「あ、んで、オレそのあと、他のゲームで知り合いだった奴らと《はじまりの街》で落ち合う約束してるんだよな。どうだ、紹介すっから、あいつらともフレンド登録しねえか? いつでもメッセージ飛ばせて便利だしよ」
「え……うーん」
俺は思わず口籠った。
このクラインという男とは自然に付き合えているが、その友達とも同様に仲良くなれるという保証はない。むしろそっちと上手くやれずにクラインとも気まずくなってしまうという結果のほうがありそうな気がする。
「そうだなあ……」
歯切れの悪い俺の返事に、クラインはその理由まで悟ったのだろうか、すぐに首を振った。
「いや、もちろん無理にとは言わねえよ。そのうち、紹介する機会もあるだろうしな」
「……ああ。悪いな、ありがとう」
謝ると、クラインはもう一度ぶんぶんと派手にかぶりを振った。
「おいおい、礼言うのはこっちのほうだぜ! おめぇのおかげですっげえ助かったよ、この礼はそのうちちゃんとすっからな、精神的に」
にかっと笑い、もう一度時計を見る。
「……ほんじゃ、おりゃここで一度落ちるわ。マジ、サンキューな、キリト。これからも宜しく頼むぜ」
ぐいっと突き出されてきた右手を、俺は、きっとこの男は《他のゲーム》ではいいリーダーだったんだろうな、と思いながら握り返した。
「こっちこそ、宜しくな。また訊きたいことがあったら、いつでも呼んでくれよ」
「おう。頼りにしてるぜ」
そして俺たちは手を離した。
俺にとって、アインクラッド──あるいはソードアート・オンラインという名の世界が、楽しいだけの《ゲーム》であったのは、正しくこの瞬間までだった。
クラインが一歩しりぞき、右手の人差し指と中指をまっすぐ揃えて掲げ、真下に振った。ゲームの《メインメニュー・ウインドウ》を呼び出すアクションだ。たちまち、鈴を鳴らすような効果音とともに紫色に発光する半透明の矩形が現れる。
俺も数歩下がって、そこにあった手頃な岩に腰掛け、ウインドウを開いた。これまでのイノシシ相手の戦闘でドロップした戦利品を整理しようと、指を動かしかける。
直後。
「あれっ」
クラインの頓狂な声が響いた。
「なんだこりゃ。……ログアウトボタンがねぇよ」
その一言に、俺は手を止めて、顔を上げた。
「ボタンがないって……そんなわけないだろ、よく見てみろ」
呆れ声でそう言うと、長身の曲刀使いは、悪趣味なバンダナの下の目を剝いて顔を手元に近づけた。
横長の長方形をしたウインドウには、初期状態では左側に幾つものメニュータブが並び、右側には自分のアイテム装備状況を示す人型のシルエットが表示される。そのメニューの一番下に、《LOG OUT》──つまりこの世界からの離脱を命じるボタンが存在する、はずだ。
視線を再び数時間の戦闘で得たアイテムの一覧に戻そうとした俺に、クラインがややボリュームを上げた声を浴びせてきた。
「やっぱどこにもねぇよ。おめぇも見てみろって、キリト」
「だから、んなわけないって……」
俺はため息混じりに呟き、自分のウインドウの左上、トップメニューに戻るためのボタンを叩いた。
右側に開いていたアイテム欄が滑らかに閉じ、ウインドウが初期状態へと戻る。まだ空白箇所の多い装備フィギュアが浮き上がり、左にメニュータブがぎっしりと並ぶ。
腕に染み付いた動作で、俺はその一番下に指先を滑らせ──。
そして、ぴたりと全身の動きを止めた。
無かった。
クラインの言葉どおり、ベータテストの時は──いや、今日の午後一時にログインした直後も確かにそこにあったはずのログアウトボタンが、綺麗に消滅していた。
空白箇所を数秒間まじまじと凝視し、もう一度メニュータブを上からゆっくり眺め、ボタンの位置が変更になったわけではないことを確認してから、俺は視線を上げた。クラインの顔が、な? というふうに傾けられた。
「……ねぇだろ?」
「うん、ない」
少々癪だったが素直に頷いてやると、曲刀使いはにまっと頰を吊り上げ、逞しい顎を撫でた。
「ま、今日はゲームの正式サービス初日だかんな。こんなバグも出るだろ。今頃GMコールが殺到して、運営は半泣きだろなぁ」
ノンビリした口調でそう言うクラインに、俺はやや意地悪い声音で突っ込みを入れた。
「そんな余裕かましてていいのか? さっき、五時半にピザの配達頼んであるとか言ってなかったか」
「うおっ、そうだった!!」
眼を丸くして飛び上がるその姿に、つい口を緩めてしまう。
重量過多で赤くなっていたアイテム欄の不用品をデリートし、整理を終えた俺は立ち上がり、やべえオレ様のアンチョビピッツァとジンジャーエールがぁーと喚いているクラインの傍に歩み寄った。
「とりあえずお前もGMコールしてみろよ。システム側で落としてくれるかもよ」
「試したけど、反応ねぇんだよ。ああっ、もう五時二十五分じゃん! おいキリトよう、他にログアウトする方法って何かなかったっけ?」
情けない顔で両手を広げるクラインの言葉に──。
俺は、浮かべていた微笑をふと強張らせた。理由のない不安のようなものが、ひやりと背中を撫でた気がしたからだ。
「ええと……ログアウトするには……」
呟きながら考える。
この仮想世界から離脱し、現実世界の自分の部屋に戻るためには、メインウインドウを開き、ログアウトボタンに触れ、右側に浮かぶ確認ダイアログのイエスボタンを押すだけでいい。実に簡単だ。しかし──同時に、それ以外の方法を、俺は知らない。
自分よりかなり高いところにあるクラインの顔を見上げ、俺はゆっくりと首を左右に振った。
「いや……ないよ。自発的ログアウトをするには、メニューを操作する以外の方法はない」
「んなバカな……ぜってぇ何かあるって!」
俺の回答を拒否するかのように喚き、クラインは突然大声を出した。
「戻れ! ログアウト! 脱出!!」
しかし当然何も起こらない。SAOにその手のボイスコマンドは実装されていない。
尚もあれこれ唱え、しまいにはぴょんぴょんジャンプまで始めたクラインに、俺は押し殺した声で呼びかけた。
「クライン、無駄だ。マニュアルにも、その手の緊急切断方法は一切載ってなかった」
「でもよ……だって、馬鹿げてるだろ! いくらバグったって、自分の部屋に……自分の体に、自分の意志で戻れないなんてよ!」
くるりと振り向き、呆然とした顔でクラインが叫んだ。それには、俺もまったく同感だった。
馬鹿げてる。ナンセンスだ。だがそれは確かな事実だ。
「おいおい……噓だろ、信じられねぇよ。今、ゲームから出られないんだぜ、オレたち!」
わははは、とやや切迫した響きのある笑い声を上げ、クラインは早口で続けた。
「そうだ、マシンの電源を切りゃいいんだ。それか、頭から《ギア》を引っぺがすか」
見えない帽子を脱ごうとするように額に手を触れさせるクラインに、俺は再びかすかな不安が戻ってくるのを感じながら、静かに言った。
「できないよ、どっちも。俺たちは今、生身の……現実の体を動かせないんだ。《ナーヴギア》が、俺たちの脳から体に向かって出力される命令を、全部ここで……」
指先で後頭部の下、延髄をとんと叩く。
「……インタラプトして、このアバターを動かす信号に変換してるんだからな」
クラインは押し黙り、のろのろと手を下ろした。