分厚くせり出した眉稜の下の両眼が、トレードウインドウを見た途端驚きに丸くなった。
「おいおい、S級のレアアイテムじゃねえか。《ラグー・ラビットの肉》か、オレも現物を見るのは初めてだぜ……。キリト、おめえ別に金には困ってねえんだろ? 自分で食おうとは思わんのか?」
「思ったさ。多分二度と手には入らんだろうしな……。ただなぁ、こんなアイテムを扱えるほど料理スキルを上げてる奴なんてそうそう……」
その時、背後から誰かに肩をつつかれた。
「キリト君」
女の声。俺の名前を呼ぶ女性プレイヤーはそれほど多くない。と言うよりこの状況では一人しかいない。俺は顔を見る前から相手を察していた。左肩に触れたままの相手の手を素早く摑むと、振り向きざまに言う。
「シェフ捕獲」
「な……なによ」
相手は俺に手を摑まれたままいぶかしげな顔で後ずさった。
栗色の長いストレートヘアを両側に垂らした顔はちいさな卵型で、大きなはしばみ色の瞳が眩しいほどの光を放っている。小ぶりだがスッと通った鼻筋の下で、桜色の唇が華やかな彩りを添える。すらりとした体を、白と赤を基調とした騎士風の戦闘服に包み、白革の剣帯に吊るされたのは優雅な白銀の細剣。
彼女の名はアスナ。SAO内では知らぬ者はほとんどいないであろう有名人だ。
理由はいくつかあるが、まず、圧倒的に少ない女性プレイヤーであり、なおかつ文句のつけようがない華麗な容姿を持つことによる。
プレイヤーの現実の肉体、とくに顔の造作をほぼ完全に再現するSAOにおいて、大変言い難いことながら美人の女性プレイヤーというのは超S級とでも言うべきレアな存在だ。おそらくアスナほどの美人は両手の指に満たない数だろう。
もうひとつ彼女を有名人たらしめている理由は、純白と真紅に彩られたその騎士服──ギルド《血盟騎士団》のユニフォームだ。《Knights of the Blood》の頭文字を取ってKoBとも呼ばれるそれは、アインクラッドに数多あるギルドの内でも、誰もが認める最強のプレイヤーギルドである。
構成メンバーは三十人ほどと中規模だが、その全てがハイレベルの強力な剣士であり、なおかつギルドを束ねるリーダーは伝説的存在とでも言うべきSAO最強の男なのだ。アスナは可憐な少女の外見とは裏腹に、そのギルドにおいて副団長を務めている。当然、剣技のほうも半端ではなく、細剣術は《閃光》の異名を取る腕前だ。
つまり彼女は、容姿においても剣技においても六千のプレイヤーの頂点に立つ存在なわけで、それで有名にならないほうがおかしい。当然プレイヤーの中には無数のファンがいるが、中には偏執的に崇拝する者やらストーカーまがい、更には反対に激しく敵視する者もいて、それなりの苦労はあるようだ。
もっとも、最強剣士の一人たるアスナに正面切ってちょっかいを出そうという者はそうはいないだろうが、警護に万全を期するというギルドの意向もあるようで、彼女にはたいてい複数の護衛プレイヤーが付き従っている。今も、数歩引いた位置に白のマントと分厚い金属鎧に身を固めたKoBメンバーとおぼしき二人の男が立ち、ことに右側の、長髪を後ろで束ねた瘦せた男が、アスナの手を摑んだままの俺に殺気に満ちた視線を向けている。
俺は彼女の手を離し、指をその男に向ってひらひら振ってやりながら言葉を返した。
「珍しいな、アスナ。こんなゴミ溜めに顔を出すなんて」
俺がアスナを呼び捨てにするのを聞いた長髪の男と、自分の店をゴミ溜め呼ばわりされた店主の顔が同時にぴくぴくと引き攣る。だが、店主のほうはアスナから、お久しぶりですエギルさん、と声をかけられると途端にだらしなく顔を緩ませる。
アスナは俺に向き直ると、不満そうに唇を尖らせた。
「なによ。もうすぐ次のボス攻略だから、ちゃんと生きてるか確認に来てあげたんじゃない」
「フレンドリストに登録してんだから、それくらい判るだろ。そもそもマップでフレンド追跡したからここに来られたんじゃないのか」
言い返すと、ぷいっと顔をそむけてしまう。
彼女は、サブリーダーという立場でありながら、ギルドにおいてゲーム攻略の責任者を務めている。その仕事には、確かに俺のようなソロの勝手者を束ねて対ボスモンスターの合同パーティーを編成することも含まれるが、それにしてもわざわざ直接確認に来るとは生真面目にも程がある。
俺の、呆れ半分感心半分の視線を受けたアスナは、両手を腰に当てるとつんと顎を反らせるような仕草で言った。
「生きてるならいいのよ。そ……そんなことより、何よシェフどうこうって?」
「あ、そうだった。お前いま、料理スキルの熟練度どのへん?」
確かアスナは酔狂にも、戦闘スキル修行の合い間を縫って職人系の料理スキルを上げていた覚えがある。俺の問いに、彼女は不敵な笑みを滲ませると答えた。
「聞いて驚きなさい、先週に《完全習得》したわ」
「なぬっ!」
ア……アホか。
と一瞬思ったが、もちろん口には出さない。
熟練度は、スキルを使用する度に気が遠くなるほどの遅々とした速度で上昇してゆき、最終的に熟練度一〇〇〇に達したところで完全習得となる。ちなみに経験値によって上昇するレベルはそれとはまた別で、レベルアップで上昇するのはHPと筋力、敏捷力のステータス、それに《スキルスロット》という習得可能スキル限度数だけだ。
俺は今十二のスキルスロットを持つが、完全習得に達しているのは片手直剣スキル、索敵スキル、武器防御スキルの三つだけである。つまりこの女は途方もないほどの時間と情熱を、戦闘の役にたたないスキルにつぎ込んだわけだ。
「……その腕を見こんで頼みがある」
俺は手招きをすると、アイテムウインドウを他人にも見える可視モードにして示した。いぶかしげに覗きこんだアスナは、表示されているアイテム名を一瞥するや眼を丸くした。
「うわっ!! こ……これ、S級食材!?」
「取引だ。こいつを料理してくれたら一口食わせてやる」
言い終わらないうちに《閃光》アスナの右手が俺の胸倉をがっしと摑んだ。そのまま顔を数センチの距離までぐいと寄せると、
「は・ん・ぶ・ん!!」
思わぬ不意打ちにドギマギした俺は思わず頷いてしまう。はっと我に返ったが時すでに遅く、アスナがやったと左手を握る。まあ、あの可憐な顔を至近距離から観察できたんだから良しとしよう、と無理やり納得する。
ウインドウを消去しながら振り向き、エギルの顔を見上げて言う。
「悪いな、そんな訳で取引は中止だ。」
「いや、それはいいけどよ……。なあ、オレたちダチだよな? な? オレにも味見くらい……」
「感想文を八百字以内で書いてきてやるよ」
「そ、そりゃあないだろ!!」
この世の終わりか、といった顔で情けない声を出すエギルにつれなく背を向け歩き出そうとした途端、俺のコートの袖をぎゅっとアスナが摑んだ。
「でも、料理はいいけど、どこでするつもりなのよ?」
「うっ……」
料理スキルを使用するには、食材の他に料理道具と、かまどやオーブンの類が最低限必要になる。俺の部屋にも簡単なものがあるにはあったが、あんな小汚いねぐらにKoB副団長様を招待できるはずも無く。