可能だ。このSAO世界において、全プレイヤーのアバターを、現実の姿そのままを詳細に再現したポリゴンモデルに置き換えることは。
そして、その意図も、最早明らかすぎるほどに明らかだった。
「……現実」
俺はぽつりと呟いた。
「あいつはさっきそう言った。これは現実だと。このポリゴンのアバターと……数値化されたヒットポイントは、両方本物の体であり、命なんだと。それを強制的に認識させるために、茅場は俺たちの現実そのままの顔と体を再現したんだ……」
「でも……でもよぉ、キリト」
がりがりと頭を搔き、バンダナの下のぎょろりとした両眼を光らせ、クラインは叫んだ。
「なんでだ!? そもそも、なんでこんなことを…………!?」
俺は、それには答えず、指先で真上を示した。
「もう少し待てよ。どうせ、すぐにそれも答えてくれる」
茅場は俺の予想を裏切らなかった。数秒後、血の色に染まった空から、厳かとすら言える声が降り注いだ。
『諸君は今、なぜ、と思っているだろう。なぜ私は──SAO及びナーヴギア開発者の茅場晶彦はこんなことをしたのか? これは大規模なテロなのか? あるいは身代金目的の誘拐事件なのか? と』
そこで初めて、これまで一切の感情をうかがわせなかった茅場の声が、ある種の色合いを帯びた。俺はふと、場違いにも《憧憬》というような言葉を思い浮かべてしまった。そんなはずはないのに。
『私の目的は、そのどちらでもない。それどころか、今の私は、すでに一切の目的も、理由も持たない。なぜなら……この状況こそが、私にとっての最終的な目的だからだ。この世界を創り出し、観賞するためにのみ私はナーヴギアを、SAOを造った。そして今、全ては達成せしめられた』
短い間に続いて、無機質さを取り戻した茅場の声が響いた。
『……以上で《ソードアート・オンライン》正式サービスのチュートリアルを終了する。プレイヤー諸君の──健闘を祈る』
最後の一言が、わずかな残響を引き、消えた。
真紅の巨大なローブ姿が音もなく上昇し、フードの先端から空を埋めるシステムメッセージに溶け込むように同化していく。
肩が、胸が、そして両手と足が血の色の水面に沈み、最後にひとつだけ波紋が広がった。直後、天空一面に並ぶメッセージもまた、現れた時と同じように唐突に消滅した。
広場の上空を吹き過ぎる風鳴り、NPCの楽団が演奏する市街地のBGMが遠くから近づいてきて、穏やかに聴覚を揺らした。
ゲームは再び本来の姿を取り戻していた。幾つかのルールだけが、以前とはどうしようもなく異なっていたが。
そして──この時点に至って、ようやく。
一万のプレイヤー集団が、然るべき反応を見せた。
つまり、圧倒的なボリュームで放たれた多重の音声が、広大な広場をびりびりと震動させたのだ。
「噓だろ……なんだよこれ、噓だろ!」
「ふざけるなよ! 出せ! ここから出せよ!」
「こんなの困る! このあと約束があるのよ!」
「嫌ああ! 帰して! 帰してよおおお!」
悲鳴。怒号。絶叫。罵声。懇願。そして咆哮。
たった数十分でゲームプレイヤーから囚人へと変えられてしまった人間たちは、頭を抱えてうずくまり、両手を突き上げ、抱き合い、あるいは罵り合った。
無数の叫び声を聞いているうちに、不思議なことに、俺の思考は徐々に落ち着いていった。
これは、現実だ。
茅場晶彦の宣言は、全て真実だ。あの男なら、これくらいのことはする。してもおかしくない。そう思わせる破滅的な天才性が、茅場の魅力でもあったのだから。
俺はもう、当分の間──数ヶ月、あるいはそれ以上、現実世界には戻れない。母親や妹の顔を見ることも、会話することもできない。ひょっとしたらその時は永遠に来ないかもしれない。この世界で死ねば──
俺は本当に死ぬのだ。
ゲームマシンであり、牢獄の錠前であり、そして処刑具でもあるナーヴギアに、脳を焼かれて死ぬ。
ゆっくり息を吸い、吐いて、俺は口を開いた。
「クライン、ちょっと来い」
現実世界でも俺よりずいぶんと長身だったらしい曲刀使いの腕を摑み、俺は荒れ狂う人垣を縫って足早に歩き始めた。
どうやら集団の外側付近にいたらしく、すぐに人の輪を抜ける。広場から放射状に広がる幾つもの街路の一本に入り、停まっている馬車の陰に飛び込む。
「……クライン」
まだ、どこか魂の抜けたような顔をしている男の名を、俺はもう一度、最大限真剣な声音で呼んだ。
「いいか、よく聞け。俺はすぐにこの街を出て、次の村に向かう。お前も一緒に来い」
悪趣味なバンダナの下でぎょろりと目を剝くクラインに、低く押し殺した声で続ける。
「あいつの言葉が全部本当なら、これからこの世界で生き残っていくためには、ひたすら自分を強化しなきゃならない。お前も重々承知だろうけど、MMORPGってのはプレイヤー間のリソースの奪い合いなんだ。システムが供給する限られた金とアイテムと経験値を、より多く獲得した奴だけが強くなれる。……この《はじまりの街》周辺のフィールドは、同じことを考える連中に狩りつくされて、すぐに枯渇するだろう。モンスターの再湧出をひたすら探し回るはめになる。今のうちに次の村を拠点にしたほうがいい。俺は、道も危険なポイントも全部知ってるから、レベル1の今でも安全に辿り着ける」
俺にしては随分と長ったらしい台詞を、クラインは身動きひとつせずに聞き終えた。
そして数秒後、わずかに顔を歪めた。
「でも……でもよ。前に言ったろ。おりゃ、他のゲームでダチだった奴らと一緒に徹夜で並んでソフト買ったんだ。そいつらももうログインして、さっきの広場にいるはずだ。置いて……いけねえ」
「…………」
俺は息を詰め、唇を嚙んだ。
クラインの張り詰めた視線に込められたものを、俺は如実に感じ取っていた。
この男は──陽気で人好きのする、恐らく面倒見もいいのだろうこの男は、その友達全員を一緒に連れていくことを望んでいる。
だが、俺はどうしても、頷くことができなかった。
クラインだけなら、レベル1の今でも好戦的モンスターから守りつつ次の村まで連れて行けるという自信がある。しかしあと二人──いや一人増えただけでももう危うい。
仮に道中で死者が出て、そしてその結果、茅場の宣言どおりそのプレイヤーが脳を焼かれ現実でも死んだ時。
その責は、安全なはじまりの街の脱出を提案し、しかも仲間を守れなかった俺に帰せられねばならない。
そんな途轍もない重みを背負うことなど、俺にはできない。絶対にできるはずがない。
ほんの刹那の逡巡を、クラインもまた明敏に読み取ったようだった。無精ひげの浮く頰に、強張ってはいたがそれでも太い笑みを刻み、ゆっくりと首を左右に振ってみせた。