まさしく完全の名に相応しい、それは現実との完璧なまでの隔離だった。
なぜなら、ユーザーは、仮想の五感情報を与えられるだけでなく──脳から自分の体に向けて出力される命令をも遮断・回収されるのだから。
それは、仮想空間で自由に動くためには必須の機能であると言える。もし現実の体への命令が生きていれば、例えばフルダイブ中のユーザーが、仮想空間内で《走る》という意志を発生させた時、生身の自分もまた同時にダッシュして部屋の壁に激突してしまう。
ナーヴギアが延髄部で肉体への命令信号を回収し、アバターを動かすためのデジタル信号に変換してくれるからこそ、俺やクラインは仮想の戦場を自在に飛びまわり、剣を振り回せるというわけだ。
ゲームの中に飛び込む。
その体験のインパクトは、俺を含む多くのゲーマーを深く魅了した。もう二度とタッチペンだのモーションセンサー程度のインタフェースには戻れないと確信してしまうほどに。
俺は、風になびく草原や、彼方の城壁を見渡して本気で眼をうるうるさせているクラインに訊ねた。
「じゃあ、あんたはナーヴギア用のゲーム自体も、この《SAO》が初体験なのか?」
戦国時代の若武者のように凜々しく整った顔を俺に向け、クラインは「おう」と頷いた。
真面目な表情をすれば、時代劇の主役が張れそうな押し出しの良さだが、しかしこの容姿はもちろん現実の彼そのままの姿ではない。多岐にわたるパラメータを微調整し、ゼロから造り上げた仮想体なのだ。
当然、俺のほうも気恥ずかしいほどにカッコいい、ファンタジーアニメの主人公然とした容貌を備えている。
これも現実とは違うのであろう、張りのある美声でクラインは続けた。
「つーか、むしろSAOが買えたから慌ててハードも揃えたって感じだな。なんたって、初回ロットがたった一万本だからな、我ながらラッキーだよなぁ。……ま、それを言ったら、SAOのベータテストに当選してるおめぇのほうが十倍ラッキーだけどよ。あれは限定千人ぽっちだったからな!」
「ま、まあ、そうなるかな」
じとっと睨まれ、思わず頭を搔く。
《ソードアート・オンライン》という名のゲームタイトルが、各メディアに大々的に発表された時の興奮と熱狂は昨日のことのように覚えている。
完全ダイブという新世代のゲーム環境を実現したナーヴギアだが、その機構の斬新さゆえに、肝心のソフトリリースはぱっとしない物が続いた。どれもがこじんまりとしたパズルや知育、環境系のタイトルばかりで、俺のようなゲーム中毒者は大いに不満を募らせたものだ。
ナーヴギアは真の仮想世界を創る。
なのに、その世界が百メートル歩いたら壁に突き当たるような狭苦しいものでは、本末転倒もいいところではないか。ハードの発売当初こそ、自分がゲームの中に入る、という体験に夢中になった俺や他のコアゲーマーたちが、すぐにあるジャンルのタイトルを待ち望むようになったのも当然の流れだろう。
すなわち、ネットワーク対応ゲーム──それも、広大な異世界に数千、数万のプレイヤーが同時接続し、己の分身を育て、戦い、生きる、MMORPGを。
期待と渇望が限界まで高まった頃、満を持して発表されたのが、VRMMOという世界初のゲームジャンルを冠した《ソードアート・オンライン》だったというわけだ。
ゲームの舞台は、百にも及ぶ階層を持つ巨大な浮遊城。
草原やら森やら街、村までが存在するその層を、プレイヤーたちは武器一本を頼りに駆け抜け、上層への通路を見出し、強力な守護モンスターを倒してひたすらに城の頂上を目指す。
ファンタジーMMOでは必須と思われていた《魔法》の要素は大胆に排除され、代わりに《剣技》という名の言わば必殺技が無限に近い数設定されている。その理由は、己の体、己の剣を実際に動かして戦うというフルダイブ環境を最大限に体感させるためだ。
スキルは戦闘用以外にも、鍛冶や革細工、裁縫といった製造系、釣りや料理、音楽などの日常系まで多岐にわたり、プレイヤーは広大なフィールドを冒険するだけでなく、文字通り《生活》することができる。望み努力すれば、自分専用の家を買い、畑を耕し羊を飼って暮らすことだって可能なのだ。
それらの情報が段階的に発表されるたび、ゲーマーたちの熱狂は否応なく高まっていった。
わずか千人に限定して募集されたベータテストプレイヤー、つまり正式サービス開始前の稼動試験参加者の枠には、当時のナーヴギア総販売台数の半分にも迫る十万人の応募が殺到したという。俺がその狭き門をかいくぐって当選したのは、僥倖以外の何物でもあるまい。しかも、ベータテスターにはその後の正式版パッケージの優先購入権がプレゼントされるというオマケまで付いていたのだ。
二ヶ月のテスト期間は、まさしく夢まぼろしの如き日々だった。俺は学校にいる間もひたすらにスキル構成やら装備アイテムについて考え続け、授業が終わるや家に飛んで帰って明け方近くまでダイブしっぱなしだった。あっというまにベータテストが終わり、育てたキャラクターがリセットされた日には、まるで己の半身を奪われるような喪失感をおぼえたものだ。
そして今日──二〇二二年十一月六日、日曜日。
午後一時に、満を持して《ソードアート・オンライン》正式サービスが開始された。
当然俺は三十分も前から待ち構え、一秒と遅れずにログインしたし、サーバーステータスを見るかぎりではたちまち接続数が九千五百を超えていたので、他の幸運な購入者たちも同様だったのだろう。大手の通販サイトはどこも軒並み数秒で初回入荷分が完売したらしいし、昨日の店頭販売分も三日も前から徹夜行列ができてニュースにまでなっていたので、つまりはパッケージを買えた人間はほぼ百パーセント、重度のネットゲーム中毒者なのだ。
それは、このクラインという男の見事なネットゲーマーぶりにも如実に現れている。
SAOにログインし、懐かしい《はじまりの街》の石畳を再び踏んだ俺は、入り組んだ裏道にあるお徳な安売り武器屋に駆けつけようとした。その迷いのないダッシュぶりから、こいつはベータ経験者だと見当をつけたのだろう。クラインは俺を呼び止めるや、「ちょいと引率してくれよ!」と頼み込んできたのだ。
初対面でその堂々たる図々しさに思わず感心させられた俺は、「は、はあ。じゃあ……武器屋行く?」などと街案内NPCの如き対応をしてしまい、なし崩し的にパーティーを組み、フィールドで戦闘の手ほどきまですることになって、こうして現在に至る──というわけだ。
正直なところ、俺はゲーム内でも、現実世界と同じかそれ以上に人付き合いが得意ではない。ベータテストの時は、知り合いなら沢山できたが友達と呼べるような相手はついに一人も作れなかった。
しかし、このクラインという男は、不思議にこちらの懐に滑り込んでくるようなところがあり、しかも俺はそれが不快ではなかった。ことによると、こいつとなら長く付き合えるかも、と思いながら、俺は再び口を開いた。
「さてと……どうする? 勘が摑めるまで、もう少し狩り続けるか?」
「ったりめえよ! ……と言いてぇとこだけど……」
クラインの端整な目元がちらっと右方向に動いた。視界の端に表示されている現在時刻を確認したのだ。
「……そろそろ一度落ちて、メシ食わねぇとなんだよな。ピザの宅配、五時半に指定してっからよ」
「準備万端だなぁ」
呆れ声を出す俺に、おうよと胸を張り、クラインは思いついたように続けた。