1 アインクラッド

2 ②

 まさしく完全の名に相応ふさわしい、それは現実とのかんぺきなまでのかくだった。

 なぜなら、ユーザーは、仮想の五感情報を与えられるだけでなく──脳から自分の体に向けて出力される命令をもしやだん・回収されるのだから。

 それは、仮想空間で自由に動くためには必須の機能であると言える。もし現実の体への命令が生きていれば、例えばフルダイブ中のユーザーが、仮想空間内で《走る》という意志を発生させた時、生身の自分もまた同時にダッシュして部屋の壁に激突してしまう。

 ナーヴギアがえんずいで肉体への命令信号を回収し、アバターを動かすためのデジタル信号に変換してくれるからこそ、おれやクラインは仮想の戦場を自在に飛びまわり、剣を振り回せるというわけだ。

 ゲームの中に飛び込む。

 その体験のインパクトは、俺を含む多くのゲーマーを深くりようした。もう二度とタッチペンだのモーションセンサー程度のインタフェースには戻れないと確信してしまうほどに。

 俺は、風になびく草原や、彼方かなたじようへきを見渡して本気で眼をうるうるさせているクラインにたずねた。


「じゃあ、あんたはナーヴギア用のゲーム自体も、この《SAO》が初体験なのか?」


 戦国時代の若武者のようにしく整った顔を俺に向け、クラインは「おう」とうなずいた。

 な表情をすれば、時代劇の主役が張れそうな押し出しの良さだが、しかしこの容姿はもちろん現実の彼そのままの姿ではない。多岐にわたるパラメータを微調整し、ゼロから造り上げた仮想体アバターなのだ。

 当然、俺のほうも気恥ずかしいほどにカッコいい、ファンタジーアニメの主人公然としたようぼうを備えている。

 これも現実とは違うのであろう、張りのある美声でクラインは続けた。


「つーか、むしろSAOが買えたから慌ててハードもそろえたって感じだな。なんたって、初回ロットがたった一万本だからな、我ながらラッキーだよなぁ。……ま、それを言ったら、SAOのベータテストに当選してるおめぇのほうが十倍ラッキーだけどよ。あれは限定千人ぽっちだったからな!」

「ま、まあ、そうなるかな」


 じとっとにらまれ、思わず頭をく。

《ソードアート・オンライン》という名のゲームタイトルが、各メディアに大々的に発表された時のこうふんと熱狂は昨日のことのように覚えている。

 ダイブという新世代のゲーム環境を実現したナーヴギアだが、その機構のざんしんさゆえに、肝心のソフトリリースはぱっとしない物が続いた。どれもがこじんまりとしたパズルや知育、環境系のタイトルばかりで、俺のようなゲーム中毒者アデイクトは大いに不満をつのらせたものだ。

 ナーヴギアは真の仮想世界をつくる。

 なのに、その世界が百メートル歩いたら壁に突き当たるような狭苦しいものでは、本末転倒もいいところではないか。ハードの発売当初こそ、自分がゲームの中に入る、という体験に夢中になった俺やほかのコアゲーマーたちが、すぐにあるジャンルのタイトルを待ち望むようになったのも当然の流れだろう。

 すなわち、ネットワーク対応ゲーム──それも、広大な異世界に数千、数万のプレイヤーが同時接続し、己の分身を育て、戦い、生きる、MMORPGを。

 期待と渇望が限界まで高まったころ、満を持して発表されたのが、VRMMOという世界初のゲームジャンルを冠した《ソードアート・オンライン》だったというわけだ。

 ゲームの舞台は、百にも及ぶ階層を持つ巨大な浮遊城。

 草原やら森やら街、村までが存在するその層を、プレイヤーたちは武器一本をたよりに駆け抜け、上層への通路をみいし、強力な守護モンスターを倒してひたすらに城の頂上を目指す。

 ファンタジーMMOでは必須と思われていた《ほう》の要素は大胆に排除され、代わりに《剣技ソードスキル》という名の言わば必殺技が無限に近い数設定されている。その理由は、己の体、己の剣を実際に動かして戦うというフルダイブ環境を最大限に体感させるためだ。

 スキルはせんとう用以外にも、かわ細工、さいほうといった製造系、釣りや料理、音楽などの日常系まで多岐にわたり、プレイヤーは広大なフィールドを冒険するだけでなく、文字通り《生活》することができる。望み努力すれば、自分専用の家を買い、畑を耕し羊を飼って暮らすことだって可能なのだ。

 それらの情報が段階的に発表されるたび、ゲーマーたちの熱狂はいやおうなく高まっていった。

 わずか千人に限定して募集されたベータテストプレイヤー、つまり正式サービス開始前のどう試験参加者の枠には、当時のナーヴギア総販売台数の半分にも迫る十万人の応募が殺到したという。おれがその狭き門をかいくぐって当選したのは、ぎようこう以外の何物でもあるまい。しかも、ベータテスターにはその後の正式版パッケージの優先購入権がプレゼントされるというオマケまで付いていたのだ。

 二ヶ月のテスト期間は、まさしく夢まぼろしのごとき日々だった。俺は学校にいる間もひたすらにスキル構成やら装備アイテムについて考え続け、授業が終わるや家に飛んで帰って明け方近くまでダイブしっぱなしだった。あっというまにベータテストが終わり、育てたキャラクターがリセットされた日には、まるで己の半身を奪われるようなそうしつかんをおぼえたものだ。

 そして今日──二〇二二年十一月六日、日曜日。

 午後一時に、満を持して《ソードアート・オンライン》正式サービスが開始された。

 当然俺は三十分も前から待ち構え、一秒と遅れずにログインしたし、サーバーステータスを見るかぎりではたちまち接続数が九千五百を超えていたので、ほかの幸運な購入者たちも同様だったのだろう。大手の通販サイトはどこも軒並み数秒で初回入荷分が完売したらしいし、昨日の店頭販売分も三日も前からてつ行列ができてニュースにまでなっていたので、つまりはパッケージを買えた人間はほぼ百パーセント、重度のネットゲーム中毒者なのだ。

 それは、このクラインという男の見事なネットゲーマーぶりにもによじつに現れている。

 SAOにログインし、なつかしい《はじまりの街》のいしだたみを再びんだ俺は、入り組んだ裏道にあるお徳な安売り武器屋に駆けつけようとした。その迷いのないダッシュぶりから、こいつはベータ経験者だと見当をつけたのだろう。クラインは俺を呼び止めるや、「ちょいと引率レクチヤーしてくれよ!」とたのみ込んできたのだ。

 初対面でその堂々たる図々しさに思わず感心させられたおれは、「は、はあ。じゃあ……武器屋行く?」などと街案内NPCのごとき対応をしてしまい、なし崩し的にパーティーを組み、フィールドでせんとうの手ほどきまですることになって、こうして現在に至る──というわけだ。

 正直なところ、俺はゲーム内でも、現実世界と同じかそれ以上に人付き合いが得意ではない。ベータテストの時は、知り合いならたくさんできたが友達と呼べるような相手はついに一人も作れなかった。

 しかし、このクラインという男は、不思議にこちらのふところすべり込んでくるようなところがあり、しかも俺はそれが不快ではなかった。ことによると、こいつとなら長く付き合えるかも、と思いながら、俺は再び口を開いた。


「さてと……どうする? 勘がつかめるまで、もう少し狩り続けるか?」

「ったりめえよ! ……と言いてぇとこだけど……」


 クラインのたんせいな目元がちらっと右方向に動いた。視界のはしに表示されている現在時刻を確認したのだ。


「……そろそろ一度落ちて、メシ食わねぇとなんだよな。ピザの宅配、五時半に指定してっからよ」

「準備ばんたんだなぁ」


 あきれ声を出す俺に、おうよと胸を張り、クラインは思いついたように続けた。

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