1 アインクラッド

3 ④

 可能だ。このSAO世界において、全プレイヤーのアバターを、現実の姿そのままを詳細に再現したポリゴンモデルに置き換えることは。

 そして、その意図も、はや明らかすぎるほどに明らかだった。


「……現実」


 俺はぽつりとつぶやいた。


「あいつはさっきそう言った。これは現実だと。このポリゴンのアバターと……数値化されたヒットポイントは、両方本物の体であり、命なんだと。それを強制的に認識させるために、かやは俺たちの現実そのままの顔と体を再現したんだ……」

「でも……でもよぉ、キリト」


 がりがりと頭をき、バンダナの下のぎょろりとした両眼を光らせ、クラインは叫んだ。


「なんでだ!? そもそも、なんでこんなことを…………!?」


 俺は、それには答えず、指先で真上を示した。


「もう少し待てよ。どうせ、すぐにそれも答えてくれる」


 かやおれの予想を裏切らなかった。数秒後、血の色に染まった空から、おごそかとすら言える声が降り注いだ。


『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。なぜ私は──SAO及びナーヴギア開発者の茅場あきひこはこんなことをしたのか? これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的のゆうかい事件なのか? と』


 そこで初めて、これまで一切の感情をうかがわせなかった茅場の声が、ある種の色合いを帯びた。俺はふと、場違いにも《しようけい》というような言葉を思い浮かべてしまった。そんなはずはないのに。


『私の目的は、そのどちらでもない。それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。なぜなら……この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界をつくり出し、観賞するためにのみ私はナーヴギアを、SAOを造った。そして今、すべては達成せしめられた』


 短い間に続いて、無機質さを取り戻した茅場の声がひびいた。


『……以上で《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の──けんとうを祈る』


 最後の一言が、わずかなざんきようを引き、消えた。

 しんの巨大なローブ姿が音もなく上昇し、フードのせんたんから空を埋めるシステムメッセージに溶け込むように同化していく。

 肩が、胸が、そして両手と足が血の色の水面に沈み、最後にひとつだけ波紋が広がった。直後、天空一面に並ぶメッセージもまた、現れた時と同じように唐突に消滅した。

 広場の上空を吹き過ぎる風鳴り、NPCノンプレイヤ・ーキヤラクターの楽団が演奏する市街地のBGMが遠くから近づいてきて、おだやかにちようかくを揺らした。

 ゲームは再び本来の姿を取り戻していた。いくつかのルールだけが、以前とはどうしようもなく異なっていたが。

 そして──この時点に至って、ようやく。

 一万のプレイヤー集団が、しかるべき反応を見せた。

 つまり、圧倒的なボリュームで放たれた多重の音声が、広大な広場をびりびりとしんどうさせたのだ。


うそだろ……なんだよこれ、噓だろ!」

「ふざけるなよ! 出せ! ここから出せよ!」

「こんなの困る! このあと約束があるのよ!」

いやああ! 帰して! 帰してよおおお!」


 悲鳴。怒号。絶叫。せいこんがん。そしてほうこう

 たった数十分でゲームプレイヤーからしゆうじんへと変えられてしまった人間たちは、頭を抱えてうずくまり、両手を突き上げ、抱き合い、あるいはののしり合った。

 無数の叫び声を聞いているうちに、不思議なことに、おれの思考は徐々に落ち着いていった。

 これは、現実だ。

 かやあきひこの宣言は、すべて真実だ。あの男なら、これくらいのことはする。してもおかしくない。そう思わせる破滅的な天才性が、茅場のりよくでもあったのだから。

 俺はもう、当分の間──数ヶ月、あるいはそれ以上、現実世界には戻れない。母親や妹の顔を見ることも、会話することもできない。ひょっとしたらその時は永遠に来ないかもしれない。この世界で死ねば──

 俺は本当に死ぬのだ。

 ゲームマシンであり、ろうごくじようまえであり、そして処刑具でもあるナーヴギアに、脳を焼かれて死ぬ。

 ゆっくり息を吸い、いて、俺は口を開いた。


「クライン、ちょっと来い」


 現実世界でも俺よりずいぶんと長身だったらしいきよくとう使いの腕をつかみ、俺は荒れ狂うひとがきって足早に歩き始めた。

 どうやら集団の外側付近にいたらしく、すぐに人の輪を抜ける。広場から放射状に広がるいくつもの街路の一本に入り、まっている馬車の陰に飛び込む。


「……クライン」


 まだ、どこかたましいの抜けたような顔をしている男の名を、俺はもう一度、最大限真剣なこわで呼んだ。


「いいか、よく聞け。俺はすぐにこの街を出て、次の村に向かう。お前もいつしよに来い」


 あくしゆなバンダナの下でぎょろりと目をくクラインに、低く押し殺した声で続ける。


「あいつの言葉が全部本当なら、これからこの世界で生き残っていくためには、ひたすら自分を強化しなきゃならない。お前も重々承知だろうけど、MMORPGってのはプレイヤー間のリソースの奪い合いなんだ。システムが供給する限られた金とアイテムと経験値を、より多く獲得したやつだけが強くなれる。……この《はじまりの街》周辺のフィールドは、同じことを考える連中に狩りつくされて、すぐに枯渇するだろう。モンスターの再湧出リポツプをひたすら探し回るはめになる。今のうちに次の村を拠点にしたほうがいい。俺は、道も危険なポイントも全部知ってるから、レベル1の今でも安全に辿たどり着ける」


 俺にしてはずいぶんと長ったらしい台詞せりふを、クラインは身動きひとつせずに聞き終えた。

 そして数秒後、わずかに顔をゆがめた。


「でも……でもよ。前に言ったろ。おりゃ、ほかのゲームでダチだった奴らといつしよてつで並んでソフト買ったんだ。そいつらももうログインして、さっきの広場にいるはずだ。置いて……いけねえ」

「…………」


 おれは息を詰め、くちびるんだ。

 クラインの張り詰めた視線に込められたものを、俺はによじつに感じ取っていた。

 この男は──陽気で人好きのする、恐らく面倒見もいいのだろうこの男は、その友達全員をいつしよに連れていくことを望んでいる。

 だが、俺はどうしても、うなずくことができなかった。

 クラインだけなら、レベル1の今でも好戦的アクテイブモンスターから守りつつ次の村まで連れて行けるという自信がある。しかしあと二人──いや一人増えただけでももう危うい。

 仮に道中で死者が出て、そしてその結果、かやの宣言どおりそのプレイヤーが脳を焼かれ現実でも死んだ時。

 その責は、安全なはじまりの街の脱出を提案し、しかも仲間を守れなかった俺に帰せられねばならない。

 そんなてつもない重みを背負うことなど、俺にはできない。絶対にできるはずがない。

 ほんのせつしゆんじゆんを、クラインもまた明敏に読み取ったようだった。しようひげの浮くほおに、こわってはいたがそれでも太い笑みを刻み、ゆっくりと首を左右に振ってみせた。

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