1 アインクラッド

3 ③

『諸君がこのゲームから解放される条件は、たった一つ。先に述べたとおり、アインクラッド最上部、第百層まで辿たどり着き、そこに待つ最終ボスを倒してゲームをクリアすればよい。そのしゆんかん、生き残ったプレイヤー全員が安全にログアウトされることを保証しよう』


 しん、と一万のプレイヤーがちんもくした。

 俺は、最初にかやが口にした、《この城の頂を極めるまで》という言葉の真意をようやく悟った。

 この城、とはつまり──俺たちを最下層にみ込み、その頭上に九十九もの層を重ねて空に浮かび続ける巨大浮遊城、アインクラッドそのものを指していたのだ。


「クリア……第百層だとぉ!?」


 突然クラインがわめいた。がばっと立ち上がり、みぎこぶしを空に向かって振り上げる。


「で、できるわきゃねぇだろうが!! ベータじゃろくに上れなかったって聞いたぞ!!」


 その言葉は真実だった。千人のプレイヤーが参加したSAOベータテストでは、二ヶ月の期間中にクリアされたフロアはわずか六層だったのだ。今の正式サービスには、約一万人がダイブしているはずだが、ならばその人数で百層をクリアするのに、いったいどれくらいかかるのか?

 そんな答えの出しようのない疑問を、おそらくこの場に集められたプレイヤー全員が考えたのだろう。張り詰めた静寂が、やがて低いどよめきに埋められていく。しかしそこに、恐怖や絶望の音はほとんど聞き取れない。

 おそらく大多数の者は、この状況が《本物の危機》なのか《オープニングイベントのじよう演出》なのかいまだに判断しかねているのだ。茅場の言葉はそのすべてがあまりにも恐るべきものであるがゆえに、逆に現実感を遠ざけている。

 俺は空を振り仰ぎ、がらんどうのローブ姿をにらみつけて、必死に認識を状況にアジャストさせようとした。

 俺はもう、二度とログアウトできない。現実世界の自分の部屋に、自分の生活に戻ることはかなわない。それが可能となるのは、いつかだれかがこの浮遊城のてっぺんにいるラスボスを倒した時だけ。それまでに一度でもHPがゼロになれば──俺は死ぬ。本物の死が訪れ、俺という人間は永久に消滅する。

 しかし。

 それらの情報を事実として吞み込むことなど、どう頑張ってもできそうになかった。俺はほんの五、六時間前、母親の作った昼飯を食い、妹と短い会話を交わし、自宅の階段を上った。

 あの場所に、もう戻れない? これは本当に、現実なのか?

 その時、俺とほかのプレイヤーの思考を先回りし続ける赤ローブが、右の白手袋をひらりと動かし、一切の感情をぎ落とした声で告げた。


『それでは、最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう。諸君のアイテムストレージに、私からのプレゼントが用意してある。確認してくれたまえ』


 それを聞くや、ほとんど自動的に、おれは右手の指二本をそろえ真下に向けて振っていた。周囲のプレイヤーも同様のアクションを起こし、広場いっぱいに電子的な鈴の音のサウンドエフェクトがひびく。

 出現したメインメニューから、アイテムらんのタブをたたくと、表示された所持品リストの一番上にそれはあった。

 アイテム名は──《手鏡》。

 なぜこんな物を、と思いながら、俺はその名前をタップし、浮き上がった小ウインドウからオブジェクト化のボタンを選択。たちまち、きらきらという効果音とともに、小さな四角い鏡が出現した。

 おそるおそる手に取ったが、何も起こらない。のぞき込んだ鏡に映るのは、俺が苦心して造り上げた勇者顔のアバターだけだ。

 首をかしげ、俺はとなりのクラインを見やった。ごうようぼうの侍も、同じ鏡を右手に、ぼうぜんとした表情をしている。

 ──と。

 突然、クラインや周りのアバターを白い光が包んだ。と思ったしゆんかん、俺も同じ光にみ込まれ、視界がホワイトアウトした。

 ほんの二、三秒で光は消え、元のままの風景が現れ……。

 いや。

 目の前にあったのは、見慣れたクラインの顔ではなかった。

 板金をつなぎ合わせたよろいも、あくしゆなバンダナも、つんつんと逆立った赤い髪ももとのままだ。しかし、顔だけが似ても似つかぬ造形へと変貌している。切れ長だった目元は、ぎょろりとしたかなつぼまなこに。細く通ったりようは、長いわしばなに。そしてほおあごには、むさ苦しいしようひげが浮いている。元のアバターが涼やかな若侍だったとすれば、今のは野武士──あるいはさんぞくだ。

 俺はあらゆる状況を忘れ、ぼうぜんつぶやいた。


「お前……だれ?」


 そしてまったく同じ言葉が、目の前の男の口から流れた。


「おい……誰だよおめぇ」


 その瞬間、俺はある種の予感に打たれ、同時にかやのプレゼント、《手鏡》の意味を悟った。

 さっと持ち上げ、食い入るように覗き込んだ鏡の中から、こちらを見返していたのは。

 大人しいスタイルの、黒い髪。長めの前髪の下の、にゆうじやくそうな両眼。私服で妹といつしよにいると、いまだに姉妹に間違われることのある線の細い顔。

 数秒前までの《キリト》が備えていた、勇者然としたたくましさなどもうどこにもなかった。鏡の中にあったのは──。

 おれしてやまない、現実世界の、生身の容姿そのものだった。


「うおっ…………オレじゃん……」


 となりで、同じく鏡をのぞいたクラインがけ反った。

 俺たちはもう一度互いの顔を見合わせ、同時に叫んだ。


「お前がクラインか!?」「おめぇがキリトか!?」



 どちらの声も、ボイスエフェクタが停止したらしくトーンが変化していたが、そんなことを気にする余裕はなかった。

 双方の手から鏡がこぼれ落ち、地面に落ちて、ささやかな破砕音とともに消滅した。

 改めてぐるっと周囲を見回すと、存在したのは、数十秒前までのいかにもファンタジーゲームのキャラクターめいた美男美女の群れではなかった。例えば現実のゲームショウの会場から、ひしめく客をき集めてきてよろいかぶとを着せればこういうものができるであろう、というリアルな若者たちの集団がそこにあった。恐ろしいことに、男女比すら大きく変化している。

 いったい、どうしてこんなことが起こり得るのか。俺やクライン、そして恐らく周囲のプレイヤーたちは、ゼロから造ったアバターから現実の姿へと変化している。たしかに質感はポリゴンだし、細部には多少の違和感も残るが、それでもすさまじいと言うべき再現度だ。まるで立体スキャン装置にかけたかのようだ。

 ──スキャン。


「……そうか!」


 おれはクラインの顔を見上げ、押し殺した声をしぼり出した。


「ナーヴギアは、高密度の信号素子で頭から顔全面をすっぽりおおっている。つまり、脳だけじゃなくて、顔の表面の形も精細に把握できるんだ……」

「で、でもよ。身長とか……体格はどうなんだよ」


 いっそうの小声で言いながら、クラインはちらっと周りを見た。

 周囲で、ぜんとした表情で自分や他人の顔を見回しているプレイヤーたちの平均身長は、《変化》以前より明らかに低下している。俺は、そして恐らくクラインも、視点の高さの差異によって動作が阻害されるのを防ぐためにアバターの身長を生身と同じに設定していたのだが、大多数の者は現実よりも十ないし二十センチ上積みしていたのだろう。

 それだけではない。体格のほうも横幅の平均値がかなり上昇している。これらは、頭にかぶるだけのナーヴギアではスキャンのしようがないはずだ。

 こちらの疑問に答えたのはクラインだった。


「あ……待てよ。おりゃ、ナーヴギア本体も昨日買ったばっかだから覚えてるけどよ。初回に装着した時のセットアップステージで、なんだっけ……キャリブレーション? とかで、自分の体をあちこち自分で触らされたじゃねえか。もしかしてアレか……?」

「あ、ああ……そうか、そういうことか……」


 キャリブレーションとはつまり、装着者の体表面感覚を再現するため、《手をどれだけ動かしたら自分の体に触れるか》の基準値を測る作業だ。それはつまり、自分のリアルな体格をナーヴギア内にデータ化するということに等しい。

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