前に、さっさとエミリアに魔王を討伐してもらわねばな。明日私の所に訪ねてくる予定だから、ついでに頼んでみるか」

「お前も出かけたついでにスーパーで牛乳買ってきてくれみたいな軽いノリで俺の命を刈り取ろうとすんなよ!? 執行猶予短すぎだぞ!? ああもう! 俺とにかく銭湯行ってくる! Tシャツの襟がちくちくして痛ぇ!」

「ああ、待て魔王。私も出かける。図書館の場所を教えてくれ」

「ああ? ついてくんな。ンなもん芦屋に聞け。銭湯とは正反対だ!」

「そうだ、私夕方に家に届け物があるかもって言われてたんだ。早く帰らないと。真奥さん、芦屋さん、お邪魔しました」

「僕もこの部屋の住人なんだけど!?」

「いえいえ、またいらしてください。帰り道はどうぞお気をつけて。ベル、貴様とエミリアは特別来なくていいから、明日エミリアにもそう伝えておけ」

「ふん、こっちの食材が少なくなりはじめたと分かった途端に強気に出おって。なんなら二人して玄関の前に居座ってやろうか」

「それは遊佐さんの方が嫌がりそうですね」

「俺は日本にいるうちは、極力静かに暮らしたいんだがなぁ」


         ※


「……くしゅっ」

「お、どうした恵美、エアコン当たりすぎた?」

「ちょっと今日の席寒いですよねー」

 恵美は職場で小さくくしゃみをし、隣の梨香と、その向こうにいる真季に心配される。

「そうね……なんか、突然むずむずしはじめたのよね。なんなのかしら」

「なんでしたっけ、何回だといい噂で何回だと良くない噂って言いますよね」

「回数は私も聞いたことあるけど、一体そういうの誰が考えるんだろうね。確か三回とかでいい噂だっけ?」

「でも私、三回も連続でくしゃみするとか、花粉の季節くらいしか無いですけどねー」

「私は花粉も特に無いから、連続したくしゃみはとんと記憶に無いな」

「梨香も真季ちゃんも、人のくしゃみで変に盛り上がらないでよ」

 恵美は苦笑しながら、エアコンの送風口の位置を確認して、午後は軽く上に一枚羽織った方がいいだろうかとそんなことを思いながら、

「明日はまた笹塚に行かなきゃなんだし、風邪なんか引いてられないわよね」

 そうやって、気合を入れるのだった。



 終章 ─ 六人の『その日』の前日 ─



「ほう……日本の夏には、全国的にこんな大がかりな宗教儀式を行うのか」

 鈴乃が図書館で、仏教に関する文献を調べている頃。


         ※


「お世話様でーす……何これ、お中元? あ、アイスだ! ハーゲンデッセのプレミアムギフトボックス!」

 ちょうど家に帰宅した千穂は、宅配便の来訪を受け、両親宛てのお中元を受け取る。


         ※


「あーもう、エミリアも佐々木千穂もベルも気安く来すぎ。気が散って仕方ないよ。あー、自分の部屋が欲しい!」

 漆原が身の程を弁えずにそんな愚痴を垂れている頃。


         ※


「ううむ御世継ぎか……しかし、魔界統一事業の偉大さを考えれば魔王様の将器を受け継ぐ御子を得ようとなると伴侶もそれなりの…………………………とりあえず佐々木さんの前では、この話題はやめておこう」

 芦屋はスーパーで、冷凍子持ちシシャモを手にどうでもいいことを考える。


         ※


「とりあえずベルの体質に合うかどうかって問題もあるし、お試しで三ケースくらいでいいかしら。まぁ、サリエルが大人しくしてる分にはこれ以上面倒事も起こらないだろうしね」

 恵美がマンションで、鈴乃におすそ分けするためのホーリービタンβの数を吟味している頃。


         ※


「あー……ちっと長湯しすぎた」

 真奥は長湯に顔を火照らせながら、だるそうな足取りで銭湯を出た。

 夕暮れ時といえど、湿度のおかげであまり気温が下がった感じもせず、帰り道にかいてしまう汗のことを思いながら、真奥は漆原にアイスを買っていってやると言ってしまったことを思い出し、仕方なくスーパーに寄る道を取る。

 スーパーで一番安いスティックアイスだけを購入し、笹塚駅前からアパートまでの間にある菩薩通り商店街を歩いていると、とある店の前で真奥は声をかけられた。

「よぉ、真奥ちゃん」

「あれ? 広瀬さん!」

 広瀬は、町内会のボランティア清掃で知り合った商店街の自転車屋の主人だ。

 ヒロセ・サイクルショップの店先で何かを整備していたらしい広瀬は、機械油まみれの顔をタオルで拭い一息つく。

「仕事の帰りかい?」

「いや、今日は休みで、今銭湯行ってきたとこなんすよ。……広瀬さんそれ」

「ああ、これ。今日入荷したんだ。国産だけど、結構お買い得でな」

「実は、最近自転車がぶっ壊れちゃったんですよ。今、新しいの探してて」

「ん? 簡単な故障だったら直してやるぞ?」

「あ、いや、フレームがもう完全にへし折れちゃってて、こないだ粗大ごみで出しちゃいました」

 鈴乃の渾身の一撃で粉砕されてしまった初代デュラハン号の亡骸を思い出し、真奥はそっと涙を拭う。

「まぁでもそういうことなら、こいつは割とおすすめだよ。ライトがオートで点くのが一番の売りかな。あとはギアも六段あるし、丈夫で錆び辛いパーツ使ってる。真奥ちゃんが買うなら、ちっとくらい負けるぞ」

 広瀬がそう紹介する新商品だという自転車には、手書きで『特価! ¥32800』と書かれていた。

 真奥はそれを見て、小さく微笑む。

「三万円ちょいか。これくらいなら、あいつも嫌とは言わんだろ」

 真奥は決心すると、早速広瀬に値段の交渉を兼ねた予約を頼む。


         ※


 小さな小さな変化と、小さな小さな行動が積み重なって、星の巡りを目で捉えられないが如くに推移する日常の風景。


「ぱぱは……サタン」

「そうか……パパはサタン……は?」


 そんな魔王と、勇者と、女子高生と、悪魔大元帥と、堕天使と、聖職者達の『平穏であること自体がおかしい日常』に訪れた新たな存在によって、彼らを取り巻く世界が再びうねりはじめるのは、もう、間もなくのこと。


─ 了 ─

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