希望と祈り 《ブレースの場合》

 希望はとうにありませんでした。向都の旅に出る前から分かっていたのです。

 私はリュボリという街の、墓守の家にお仕えしていました。主な仕事は埋葬でした。郊外に大きな墓所があり、そこで穴を掘って、人を埋めるのです。そうした仕事は敬遠されていて、実際に従事するのは、私のようなイェスマや、貧しい家庭の方々でした。

 だから私が普段触れ合うのは、家族や友人を亡くした人か、生活の苦しい方ばかり。

 お金のない方々だって、とても優しい心をもっていらっしゃいます。しかしその日その日を生きていくこと、明日も家族に食べさせることに精一杯で、私の生き死にのことなんて、きっと考えている余裕もなかったのでしょう。

 私が一六になって、お仕えしていた家を出るとき、一緒に来てくださる方はいらっしゃいませんでした。結局私は、道中で果てる運命だったのです。

 それでも私を救ってくれたのは、私が固く信じてきた、祈りの力でした。

 幼い私が祈ることを始めたのは、ご主人様からこんなことを言われたからです。


「北の空に赤い星が輝いているのが見えるかい。あれは北方星サルビーア、願い星と呼ばれている」


 皺だらけの指が差す空には、赤く目立つ星が浮かんでいました。


「あれには願いを叶える力があるそうだ。願い星を手にすれば、願いが叶うんだよ」


 来たばかりの、何も分からない八歳の私は、それを素直に信じました。どうやったら星に手が届くのか分かりませんでしたから、毎晩のように、願い星を見つめてお祈りをしました。

 願い星は、北の空の決まった位置に現れました。墓所の奥にある小さな丘からはそれがよく見えます。私は死者を埋葬する日々を過ごしながら、夜は跪いて星に祈り続けました。

 祈りとはいいものです。何を考えてもいいのですから。実現するかどうか思い悩むことなどなく、一生懸命に思いを巡らせることができるのですから。


「なあ姉ちゃん、いっつもここで何してんだ?」


 一緒に働く少年から訊かれたことがあります。純粋な瞳をした、年下の男の子でした。


「お祈りをしているのです。見えますか? 願い星です」


 私はそう言って、赤く輝く北方星を指差しました。


「へえ。姉ちゃんには悪いけど、おいらはあの星、嫌いだな」

「そうなのですか。いったい、どうして」

「だってよ、欲しいものを言ったとこで、なんにも叶えてくれねえんだもん」


 私もそれは、分かっていました。


「だから、お祈りするのですよ」


 少年は首を傾げました。これが私特有の、変わった考え方だということは分かっています。

 私にとって祈りとは、希望とは正反対のものでした。


「叶うはずがないと思うから――希望がないから、祈るのですよ。手が届く星に祈る人はいません。手が届かないから祈るのです」

「難しいこと、考えてるんだな」


 少年はそんなことを呟きながらも、私の隣に座りました。じっと願い星を見つめています。


「一緒にお祈り、してみますか」


 私の誘いに、純朴な少年は頷きました。まるで願い星のような、赤い髪の男の子でした。

 少年は私を真似して、両手を胸の前で握りました。

 しばらくお祈りした後、少年に尋ねます。


「どんなことを、お祈りしたのですか」

「ん。母ちゃんたちを腹いっぱい食わしてあげられるくらい、たくさん稼げますようにって」

「とてもお優しいのですね」


 それが叶わぬ願いだと思われていることに、私は言いようのない悲しみを覚えました。


「ご家族にたくさん食べさせてあげたいと、一生懸命、それを思っていらっしゃったのでしょう。祈っているときでなければ、どうせ無理だという気持ちが、その素敵な思いを押し潰してしまいます。でも祈っているときならば、すべて忘れて、願いに集中できるのです」

「……そうなのか。すげえや姉ちゃん!」


 少年は嬉しそうに笑いました。私の言うことを理解していたかどうかは、分かりません。

 それから度々、少年は私と一緒にお祈りをしました。ちらちらと私の胸を見ていることにも気付いていましたが、別に悪い気はしませんでした。何が目的であっても、一緒に祈る人がいるのは幸せなことです。

 仕事をしていると様々な噂話を耳にします。その噂を話すと、少年はいつも楽しそうに耳を傾けてくれました。だから、一緒に祈りに来てくれたときは、私は新しく仕入れた噂話を少年に聞かせてあげました。

 私が一六の誕生日を翌日に控えた夜、少年はあの丘に、お祈りをしに来てくれました。もちろん、私の誕生日どころか、年齢も知らなかったに違いありません。本当にたまたま、来てくれたのです。


「私のお仕事は、明日で終わりです。明日の夜、ここを出て王都に向かいます」


 あまり言いふらすと、イェスマ狩りの耳に入ってしまうかもしれません。私がそのことを話した相手は、ご主人様以外では、この純朴な少年ただ一人だけでした。


「そっか、会えなくなるのは残念だな」

「ええ、とても残念です」


 不安と絶望に押し潰されそうでした。それでも夜空は晴れていて、願い星が見えました。


「最後に、一つだけ」


 お祈りをする前に、私は少年に言いました。


「どうしていいか分からなくなったときは、道しるべになる星を探すのですよ」


 少年はぽかんとしていました。私はおしゃべり好きでしたが、説明するのは下手でした。


「北方星は、ずっと北の空にあるからこそ、願い星なのです。道に迷ったときは願い星が方向を教えてくれます。同じように、どうやって生きるか分からなくなったときは、あなたにとっての願い星を探すのですよ」

「そうなのか。すげえや姉ちゃん!」


 少年はいつもと変わらない、分かっているとも分かっていないともつかぬ底抜けた笑顔で、私に笑いかけました。

 リュボリは王都より北にありましたから、私の旅は南向きでした。つまり、願い星に背を向けて歩くのです。最初から、希望などありませんでした。

 心細い道中、私は独りでいるところを襲われました。非力な私に、抵抗などできるはずもありません。やがて知らない街で、私は地下に監禁されました。

 暗い地下牢で、なぜまだ生かされているのか分かりませんでした。たまに外へ連れ出されるかと思えば、森の中でまたひどいことをされました。それは決まって夜中でしたので、木々の隙間から願い星を探しては、ひたすらに祈りました。

 やがて痛みすら感じなくなりました。食べ物に薬が混ぜられていたのかもしれません。気付けば腹を切り開かれて、何かを取り出されていました。

 牢にいる間は星が見えません。しかし、ささやかな慈悲からか、私と同じ格好で祈るイェスマの少女の像がありました。私は彼女に祈りました。

――この恐ろしい暗闇から、どうか、このブレースを助け出してください。

 助けが来ないことは知っていました。絶望に潰されないよう、私は祈り続けました。

 そこに現れたのが、ノットさんたちでした。

 ノットさんは檻を開けて、私を抱きしめてくださいました。あんなに強く抱きしめられたのは、記憶にある限り、初めてのことでした。

 でも、もう遅かったのです。私は自分が近々死ぬことを、はっきり自覚していました。

 恐ろしい体験をしたせいでしょうか、私はあんなに好きだったおしゃべりも、すっかりできなくなっていました。最後にできることは、ノットさんが大切にされているジェスさんを、無事王都まで送り届けるお手伝いをすることです。

 願い星の輝く北へ向かうこの旅だけは、成功してほしいと思いました。

 私は毎晩、願い星に祈りました。

――ジェスさんが王都へ辿り着けますように。

――ノットさんが無事でいられますように。

――私はもっと幸せな世界に行けますように。


「何を祈ってんだ」


 ある晩、ノットさんに訊かれました。答えることはできませんでした。

 ノットさんはそれでも、私のそばに腰を下ろしました。


「どんなときだって希望を捨てちゃいけねえ――昔、そんなことを言う奴がいた」


 私はノットさんを見ました。ノットさんの顔は少し歪んだように笑っていました。


「でも、俺たちが希望を捨ててるんじゃねえよな。希望の方が、俺たちを捨てやがるんだ」


 その通りだと、心の中で思っていました。

 返事がないのを悟ると、ノットさんは目を閉じました。


「お前を助け出せてよかった。あんな暗いとこで死ぬの、嫌だろ」


 そうして近くにいてくださるのを見て、私はノットさんが決して希望を捨てない人なのだと知りました。

 私には、希望を抱き続ける力がもうありませんでした。できるのはただ祈ることだけ。

 でも、ノットさんたちならば、とても手の届きそうにないあの星に、もしかすると手が届くのではないかと、そう思えてなりませんでした。

 ジェスさんの連れている豚さんが星空の向こうから来たと気付き、私は最後の想いを彼に託そうと決めました。

刊行シリーズ

豚のレバーは加熱しろ(n回目)の書影
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