はたらく魔王さま!SP2

魔王、身だしなみを整える ─ 真奥の場合 ─

「とはいえ、運動不足が良くないのは確かよね」

 恵美は自宅から駅までのわずかな徒歩の距離を思いながら、呟いた。

 エンテ・イスラでの生活を思えば、幼い頃は早朝から目覚めて食事を作り、昼は父の畑仕事を手伝っていた。

 勇者として旅立ってからはそれこそ粗食で毎日何万歩歩いたか分からないことを考えると、デスクワークで運動不足などと、贅沢病も甚だしいと思ってしまう。

 では一つ運動でもしてみようかと考えると、昨夜の鈴乃との電話で聞いた千穂の疑問が頭をよぎる。

 何故、同じ人間であるはずの千穂と鈴乃に、あれほどの肉体的な力の差があるのか。

 もっと言えば、聖法気の力が完全に無くなった場合、自分や鈴乃は、果たして千穂が『超人的』と認識するほどの力を発揮することができるのだろうか。

「……」

 永福町駅。ホームに滑り込んでくる電車を見ながら、恵美は手近な吊り革を摑み、摑んだその手をぼんやりと見る。

 例えばもし、自分の体が魔術などで大きく撥ね飛ばされた場合、恐らく左右どちらかの手で地面を弾いて空中で一、二回転して体勢を立て直し、足で着地して再び敵に立ち向かうだろう。

 この場合、慣性の助けが多少あるにしろ、恵美は片腕だけで、大人の女性一人を空中に撥ね上げるだけの力を持っていることになる。

 エンテ・イスラ北大陸を支配していた悪魔大元帥、アドラメレクと対峙したときは、魔王やアルシエルすら遥かに凌駕する巨大な体軀を誇ったアドラメレクの、電柱ほどもあるような金属製の槍を真正面から受け止めた。

 恵美と同じ体格の日本人、例えば梨香がそんなことをすれば、一瞬で全身粉々になっているだろう。

 この違いは一体なんなのか。

 だが一方で、恵美はこうして無意識に、日本人の標準的な肉体構造に合わせて強度設計されている吊り革を破壊することなく摑むことができる。

『ぁ間もなくン明大前~。明大前ェ……。ンぉ乗換えのお客~様、お降りになりましたらぁ電車より離れてお歩きくだぁ……さい』

 そんなことをつらつら考えているうちに、乗換駅に到着して、恵美は大勢の通勤客の流れに押されて、京王本線のホームへと歩を進める。

 こういったときも、例えばちょっとぼんやりしていると、人の流れに乗り遅れてぶつかられることがあるが、そういったとき、恵美の体は日本の同年代の女性となんら変わりなくよろけてしまう。

 だが思い返してみれば、飛翔中に魔王軍の投石器から放たれた火炎岩が背中を直撃しても、よろけるどころか飛翔進路にいささかのブレも無かったように思う。

 エスカレーターの左の列で、同じ方向に進む通勤客の群れをぼんやりと眺めながら、恵美はふと、こんなことを思った。

「魔王達と一緒で……聖法気を完全に失ったら、私達、日本の人達と何も変わらないんじゃないかしら?」


         ※


 一度気になってしまうと、なまじ解決の方法が分からない問題なだけに、その後もずっと気になってしまう。

 だから、

「恵美、この店いまいちだった?」

「え?」

 ランチ時、テーブルの向かいに座っていた梨香が心配そうに覗き込んできたことで、ふと我に返った。

「ご、ごめん、ちょっとぼんやりしてた。何?」

「ああいや、このお店、いまいちだったかなって」

「そう? 美味しいと思うわよ」

 手打ち蕎麦が人気だという新しい店に昼食を食べに来た恵美と梨香。

 全ての蕎麦メニューに一品小鉢がついてきて、ドリンク込みでランチ限定六百円という、お財布にもカロリー的にもOLに優しいお店なのだが……。

 ついてきた一品小鉢というのが、卵豆腐だったのだ。

 エンテ・イスラ人と地球人の肉体の『力加減』に悩んでいた恵美は、『箸で豆腐を摘む』という絶妙な力加減が要求される動作に疑問を呈してしまい、卵豆腐を目の前に思考が停止していたらしい。

「う、うんごめん。ちょっと考え事を……」

「ふうん。昨日の夕ご飯と卵豆腐が被った?」

「え?」

「なんか豆腐を見た途端に固まっちゃったように見えたから」

「……」

 卵豆腐は、好きである。それは表明しておかねばならない。

 だが、普通に食事をする場合、ごく無意識に箸で豆腐を摘むことはできるが、もし妙な意識が働いて手先や箸に聖法気を行きわたらせてしまった場合、陶器の小鉢を粉砕してしまうのではないかと想像してしまったのだ。

「うーん……ちょっとごめんね」

「ん?」

 妙に意識してしまった恵美は、一旦箸をおいて、右手を振ったり指の筋を伸ばしたりして、緊張をほぐそうとする。

「どうしたの? 突き指かなんかしたの?」

「ううん、なんて言ったらいいのかな。ちょっと力加減がバカになっちゃってるのよ」

 我ながら下手くそな言い訳だとは思うが、他に言いようが無いのだから仕方が無い。

 卵豆腐が直接のきっかけ、というのがなんとも馬鹿馬鹿しい話ではある。

 だが恵美は、自分が今まで、如何に聖法気を無意識に用いていたかをはっきりと自覚した。

 それは、電車に遅れそうになったときに、力を入れて道を走ることを特別意識することが無いように。

 重い荷物を持つときに、腕肩腰足を連動させて力を入れることを特別意識することが無いように。

 卵豆腐を箸で食べるときに、身が崩れないよう力を弱めて掬い取ろうとするように。

 そんな日常の『力量の増減』を無意識に行うが如く、恵美は日本で無意識に聖法気を使った場面が思った以上に多かったことに気づいたのだ。

 日本で初めて真奥に出会ったとき、聖法気を使いたくないがためにナイフを取り出したが、思えば一足飛びに数メートル跳躍したあのときの恵美の体や足には間違いなく聖法気が作用していただろう。

 そんな強靭な足が、敵だった(今も敵だが)漆原が空中に放り出した千穂を受け止めようとして、簡単に折れてしまったこともある。

 だがすぐに全力で聖法気を解放したことで、あっさり足は治り、飛翔の法術を使うまでもなく、純粋な跳躍だけで低層ビルや電柱の上に飛び上がることができた。

 一体自分の体や意識は、どのような仕組みで『聖法気を使う場面』と『聖法気を使わない場面』を区別しているのだろう。

 それを思うと、うっかり箸で小鉢を破壊しそうになるのではないかと恐ろしくて、手がうまく動かなくなってしまうのだ。

「恵美、結構ストレス溜まってるんじゃない?」

「え?」

 すると梨香が、心配そうに恵美の右手を見る。

「ずっとデスクワークで、話の分かる問い合わせばっかりじゃないし、外食も多いし、その上最近の恵美、真奥さんがらみでいっつも凄い顔してるじゃん」

 そう言いながら梨香は、自分の眉間をちょんちょんと突く。

 恵美はそれが、自分の眉間に寄っている皺を指していることに気づきはっとした。

「そう……なのかな」

「うん、前よりもイライラしてること多いし……差し出がましいことかもしんないけど、本当に真奥さん達との関係がストレスにしかならないんなら、思いきってすっぱり縁切っちゃうのも一つのやり方じゃない?」

 恵美も、思いきって真奥をすっぱり斬れればどんなに楽だろうと、心の中で思う。

「なんかごめんね、変な気使わせちゃって」

「ううん、いいんだけどね」

 梨香は苦笑しながらも、それ以上突っ込んではこず、自分の蕎麦を手繰りはじめる。

 恵美はもう一度だけ軽く手を振ってから、改めて箸を手に取り小鉢を持つ。

 特になんの問題も無く、いつも通り箸を進めることができた。

「あ、そうだ。恵美こんなの、興味あったりする?」

 結局美味しく蕎麦を平らげた後、梨香がふと財布の中から取り出したのは、何かのチケットの束のようだった。

「何? 『高田馬場ビッグケース・ファイターズジム』無料体験チケット……?」

「高田馬場に前からあるジムが、なんか最近リニューアルだかして配ってるらしいのよ。前々からよく、チラシだけはポストに入ってきてたんだけどさ」

「へぇ」

 梨香のマンションは高田馬場にあるから、最寄り駅近くの商業施設からそういう案内が来ることもあるだろう。

「でもどうせ行ったって長続きしないし、チラシも五百円割引とか微妙なクーポンしか無いから無視してたら、真季ちゃんいるじゃん、最近入った子。彼女がこの無料券くれたのよ」

「真季ちゃん……ああ、清水さんのこと?」

 清水真季は、最近恵美と梨香の職場に入ってきた大学生アルバイトだ。

 恵美も顔を合わせれば挨拶くらいはする間柄だが、まだ一対一の友誼を結んだことはなく、食事も真季以外に何人かいる状態で何度か一緒に行ったことがあるきりだ。

 普段はおっとりした雰囲気だが、ハードな問い合わせも少なくないこの仕事においても自分のペースを崩すことのない豪胆な精神を持っており、商品やサービスの理解度も高い。

 一度だけ席が隣り合ったことがあったが、初めから難癖をつけるためにかけてきたとしか思えない三時間に及ぶ恫喝混じりの問い合わせ案件を、全くペースを崩すことも上長に回すことも無く乗りきった場面を見たときには、恵美も舌を巻いたものだった。

「うん。最近よくシフト重なってて一緒にご飯とか行くこともあったんだけど、そのとき真季ちゃんからもらったの。彼女、ここの会員なんだって」

「へぇ。清水さんも高田馬場に住んでるの?」

「ううん。家は池袋の方らしいんだけど、聞いたら驚いちゃった、真季ちゃんの大学、早稲多なんだって」

「へぇ! 早稲多大学って、確かすごくいい学校よね?」

 日本の大学の名前に詳しくない恵美でも知っている名前が出てきて、軽く驚く。

「いい学校っていうか、実質日本の私立大学のトップクラスじゃない? ともかく学校帰りとかにこのジムに行ってるらしくて。よくあるじゃん、友達紹介みたいなのするとプレゼントがあるとか」

 よくあるかどうかは知らないが、よく見ると各チケットには通し番号のようなものが振ってある。

 特典欄を見ると、紹介者と一緒にこのチケットを持って無料体験をすると、体脂肪燃焼系スポーツドリンクを紹介者と体験者両方に一本プレゼント。体験者が入会すれば、より脂肪燃焼効果の高いハイクラスのスポーツドリンクワンケースを双方にプレゼントすると書かれていた。

「やっぱり基本はダイエットなのね」

「ん? 何が?」

「ううん。でもこういうジムのチラシ、うちにも来たりするし、明大前にもスポーツジムあったはずだから、わざわざここまで行くのもね」

 恵美自身は利用しようと思ったことは無いが、自宅の最寄り駅から一駅先の明大前にもこの手の施設はあったはずだ。

 清水真季には悪いが、このためだけに高田馬場まで出る必要性は感じられないし、自分の経済状況を考えると会員登録する可能性も低いので、断ろうと思ったそのときだった。

「でもここのジム、普通と違うことがあるみたいよ」

「え?」

 梨香にチケットを返そうとした恵美の手がピタリと止まる。

「そこに『ファイターズ』って書いてあるじゃない?」

「うん」

 店の名前に深い意味も無いだろうと読み飛ばしていた文字に、恵美は目を落とす。

「普通のジムと違ってそこって」

 と、梨香は蕎麦屋のテーブルの上で、行儀悪く両の拳を握って構えてみた。

「声、出せるらしいよ?」

「……声?」


         ※


 扉を開くなり、空調を効かせて尚、溢れる熱気と気合たっぷりの声が押し寄せてきて、恵美は思わず声を上げた。

「す、凄いわね」

 恵美は、スポーツジムという施設をどこか冷めた目で見ていた感があった。

 ダイエットをしたいなら食事制限と適度な運動をすればいい。

 実際にこういう施設に来る時間や金銭的余裕がある人ならば、そのような時間を取ることもできるだろうに、何故わざわざ余計なお金を使う必要があるのだろうとずっと思っていた。

「ね? ちょっと違うでしょう?」

 恵美の隣に立った女性、恵美と梨香をこのジムに誘った清水真季は、左腕に更衣室のロッカーキーを巻きながら言った。

 梨香からジムの話を聞いた翌日である。

 残念ながらシフトの都合上、近い内でどうしても恵美と梨香と真季が同時にシフトに入っていない日というものが無かったため、今日は恵美と真季の二人だけ。梨香は後日また真季が案内することになっていた。

「この人達、全員スポーツ選手とかじゃないのよね?」

「前に一度、引退した元野球選手見たことありますよ。テレビとかで見るともうおじさんだなーって思ってましたけど、運動してる姿見ると体つきとかやっぱりプロなんだなぁって」

「へぇ」

 恵美は改めて、フロア全体を見渡す。

 そこには老若男女、ありとあらゆる世代の人間が、大いに気勢を上げてトレーニングに励んでいた。

『声の出せるファイターズジム』という売りだけあって、フロア全体が暑苦しくも気合いの入った大声で満たされていて、隣に立つ真季と話すだけでもかなり大声を出さなければならない。

 多くのジムと同じように、ランニングマシンやエアロバイク、ロデオマシンに始まり全身各所の筋肉を効率良く鍛えられるよう設計されたマシンが所狭しと並んでいるが、やはり一番特徴的なのは少し奥まった場所にある、『ボクシングフロア』としか言いようのないスペースだろう。

「あそこって、誰でも使えるの?」

 恵美がその場所を指さすと、真季は目を輝かせて大きく頷いた。

「すっごく楽しいですよ! あそこのインストラクターの人に言って、拳を傷めないパンチを打つ講習を受けた後なら、誰でも使えます」

 そこにあるのは、サンドバッグとボクシングリング、そして天井からぶら下がる二本のロープである。

「見た目より結構難しいですけど、うまい具合にサンドバッグを殴れたら、チョー気持ちいいですよ! 遠慮なしに何か殴るって、日常生活じゃまずあり得ないですからね! 私、マイグローブ持ってるんです!」

「そ、そうなの」

 恵美は真季の第一印象を、おっとりした大学生だと受け止めていたが、やはり認識を改める必要がありそうだ。

 よくよく見ると真季の体は、細身ではあるもののかなり引き締まっており、過去なんらかの運動をやっていたことが分かる肉付きをしていた。

 今の仕事場に馴染めるだけの肉体的、精神的修練はとっくの昔に積まれていたのだろう。

「でも本当、付き合ってくれてありがとうございます。なかなか一緒に来てくれる人がいなくって」

 確かにこの空気は『ちょっと運動でも』と思う程度では尻込みしてしまうかもしれない。

 梨香や真季や、そもそもジム自体が『声を出せる』ことをこれほど強調するくらいなのだから日本のジムで声を出せるというのは珍しいことなのだろう。

 エンテ・イスラの騎士団の練兵場くらいしか知らない恵美にとっては逆にそのことの方が不思議だが、公共の場で静音を保つマナーが浸透している日本では、訓練の無い者が、いかにも『がっつりトレーニングしてやる!』という空気に馴染むのはなかなか難しいだろう。

「ううん、私も最近、運動はしなくちゃって思ってたし、それに……」

 恵美はそんなことを思い出しながら、奥のサンドバッグを見て、小さく自分の手を握る。

「ここなら、自分の体のことをきちんと理解できそうだから」

「入会したときに肉体年齢とか体脂肪率とか姿勢の良し悪しも測ってくれますし、確か入会しなくてもお金払えばやってくれたと思います」

 真季は恵美の言葉を、日本の常識に当てはめて気を使ってくれたようだが、恵美が言うのはもちろん、自分の体に超人的な能力を付与している聖法気についての理解を深めるという意味である。

「まぁ入会するかどうかはさておき、折角お誘いいただいたんだから、今日は楽しませてもらうわ」

「はい! じゃあまずあそこのマットの上で、準備運動して、軽く有酸素運動してから、一通り機械の使い方、説明しますね、先輩!」

 元気良くそう言いながら気合を入れる真季の背中を、恵美は瞬きしながら見た。

 今、とても耳慣れない呼ばれ方をされた気がする。

「……先輩?」



 備えつけのディスプレイに、肉体の代謝を高める高性能準備運動の映像が流れるマットフロアで、恵美と真季はそれぞれ思い思いのやり方で準備運動を行っていたのだが、

「先輩の準備運動、変わってますね?」

「え、そ、そう?」

 真季は途中から恵美の準備運動を興味津々で観察していた。

 恵美の知る運動は教会騎士団在籍時に訓練前に行ったものであり、鈴乃が千穂に教えていた修道僧用の精神修養を兼ねた動きが多く取り入れられたものである。

「先輩、武道とかダンスとか、やってたりしたんですか? なんか、そんな感じの動きな気がして」

「え、ええと」

 恵美は一瞬たじろぐ。

 日本で暮らしはじめて今日この瞬間まで、人前で運動するということが無かった恵美。

 ごく自然にかつて行っていたトレーニングをそのまま実行してしまったのだが、考えてみれば日本には日本のスタンダードな準備運動があるのである。

「そ、その、海外にいたとき、近所のミッション系の学校で昔修道士がやってたっていう運動を教わって、それで」

「やっぱり先輩、帰国子女なんですね! 先輩英語ぺらっぺらですもんね! いいなぁ、やっぱり話せなきゃ、それこそお話にならないですよねー」

「う、うん、でも清水さんも、外国語案件とかやってるじゃない」

 そこはやはり名門大学に通うだけの頭脳が為せる業か、真季も恵美ほどではないにしろ、外国語問い合わせ案件を請け負うことがあった。

「先輩には負けます。時々何言ってんのか分からないって反応されますし、先輩みたいに英語以外もパーフェクトとかじゃないですし。どんな勉強したのかお聞きしたいと思ってたんですけど、やっぱ帰国子女とかじゃないとそこまでなかなか行かないですよねー」

「う、うんそれよりもさ、清水さん」

「なんですか先輩」

 長座しながら足裏の筋を伸ばしていた真季が恵美を見上げる。

「その『先輩』って、何?」

「え? 先輩は先輩ですけど……遊佐先輩」

「その。落ち着かないから、普通に名前だけで呼んでもらえると……」

「ええっ!? いいんですか!?」

 すると真季は、本気で驚いているようで、恵美を見返す。

「鈴木せ、あ、違った、梨香さんからもそう言われてるんです! 先輩とかやめろって」

 明らかに今、この場にいない梨香のことを『鈴木先輩』と言いそうになり、慌てて言い直す真季。

「うん、私も普通に恵美でいいんだけど」

「は、はい……ええっと……ううう」

 真季は狼狽えたように視線を彷徨わせ、なぜか顔を赤くし、そして、

「ゆ、遊佐さん!」

 と、散々迷った末に着地したことが分かるような調子で呼びかけてきた。

「あ、う、うん、じゃあそれで」

「な、ならせんぱ、あ、遊佐さんも、私なんかをさんづけで呼ばずに、呼び捨てにしてください!」

「えっと、じゃあ、真季ちゃん、でいい?」

「はいっ、ありがとうございます!」

「えーっと……」

 何度か話をしたつもりでいたが、まさか真季がここまで体育会系なキャラクターだったとは思わなかった。

「……すいません、良くないってことは分かってるんですけど、どうしても昔のクセが……」

 どうやら真季も、恵美の動揺を察したらしい。

 心底申し訳なさそうに暗い声で言うので、また恵美は慌ててしまう。

「いいのいいの、別に怒ってるわけじゃないの。しみ……あ、真季ちゃんも、学校で何かスポーツやってたりするの? 体、鍛えられてる感じするし」

 恵美は恵美で、うまく口に馴染まないのだ。

 確かに職場に入った順番だけで言えば、恵美の方が真季より先輩ではある。

 だが、ここまでの会話を聞いても分かる通り、真季は恵美を、職場の同僚としてというより、純粋に年上として敬っている傾向が見て取れる。

 実年齢で考えれば大学生の真季の方が恵美よりも年上で、恵美の日本の戸籍上の年齢から見ても、同い年くらいのはずだ。

「いえ、今は特別何も。ここに通う以外は何もしてないですね」

「そうなの?」

「高二のときに、膝やっちゃったんです。ずっと陸上やってたんですけど」

「膝……」

 膝や肘の故障が競技者にとっては選手生命を脅かすことがあるのは恵美も知っている。

 陸上と一口に言っても色々な競技があるので真季が何をやっていたかは知らないが、その膝の故障は競技者の道が断たれるレベルだったのだろう。

「あ、すいません、別に暗い話じゃないんです。中学のときはそれなりでしたけど、高校だとそれほど大したことなくて。元々親に無理やりやらされてたんで陸上がそんなに好きなわけでもなかったし」

「そ、そうなんだ」

「その点、梨香さんの話はちょっとうらやましかったなぁ」

「へ?」

「あ、なんでもないです。せ……遊佐さん。準備運動終わったら、マットの上、そこのグイッグルで軽く拭いてください」

「あ、うん」

 恵美は言われるがまま、自分が準備運動をしていた辺りを軽く拭くと、

「じゃあ、最初に十分くらい歩きましょう。それとも自転車にします?」

「歩きで」

 自転車と聞くとどうしても腹立たしい真奥を思い出してしまうので、恵美は即答でランニングマシンに向かう。

 そういえば鈴乃が真奥の自転車を壊してしまったと言っていたが、新しいものを買うつもりはあるのだろうか。

「こっちのつまみでスピード、こっちで傾斜を設定するんです。そこのバー握ると心拍数とか測ってくれますし、大体の消費カロリーはそっちに出ます」

 恵美は益体も無いことを考えながら、一方で真季がランニングマシンについて説明するのは真面目に聞く。

 真季の指導で恵美はとりあえずマシンのベルトの上に乗ると、傍らに立っている真季に一つ一つ確認しながら操作しはじめる。

「ええっと、これを押せばいいのね……っと」

 操作パネル中央のスタートボタンを押すと、足元のベルトがゆっくりと動きはじめた。

「な、何か足元がフワフワするわね。これで、速度アップか……」

 つまみの数値を上げると、少しずつ足元のベルトのスピードも上がってゆく。

「ねぇ、そういえば、なんで最初にこれか自転車なの?」

「最初に有酸素運動をしてからの方が、いきなりハードなトレーニングするよりもシェイプアップにも筋力アップにもいいらしいです。だから呼吸はしっかりしてください」

「なるほど、分かったわ」

 恵美は素直に頷くと、日頃の歩行速度に合うようにスピードを設定し、呼吸を意識して歩きはじめる。

「歩いてるのに景色が変わらないってのも、変な感じね」

「退屈なら、テレビも見られますよ?」

「て、テレビっ?」

「はい。前の画面、テレビです。そこのスイッチで」

「こ、これ? ……うわ」

 最初にマシンの上に立ってからなんなのだろうとは思っていた、顔の真正面にある黒いパネルがまさか液晶テレビだったとは。

「あ、そうだすいません。遊佐さんイヤホン持ってきてないですよね。これスピーカー無いんです。イヤホン無いと……」

 なるほど、画面は昼のワイドショーを映しているが、音が全く聞こえない。

 確かに数十台もあるランニングマシンのテレビ全部から音が聞こえたら、他の場所で運動している人間がまるで集中できないだろう。

 とはいえ、訓練は負荷をかける場所に集中してこそ効果が出るものだと恵美は思っているので、別に最初からテレビをつけようとも思っていなかった。

「いいわ。今日は普通に運動に集中するから」

「すいませんー。言うの忘れてました」

「いいのよ。早くもちょっと楽しくなってきてるし」

 申し訳なさそうに手を合わせる真季を宥めて、恵美はテレビを消すとマシン本体の操作パネルをいじりはじめる。

「どうして歩くのにわざわざ機械なんか使う必要があるのかとずっと思ってたけど……これは確かにいいトレーニングになるわね」

 恵美は歩行速度を上げながら、少しずつ傾斜をつけはじめた。

「こんな長い坂、現実には存在しないもんね」

 ランニングマシンがあれば、やろうと思えば一定の傾斜がついた坂を何時間でも上り続けられるのだ。

 そのトレーニングがどんなことに役立つかはともかく、運動している気分を得るには十分すぎるだろう。

「ありがと、大体分かった。真季ちゃんも自分のやって」

「はい。私、自転車のところにいるんで何かあったら呼んでくださいね」

 そう言うと、真季は一旦恵美から離れて、エアロバイクの方へと向かう。

 あのバイクもきっと、操作すれば色々な仮想の道を走りながら、色々な負荷を体にかけられるのだろう。

「さて」

 恵美は真季が自分のトレーニングに集中しはじめたのを横目で確認してから、軽く手を握り目を閉じた。

「体内の聖法気量はホーリービタンβ一本分。聖剣も出せる状態……よし」

 意識を体内に集中し、聖法気総量を確認してから、

「軽く走ってみようかな」

 恵美はとりあえず、聖法気を意識して封じた場合、走ることでどれほど体力が消耗するのか確認することにする。

「……はっ……はっ……はっ」

 すると、意外なことに、たった五分走っただけで軽く息が上がってきた。

 そういえば真季が、心拍数を測れる機能があると言っていたことを思い出し、計測バーを摑んでみる。するとそこには、

「……百……三十……」

 それが平常の心拍数でないことは、恵美にもよく分かった。

「ふぅっ」

 やがて額に珠の汗が浮かび、呼吸も少しずつ速くなってくる。

 体力にはまだまだ余裕はある。

 だがTシャツ、ハーフパンツにランニングシューズという軽装で走っているのにここまで体に負荷がかかるとは思いもしなかった。

 エンテ・イスラでは、総重量が十キロ以上はある全身鎧を着たまま走っても、よほど激しい戦闘でもなければ息が切れることなど無かったのに。

「じゃ、じゃあこのタイミングで聖法気を使ったら……」

 漆原と戦ったときには全身の負傷を完治させた上に、肉体の能力が飛躍的に向上した。

「き、気をつけないとね」

 それこそ飛翔の法術ばりの発動で突然走力が高まって目の前の壁に激突するようなことは避けなければ。

 恵美はベルトのスピードを徐々に下げながら停止させ、大きく息を吸う。

「ふぅ…………」

 聖法気が全身に行きわたり、疲労感が抜けていくのを感じる。そう長い間走ったわけではないが、体力も元に戻っていることだろう。

 そう思って恵美は、改めて計測バーを両手で摑むが、

「あ、あれ?」

 そこに表示されているのは、走っている間よりも少しだけ高い心拍数百三十五。体感している疲労は抜けているのに、数値がそれを裏切っている。

 計測の精密さが低いせいだろうか。いや、このジムの機械はリニューアルオープンということもあって新しいものばかりのはずだ。

「どういうこと……?」

「どうしたんですか?」

「わっ!?」

 いつの間にか真季がすぐ傍に立っていて、恵美は小さく飛び上がってしまう。

「ま、真季ちゃん?」

「遊佐さん何かマシン止めたままぼーっとしてるからどうしたのかなって。終わったら、そこの備えつけの小さなタオルでバー拭いてくださいね」

「え、あ、うん、わかった」

 実感として疲労は回復している。だが数値は、そうは言っていない。この差は一体なんなのだろうか。

 恵美はしきりに首をひねりながらも、取りあえず疑問は後回しにして真季の言う通り自分が触れた場所を備えつけのタオルで拭ってから、ランニングマシンを降りた。

「あ、なんかふわふわする」

 一瞬、車酔いしたかのように視界が揺れた。

「多分、ずっとランニングマシンに乗ってたからですよ。遊佐さん、体力あるんですね。ずっと走ってたのに視界が動かないのに慣れちゃってたから、三半規管が混乱してるんですよ。少し休みます?」

「な、なるほど」

 真季の解説に大いに頷いた恵美は、思わずランニングマシンを振り返る。

「うん、大丈夫。時間もったいないし、早速次のやってみたいわ」

「そうですか? 何やります? どこ鍛えたいとか瘦せたいとかで変わりますけど……」

 真季は言いながら、フロアを見渡して次のマシンを吟味している。

 恵美としては、ボクシングフロアとは反対側にある、ダンベルやウェイトリフティングのための道具が密集しているあたりに行きたいのだが、さすがにそのエリアを利用しているのはいかにもパワーがありそうな筋骨隆々の男性ばかり。

 聖法気を活性化させた際の効果をきちんと調べたいのはやまやまだが、細身の恵美がウェイトリフティングなどやろうと言い出しても、真季やインストラクターに止められてしまうだろう。

「じゃあ、最近ちょっと二の腕が気になってるから、そこの運動できる機械がいいかな」

 別に太ったりということはないのだが、適当な言い訳をして真季に機械の選定を任せる。

「二の腕……どっちですか」

「え? どっちって? 右か左かってこと?」

「いえ、そうじゃなくて、内側か外側かです。使う機械が違うんですよ」

「あ、そうなの? じゃあどっちかと言えば、外側かな」

「なら、これです」

 恵美の言葉を聞いて、真季は迷わず一つの機械を指さす。

 真季はアーム・プレッサーなるネームプレートがついたその機械に恵美を座らせると、身長と体格に合わせて手慣れた様子でシートやバーの位置をセッティングしてゆく。

 着座して、肩の高さにある二本のバーを両腕で前に押し上げると、後ろの錘が持ち上がる仕組みになっているらしい。

「最初は一番軽い錘で設定しますね」

 負荷を増減させるには、機械の後方にある煉瓦のような錘の中央に金属のバーを差し込んで引き上げる錘の数を変えれば良いようだ。

「そのつまみは?」

「ああ、これは重さを細かく刻みたいときに使うんです。八キロずつくらいで重くなってくんで、これ回して二・五キロ刻みで重さ増やすこともできるんです。じゃあ、横になってるバーをしっかり握ってください。それで、ゆっくり手を伸ばして錘を持ち上げて、またゆっくり、錘がガチャンってならないように手を曲げて元の位置に戻します」

「分かったわ」

 一番軽いという錘の重さを見ると、十五キロと書いてある。これならば、聖法気を活性化させるまでもない。

「息を吸いながら腕を伸ばして、吐きながら戻してください。無理はしないで、まずは十回くらいからやってみてください」

 真季の指示通り、恵美はゆっくりと両手で摑んだバーを体の前に押し出す。

 すると機械の後方で錘が持ち上がり、腕を元に戻すとまた錘が元の位置に戻った。

「ちょっと軽いわね。もう少し上の重さにするには、これでいいの?」

「大丈夫ですか? 結構重いですよ?」

 恵美は錘の重量を男性のデフォルト重量からずっと上の、四十キロに設定する。

「多分、大丈夫だと思うわ」

 恵美は改めてポジションを取ると、バーを摑んでゆっくり腕を伸ばそうとする。が、

「……?」

 きちんと錘は持ち上げられる。だが、想像していたより、遥かに重い。

 まぁ、それでもこれくらいは予想の範囲だ。聖剣を操るより前に用いていた教会騎士団の両手剣の重量は、同じサイズの鉄の塊とほぼ等しい重さだった。

 それを振り回すことに比べれば、なんと言うことはない。一回上げて戻し、二回上げて戻した辺りまでは、そう思っていた。

「っく……」

 だが、七回目くらいになった途端に、急激に腕への負荷が高くなったように感じた。

 明らかに、自分の力が足りていない。

 最初の三回目までは余裕だと思っていたのに、急激に重さが増したように感じられる。

 なんとか十回上げ下ろししてバーから手を離したものの、力を入れすぎて手先がごくわずかだが痙攣してしまっていた。

 真季に言われた呼吸も、明らかに乱してしまっている。

「ほ、本当に、重いわね……」

「そりゃそうですよー! 牛乳パック四十本って考えてみてくださいよ! 荷物持つときとかと違って訓練なんですから、何度も持ち上げたり下ろしたりするんですよ?」

「そ、そうか……そうよね」

 思えば、エメラダから送られてきたホーリービタンβが入った段ボールを、恵美は重いと感じていたのだ。

 いかな瓶入りの飲料がぎっしり詰まっていたとはいえ、水を担いでエンテ・イスラ南大陸の砂漠地帯を旅したことを思えば、本来あの程度の重さはなんでもないはずなのだ。

「ごめん、ちょっと調子乗ってたかも。きちんと自分の力に合った重さでやってみるわ」

「そうしてください。ダイエット中に怪我したら最悪ですからね!」

「……!」

 頰を膨らませながらも恵美を心配する真季の顔を見て、恵美はふと思い当たる。

「なんですか?」

「……ううん、今気づいたんだけど、真季ちゃん私の友達に、ちょっと似てるなって思って」

 真季は、どこか千穂に似ているのだ。

 邪気が無く、特別使命や苦難を背負っているわけでもなさそうなのに、妙に芯が強く、言葉の端々で常に相手のことを思いやる心が見え隠れしている。

「そうなんですか?」

「真季ちゃん、今どきの若者らしくないとか言われたりしない?」

「あー、すっごいよく言われます。ウザいくらいに」

 おや、と恵美は眉を上げる。

 真季は自分の性格が好きではないのだろうか。別に声を荒げたわけではないが、珍しく出てきた汚い言葉に恵美は意外なものを感じた。

「遊佐さんも言われるタイプじゃありません? あーいうの、すっごくウザくないですか?」

「そうね、まぁそうかもしれないわね」

 本当は真季よりも年下なのに、明らかに真季に年上に見られている時点で、自分は日本の同年齢の女性とは大きくかけ離れた性格であることは間違いないだろう。

 何よりも、

「勇者らしくないのは、私だって分かってるわよ」

「え?」

「ううん、なんでもない。ね、少ししたら、あっちのボクシングフロアの使い方教えて?」

「あ、はい、分かりました。私個人の感想ですけど、きちんと背筋と腹筋の運動してからだと、ビシっとパンチできる感じがするから、次そっち行きましょう」

「ええ、よろしくね」

 恵美は軽く汗と、機械のシートを拭くと、嬉々として恵美を先導する真季の後に続いたのだった。



 ずっと真季が傍にいたために聖法気を活性化してのトレーニングはできなかったが、その分恵美は、自分の肉体の純粋な強度をしっかり自覚することができた。

「意外だったなー。もうちょっと行けるかと思ってたけど」

 恵美は、インストラクターの男性からサンドバッグ利用に際しての注意事項を聞きながら、自分の拳をじっと見つめる。

 恵美の聖法気を用いない状態での筋力は、成人男子平均と変わらぬ錘でトレーニングをするのが限界だった。

 筋肉の部位によってはそれでも少し辛い場合もあった。

 考えてみれば、魔力を失った真奥や芦屋や漆原は、日本人の成人男子と全く変わらぬ程度の運動能力しか持っていないではないか。

 そう考えると、エンテ・イスラの人間の戦士達も、その力の大半を聖法気に依存しているのではないかという推測が成り立つ。

 日本に聖法気や魔力を自然回復する手段は無く、エンテ・イスラにはそれがある。

 だが、それを自然なものとしてとらえながら、こうして実際に運用するしないで顕現できる能力や力には顕著な差が生まれてしまう。

 今の恵美は、ホーリービタンβというドーピング的な手段で聖法気を補充しているが、これだけの力を人間に与えるこの力が自然に摂取できる環境は、どのようにして生まれたのだろう。

「大体、無意識に使うときとそうでないときの差が、いまいち分からないのよね」

「遊佐さん?」

「あ、ああ、ごめん、なんでもないわ。もう、やっていいのね?」

 気がつけばインストラクターの説明は終わっており、恵美は自分に宛てがわれたサンドバッグの前に立っていた。

 恵美は、グローブの中で拳を握り込む。

 実戦で格闘術を用いていたので、物の殴り方は今更教わらなくても分かっている。

 親指は意識してきちんと畳み、四本の指は揃えて、手の甲の第一関節から第二関節がフラットになるように握り込み、そのフラットな部分を『相手』に当てればいい。

 恵美は天井からぶら下がったサンドバッグを軽く小突いて感触を確かめてから、

「はぁっ!!」

 初撃。インストラクターの指示通りに突き出された恵美の拳は、軽快な音を立てて、サンドバッグの真芯を捉えた。

「いいですねー、上手ですよ!」

「遊佐さん凄い!」

 インストラクターの男性と、隣にいる真季も褒めてくれる。

 恵美としては動かない相手の真芯を捉えるなど造作も無いことだが、実際問題天井から吊られた鎖にぶら下がっているだけのサンドバッグを拳で捉えるのは、見た目以上に難しい。

 拳の握り込みが甘いと力が伝わらないし、殴る場所が軸から少しずれただけで、丸いボディに沿って力が外側に流されてしまう。

 すると突き指をしたり、拳を傷めたりしてしまうこともある。

 サンドバッグを一定の力で的確に連続して殴り続けるには、それなりの訓練と正しい姿勢、そして力が必要だ。

「遊佐さん、格闘技とかやってたんですか!?」

「昔、ちょっとね! せぇっ!!」

 ズドンと、いい音がしてサンドバッグが揺れる。

 恵美は、やはり人目があるため意識して聖法気を封印している。

 つまり恵美の今のパンチは、普通のOLよりちょっと力が上なだけの、地球の人間の女性がするのとなんら変わらない威力のパンチだ。

 聖法気を使わなければ肉体的な強度も大したことはないと分かってしまったことは恵美の心に薄く微妙な不安の影を投げかけたが、それでも全力で何かを殴るというのは、とても気持ちのいいことだった。

「せいっ!! はああっ!!」

 恵美の拳は、全てサンドバッグの芯を正確に捉え、声と相まってどんどん力が入ってゆく。

「真季ちゃん、これ、楽しいわね!」

「気に入って! もらえて、良かったです! えいっ!」

 恵美に触発されたのか、真季ももの凄い勢いでサンドバッグを殴りはじめる。

「お二人とも、あと十回打ったら一旦離れてください!」

 と、そこにインストラクターの声がかかる。

 折角調子が上がってきたところだったが、とりあえず素直に従うと、

「いや、お二人とも凄いですねー。女性でここまで揺らせる方、なかなかいませんよ」

 インストラクターの男性が声をかけてきた。

「ちょっとバッグが揺れすぎてるんで、一旦収まるまで待ってください。続けるなら今の内に軽く手首をほぐしておいてくださいね。慣れないうちは、連続して打って手首とか痛めちゃうこともありますから」

「あ、はい、分かりました」

 恵美は息を弾ませながら、頷く。

 なるほど、見るとサンドバッグがかなりの勢いで揺れていて、足元にもかなり恵美と真季の汗が飛び散っていた。

 うっかり汗で足を滑らせてバッグにぶつかりでもしたら、怪我に繫がってしまうだろう。プロのボクサーならともかく、素人が使うなら休憩は当然の措置だった。

「ぷはあっ! もう、これ私病みつきなんです!」

 真季がスポーツドリンクをがぶ飲みしながら、はちきれんばかりの笑顔で言う。

「バイトでひっどいクレームに当たったときとか、学校とか家とかで嫌なことがあったときなんか、ここで時間いっぱい殴ってることもあります。もう嫌な奴の顔バキ──っ! ってブン殴ってると思うと、本当ストレス解消になりますよ!」

「嫌な奴の顔……ね」

 その瞬間に思い出した顔は、

「……」

 自分でも本当に意外だったが、宿敵たる魔王サタンの顔ではなかった。



「殺すっ! 絶対いつか殺すっ!!」

「う、うわあ……凄い」

 自分のバッグに抱きついて休憩しながら、真季は隣で恵美が振るう拳を感心半分、恐れ半分で眺めていた。

 プロボクサーのような連打。空手のお手本のような正拳。格闘ゲームのようなブローに、真季だけでなくインストラクターの男性も啞然とするしかない。

「何がっ! ささやかなっ! サイズよっ! このっ! 変態っ! ゲスっ!!」

 声を出せるジムならではの、周囲の喧騒に隠れた恵美の気合の声は、恐ろしく私怨に満ちていた。

 真季は知る由も無いが、恵美がサンドバッグに想定した『嫌な奴』は、魔王サタンでも真奥貞夫でもない。

 数日前に散々屈辱的な言葉を浴びせてきて、あまつさえ自分や千穂に狼藉を働こうとした大天使サリエルの顔だった。

「その! バカみたいな! ペイントの痕! 青タンに! 変えてやる! ふんっ!!」

「遊佐さん、普段すごく優しいのに……実は凄くストレス溜まってるんだなぁ」

 隣のサンドバッグにいる真季にだけはなんとなく恵美の声が聞こえてきていて、日頃超然とした凛々しさと、圧倒的言語力でどんな面倒な問い合わせ案件も涼しい顔でこなす憧れの先輩も、実は結構ストレスを抱えているのだと知り、勝手に親近感を覚えてしまう。

「おかげで! あいつを! あんなっ! 呼び方! しなきゃいけなくなってえっ!!」

 抉り込む恵美の拳に、サンドバッグがくの字に曲がってしまう。

「う、わ!」

 その威力に真季は目を見開く。

「このっ! このおっ!!」

 恵美にしてみれば、あれだけ非道に振る舞ったサリエルが、真奥に倒されたとはいえなんの報いも受けず、それどころか新たな生きがいすら見つけてのうのうと日本社会に収まっているだけでも許しがたいのだ。

 とはいえ真正面から戦って負けたことは間違いないし、例え闇討ちしたところで物理的にも社会的にも恵美の方が抹殺されてしまうのは必至だろう。

「もっと……強い、力が、欲しいっ!」

 屈辱を晴らすこともできず、宿敵に助けられ、偉そうに鈴乃に語った理想を叶える術も持たない自分が歯がゆかった。

「誰にも、負けない、強い、力と、心がっ!!」

 サンドバッグ上に浮かんでいたサリエルの顔は、いつしか全く違う顔になっていた。

 それは、どこまでも弱い、自分自身の顔だった。

「私は……っ」

 その瞬間。

 グローブに隠れた恵美の拳の内側に、誰の目にも留まらぬ光が灯り、そして、

「弱いっ!!!!」

 恵美の渾身の右ストレートが放たれ、

「わっ!?」

「げっ!?」

「…………あ」

 サンドバッグを、貫いてしまった。

 真季は思わず飛びのいて尻もちをつき、インストラクターは目を剝き、一瞬で冷静になった恵美の顔から血の気がさっと引く。

 気がつけば、拳に聖法気が凝縮。明らかにサンドバッグの強度設計を遥かに上回るパワーの一撃を叩き込んでしまったのだ。

「え、わ、あ、あの……」

 裂けてしまった表面から漏れ出しているのは、細かい布のような切れ端や、整形された小さなスポンジ類。

 サンドバッグと言いつつ中身は砂ではなかったのか、などとどうでもいいことを思いながら、やらかしてしまったことに関して一体どう対処すればいいか分からず固まっていると、

「あ、あの、大丈夫ですかお客様!」

 気がつけば、インストラクターの男性が青い顔をして目の前に立っていた。

「え、あ、あの……」

「う、腕とか手、怪我してませんか!? そ、その、まさか破れるなんて」

 インストラクターは慌てながら何度も恵美の顔と腕と貫かれたサンドバッグの間で視線を往復させている。

「あ、あの、すいません、その」

「いえ、その、設備には万全を期していたのですが、あの、申し訳ございません! お怪我はありませんか!?」

「いえあの」

「あのその」

 恵美は恵美で新しいジムの設備を自分のミスで壊してしまったと思っているし、インストラクターはインストラクターで、まさかプロの仕様にも耐え得るサンドバッグが如何なセンスのいいパンチだったとはいえ、女性の細腕で壊されるはずなど無く、サンドバッグ自体に欠陥があってお客が怪我をしていないかと戦々恐々としいる。

「ゆ、遊佐さん! だ、大丈夫ですか!? と、とりあえず腕抜いて……」

「え、ああ、そうね」

 サンドバッグを貫いたまま立ち尽くしていた恵美は、真季にそう指摘されてようやく腕をサンドバッグから引き抜く。

「あ、あの、……何か腕に異常はありませんか!?」

 引き抜かれた恵美の腕を恐る恐る見るインストラクター。

「すいません、特別何も……」

「ほ、本当ですか!?」

「遊佐さん、本当ですか!? 興奮して痛み感じてないとかそういうことないですか!?」

「うん、大丈夫。本当に何も」

 恵美としては張りついたような愛想笑いを浮かべるしかない。

「どうした!? 何があった!?」

 するとそこに、この状況を見ていたのだろうか、恵美の目の前で半分パニックに陥っている男性とは別のインストラクターが、見るからに責任者然とした、Yシャツにネクタイの中年男性を引き連れて近づいてくるではないか。

 恵美は、己の迂闊さを呪いながら、これから待ち受けているであろう非常に居心地の悪い空気を想像し、目の前が真っ暗になるのだった。


         ※


「なんか、すいませんでしたあ~~!!」

「だーかーら! 真季ちゃんが気に病むことじゃないの! ほら、なんともなかったんだし」

「でもぉ! 遊佐先輩いいい!!」

「先輩はやめてったら! お願い真季ちゃんにまで落ち込まれると私がいたたまれないから! 私久しぶりに今日、すっきりした気分なんだから、ね? あははは……」

「あううううう……」

 その夜、軽く夕食でもと立ち寄ったチェーンの居酒屋で、真季はひたすら恵美に謝っていた。

 真季にしてみれば、先輩にわざわざ来てもらったジムの設備の不備で、先輩に要らぬ手間と時間を取らせ、不愉快な思いをさせてしまったとしか思えないからだ。

 だが恵美にしてみれば、自分の不注意でジムの設備を壊してしまったのに、ジムの責任者に平身低頭させてしまうわ病院に連れていかれそうになるわ真季にもジムにも迷惑をかけるわで、自分こそ全方位に向けて謝罪したい気持ちでいっぱいなのだ。

 だが常識的に考えて、ごく普通のOLのパンチで壊れるようなサンドバッグなど不良品以外の何物でもなく、当然誰一人として恵美がサンドバッグを壊したとは微塵も思わなかった。

 だが自分の不注意で見知らぬ誰かが責任を負わされてはあまりにも寝覚めが悪い。

 一度は自分の責任であることを主張しようとして、思いきり真季に止められてしまったし、当たり前だがジム側も安堵の表情が垣間見えたものの信じてはくれなかった。

 結局必死で拝み倒して病院行きは勘弁してもらい、その後も別のトレーニングを続けることで体に異常が無いことをアピール。

 ジム設備の一つである人工温泉もしっかり利用し、帰りがけにジムのロビーで売っていた吸汗性と通気性と筋肉を支える機能に優れたスポーツ用の下着を一セット、特別必要も無いのに購入し(それでも壊してしまったサンドバッグの値段には遠く及ばないと思われるが)、なんとか大事にせずにジムを出ることができたのだった。

 それでも真季の落ち込みようは半端ではなく、たった一杯のウーロンハイだけで完全に泣き上戸モードに入ってしまったのだ。

「そもそもタダでやらせてもらってたんだし、私も本当に楽しかったから、会員になるかどうかはともかく、ビジター用の料金もあるんでしょ? 機会があったらまた誘って、ね?」

「ううう……はいい……すいませーん! 生一つ!」

「ま、真季ちゃん、一杯でやめておいたほうが……」

 恵美も日本での戸籍年齢では飲酒はできることになるが、一応本当の年齢のことを思ってオレンジジュースで乾杯している。

 それだけに素面のまま泣き上戸の真季をなだめ続けなければならなくなっている。

「ほら、唐揚げ来たわよ唐揚げ、食べよ。ね?」

「ううう……私はぁ……遊佐先輩にぃ……ちょっとあこがうえでだんべふよぉ……」

「唐揚げ、熱くないの?」

「あふいです……あふう」

 出来立ての大ぶりな唐揚げを口いっぱいに頰張りながら、真季はうるんだ目でクダを巻きはじめる。

「ゆはへんはいみはいにぃ……んぐっ、カッコいい大人の女になりたくてぇ……」

「そ、そう、ありがと」

 大人の女どころか実際は真季より年下なのだが。

「私……陸上やってたって言ったじゃないですかぁ」

「うん、そうね、言ってたわね」

「でもぉ、本当はぁ、私、ピアノやりたかったんですよぉ。音大行きたかったんですよぉ」

「そうなの? でも早稲多ってすごくいい大学なんじゃないの?」

「ですけどぉ……それも親に言われて行っただけですしぃ……」

 親に言われただけでおいそれと入れる大学ではないと恵美ですら分かるのだが、とりあえず話を聞き続ける。

「お父さんがぁ……昔ぃ国体かなんかの選手でぇ……男の子が生まれたら陸上やらせるって決めてたらしくてぇ……でも私一人っ子でぇ」

「ああ……」

 要するに、物心ついたころには既に親の夢を託されて動きはじめてしまっており、自分の意志で物事を決められる状況になかった、ということなのだろう。

「高二の冬にぃ怪我して陸上続けられなくなったときぃ、親父がこの世の終わりみたいな顔したのが悔しくてぇ……私はあんたの夢の代理人じゃねぇぞって……勝手に期待して勝手に落ち込むとかフザけんなよってぇ……」

「うん、そっか」

 スケールは違うかもしれないが、恵美は真季の気持ちがなんとなく分かった。

「別にぃ……陸上競技が嫌いだったわけじゃ、ないんですよぉ。ただぁ、楽しめなかったんですよ期待が重くてぇ。だから怪我して陸上できなくなってからぁ、必死で勉強してぇ……私の高校、体育偏重の学校だったけどぉ、私ぃ、学校創立以来初めて早稲多の一般受験で現役合格したんですよぉ……」

「そ、それは凄いわね」

 一般受験があるなら、特殊受験というものがあるのだろうか。

 日本の学校制度にはとんと暗い恵美は、そんなどうでもいいことを考える。

「お母さんは喜んだけどぉ、親父はそれでも微妙な顔しやがるんですよぉ。何が不満ですか早稲多でぇ! そんなに陸上やりたいなら皇居の周りでも一人でぐるぐるしてりゃいいんですよぉ。自分が今から入学してぇ、駅伝でもなんでも出りゃいいんですよぉ! 私はピアノサークルで楽しくやってますよ今はぁ!」

「うん、うん」

「でぇ、もう学費は仕方ないけど生活費まで親父の世話になりたくなくなってぇ……それで、そんなに実家遠くないんですけど一人暮らししたくてぇ……今のバイト応募したらぁ……遊佐先輩と鈴木先輩がぁいてぇ……」

「ん? 私と梨香?」

 くすんだ青春のトークの中に突然自分と梨香の名が出てきて、恵美ははっとする。

 この際先輩呼びは今は不問にしておこう。

「はいー。二人共ー、自分の力でー。凄い大きなことしようとしてるじゃないですかー」

「私、そんなこと話したことあったっけ?」

「鈴木先輩が言ってましたぁ。『恵美は、よく分からないけど何か凄い大切な目標があって、いつもそのために頑張ってる』ってえ……」

「梨香が、そんなこと」

 もちろん恵美は梨香に、エンテ・イスラや真奥との因縁を明らかにはしていない。

 だが日本でできた一番の友は、恵美の行動の端々から何かを感じ取ってくれていたのだろうか。

 真季の独白なのに、恵美は梨香の気持ちについ涙腺が緩みそうになる。

「鈴木先輩はなんかご実家の会社のこと考えててぇ、遊佐先輩はもう人間力がおかしいレベルじゃないですかぁ」

「人間力の定義がよく分からないけど……でも別に私はそれほど大したことじゃぁ……」

 勇者として世界を救おうとしたのはそれなりに大したことだとは思うが、日本でそんなことを言っても仕方が無い。

 だが真季は、結局一人でアツアツの唐揚げを全部食べながら首を横に振った。

「それでぇ、思ったんですよぉ。私の夢ってぇ、なんだったのかなぁって……ピアノはやりたかったですけどぉ、陸上頑張ってたことも確かでぇ……今の大学生活はそこそこ充実してますけどぉ、私自分の意志で何かをしようとしたことないんじゃないかって思ってぇ……」

「そんなことはないわよ」

「うぇ?」

 恵美はオレンジジュースを一口含んで唇を湿らすと、真面目な顔で首を横に振った。

「陸上って、何やってたの?」

「……110mハードルを……」

「どこらへんまで行ったの?」

「一応、関東大会決勝まで……ビリでしたけど」

「でも、決勝でしょ。凄いことだと思うわ。誰にでもできることじゃない。私は大学のことはよく知らないけど、早稲多だって、なんの努力もせずに入れる大学じゃないんじゃない?」

「……」

「梨香も……って言っちゃ梨香に悪いかもしれないけど、梨香も私も、まだ何かを成し遂げたわけじゃないわ。むしろルーチンワークの日常に甘えて、時々努力を忘れそうになることもあるわ。でも真季ちゃんは違う。迷ってるからこそ自分を変える努力を怠らない。だから陸上でも勉強でも立派な結果を出してるじゃない。仕事でも評判いいのよあなた」

「……そ、そーなんですかぁ?」

「ええ。でも、もしそれでも何か納得が行かない、すっきりしない部分があるんだとしたら、多分自分が持ってる『もの』は、自分の意志で手に入れた『もの』じゃないって思ってることだと思うの」

 恵美は言いながら、心が遥か過去に飛ぶ。

 決して自分が望んだ『もの』ではなかった。力も、地位も、得ないで済むのなら、それに越したことはなかった。

 だが、恵美は結局、自分で力に手を伸ばした。

 その動機がどんなに昏く、苦しいものだったとしても。

 父との故郷の村での平穏な生活を奪われ、自分の意志に関わらず置かれた勇者という立場。

 その中で、復讐のために手に入れた力。聖法気を操る法術の力と、聖剣〝進化聖剣・片翼〟。

 そこだけは自分の意志で手を伸ばした。

「状況は、あなたが望んだものじゃないかもしれない。でもそれに向かって払った努力だけは、あなた自身のものよ」

「……努力は、私の?」

「ええ。もちろん、それでも納得が行かないことはきっとある。でも今のあなたはその努力のおかげで将来の選択肢がもの凄く広がる学校に行って、自分で最低限お金を稼いで、自分の自信になり得る過去の実績だってある。これからよ。私もそうだったけど、一年先なんてどうなってるのか分からないんだもん。真季ちゃんならきっと、何か本当に自分の大切なものに巡り合ったとき、きっと迷いなくそっちに進めるわ」

 そこまで言ってから、恵美はふと我に返って、氷が解けて薄くなってしまったオレンジジュースを慌てて飲み干した。

「って、ごめんね、そんなに歳変わらないのに、私なんかが偉そうなこと……」

「うううう……」

「真季ちゃん?」

「うわああああああんん!! ゆざぜんばあああい!!」

「わあっ! 真季ちゃん!? 零れる! ビール零れる!」

「わたじぃ、わたじぃ、あううああああ! ゆざぜんばいにいっしょうついできたいいい!」

「何言ってるか分からないわよ! ちょっと本当危ないから落ち着いて!」

「うわああああん!!!!」



「ちょっとしっかり立って! もう! 真季ちゃんお酒全然強くないんでしょ! 変な飲み方して!」

「うぶ……す、ずいまぜ……」

 真季は、ウーロンハイと生ビール中ジョッキにカクテルを二杯飲んだ結果、自力で立てない程足元もおぼつかなくなってしまったのだ。

 居酒屋から高田馬場駅までの道を、恵美に支えられながら千鳥足でふらふらしている。

「ねぇ、家どこなの? 心配すぎるから送ってくわ!」

「い、いえ、そこまで、して、もらう、わけ、には……」

「途中で転んで頭でも打たれたらそれこそ最悪よ! ね、どこ?」

「う、あの、ぞうし、がや……」

「雑司ヶ谷? どこだっけ、聞いたことあるけど……」

「池袋、から、副都心、線で……あの、本当、すいませ……今日は」

「いいの、いいから、私も色々お話できて、自分のことが整理できたから、ね?」

「はい、うぐ」

 真季はそうは思っていないだろうが、ジムでは自分が迷惑をかけたのだし、これでおあいこである。

 それに、真季に話したことは、そのまま自分にも当てはまるのだ。

 望んでなった勇者ではないが、そのために払った努力と蓄えた力は自分のもの。

 今もって聖法気のシステムはきちんと把握はできないが、この力を手に入れるための努力は自分のものだし、魔王を倒そうとするのも自分の意志だ。

 今日はその道を歩む上で考えるべき問題が一つ明らかになったのだから、恵美にとっても決して無駄な一日でなかった。

 日本での聖法気運用を、少し考え直さねばならない。

 意識するにしろしないにしろ、エンテ・イスラにいた頃には考えもしなかった聖法気と自分の肉体との関係は、もう少し研究しなければならないだろう。

 そのためにも、鈴乃には早いうちにホーリービタンβを提供して一緒に問題を検証してもらおう。

 そう思ったとき、それは本当に唐突に起こった。

 脇の小道から、軽自動車が飛び出してきたのである。

 明らかに、居酒屋が軒を連ね、多くの人が行き来する道を走るスピードではなかった。

 軽自動車にしてはマフラー音が甲高いが、ヘッドライトの逆光とフロントガラスの遮光性能で、運転手の様子は見えなかった。

 普通なら、絶対に正面衝突する以外の道は無かった。

「……っ」

「うげぐ」

 だが、酔い潰れたOLを支えているのはただの同僚OLではなく、異世界の勇者だった。

 恵美はわずかな逡巡すら見せず、真季の腰を支えると、彼女を支えたまま一瞬ですぐ傍の雑居ビルの屋上まで跳躍してみせたのだ。

 その瞬間の恵美の体内では、真季の体重と自分を跳躍させるだけの聖法気の爆発的活性化、超人的挙動に耐えるための自身の肉体強化が起こる。

 ジムで活性化の理屈が分からずやきもきしていたことなどまるで無かったかのように、ほとんど反射レベルの速さで一連の動作は行われ、そして、

「あぶぅ……」

「あ」

 今の挙動は酔った状態の真季には無茶だったのか、真っ白な顔で失神してしまった。


         ※


『それで、ご友人は無事に帰宅できたのか』

「うん、結局雑司ヶ谷まで送っていって、さっき酔いが醒めたのかもの凄い勢いでメールで謝り倒されちゃって参ったわ」

『そうか』

 あのあと、地上では軽自動車の運転手が蒼い顔で車から降りて周囲や車の前などをきょろきょろと見回していたが、何事も無いことにしきりに首を傾げていた。

 遠目ではフロントガラスにドライブレコーダーなどは確認できなかったために、恵美は運転手の記憶を操る必要は無いと判断し車が立ち去るまでしばらく雑居ビルの屋上に身を潜めていた。

 しばらくして気がついた真季を雑司ヶ谷のアパートまで引っ張って帰宅させたが、あの酔い具合では、明日学校に遅刻しないかどうか心配になってしまう。

 その後、永福町の自宅に帰ってからジムで使ったシャツなどを洗濯機に放り込んで、シャワーを浴びて一息ついたところに鈴乃が公衆電話から電話をかけてきたのだ。

『それで、何か分かったのか? 聖法気の活性化の法則のようなものは』

「……正直、まだよく分からないんだけど……」

 鈴乃にはあらかじめジムの目的を告げてあったのだが、そうして改めて問われると、まだ恵美にもよく分かっていない。

 だが、車から真季を助けたときに、ふと思ったことがあった。

 ジムで判明した、聖法気を使わない状態での自分の肉体の力だけならば、あのとき恵美も真季も、そのまま車に轢かれてしまっていただろう。

 だが、現実にはほとんど無意識のままに恵美は聖法気を活性化させ、いつも通りの超人的な挙動を実現してみせた。

「もしかしたら……本来の、人間の力以上のことをしようと思ったときだけ、そうなるのかなって」

「難しい概念だな。私達にしてみれば、聖法気を使うことも立派な人間本来の力だからな」

「そうね……もちろん緊急時にきちんと対応できることは分かったから何か問題があるわけじゃないんだけど、ちょっと、落ち着かない感じね。そうだ、明後日、午前中そっちにお邪魔するわ。そのときに例のもの、持ってくわね」

「ああ、すまない。もしその後も時間があるようなら、それ以外の大きな買い物でも助言をもらいたいのだが」

「大丈夫よ。でも私達の切り札みたいなものだから、魔王達には一応秘密にしておいてね?」

『言われるまでもない』

 その後、とりとめのない話をしばらくして、通話を終えた恵美は、エアコンの風に当たりながらソファにだらしなく寝そべり、今日のことを思い出す。

「力……かぁ」

 恵美は今日何度目になるか分からないが、自分の手を眺めてぐーぱーを繰り返す。

「魔王を上回ればそれで良かった頃に比べると……使いどころが難しいなぁ」

 努力だけは自分のもの。自分にも言い聞かせていたあの言葉を反芻し、ため息をつく。

「千穂ちゃんにしろ真季ちゃんにしろ……買い被りすぎよ」

 何かを破壊する技には優れているかもしれないが、彼女達に憧れられるような強い『力』を自分が持っているとは、到底思えない。

 そんなものを持っていれば、こんなことで悩みはしないし、それ以前にとっくに本懐を遂げていることだろう。

「でも……まぁ、考えれば、今以上に面倒なことなんて起こりようが無いし」

 恵美は再び携帯電話を手に取り、電話帳に登録された千穂の番号を眺める。

「変な話だけど、悩みを相談できる友達が増えてるのも、間違いないしね」

 少なくとも、力の限り真っ直ぐ進まなければ、明日の命も知れぬ生活ではないのだ。

 恵美は通話キーをタップすると、しばしコール音を聞く。

「あ、もしもし千穂ちゃん? 今大丈夫? うん。ちょっと聞きたいことがあって。千穂ちゃん達の周りの女の子って、どんな携帯電話使ってるの? 今度ベルの携帯を買いに行くんだけど、女の子がどんなの使ってるか参考にしたくて……」

 明るい声で返事をする異郷の友とのおしゃべりで、夜が更けようとしている。

 その間の恵美は、自分でも見たことも無いほどに、リラックスした穏やかな笑顔を浮かべていたのだった。

刊行シリーズ

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