沢山の鈴を鳴らすような美しい音色と共に、手の中で結晶がはかなく砕け散った。同時に俺の体は青い光に包まれ、周囲の森の風景が溶け崩れるように消滅していく。光がひときわ眩しく輝き──消え去った時には、転移が完了していた。先刻までの葉擦れのざわめきに代わって、甲高い鍛冶の槌音と賑やかな喧騒が耳朶を打つ。
俺が出現したのはアルゲードの中央にある《転移門》だった。
円形の広場の真ん中に、高さ五メートルはあろうかという巨大な金属製のゲートがそびえ立っている。ゲート内部の空間は蜃気楼のように揺らいでおり、他の街に転移する者、あるいはどこからか転移してきた者たちがひっきりなしに出現と消滅を繰り返している。
広場からは四方に大きな街路が伸び、全ての道の両脇には無数の小さい店がひしめきあっていた。今日の冒険を終えてひとときの憩いを求めるプレイヤーたちが、食い物の屋台や酒場の店先で会話に花を咲かせている。
アルゲードの街を簡潔に表現すれば、《猥雑》の一言に尽きる。
はじまりの街にあるような巨大な施設はひとつとして存在せず、広大な面積いっぱいに無数の隘路が重層的に張り巡らされて、何を売るとも知れぬ妖しげな工房や、二度と出てこられないのではと思わせる宿屋などが軒を連ねている。
実際、アルゲードの裏通りに迷い込んで、数日出てこられなかったプレイヤーの話も枚挙に暇がないほどだ。俺もここにねぐらを構えて一年近くが経つが、いまだに道の半分も覚えていない。NPCの住人たちにしても、クラスも定かでないような連中ばかりで、最近ではここをホームにしているプレイヤーも一癖二癖ある奴らばかりになってきたような気さえする。
だが俺はこの街の雰囲気が気に入っていた。路地裏の奥の奥にある行きつけの店にしけこんで、妙な匂いのする茶を啜っている時だけが一日で唯一安息を感じる時間だと言ってもいい。かつてよく遊びに行っていた電気街に似ているからだ、などという感傷的な理由だとは思いたくないが。
俺はねぐらに戻る前に件のアイテムを処分してしまうことにして、馴染みの買い取り屋に足を向けた。
転移門のある中央広場から西に伸びた目抜き通りを、人ごみを縫いながら数分歩くとすぐにその店があった。五人も入ればいっぱいになってしまうような店内には、プレイヤーの経営するショップ特有の混沌っぷりを醸し出した陳列棚が並び、武器から道具類、食料までがぎっしりと詰め込まれている。
店の主はと言えば、今まさに店頭で商談の真っ最中だった。
アイテムの売却方法は大まかに言って二種類ある。ひとつはNPC、つまりシステムが操作するキャラクターに売却する方法で、詐欺の危険がないかわりに買い取り値は基本的に一定となる。通貨のインフレを防ぐために、その値付けは実際の市場価値よりも低目に設定されている。
もう一つがプレイヤー同士の取引だ。こちらは商談次第ではかなりの高値で売れることも多いが、買い手を見つけるのに結構な苦労をするし、やれ払いすぎただの気が変わっただのと言いだすプレイヤーとのトラブルもないとは言えない。そこで、故買を専門にしている商人プレイヤーの出番となるわけだ。
もっとも、商人クラスのプレイヤーの存在意義はそれだけではない。
職人クラスもそうだが、彼らはスキルスロットの半分以上を非戦闘系スキルに占領されてしまう。しかし、だからと言ってフィールドに出なくていいわけではない。商人なら商品を、職人なら素材を入手するためにモンスターと戦う必要があり、そして当然ながら戦闘では純粋な剣士クラスよりも苦労を強いられる。敵を蹴散らす爽快感など味わうべくもない。
つまり彼らのアイデンティティは、ゲームクリアのために最前線に赴く剣士の手助けをしよう、という崇高なる動機に求められる。その点で、俺は商人や職人たちを秘かに、深く尊敬している。
──のであるが、いま俺の視線の先にいる商人プレイヤーは、自己犠牲などという単語とは遥かに縁遠いキャラクターなのもまた事実だった。
「よし決まった! 《ダスクリザードの革》二十枚で五百コル!」
俺が馴染みにしている買い取り屋のエギルは、ごつい右腕を振り回すと、商談相手の気の弱そうな槍使いの肩をばんばんと叩いた。そのままトレードウインドウを出し、有無を言わせぬ勢いで自分側のトレード欄に金額を入力する。
相手はまだ多少悩むような素振りを見せていたが、歴戦の戦士と見紛うほどのエギルの凶顔に一睨みされると──実際エギルは商人であると同時に一流の斧戦士でもあるのだが──慌てて自分のアイテムウインドウから物をトレード欄に移動させ、OKボタンを押した。
「毎度!! また頼むよ兄ちゃん!」
最後に槍使いの背中をバシンと一回どやすと、エギルは豪快に笑った。ダスクリザードの革は高性能な防具の素材となる。どう考えても五百は安すぎるだろうと俺は思ったが、慎み深く沈黙を守って、立ち去っていく槍使いを見送った。故買屋相手に遠慮してはならない、という教訓の授業料込みだなと心の中で呟く。
「うっす。相変わらず阿漕な商売してるな」
エギルに背後から声をかけると、禿頭の巨漢は振り向きざま、ニンマリ笑った。
「よぉ、キリトか。安く仕入れて安く提供するのがウチのモットーなんでね」
悪びれる様子もなくうそぶく。
「後半は疑わしいもんだなぁ。まあいいや、俺も買取頼む」
「キリトはお得意様だしな、あくどい真似はしませんよっ、と……」
言いながらエギルは猪首を伸ばし、俺の提示したトレードウインドウを覗き込んだ。
SAOプレイヤーの仮想体は、ナーヴギアのスキャン機能と初期の体型キャリブレーションによって現実の姿を精緻に再現しているわけだが、このエギルを見るたびに、俺はよくもまぁこんなハマる外見をした奴がいたもんだと感嘆を禁じ得ない。
百八十センチはある体軀は筋肉と脂肪にがっちりと包まれ、その上に乗った顔は悪役レスラーさながらの、ごつごつと岩から削り出したかのような造作だ。そのうえ唯一カスタマイズできる髪型をつるつるのスキンヘッドにしているものだから、その怖さは蛮族系モンスターにも引けを取らない。
しかしそれでいて、笑うと実に愛嬌のある、味な顔をしているのだ。年齢は二十代後半だろうが、現実世界で何をしていた男なのか想像もつかない。《向こう》でのことは尋ねないのがこの世界の不文律である。