俺とクラインは、たっぷり数秒間、呆けた顔を見合わせ続けた。
脳そのものが、言葉の意味を理解するのを拒否しているかのようだった。しかし、茅場のあまりにも簡潔な宣言は、凶暴とすら思える硬度と密度で俺の頭の中心からつま先までを貫いた。
脳を破壊する。
それはつまり、殺す、ということだ。
ナーヴギアの電源を切ったり、ロックを解除して頭から外そうとしたら、着装しているユーザーを殺す。茅場はそう宣言したのだ。
ざわ、ざわ、と集団のあちこちがさざめく。しかし叫んだり暴れたりする者はいない。俺を含めた全員が、まだ伝えられた言葉を理解できないか、あるいは理解を拒んでいる。
クラインの右手がのろりと持ち上がり、現実世界ではその場所にあるはずのヘッドギアを摑もうとした。同時に、乾いた笑いの混じる声が漏れた。
「はは……何言ってんだアイツ、おかしいんじゃねえのか。んなことできるわけねぇ、ナーヴギアは……ただのゲーム機じゃねえか。脳を破壊するなんて……んな真似ができるわけねぇだろ。そうだろキリト!」
後半は掠れた叫び声だった。食い入るように凝視されたものの、俺は同意の頷きを返せなかった。
ナーヴギアは、ヘルメット内部に埋め込まれた無数の信号素子から微弱な電磁波を発生させ、脳細胞そのものに擬似的感覚信号を与える。
まさに最先端のウルトラテクノロジーと言えるが、しかし原理的にはそれとまったく同じ家電製品が、もう四十年も昔から日本の家庭では使われているのだ。つまり──電子レンジ。
充分な出力さえあれば、ナーヴギアは、俺たちの脳細胞中の水分を高速振動させ、摩擦熱によって蒸し焼きにすることは可能だ。だが。
「…………原理的には、有り得なくもないけど……でも、ハッタリに決まってる。だって、いきなりナーヴギアの電源コードを引っこ抜けば、とてもそんな高出力の電磁波は発生させられないはずだ。大容量のバッテリでも内蔵されてない……限り…………」
そこまでを口にしたところで俺が絶句した理由を、クラインも察したのだろう。
虚ろな表情で、長身の美丈夫は呻くように言った。
「内蔵……してるぜ。ギアの重さの三割はバッテリセルだって聞いた。でも……無茶苦茶だろそんなの! 瞬間停電でもあったらどうすんだよ!!」
と、まるでクラインの叫び声が聞こえたかのように、上空からの茅場のアナウンスが再開された。
『より具体的には、十分間の外部電源切断、二時間のネットワーク回線切断、ナーヴギア本体のロック解除または分解または破壊の試み──以上のいずれかの条件によって脳破壊シークエンスが実行される。この条件は、すでに外部世界では当局およびマスコミを通して告知されている。ちなみに現時点で、プレイヤーの家族友人等が警告を無視してナーヴギアの強制除装を試みた例が少なからずあり、その結果』
いんいんと響く金属質の声は、そこで一呼吸入れ。
『──残念ながら、すでに二百十三名のプレイヤーが、アインクラッド及び現実世界からも永久退場している』
どこかで、ひとつだけ細い悲鳴が上がった。しかし周囲のプレイヤーの大多数は、信じられない、あるいは信じないというかのように、ぽかんと放心したり、薄い笑いを浮かべたままだった。
俺もまた、脳では茅場の言葉を受け入れまいとした。しかし体が裏切り、不意にがくがくと脚が震えた。
膝が笑い、俺は後ろに数歩よろめいて、どうにか倒れるのをこらえた。クラインのほうは、虚脱した顔でその場にどすんと尻餅をついた。
すでに、二百十三名のプレイヤーが。
その部分だけが、耳の奥で何度も何度もリピート再生される。
茅場の言葉が本当なら──二百人以上も、この時点でもう死んでいるということなのか?
その中には、きっと俺と同じベータテスターもいただろう。キャラネームやアバターの顔を知っている奴だっていたかもしれない。そいつが、ナーヴギアに脳を焼かれて──死んだと、茅場はそう言ったのか?
「信じねぇ……信じねぇぞオレは」
石畳に座り込んだクラインが、嗄れた声を放った。
「ただの脅しだろ。できるわけねぇそんなこと。くだらねぇことぐだぐだ言ってねえで、とっとと出しやがれってんだ。いつまでもこんなイベントに付き合ってられるほどヒマじゃねえんだ。そうだよ……イベントだろ全部。オープニングの演出なんだろ。そうだろ」
俺も頭の奥では、それとまったく同じことを喚き続けていた。
しかし、俺たちを含む全プレイヤーの望みを薙ぎ払うかのように、あくまでも実務的な茅場のアナウンスが再開された。
『諸君が、向こう側に置いてきた肉体の心配をする必要はない。現在、あらゆるテレビ、ラジオ、ネットメディアはこの状況を、多数の死者が出ていることも含め、繰り返し報道している。諸君のナーヴギアが強引に除装される危険はすでに低くなっていると言ってよかろう。今後、諸君の現実の体は、ナーヴギアを装着したまま二時間の回線切断猶予時間のうちに病院その他の施設へと搬送され、厳重な介護態勢のもとに置かれるはずだ。諸君には、安心して……ゲーム攻略に励んでほしい』
「な…………」
そこでとうとう、俺の口から鋭い叫び声が迸った。
「何を言ってるんだ! ゲームを攻略しろだと!? ログアウト不能の状況で、吞気に遊べってのか!?」
上層フロアの底近くに浮かぶ巨大な真紅のフーデッドローブを睨みつけ、俺はなおも吼えた。
「こんなの、もうゲームでも何でもないだろうが!!」
と、またしてもその声が聞こえたかのように。
茅場晶彦の、抑揚の薄い声が、穏やかに告げた。
『しかし、充分に留意してもらいたい。諸君にとって、《ソードアート・オンライン》は、すでにただのゲームではない。もう一つの現実と言うべき存在だ。……今後、ゲームにおいて、あらゆる蘇生手段は機能しない。ヒットポイントがゼロになった瞬間、諸君のアバターは永久に消滅し、同時に』
続く言葉を、俺は鮮やかに予想した。
『諸君らの脳は、ナーヴギアによって破壊される』
瞬間、甲高く哄笑したいという衝動が腹の底から押し寄せてきて、俺は必死にそれを抑えた。
いま、俺の視界左上には、細い横線が青く輝いている。視線を合わせると、その上に342/342という数字がオーバーレイ表示される。
ヒットポイント。命の残量。
それがゼロになった瞬間、俺は本当に死ぬ──マイクロウェーブに脳を焼かれて即死すると、茅場はそう言ったのだ。
確かにこれはゲームだ。本物の命がかかった遊戯。つまり、デスゲーム。
俺は、二ヶ月間のSAOベータテスト中に、恐らく百回は死んだ。広場の北に見える宮殿、《黒鉄宮》という名の建物の中で、バツの悪い笑いとともに蘇生し、また戦場へと舞い戻った。
RPGというのは、そういうものなのだ。何度も何度も死んで、学習し、プレイヤースキルを高めていく種類のゲームなのだ。それができない? 一度の死亡で、本物の命まで失うと? そのうえ──ゲームプレイを止めることもできないだって?
「……馬鹿馬鹿しい」
俺は低く呻いた。
そんな条件で、危険なフィールドに出ていく奴がどこにいる。プレイヤー全員、安全な街区圏内に引きこもり続けるに決まっている。
しかし、俺の、あるいは全プレイヤーの思考を読み続けているかのように、次の託宣が降り注いだ。